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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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3/44

第三話 運命は杯を選ばない

歓迎晩餐会まで、残り十二時間。


 フィルブランテ・アソート・イデルバルディは、公爵邸の私室で一枚の紙と向き合っていた。


 正確には、その紙に書き込まれた七つ目の作戦案へ、赤い線を引いていた。


「これも駄目ですわ」


 フィルブランテが呟くと、机を挟んで立つ侍女長ミレーヌの眉がわずかに動いた。


「どの点が問題なのでしょう」


「エルネシア夫人のお席を移せば、配膳順が変わります。犯人が杯へ細工する時刻も変わり、こちらが監視できない可能性が高い。そもそも席を移すだけでは、狙いそのものを外せません」


「では、夫人の杯だけを事前に交換なさいますか」


「相手に気づかれます。杯以外の手段へ切り替えられては、こちらの知識が役に立ちません」


 フィルブランテは赤いペンを置き、椅子の背へ身体を預けた。


 机の上には、王城迎賓館の見取り図、給仕役の名簿、食器庫の鍵の管理表、料理の献立、聖花教会による検分手順が並べられている。


 いずれも、本来なら公爵令嬢が私室へ持ち込める資料ではない。


 ミレーヌが半日で集めたものだった。


 頼んだフィルブランテ自身が引くほど有能である。


「お嬢様」


 ミレーヌは静かに呼びかけた。


「そろそろ、お聞かせ願えませんか」


「何をでしょう」


「なぜ、まだ起きてもいない暗殺を、そこまで確信していらっしゃるのかを」


 逃げ道のない問いだった。


 フィルブランテは資料へ視線を落とした。


 三日前から突然、未来の事件を知っているように振る舞い始めた主人。


 魔族令嬢と人目を避けて密談し、翌日にはその母親が暗殺されると言い出した。


 どう考えても怪しい。


 それでもミレーヌは、フィルブランテが求めた資料を一つ残らず用意した。理由を問いただすより先に、主人の望みを実現したのである。


 原作の彼女は、国外追放となったフィルブランテを逃がすため、一人で追っ手の前へ立った。


 その結末を知っているからこそ、フィルブランテは彼女の忠誠を利用したくなかった。


「すべてをお話しすることはできません」


 フィルブランテは正直に言った。


「ですが、エルネシア夫人が今夜、命を狙われるという情報は確かです。凶器は人族の聖具を砕いて作った呪毒。銀の杯へ仕込まれる可能性が高い」


「情報源は?」


「明かせません」


「魔侯令嬢と関係がございますか」


「ございます」


 ミレーヌの目が細くなった。


「園遊会で宣戦布告なさった相手です」


「表向きは」


「では、実際には?」


 フィルブランテは答えに迷った。


 兄だとは言えない。


 転生したとも言えない。


 だが、ここで何も語らず命だけ懸けろと命じれば、自分は原作のフィルブランテと同じになる。


「わたくしが、命を預けられる相手です」


 ミレーヌが初めて、明確に驚いた顔をした。


「三日前に初めてお会いになった方へ、でございますか」


「そう見えるでしょうね」


「いいえ」


 予想外の返答だった。


「園遊会からお戻りになったお嬢様は、久方ぶりに安堵しておられました。表情には出ておりませんでしたが」


「……出ていないなら、どうして分かるのです」


「幼い頃からお仕えしておりますので」


 ミレーヌは当然のように答えた。


 フィルブランテの胸に、この身体に残る記憶が浮かぶ。


 熱を出した夜、母に代わって朝まで手を握ってくれた女性。


