第三話 運命は杯を選ばない
歓迎晩餐会まで、残り十二時間。
フィルブランテ・アソート・イデルバルディは、公爵邸の私室で一枚の紙と向き合っていた。
正確には、その紙に書き込まれた七つ目の作戦案へ、赤い線を引いていた。
「これも駄目ですわ」
フィルブランテが呟くと、机を挟んで立つ侍女長ミレーヌの眉がわずかに動いた。
「どの点が問題なのでしょう」
「エルネシア夫人のお席を移せば、配膳順が変わります。犯人が杯へ細工する時刻も変わり、こちらが監視できない可能性が高い。そもそも席を移すだけでは、狙いそのものを外せません」
「では、夫人の杯だけを事前に交換なさいますか」
「相手に気づかれます。杯以外の手段へ切り替えられては、こちらの知識が役に立ちません」
フィルブランテは赤いペンを置き、椅子の背へ身体を預けた。
机の上には、王城迎賓館の見取り図、給仕役の名簿、食器庫の鍵の管理表、料理の献立、聖花教会による検分手順が並べられている。
いずれも、本来なら公爵令嬢が私室へ持ち込める資料ではない。
ミレーヌが半日で集めたものだった。
頼んだフィルブランテ自身が引くほど有能である。
「お嬢様」
ミレーヌは静かに呼びかけた。
「そろそろ、お聞かせ願えませんか」
「何をでしょう」
「なぜ、まだ起きてもいない暗殺を、そこまで確信していらっしゃるのかを」
逃げ道のない問いだった。
フィルブランテは資料へ視線を落とした。
三日前から突然、未来の事件を知っているように振る舞い始めた主人。
魔族令嬢と人目を避けて密談し、翌日にはその母親が暗殺されると言い出した。
どう考えても怪しい。
それでもミレーヌは、フィルブランテが求めた資料を一つ残らず用意した。理由を問いただすより先に、主人の望みを実現したのである。
原作の彼女は、国外追放となったフィルブランテを逃がすため、一人で追っ手の前へ立った。
その結末を知っているからこそ、フィルブランテは彼女の忠誠を利用したくなかった。
「すべてをお話しすることはできません」
フィルブランテは正直に言った。
「ですが、エルネシア夫人が今夜、命を狙われるという情報は確かです。凶器は人族の聖具を砕いて作った呪毒。銀の杯へ仕込まれる可能性が高い」
「情報源は?」
「明かせません」
「魔侯令嬢と関係がございますか」
「ございます」
ミレーヌの目が細くなった。
「園遊会で宣戦布告なさった相手です」
「表向きは」
「では、実際には?」
フィルブランテは答えに迷った。
兄だとは言えない。
転生したとも言えない。
だが、ここで何も語らず命だけ懸けろと命じれば、自分は原作のフィルブランテと同じになる。
「わたくしが、命を預けられる相手です」
ミレーヌが初めて、明確に驚いた顔をした。
「三日前に初めてお会いになった方へ、でございますか」
「そう見えるでしょうね」
「いいえ」
予想外の返答だった。
「園遊会からお戻りになったお嬢様は、久方ぶりに安堵しておられました。表情には出ておりませんでしたが」
「……出ていないなら、どうして分かるのです」
「幼い頃からお仕えしておりますので」
ミレーヌは当然のように答えた。
フィルブランテの胸に、この身体に残る記憶が浮かぶ。
熱を出した夜、母に代わって朝まで手を握ってくれた女性。
舞踏の練習で足を傷めたとき、誰にも知られないよう冷たい布を巻いてくれた女性。
失敗を叱りながら、必ず次に成功する方法を一緒に考えてくれた女性。
ミレーヌは、フィルブランテを知っている。
そして今、フィルブランテではない部分まで含んだ自分を、知ろうとしている。
「今夜、危険が起こります」
フィルブランテは一語ずつ選んだ。
「けれど、あなたに命を懸けさせるつもりはありません。危険を感じたら、すぐその場を離れなさい。これは命令です」
「お嬢様は残られるのでしょう?」
「わたくしには役目があります」
「私にもございます」
「ミレーヌ」
「お嬢様をお守りすることです」
静かな声だった。
決意を誇示するのではない。朝にカーテンを開け、夜に燭台の火を消すのと同じように語られた。
だからこそ、フィルブランテは言葉を失った。
「……では、命を捨てずに守ってください」
ようやく、それだけを返す。
「難しいご命令でございますね」
「できるでしょう。あなたは優秀ですから」
ミレーヌはほんの少しだけ笑い、頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
同じ頃、王城迎賓館の北棟では、アマンテルスが母親から説教を受けていた。
「もう一度、最初から説明なさい」
エルネシア・ルヴィンイヴルは、窓辺の長椅子へ腰を下ろしていた。
白銀の髪が朝日に淡く透け、赤紫の瞳が娘をまっすぐ見つめている。
その手には、園遊会で大司教から贈られた白薔薇があった。
薔薇は銀製の細い花瓶に挿され、机の上に置かれている。
「だから、今夜の晩餐会で母上が狙われる」
「誰にです」
「分からない」
「なぜ狙われると?」
「それも、説明できない」
「アマン」
「でも本当なんだ」
言った途端、エルネシアの眉が上がった。
アマンテルスは自分の失言に気づいた。