 舞踏の練習で足を傷めたとき、誰にも知られないよう冷たい布を巻いてくれた女性。


 失敗を叱りながら、必ず次に成功する方法を一緒に考えてくれた女性。


 ミレーヌは、フィルブランテを知っている。


 そして今、フィルブランテではない部分まで含んだ自分を、知ろうとしている。


「今夜、危険が起こります」


 フィルブランテは一語ずつ選んだ。


「けれど、あなたに命を懸けさせるつもりはありません。危険を感じたら、すぐその場を離れなさい。これは命令です」


「お嬢様は残られるのでしょう?」


「わたくしには役目があります」


「私にもございます」


「ミレーヌ」


「お嬢様をお守りすることです」


 静かな声だった。


 決意を誇示するのではない。朝にカーテンを開け、夜に燭台の火を消すのと同じように語られた。


 だからこそ、フィルブランテは言葉を失った。


「……では、命を捨てずに守ってください」


 ようやく、それだけを返す。


「難しいご命令でございますね」


「できるでしょう。あなたは優秀ですから」


 ミレーヌはほんの少しだけ笑い、頭を下げた。


「承知いたしました」


     ◇


 同じ頃、王城迎賓館の北棟では、アマンテルスが母親から説教を受けていた。


「もう一度、最初から説明なさい」


 エルネシア・ルヴィンイヴルは、窓辺の長椅子へ腰を下ろしていた。


 白銀の髪が朝日に淡く透け、赤紫の瞳が娘をまっすぐ見つめている。


 その手には、園遊会で大司教から贈られた白薔薇があった。


 薔薇は銀製の細い花瓶に挿され、机の上に置かれている。


「だから、今夜の晩餐会で母上が狙われる」


「誰にです」


「分からない」


「なぜ狙われると?」


「それも、説明できない」


「アマン」


「でも本当なんだ」


 言った途端、エルネシアの眉が上がった。


 アマンテルスは自分の失言に気づいた。


 魔侯令嬢アマンテルスは、母親に対しても格式を崩さない。少なくとも、人族の若者のような口調で「本当なんだ」とは言わなかったはずだ。


 この三日、アマンテルスは礼儀を覚えるだけで精一杯だった。


 ルーシェからは「少し親しみやすくなりました」と喜ばれたが、母親には通じないらしい。


「……本当なのでございます、母上」


 取り繕ってみる。


「今さら戻しても遅いわ」


 エルネシアはため息をついた。


「人族領へ入ってからのあなたは、随分と口調が変わりましたね」


「それは」


「歩き方も。以前なら、廊下の中央を堂々と歩いていたでしょう。今は曲がり角のたびに、逃げ道を確認している」


「警戒してるだけだ」


「朝食では、嫌いな月胡桃を三粒も食べました」


「……身体にいいかと思って」


「あなたは月胡桃を食べるくらいなら不健康でよい、と百年間は言い続けると思っていました」


「俺、そんなに嫌ってたのか」


「俺?」


「私」


「アマン」


 もう一度、名を呼ばれる。


 逃げられない。


 アマンテルスは椅子へ座り、両手で顔を覆った。


「悪い。今は、うまく説明できない」


 沈黙が続いた。


 やがて、衣擦れの音が近づく。


 エルネシアの手が、アマンテルスの黒髪へ触れた。


「あなたが誰であっても」


 アマンテルスは顔を上げた。


「私の娘の目で、私を心配していることは分かります」


「母上」


「ただし、何も説明せず、私だけを安全な場所へ押し込めようというのであれば反対です」


 優しかった声が、きっぱりしたものへ変わる。


「晩餐会を欠席すれば、魔族は人族を信用していないと宣言することになります。杯を避ければ、料理か香か、別の者が狙われるかもしれません。私一人の安全と引き換えに、使節団全員を危険へ置くことはできません」


 アマンテルスは目を瞬いた。


 フィルブランテと同じことを言っている。


 ゲームでは、エルネシアは暗殺されるためだけの人物だった。


 穏健派の象徴。アマンテルスが復讐へ走る理由。カイラスが和平の限界を知るための犠牲。


 だが現実の彼女は、自分で考え、自分の立場を理解している。


「囮になれって言うつもりはない」


「囮ではありません。使節です」


「同じだろ」


「違います。危険を知らずに利用されるのと、危険を承知で役目を選ぶのは」


 アマンテルスは反論できなかった。


 弟に言われたばかりだ。


 本人の意思を無視して進める作戦は、助けるとは言わない。


「……分かった」


 アマンテルスは白薔薇を見た。


「でも、一つ約束してくれ。危険だと俺が言ったら、理由を聞かずに伏せる。歌も止める。影が伸びてきても触るな」


「分かりました」


「それと、その花は置いていく」


「大司教からの贈り物ですよ」


「だからだ」


 アマンテルスは手袋をはめ、白薔薇へ手を伸ばした。


 触れる直前、床の影がざわめく。


 薔薇の芯から、髪の毛ほど細い黒線が伸び、エルネシアの影へつながっていた。


 昨日よりも濃い。


 追跡印は、すでに対象の魔力を覚えている。


「ルーシェ」


「はい、こちらに」


 扉の脇で控えていた夢魔族の侍女が、桃色の髪を揺らして進み出た。


「この薔薇を、影箱へ入れてくれ。素手で触るな」


「承知いたしました」


 ルーシェは冗談を挟まなかった。


 昨夜、アマンテルスが事情を話したときもそうだった。


 普段は陽気でも、主人の家族が狙われていると知れば、彼女は有能な侍女へ変わる。


 黒い布を張った小箱が閉じられる。


 その直前。


 白薔薇の花弁が、かすかに震えた。


 窓は閉まっている。


 風などない。


 アマンテルスは嫌な予感を覚えた。


「母上。今夜は、俺から離れないでくれ」


「努力します」


「約束と答えが違う」


「あなたが無茶をしなければ、離れません」


「それ、無理って言ってるのと同じじゃないか?」


 エルネシアは娘の頬へ手を当て、楽しげに笑った。


「やはり、随分と変わりましたね」


 アマンテルスは答えなかった。


 その手の温度を、今夜も失わずに済むように。


 ただ、そう願った。


     ◇


 歓迎晩餐会まで、残り三時間。


 王城迎賓館の厨房は、戦場と化していた。


 銀の蓋を被せた料理が次々と運ばれ、給仕長の怒声が飛ぶ。王宮礼典局の役人が食器を数え、聖花教会の助祭が一皿ずつ浄化の印を結んでいる。魔族側の毒見役も立ち会い、香辛料から水差しまで、すべてを検分していた。