魔侯令嬢アマンテルスは、母親に対しても格式を崩さない。少なくとも、人族の若者のような口調で「本当なんだ」とは言わなかったはずだ。
この三日、アマンテルスは礼儀を覚えるだけで精一杯だった。
ルーシェからは「少し親しみやすくなりました」と喜ばれたが、母親には通じないらしい。
「……本当なのでございます、母上」
取り繕ってみる。
「今さら戻しても遅いわ」
エルネシアはため息をついた。
「人族領へ入ってからのあなたは、随分と口調が変わりましたね」
「それは」
「歩き方も。以前なら、廊下の中央を堂々と歩いていたでしょう。今は曲がり角のたびに、逃げ道を確認している」
「警戒してるだけだ」
「朝食では、嫌いな月胡桃を三粒も食べました」
「……身体にいいかと思って」
「あなたは月胡桃を食べるくらいなら不健康でよい、と百年間は言い続けると思っていました」
「俺、そんなに嫌ってたのか」
「俺?」
「私」
「アマン」
もう一度、名を呼ばれる。
逃げられない。
アマンテルスは椅子へ座り、両手で顔を覆った。
「悪い。今は、うまく説明できない」
沈黙が続いた。
やがて、衣擦れの音が近づく。
エルネシアの手が、アマンテルスの黒髪へ触れた。
「あなたが誰であっても」
アマンテルスは顔を上げた。
「私の娘の目で、私を心配していることは分かります」
「母上」
「ただし、何も説明せず、私だけを安全な場所へ押し込めようというのであれば反対です」
優しかった声が、きっぱりしたものへ変わる。
「晩餐会を欠席すれば、魔族は人族を信用していないと宣言することになります。杯を避ければ、料理か香か、別の者が狙われるかもしれません。私一人の安全と引き換えに、使節団全員を危険へ置くことはできません」
アマンテルスは目を瞬いた。
フィルブランテと同じことを言っている。
ゲームでは、エルネシアは暗殺されるためだけの人物だった。
穏健派の象徴。アマンテルスが復讐へ走る理由。カイラスが和平の限界を知るための犠牲。
だが現実の彼女は、自分で考え、自分の立場を理解している。
「囮になれって言うつもりはない」
「囮ではありません。使節です」
「同じだろ」
「違います。危険を知らずに利用されるのと、危険を承知で役目を選ぶのは」
アマンテルスは反論できなかった。
弟に言われたばかりだ。
本人の意思を無視して進める作戦は、助けるとは言わない。
「……分かった」
アマンテルスは白薔薇を見た。
「でも、一つ約束してくれ。危険だと俺が言ったら、理由を聞かずに伏せる。歌も止める。影が伸びてきても触るな」
「分かりました」
「それと、その花は置いていく」
「大司教からの贈り物ですよ」
「だからだ」
アマンテルスは手袋をはめ、白薔薇へ手を伸ばした。
触れる直前、床の影がざわめく。
薔薇の芯から、髪の毛ほど細い黒線が伸び、エルネシアの影へつながっていた。
昨日よりも濃い。
追跡印は、すでに対象の魔力を覚えている。
「ルーシェ」
「はい、こちらに」
扉の脇で控えていた夢魔族の侍女が、桃色の髪を揺らして進み出た。
「この薔薇を、影箱へ入れてくれ。素手で触るな」
「承知いたしました」
ルーシェは冗談を挟まなかった。
昨夜、アマンテルスが事情を話したときもそうだった。
普段は陽気でも、主人の家族が狙われていると知れば、彼女は有能な侍女へ変わる。
黒い布を張った小箱が閉じられる。
その直前。
白薔薇の花弁が、かすかに震えた。
窓は閉まっている。
風などない。
アマンテルスは嫌な予感を覚えた。
「母上。今夜は、俺から離れないでくれ」
「努力します」
「約束と答えが違う」
「あなたが無茶をしなければ、離れません」
「それ、無理って言ってるのと同じじゃないか?」
エルネシアは娘の頬へ手を当て、楽しげに笑った。
「やはり、随分と変わりましたね」
アマンテルスは答えなかった。
その手の温度を、今夜も失わずに済むように。
ただ、そう願った。
◇
歓迎晩餐会まで、残り三時間。
王城迎賓館の厨房は、戦場と化していた。
銀の蓋を被せた料理が次々と運ばれ、給仕長の怒声が飛ぶ。王宮礼典局の役人が食器を数え、聖花教会の助祭が一皿ずつ浄化の印を結んでいる。魔族側の毒見役も立ち会い、香辛料から水差しまで、すべてを検分していた。
表向き、フィルブランテは王太子の婚約者として準備の監督へ来ていた。
実際には、すべての銀杯へ魔力の印を残すためだった。
「お嬢様。こちらが主賓用の杯でございます」
ミレーヌが差し出した目録を、フィルブランテは確認する。
番号は一から二十四。
エルネシアの席へ置かれるのは、七番。
フィルブランテは白い手袋を外し、食器棚の前へ立った。
「少し冷えます。皆様、触れないように」
右手を棚へ添える。
身体の奥に、冷たい流れが生まれた。
意識を向けると、指先から細い霜が走り、二十四個の杯の底へ小さな結晶が咲く。
薔薇の蕾に似た、透明な印。
転生初日、水差しを丸ごと凍らせたときよりは上達している。
だが〈晶析眼〉と呼ばれる力の使い方は、まだ感覚に頼る部分が大きかった。
フィルブランテの記憶は、術式の手順を知っている。
フィルブランテの頭は、手順を数式として理解しようとする。