 表向き、フィルブランテは王太子の婚約者として準備の監督へ来ていた。


 実際には、すべての銀杯へ魔力の印を残すためだった。


「お嬢様。こちらが主賓用の杯でございます」


 ミレーヌが差し出した目録を、フィルブランテは確認する。


 番号は一から二十四。


 エルネシアの席へ置かれるのは、七番。


 フィルブランテは白い手袋を外し、食器棚の前へ立った。


「少し冷えます。皆様、触れないように」


 右手を棚へ添える。


 身体の奥に、冷たい流れが生まれた。


 意識を向けると、指先から細い霜が走り、二十四個の杯の底へ小さな結晶が咲く。


 薔薇の蕾に似た、透明な印。


 転生初日、水差しを丸ごと凍らせたときよりは上達している。


 だが〈晶析眼〉と呼ばれる力の使い方は、まだ感覚に頼る部分が大きかった。


 フィルブランテの記憶は、術式の手順を知っている。


 フィルブランテの頭は、手順を数式として理解しようとする。


 二つが重なった瞬間だけ、魔法は思い通りに動いた。


「お見事でございます」


 礼典局の役人が感嘆する。


「これで一度でも別の者が触れれば、結晶の形が変わります」


「すべての杯へ施す必要が?」


「魔族の客人へ、王国が安全を保証した証ですわ」


 フィルブランテは公爵令嬢の微笑みを向けた。


 役人はそれ以上、何も尋ねなかった。


 七番の杯だけを監視すれば、犯人に意図を悟られる。


 すべてへ印を付ければ、外交上の安全措置に見える。


 作業を終えたフィルブランテは、食器棚から一歩離れた。


 そのとき、厨房の入り口に白い法衣が見えた。


「これは、フィルブランテ様」


 大司教ザハルが、二人の助祭を伴って立っていた。


 園遊会と変わらぬ、慈愛に満ちた微笑み。


「自ら厨房まで監督にいらっしゃるとは、王太子妃として実に立派なお心掛けです」


「まだ妃ではございませんわ、大司教猊下」


「いずれ、そうなられるでしょう。運命が定めたお相手なのですから」


 運命。


 その言葉だけが、不自然に耳へ残った。


「運命は、人が選んだ結果に付ける名前ではございませんか?」


 フィルブランテが返すと、ザハルは穏やかに目を細めた。


「若い方は、そうお考えになる。ですが世には、選ばれた役目がございます。王は王として、聖女は聖女として、そして悪しき者は、善き者を輝かせる試練として」


 厨房の喧騒が遠のいたように感じた。


 ザハルは、原作を知らない。


 ここがゲーム世界だと知っているはずもない。


 それでも、言葉はフィルブランテの胸の最も冷たい場所へ触れてきた。


「人を役目だけで決めつけるのは、少々傲慢ではなくて?」


「役目を拒むことが、必ずしも自由とは限りません。迷う者へ道を示すのも、信仰の務めです」


「崖へ続く道でなければよいのですけれど」


 ミレーヌがわずかに息を呑む。


 大司教に対して、あまりに鋭い。


 だがザハルは笑みを崩さなかった。


「今夜の晩餐が、両国の良き道しるべとなるよう祈りましょう」


 助祭たちを連れ、食器棚へ近づく。


 フィルブランテは一歩、進路を塞いだ。


「杯の検分はすでに終わっています」


「教会の浄化はまだです」


「この場でお願いいたします。わたくしも拝見いたしますわ」


 ザハルの視線が、フィルブランテの右手へ落ちた。


 杯に残した氷晶の印。


 一瞬だけ、その目から笑みが消えた気がした。


 しかし次には、いつもの慈愛深い大司教へ戻っている。


「もちろんです」


 浄化の祈りが始まった。


 白い光が、二十四個の杯を順番に照らす。


 異常はない。


 七番の杯にも、呪毒は入っていない。


 当然だ。


 犯人が動くのは、食器棚から大広間へ運ばれる途中のはずだった。


 それでもフィルブランテは、祈りの間ずっと、ザハルの指先を見ていた。


 何もしていない。


 何も起きない。


 だからこそ、不安が消えなかった。


     ◇


 歓迎晩餐会まで、残り四十分。


 アマンテルスは大広間へ続く回廊で、母の影へ最後の印を結んだ。


 アマンテルスが指先で空中をなぞると、黒い糸がエルネシアの足元へ沈む。


 光の下では見えない。


 呪いが触れた瞬間だけ、アマンテルスの影へ警告が返る仕組みである。


「痛みは?」


「ありません」


「違和感があったら、すぐ言ってくれ」


「分かりました」


「歌う予定は?」


「食後に一曲、和平を祝う古謡を」


「中止できないか」


「できません」


「即答かよ」


「アマン」


「……失礼いたしましたわ、母上」


 後ろでルーシェが笑いを堪えている。


 カイラスは壁へ寄りかかり、疑わしげな目でアマンテルスを見ていた。


「朝から随分と念入りだね、アマン」


「人族の城ですもの。警戒して当然でしょう」


「それだけかな」


「何が言いたいの?」


「君は昨日、公爵令嬢と二人きりで何を話した?」


 アマンテルスは赤紫の目を細めた。


「人族の傘は骨が弱い、という話」


「今朝、彼女の侍女から図面が届いたそうだけど」


「……耳が早いな」


「僕は君の監視役でもある」


 柔らかな口調のまま、カイラスは笑った。


 原作通りなら、彼はアマンテルスの幼なじみであり、和平派の協力者であり、最後には彼女を殺す男である。


 信じたい感情と、警戒する理性が、彼の中で常に争っている。


「今夜、母上が狙われる」


 アマンテルスは隠すのをやめた。


 カイラスの笑みが消える。


「根拠は?」


「説明できない」


「フィルブランテから聞いたのか?」


「情報を持っていたのは私。あいつは作戦を組んだ」


「あいつ?」


「公爵令嬢よ」


「随分と親しい呼び方だね」


「今そこを気にするか?」


 また口調が崩れた。


 エルネシアが小さく笑う。


 カイラスは笑わなかった。


「君が人族を信用するのは自由だ。けれど、魔侯家の人間として、僕たちへ説明する義務がある」


「話せるときが来たら話す」


「それでは遅いかもしれない」


「今は母上を生かす方が先だ」


「アマンテルス」


 低い声だった。


 アマンテルスの身体が、反射的に緊張する。


 幼い頃、危険な遊びを止められたとき。


 初めて実戦へ出ようとしたとき。


 アマンテルスの記憶の中で、カイラスは同じ声で名を呼んだ。


「一人で抱え込んだ結果、君が壊れるなら、それは誰かを守ったことにはならない」


 胸を突かれた。


 こいつは、原作でアマンテルスを殺した。


 けれど、その前に何度も、彼女を止めようとしたのかもしれない。


 アマンテルスが高速で飛ばした文章の中に、こういう言葉があったのかもしれない。


「……分かった」


「何が?」


「今夜、母上の杯に呪毒が入る。人族の聖具を砕いたものだ。俺――私は影で呪いを止める。フィルブランテは食器と給仕の経路を監視する」


 カイラスの金色の瞳が細くなる。


「人族製の毒なら、彼女自身が仕掛けている可能性は?」


「ない」


 即答した。


「どうして言い切れる」


「私が知っているから」


 カイラスは何かを探すように、アマンテルスの顔を見た。


「君は本当に、変わったね」


「悪い方に?」


「分からない。でも、今の君は以前より誰かを信じようとしている」


 それはアマンテルスの変化なのか。


 アマンテルスが本来、望んでいた変化なのか。


 今は答えを出せない。


「協力してくれるか」


「もちろん。僕は使節団の護衛だ」


「疑ってたくせに」


「疑うことと守ることは両立する」


「面倒なやつ」


「君に言われたくない」


 アマンテルスは少し笑った。


 異世界で初めて、弟以外へ背中を預けられるかもしれないと思った。


     ◇


 歓迎晩餐会が始まった。


 大広間の天井には、水晶の灯りが星座のように浮かんでいた。


 長い卓には白い布が掛けられ、王国と魔侯領、双方の紋章が交互に刺繍されている。王太子レオンハルトを中心に、人族の貴族、教会関係者、魔族使節が向かい合って座った。


 フィルブランテの席はレオンハルトの右隣。


 アマンテルスの席は、母エルネシアを挟んだ三つ向こう。


 フィルブランテとアマンテルスは、互いの顔を直接見ない。


 見れば意識していると知られる。


 代わりに、フィルブランテは銀食器へ映る黒い影を見た。


 アマンテルスは水差しの表面へ映る白い手袋を見た。


 最初の料理が運ばれる。


 異常なし。


 二皿目。


 異常なし。


 給仕が下げられ、別の者が入る。


 目録通り。


 フィルブランテは会話へ応じながら、視界の隅で配膳経路を追った。


「フィルブランテ」


 隣から声を掛けられる。


「はい、殿下」


「先ほどから、給仕ばかり見ているようだが」


「王国のもてなしに不備がないか、確認しております」


「そなたが厨房まで監督していたと聞いた」


「準主催者として当然の務めですわ」


「昨日までのそなたなら、礼典局へ任せていただろう」


 フィルブランテの指が止まりかけた。


 レオンハルトは、フィルブランテに無関心ではなかったのか。


 少なくとも、変化へ気づく程度には見ていた。


「わたくしも、考えを改めることはございます」


「何が、そうさせた?」


 兄が魔族令嬢になったからです。


 答えられるはずがない。


「守るべきものが、以前よりよく見えるようになりました」


 レオンハルトは不思議そうな顔をした。


 やがて、穏やかに笑う。


「それは、喜ばしい変化なのだろうな」


 フィルブランテが返事をする前に、給仕長が合図を出した。


 乾杯の時間だ。