二つが重なった瞬間だけ、魔法は思い通りに動いた。
「お見事でございます」
礼典局の役人が感嘆する。
「これで一度でも別の者が触れれば、結晶の形が変わります」
「すべての杯へ施す必要が?」
「魔族の客人へ、王国が安全を保証した証ですわ」
フィルブランテは公爵令嬢の微笑みを向けた。
役人はそれ以上、何も尋ねなかった。
七番の杯だけを監視すれば、犯人に意図を悟られる。
すべてへ印を付ければ、外交上の安全措置に見える。
作業を終えたフィルブランテは、食器棚から一歩離れた。
そのとき、厨房の入り口に白い法衣が見えた。
「これは、フィルブランテ様」
大司教ザハルが、二人の助祭を伴って立っていた。
園遊会と変わらぬ、慈愛に満ちた微笑み。
「自ら厨房まで監督にいらっしゃるとは、王太子妃として実に立派なお心掛けです」
「まだ妃ではございませんわ、大司教猊下」
「いずれ、そうなられるでしょう。運命が定めたお相手なのですから」
運命。
その言葉だけが、不自然に耳へ残った。
「運命は、人が選んだ結果に付ける名前ではございませんか?」
フィルブランテが返すと、ザハルは穏やかに目を細めた。
「若い方は、そうお考えになる。ですが世には、選ばれた役目がございます。王は王として、聖女は聖女として、そして悪しき者は、善き者を輝かせる試練として」
厨房の喧騒が遠のいたように感じた。
ザハルは、原作を知らない。
ここがゲーム世界だと知っているはずもない。
それでも、言葉はフィルブランテの胸の最も冷たい場所へ触れてきた。
「人を役目だけで決めつけるのは、少々傲慢ではなくて?」
「役目を拒むことが、必ずしも自由とは限りません。迷う者へ道を示すのも、信仰の務めです」
「崖へ続く道でなければよいのですけれど」
ミレーヌがわずかに息を呑む。
大司教に対して、あまりに鋭い。
だがザハルは笑みを崩さなかった。
「今夜の晩餐が、両国の良き道しるべとなるよう祈りましょう」
助祭たちを連れ、食器棚へ近づく。
フィルブランテは一歩、進路を塞いだ。
「杯の検分はすでに終わっています」
「教会の浄化はまだです」
「この場でお願いいたします。わたくしも拝見いたしますわ」
ザハルの視線が、フィルブランテの右手へ落ちた。
杯に残した氷晶の印。
一瞬だけ、その目から笑みが消えた気がした。
しかし次には、いつもの慈愛深い大司教へ戻っている。
「もちろんです」
浄化の祈りが始まった。
白い光が、二十四個の杯を順番に照らす。
異常はない。
七番の杯にも、呪毒は入っていない。
当然だ。
犯人が動くのは、食器棚から大広間へ運ばれる途中のはずだった。
それでもフィルブランテは、祈りの間ずっと、ザハルの指先を見ていた。
何もしていない。
何も起きない。
だからこそ、不安が消えなかった。
◇
歓迎晩餐会まで、残り四十分。
アマンテルスは大広間へ続く回廊で、母の影へ最後の印を結んだ。
アマンテルスが指先で空中をなぞると、黒い糸がエルネシアの足元へ沈む。
光の下では見えない。
呪いが触れた瞬間だけ、アマンテルスの影へ警告が返る仕組みである。
「痛みは?」
「ありません」
「違和感があったら、すぐ言ってくれ」
「分かりました」
「歌う予定は?」
「食後に一曲、和平を祝う古謡を」
「中止できないか」
「できません」
「即答かよ」
「アマン」
「……失礼いたしましたわ、母上」
後ろでルーシェが笑いを堪えている。
カイラスは壁へ寄りかかり、疑わしげな目でアマンテルスを見ていた。
「朝から随分と念入りだね、アマン」
「人族の城ですもの。警戒して当然でしょう」
「それだけかな」
「何が言いたいの?」
「君は昨日、公爵令嬢と二人きりで何を話した?」
アマンテルスは赤紫の目を細めた。
「人族の傘は骨が弱い、という話」
「今朝、彼女の侍女から図面が届いたそうだけど」
「……耳が早いな」
「僕は君の監視役でもある」
柔らかな口調のまま、カイラスは笑った。
原作通りなら、彼はアマンテルスの幼なじみであり、和平派の協力者であり、最後には彼女を殺す男である。
信じたい感情と、警戒する理性が、彼の中で常に争っている。
「今夜、母上が狙われる」
アマンテルスは隠すのをやめた。
カイラスの笑みが消える。
「根拠は?」
「説明できない」
「フィルブランテから聞いたのか?」
「情報を持っていたのは私。あいつは作戦を組んだ」
「あいつ?」
「公爵令嬢よ」
「随分と親しい呼び方だね」
「今そこを気にするか?」
また口調が崩れた。
エルネシアが小さく笑う。
カイラスは笑わなかった。
「君が人族を信用するのは自由だ。けれど、魔侯家の人間として、僕たちへ説明する義務がある」
「話せるときが来たら話す」
「それでは遅いかもしれない」
「今は母上を生かす方が先だ」
「アマンテルス」
低い声だった。
アマンテルスの身体が、反射的に緊張する。
幼い頃、危険な遊びを止められたとき。
初めて実戦へ出ようとしたとき。
アマンテルスの記憶の中で、カイラスは同じ声で名を呼んだ。
「一人で抱え込んだ結果、君が壊れるなら、それは誰かを守ったことにはならない」
胸を突かれた。
こいつは、原作でアマンテルスを殺した。
けれど、その前に何度も、彼女を止めようとしたのかもしれない。
アマンテルスが高速で飛ばした文章の中に、こういう言葉があったのかもしれない。
「……分かった」
「何が?」
「今夜、母上の杯に呪毒が入る。人族の聖具を砕いたものだ。俺――私は影で呪いを止める。フィルブランテは食器と給仕の経路を監視する」
カイラスの金色の瞳が細くなる。
「人族製の毒なら、彼女自身が仕掛けている可能性は?」
「ない」
即答した。
「どうして言い切れる」
「私が知っているから」
カイラスは何かを探すように、アマンテルスの顔を見た。
「君は本当に、変わったね」
「悪い方に?」
「分からない。でも、今の君は以前より誰かを信じようとしている」
それはアマンテルスの変化なのか。
アマンテルスが本来、望んでいた変化なのか。
今は答えを出せない。
「協力してくれるか」
「もちろん。僕は使節団の護衛だ」
「疑ってたくせに」
「疑うことと守ることは両立する」
「面倒なやつ」
「君に言われたくない」
アマンテルスは少し笑った。
異世界で初めて、弟以外へ背中を預けられるかもしれないと思った。
◇
歓迎晩餐会が始まった。
大広間の天井には、水晶の灯りが星座のように浮かんでいた。
長い卓には白い布が掛けられ、王国と魔侯領、双方の紋章が交互に刺繍されている。王太子レオンハルトを中心に、人族の貴族、教会関係者、魔族使節が向かい合って座った。
フィルブランテの席はレオンハルトの右隣。
アマンテルスの席は、母エルネシアを挟んだ三つ向こう。
フィルブランテとアマンテルスは、互いの顔を直接見ない。
見れば意識していると知られる。
代わりに、フィルブランテは銀食器へ映る黒い影を見た。
アマンテルスは水差しの表面へ映る白い手袋を見た。
最初の料理が運ばれる。
異常なし。
二皿目。
異常なし。
給仕が下げられ、別の者が入る。
目録通り。
フィルブランテは会話へ応じながら、視界の隅で配膳経路を追った。
「フィルブランテ」
隣から声を掛けられる。
「はい、殿下」
「先ほどから、給仕ばかり見ているようだが」
「王国のもてなしに不備がないか、確認しております」
「そなたが厨房まで監督していたと聞いた」
「準主催者として当然の務めですわ」
「昨日までのそなたなら、礼典局へ任せていただろう」
フィルブランテの指が止まりかけた。
レオンハルトは、フィルブランテに無関心ではなかったのか。
少なくとも、変化へ気づく程度には見ていた。
「わたくしも、考えを改めることはございます」
「何が、そうさせた?」
兄が魔族令嬢になったからです。
答えられるはずがない。
「守るべきものが、以前よりよく見えるようになりました」
レオンハルトは不思議そうな顔をした。
やがて、穏やかに笑う。
「それは、喜ばしい変化なのだろうな」
フィルブランテが返事をする前に、給仕長が合図を出した。
乾杯の時間だ。
大広間の両開き扉が開き、二十四個の銀杯を載せた台車が入ってくる。
フィルブランテの身体に緊張が走った。
先頭の給仕は目録通り。
二人目も。
三人目――見覚えがない。
年齢は二十代半ば。茶色の髪。王宮使用人の制服。
名簿にはなかった顔だ。
彼は予備の布を抱え、台車の横へ近づく。
偶然を装って、給仕の一人へ肩をぶつけた。
台車が傾く。
銀杯が触れ合い、澄んだ音を立てた。
ほんの一瞬。
男の右手が、七番の杯へ触れる。
フィルブランテの右目に、氷を差し込まれたような痛みが走った。
視界が青白く染まる。
杯の底に残した結晶が、触れた魔力の履歴を映し出す。
男の指。
手袋の内側に隠された、小さな銀片。
砕かれた聖具。
そこから黒い液体が、蜘蛛の糸ほど細く杯へ落ちる。
「七番」
フィルブランテは扇で口元を隠し、短く告げた。
離れた席で、アマンテルスの影が動く。
台車から七番の杯が持ち上げられた。
給仕は何も知らず、エルネシアの席へ向かう。
まだ止めない。
実行犯と接触先を確認する。
男は厨房へ戻らず、壁際の教会助祭へ視線を送った。
助祭が、右手の親指で左手の輪をなぞる。
合図。
人族側の実行役は二人。
さらに男の足元から、細い魔力の糸が伸びている。
糸は大広間の外、魔族護衛の控え室へ続いていた。
向こう側にも協力者がいる。
予定通りだ。
証拠を押さえられる。
エルネシアの前へ、七番の杯が置かれた。
レオンハルトが立ち上がる。
「本日、我らは一つの卓を囲みました」
大広間の視線が王太子へ集まる。
「百年に及ぶ不信を、一夜で消すことはできないでしょう。しかし、同じ言葉を交わし、同じ食事を分かつところから、未来は始められると信じます」
全員が杯へ手を伸ばす。
エルネシアの指が、七番の杯へ近づく。
アマンテルスが右手を卓の下へ下ろした。
影が滑り、杯の底へ触れる。
呪毒の存在を確認。
あとは乾杯の直前に止め、犯人を押さえる。
「両国の友誼と、ここに集うすべての者の未来へ」
レオンハルトが杯を掲げた。
「乾杯」
その瞬間。
フィルブランテは扇を閉じ、七番の杯へ向けた。
「凍りなさい」
氷が走った。
エルネシアの杯が、指先へ触れる直前で卓へ凍りつく。
同時にアマンテルスの影が立ち上がり、黒い膜となって杯を包んだ。
「動くな!」
カイラスの雷が床を走る。
名簿になかった給仕の足元を囲み、逃げ道を断った。
シリルも即座に剣を抜き、教会助祭の前へ立つ。
「両手を見える位置へ」
大広間が騒然となった。
人族の貴族が立ち上がり、魔族の護衛が武器へ手を掛ける。
「何事だ!」
「アマンテルス、これは――」
「杯に呪毒があります!」
アマンテルスが叫ぶ。
影の膜の内側で、銀杯が黒く泡立っていた。
聖なる光と、濁った闇。
相反するはずの魔力が絡み合い、見るだけで吐き気を催す色を作っている。
レオンハルトが卓を回り込み、杯を確認する。
「全員、杯へ触れるな。近衛は扉を封鎖!」
命令が飛ぶ。
シリルが給仕の男を取り押さえた。
手袋の中から、砕かれた聖具の残片が落ちる。
教会助祭は逃げようとしたが、カイラスの雷壁に阻まれた。
成功した。
フィルブランテは一瞬、そう思った。
エルネシアは毒を口にしていない。
実行犯を二人押さえた。
魔族側へ伸びる魔力の糸も、アマンテルスなら追える。
犠牲者はいない。
原作の死亡イベントを、完全に止めた。
そのとき。
凍りついた銀杯の内側で、何かが脈打った。
どくん。
心臓のような音だった。
アマンテルスが顔を上げる。
「待て。何か、おかしい」
どくん。
二度目。
杯を覆っていた黒い膜に、細い亀裂が走った。
「兄貴?」
フィルブランテの声は、喧騒に紛れた。
アマンテルスは杯へ両手を向け、影を厚くする。
「毒が、杯から出ようとしてる」
「容器ごと凍結している。動けるはずがない」
「違う。こいつ、最初から杯を狙ってない」
黒い液体が、凍った銀の表面を逆らうように這った。
液体ではない。
文字だ。
古い術式の一節が、杯から卓布へ染み出していく。
――対象、エルネシア・ルヴィンイヴル。
――結果、死。
フィルブランテの〈晶析眼〉が、意味を読み取った。
術式には、経路が書かれていない。
杯で飲ませることも、香りで吸わせることも、傷から入れることも指定されていない。
対象と結果だけが、固定されている。
「運命指定型の呪い……?」
ノエルなら、後にそう名付けたかもしれない。
だが今の兄弟には、その知識がなかった。
分かったのは一つだけ。
杯を止めても、呪いは止まっていない。
術式は卓布の銀糸を伝い、燭台へ移る。
燭台から床へ。
床から、壁の装飾へ。
そして大広間全体に用いられた銀を道として、エルネシアの影へ向かい始めた。
「全員、銀製品から離れろ!」
アマンテルスが叫ぶ。
だが遅い。
エルネシアの胸元で、白い光が弾けた。
園遊会で受け取った薔薇は影箱へ封じた。
それでも追跡印は、すでに彼女の魔力へ焼きついていた。
白薔薇の形をした黒い痣が、首筋へ浮かび上がる。
「母上!」
エルネシアの身体が傾いた。
アマンテルスが抱き止める。
腕の中で、母の体温が急速に下がっていく。
原作と同じだ。
杯を口にしていないのに。
犯人を押さえたのに。
手順を変えたのに。
結果だけが、こちらへ追いついてくる。
「ア、マン……」
「喋るな。今、止める」
アマンテルスはエルネシアの背へ手を当てた。
〈宵闇の王権〉。
呪いを影へ保存する、アマンテルス固有の力。
母の身体へ侵入した黒い術式を、自分の影へ引きずり込む。
激痛が走った。
胸を内側から焼かれる。
視界の端が黒く欠ける。
それでもアマンテルスは止めなかった。
「全部、こっちへ来い」
床に広がる影が、巨大な口のように開く。
エルネシアの首筋から黒い筋が消え、代わりにアマンテルスの腕へ絡みつく。
「アマン、やめなさい」
「大丈夫だ」
「嘘です」
「このくらい、平気だから」
平気ではない。
呪いが多すぎる。
一人分の暗殺術式ではない。
人族と魔族の憎悪、和平を望まない者たちの恐怖、失敗した未来の残響まで、すべてが混ざっている。
影の器が軋む。
耳元で、ゲームの台詞が聞こえた。
『これは、わたくしの役目です』
『すべての呪いを抱いて消えるのが――』
原作のアマンテルスが、同じ選択をしようとしている。
母を救うため。
国を守るため。
誰にも頼らず、自分だけが消えればよいと。
「兄貴!」
フィルブランテの声が響いた。
「来るな!」
アマンテルスは反射的に怒鳴った。
「こいつは俺が持つ。お前は犯人を逃がすな!」
給仕の男が、シリルの拘束から逃れようともがいている。
教会助祭の袖から、証拠を燃やす白い火が上がった。
魔力の糸の先にいた者も、騒ぎに紛れて逃げようとしている。
今追えば、黒幕へ近づける。
今捕らえなければ、証拠は消える。
フィルブランテは一瞬、そちらを見た。
アマンテルスは安心した。
弟なら、合理的に判断する。
証拠を優先する。
自分が母を救う間、作戦を続けてくれる。
だがフィルブランテは、犯人へ背を向けた。
「シリル!」
「はい!」
「給仕と助祭を生かしたまま拘束してください! カイラス卿、魔族側へ伸びる糸を追って! 殿下は広間の避難を!」
三人へ役割を投げ、自分はアマンテルスのもとへ走る。
「来るなって言っただろ!」
「一人で死亡イベントへ近づかない。最初の約束だ!」
フィルブランテは膝をつき、アマンテルスの呪いに侵された腕をつかんだ。
焼けるような痛みが掌へ流れ込む。
それでも離さない。
「その呪いを、僕へ寄越せ」
「馬鹿か。お前の身体じゃ持たない」
「全部とは言ってない。分けろ」
「無理だ!」
「やる前から決めるな!」
フィルブランテは左手で儀礼扇〈アルブム〉を開いた。
白銀の骨が展開し、二人とエルネシアを囲む氷晶の壁を作る。
「フィルブランテの力は記録と固定だ。呪いを消せなくても、形を変えずに凍らせることはできる」
「失敗したら、お前まで」
「成功させる。兄貴がいつも言ってただろ」
フィルブランテは痛みで歪む顔に、無理やり笑みを作った。
「俺を誰だと思ってる、って」
「それ、俺の台詞だ」
「今日は貸せ」
扇の先から霜が広がる。
アマンテルスの腕へ絡んだ呪いが、一部だけ青白く凍りついた。
黒い文字が、氷晶の中へ閉じ込められる。
――対象、エルネシア・ルヴィンイヴル。
フィルブランテはその一節へ意識を集中した。
「対象の情報を固定する。結果へ進ませない」
「そんな使い方、設定にあったか?」
「ない。今考えた」
「お前も十分、行き当たりばったりだな!」
「誰の兄弟だと思ってる!」
黒い呪いと青白い氷がぶつかる。
影が暴れ、氷晶へ亀裂が走った。
アマンテルスは歯を食いしばり、呪いを影の中へ引く力を弱める。
一人で全部を抱え込むのではない。
半分を、弟へ渡す。
怖かった。
自分が傷つくより、弟が傷つく方がずっと怖い。
それでも、フィルブランテが選んだ。
信じるしかない。
「三つ数える」
アマンテルスが言う。
「一で俺が呪いを引き剥がす。二でお前が凍らせる。三で影箱へ落とす」
「分かった」
「失敗したら」
「その話は後」
「相変わらず冷たいな」
「氷属性だからな」
二人は息を合わせた。
「一!」
アマンテルスの影が、エルネシアの身体から呪いを引き抜く。
「二!」
フィルブランテの氷が、術式の形を固定する。
「三!」
床へ落ちた影が折り畳まれ、黒い箱となって閉じる。
衝撃が大広間を走った。
燭台の火が一斉に消え、水晶灯が砕ける。
暗闇の中、氷晶だけが青白く輝いた。
影箱の内側から、何かが爪を立てる。
開けろ。
結果を戻せ。
定められた死を完成させろ。
声ではない要求が、二人の頭へ流れ込む。
フィルブランテは扇を握り直した。
「閉じろ、兄貴!」
「言われなくても!」
黒い箱が、拳ほどの大きさまで縮む。
最後に、白薔薇の花弁のような光が一枚だけ漏れた。
アマンテルスが素手でつかみ、握り潰す。
光が消えた。
大広間に、静寂が落ちる。
エルネシアの胸が上下した。
一度。
二度。
浅いが、確かな呼吸。
首筋の黒い痣も消えている。
「母上?」
アマンテルスが呼びかける。
エルネシアの瞼が震えた。
「……騒がしい、子たちですね」
アマンテルスの顔が歪んだ。
泣くのを堪えたのだと、フィルブランテには分かった。
「母上!」
「聞こえています。抱き締めるなら、もう少し力を緩めなさい」
「生きてる」
「そのようですね」
アマンテルスは額を母の肩へ押し当てた。
エルネシアは痛みに顔をしかめながらも、娘の黒髪をゆっくり撫でた。
原作では、ここで死んでいた。
アマンテルスの腕の中で冷たくなり、二度と目を開けなかった。
その未来は、変わった。
フィルブランテは安堵し、力を抜いた。
途端に右腕へ鋭い痛みが走る。
手袋の下で、黒い霜が手首まで広がっていた。
「フィルブランテ」
アマンテルスが気づく。
「平気だ」
「見せろ」
「今は、他にやることがある」
「それ、俺の真似か?」
「悪い手本が身近にいたから」
言い合っている場合ではない。
広間の灯りが戻り始める。
貴族たちは壁際へ避難し、近衛騎士が出入り口を封鎖していた。
レオンハルトは混乱の中でも指示を飛ばし続けている。
「負傷者を確認せよ。銀製品には触れるな。魔術師を呼べ!」
シリルは給仕の男を床へ押さえ込み、両手へ拘束具を掛けていた。
教会助祭も、カイラスの雷鎖に縛られている。
「殿下!」
別の近衛騎士が駆け込んできた。
「魔族側の控え室から、石角族の護衛が一名逃亡しました!」
「追跡を」
「すでにカイラス卿が追っております」
取り逃がした者はいる。
だが、二人は捕らえた。
エルネシアも生きている。
完全ではないが、勝利だ。
フィルブランテはそう評価しようとした。
「これは、どういうことだ」
低い声が響いた。
レオンハルトが、凍りついた銀杯のそばに立っていた。
その手には、砕けた木箱の蓋がある。
杯を運んだ箱。
蓋の内側には、青紫色の封蝋が付いていた。
イデルバルディ公爵家の紋章。
フィルブランテの血の気が引いた。
「その印は……」
「フィルブランテ。そなたの家のものだな」
「ええ。ですが、その箱は公爵家の管理品ではございません」
「厨房の食器目録には、公爵家から贈られた銀器と記載されています」
「偽造です」
即答した。
周囲の視線が、一斉にフィルブランテへ向く。
「では、なぜフィルブランテ様は、事前に杯へ氷の印を?」
誰かが言った。
「暗殺をご存じだったのでは」
「ご存じだったから防いだのでしょう」
「それなら、なぜ公爵家の箱が使われている」
「魔族令嬢と密談していたという噂も」
「最初から、二人で仕組んだのではないか」
囁きが広がる。
最初は別々の声だった。
やがて、同じ言葉を繰り返し始める。
フィルブランテ。
公爵家。
暗殺。
反逆。
フィルブランテの頭に、氷の針を打ち込まれたような痛みが走った。
強制イベントの残響。
まだ二年も先のはずの断罪台が、視界へ重なる。
『フィルブランテ・アソート・イデルバルディ』
『そなたとの婚約を破棄し』
『王国に対するすべての罪を――』
「違う!」
アマンテルスが立ち上がった。
母をルーシェへ預け、フィルブランテの前へ出る。
「フィルブランテは私たちを助けた! あの印がなければ、母上は死んでいた!」
「しかし、魔侯令嬢」
白い法衣を揺らし、大司教ザハルが進み出た。
混乱の中でも、その衣には汚れ一つない。
「彼女が危険を事前に知っていた理由は、明らかにされなければなりません」
「情報源を明かせないだけよ」
「それでは、疑いは残ります」
ザハルは悲しげにフィルブランテを見る。
「私はフィルブランテ様を信じたい。ですが、公爵家の紋章、彼女が施した魔術、魔族令嬢との秘密の接触。あまりにも多くの要素が重なっております」
信じたいと言いながら、疑うための材料を一つずつ並べている。
フィルブランテは痛む頭を押さえ、ザハルを見返した。
「確かに、わたくしは事件を予測していました」
広間が静まる。
「フィル!」
アマンテルスが止めようとする。
フィルブランテは首を横へ振った。
ここで否定すれば、後から事実が判明したとき、嘘まで罪へ加えられる。
「情報源は、今この場では申し上げられません。ですが、杯に施した氷晶は、触れた者と魔力の履歴を保存しております。わたくしが毒を入れたのなら、その記録も残っているはずです」
フィルブランテは凍った杯へ手を向けた。
「調べてください。王宮魔術師でも、教会でも、魔族の術者でも構いません。ただし、必ず三者立ち会いのもとで」
ザハルの目が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。
「証拠の魔術そのものを、あなたが施したのでしょう?」
「だからこそ、三者で検証するのです。わたくし一人の潔白を信じろとは申しません」
フィルブランテはレオンハルトへ向き直る。
「殿下。銀杯、運搬箱、捕らえた二名、床へ残る魔力の糸を、王家の名で封印してくださいませ。いずれも一つの組織だけへ預けてはなりません」
レオンハルトは黙って、フィルブランテを見つめていた。
原作なら、ここで王太子は疑いを深める。
自分の知らないところで動き、証拠を操作する婚約者へ、不信を抱く。
その未来が頭をよぎる。
それでもフィルブランテは、目を逸らさなかった。
やがてレオンハルトが剣を抜く。
切っ先を、床へ向けた。
「王太子レオンハルトの名において命じる。本件の証拠は王家、教会、魔侯領の三者で共同管理する。フィルブランテのものを含め、何人の証言も単独では採用しない」
大司教が口を開く。
「殿下、しかし――」
「彼女が疑われるべきなら、正しい手順で疑われるべきです。功績も同じだ。フィルブランテとアマンテルス嬢が動かなければ、今夜、ルヴィンイヴル夫人は命を落としていた」
レオンハルトはフィルブランテを見る。
「そなたの行動に、すべて納得したわけではない」
「承知しております」
「だから、これから説明してもらう」
「お話しできる範囲であれば」
「相変わらず、頑固だな」
「殿下ほどではございませんわ」
レオンハルトの口元が、ごくわずかに緩んだ。
断罪の幻が、一瞬だけ遠のく。
完全に消えたわけではない。
周囲の囁きも残っている。
それでも、原作と同じ道ではない。
一本だけ、別の道が生まれた。
◇
騒ぎが収まったのは、夜半を過ぎてからだった。
エルネシアは迎賓館の客室へ移され、魔族と人族、双方の治癒師による診察を受けた。体内に呪毒は残っておらず、数日の安静で回復するという。
給仕の男と教会助祭は、別々の牢へ収容された。
魔族側の協力者は逃亡。
カイラスが追跡したものの、旧水路の入り口で魔力の糸を切られた。
そして、暗殺に使われた箱には、イデルバルディ家の印が残った。
成功と失敗が、同じ数だけ並んでいる。
アマンテルスとフィルブランテは、人目を避けて迎賓館北棟の小さな薬草園へ出た。
夜露に濡れた葉が、月光を反射している。
「腕を見せろ」
アマンテルスが言った。
「その前に、兄貴の方だ」
「俺は平気」
「だったら先に見せられるだろ」
「お前、性格悪くなったな」
「フィルブランテの影響かもな」
フィルブランテはため息をつき、右手の手袋を外した。
手首から肘へ、黒い霜のような模様が残っている。
凍らせた呪いの一部が、完全には抜けていない。
アマンテルスの顔が険しくなる。
「痛むか」
「少し。動かせる」
「少しじゃ分からない。数字で言え」
「兄貴がそれを言うのか」
「今は俺が聞いてる」
「十段階で三。魔力を使うと五」
「治癒師に見せろ」
「説明できない」
「暗殺を予知した理由よりは簡単だろ」
「兄貴の腕も見せろ」
アマンテルスは渋々、長い手袋を外した。
白い腕へ、黒い文字が何重にも巻きついている。
フィルブランテよりひどい。
「十段階で?」
「二」
「嘘をつくな」
「四」
「まだ嘘だ」
「六」
「治癒師に見せろ」
「説明できない」
「僕の台詞を使うな」
二人は顔を見合わせた。
同時にため息をつく。
「一応、勝ったんだよな」
アマンテルスが薬草園の長椅子へ座った。
「エルネシア夫人は生きてる」
「母上でいい。お前も、もう他人じゃないだろ」
フィルブランテは隣へ腰を下ろした。
胸の奥へ、見知らぬ温かさが広がる。
フィルブランテには母がいない。
だからエルネシアがアマンテルスの髪を撫でる姿を見たとき、羨ましいと思った。
それがこの身体の感情なのか、転生者としての自分のものなのかは分からない。
「……母上は生きてる。犯人も二人捕まえた。だから、目的の半分以上は達成した」
「でも、お前に疑いが向いた」
「予想外ではあるけど、対処できる。氷晶に記録が残ってる」
「消されたら?」
「複製する」
「どうやって」
「これから考える」
「行き当たりばったりじゃねえか」
「兄貴の悪影響だ」
アマンテルスは笑った。
しかし、すぐに真顔へ戻る。
「杯を止めたのに、呪いは母上へ届いた」
「ああ」
「犯人の仕掛けた予備術式か?」
「その可能性はある。でも、〈晶析眼〉で読めたのは、対象と結果だけだった。経路を指定していない呪いなんて、普通は成立しないはずだ」
「普通じゃないなら?」
フィルブランテは自分の腕に残る黒い霜を見た。
頭の奥で、断罪台の声がまだ響いている。
「運命の修正力」
口に出すと、夜風が冷たくなった気がした。
「原作の重大事件を変えると、別の方法で同じ結果へ戻そうとする。僕たちが杯を止めたから、呪いが別の経路を選んだ」
「ゲームが、筋書き通りにしようとしてるってことか」
「ゲームそのものに意思があるとは限らない。この世界の魔法か、長年積み重なった恐怖か、もっと別の何かかもしれない」
「どっちでも同じだ」
アマンテルスは夜空を見上げた。
「向こうが結果を変えたくないなら、結果ごとぶち壊す」
「簡単に言うな。今回は二人とも呪いを受けた」
「でも壊せた」
「ぎりぎりだ」
「二人なら、だろ」
フィルブランテは兄を見た。
無謀な笑い方だった。
けれど、以前とは少し違う。
一人でやる、とは言わなかった。
「次からは、もっと事前に退路を作る」
「はいはい、予定表」
「記録も残す。修正力がどんな条件で動くか比較する」
「実験かよ」
「命懸けのな」
「趣味悪いな」
「このゲームをタイムアタックしていた兄貴にだけは言われたくない」
また、二人の声が重なった。
静かな薬草園に、かすかな笑いが落ちる。
そのとき、北棟の窓が開いた。
「お二人とも」
ミレーヌが、無表情で立っていた。
「負傷を隠して夜風に当たるのは、どちらの国の治療法でございましょうか」
アマンテルスとフィルブランテが同時に姿勢を正す。
「これは、その」
「外交上の意見交換ですわ」
「腕を出しなさいませ」
「ミレーヌ、わたくしは」
「両腕です」
拒否を許さない声だった。
アマンテルスが小声で尋ねる。
「お前の侍女、怖くない?」
「優秀なんだ」
「聞こえております」
二人は黙って、黒い痕の残る腕を差し出した。
◇
同じ夜。
王城地下の小礼拝堂で、大司教ザハルは一人、祈りを捧げていた。
祭壇の上には、黒く変色した白薔薇が置かれている。
本来なら、エルネシアの死と同時に灰となるはずの追跡具。
花は燃えず、ただ二つに裂けていた。
片方の花弁は黒い影に染まり、もう片方は青白い氷へ覆われている。
「結果を分けたのですか」
ザハルは薔薇へ指を伸ばした。
影が指先へ噛みつこうとし、氷がその動きを固定する。
二つの力は反発せず、互いの欠点を補っていた。
あり得ない組み合わせだった。
原作など知らないザハルにとっても、フィルブランテとアマンテルスは敵対するはずの存在である。
王国の氷と、魔族領の闇。
王太子妃候補と、戦争の火種。
二人が手を結ぶ理由などない。
「役を外れた者が、二人」
背後の暗がりから、黒衣の人物が問いかける。
「失敗を、どう処理なさいますか」
「失敗ではありません」
ザハルは穏やかに答えた。
「エルネシアは生き延びました。しかし人々は、代わりにフィルブランテを疑い始めた」
「魔族令嬢も、予定より早く呪いを取り込んだ」
「運命は賢明です。塞がれた道に執着せず、別の道を選ぶ」
大司教は二つに裂けた薔薇を見下ろした。
「けれど、あの二人は危険ですね」
「排除を?」
「いいえ」
慈愛深い微笑みが、暗い礼拝堂へ浮かぶ。
「役を拒む者には、よりふさわしい舞台を用意しましょう」
ザハルが指を鳴らす。
祭壇の下から、一冊の教本が現れた。
王立ルクシア学院で、新入生へ配られる聖花学の教本。
表紙には、まだ学院へ入学していない少女の名が書かれている。
リゼット・アーヴェイン。
「次は、悪役令嬢らしく振る舞っていただきます」
礼拝堂の蝋燭が、一斉に消えた。
暗闇の中、破られた教本の紙片だけが、白い花弁のように舞っていた。