 大広間の両開き扉が開き、二十四個の銀杯を載せた台車が入ってくる。


 フィルブランテの身体に緊張が走った。


 先頭の給仕は目録通り。


 二人目も。


 三人目――見覚えがない。


 年齢は二十代半ば。茶色の髪。王宮使用人の制服。


 名簿にはなかった顔だ。


 彼は予備の布を抱え、台車の横へ近づく。


 偶然を装って、給仕の一人へ肩をぶつけた。


 台車が傾く。


 銀杯が触れ合い、澄んだ音を立てた。


 ほんの一瞬。


 男の右手が、七番の杯へ触れる。


 フィルブランテの右目に、氷を差し込まれたような痛みが走った。


 視界が青白く染まる。


 杯の底に残した結晶が、触れた魔力の履歴を映し出す。


 男の指。


 手袋の内側に隠された、小さな銀片。


 砕かれた聖具。


 そこから黒い液体が、蜘蛛の糸ほど細く杯へ落ちる。


「七番」


 フィルブランテは扇で口元を隠し、短く告げた。


 離れた席で、アマンテルスの影が動く。


 台車から七番の杯が持ち上げられた。


 給仕は何も知らず、エルネシアの席へ向かう。


 まだ止めない。


 実行犯と接触先を確認する。


 男は厨房へ戻らず、壁際の教会助祭へ視線を送った。


 助祭が、右手の親指で左手の輪をなぞる。


 合図。


 人族側の実行役は二人。


 さらに男の足元から、細い魔力の糸が伸びている。


 糸は大広間の外、魔族護衛の控え室へ続いていた。


 向こう側にも協力者がいる。


 予定通りだ。


 証拠を押さえられる。


 エルネシアの前へ、七番の杯が置かれた。


 レオンハルトが立ち上がる。


「本日、我らは一つの卓を囲みました」


 大広間の視線が王太子へ集まる。


「百年に及ぶ不信を、一夜で消すことはできないでしょう。しかし、同じ言葉を交わし、同じ食事を分かつところから、未来は始められると信じます」


 全員が杯へ手を伸ばす。


 エルネシアの指が、七番の杯へ近づく。


 アマンテルスが右手を卓の下へ下ろした。


 影が滑り、杯の底へ触れる。


 呪毒の存在を確認。


 あとは乾杯の直前に止め、犯人を押さえる。


「両国の友誼と、ここに集うすべての者の未来へ」


 レオンハルトが杯を掲げた。


「乾杯」


 その瞬間。


 フィルブランテは扇を閉じ、七番の杯へ向けた。


「凍りなさい」


 氷が走った。


 エルネシアの杯が、指先へ触れる直前で卓へ凍りつく。


 同時にアマンテルスの影が立ち上がり、黒い膜となって杯を包んだ。


「動くな!」


 カイラスの雷が床を走る。


 名簿になかった給仕の足元を囲み、逃げ道を断った。


 シリルも即座に剣を抜き、教会助祭の前へ立つ。


「両手を見える位置へ」


 大広間が騒然となった。


 人族の貴族が立ち上がり、魔族の護衛が武器へ手を掛ける。


「何事だ!」


「アマンテルス、これは――」


「杯に呪毒があります!」


 アマンテルスが叫ぶ。


 影の膜の内側で、銀杯が黒く泡立っていた。


 聖なる光と、濁った闇。


 相反するはずの魔力が絡み合い、見るだけで吐き気を催す色を作っている。


 レオンハルトが卓を回り込み、杯を確認する。


「全員、杯へ触れるな。近衛は扉を封鎖!」


 命令が飛ぶ。


 シリルが給仕の男を取り押さえた。


 手袋の中から、砕かれた聖具の残片が落ちる。


 教会助祭は逃げようとしたが、カイラスの雷壁に阻まれた。


 成功した。


 フィルブランテは一瞬、そう思った。


 エルネシアは毒を口にしていない。


 実行犯を二人押さえた。


 魔族側へ伸びる魔力の糸も、アマンテルスなら追える。


 犠牲者はいない。


 原作の死亡イベントを、完全に止めた。


 そのとき。


 凍りついた銀杯の内側で、何かが脈打った。


 どくん。


 心臓のような音だった。


 アマンテルスが顔を上げる。


「待て。何か、おかしい」


 どくん。


 二度目。


 杯を覆っていた黒い膜に、細い亀裂が走った。


「兄貴?」


 フィルブランテの声は、喧騒に紛れた。


 アマンテルスは杯へ両手を向け、影を厚くする。


「毒が、杯から出ようとしてる」


「容器ごと凍結している。動けるはずがない」


「違う。こいつ、最初から杯を狙ってない」


 黒い液体が、凍った銀の表面を逆らうように這った。


 液体ではない。


 文字だ。


 古い術式の一節が、杯から卓布へ染み出していく。


 ――対象、エルネシア・ルヴィンイヴル。


 ――結果、死。


 フィルブランテの〈晶析眼〉が、意味を読み取った。


 術式には、経路が書かれていない。


 杯で飲ませることも、香りで吸わせることも、傷から入れることも指定されていない。


 対象と結果だけが、固定されている。


「運命指定型の呪い……?」


 ノエルなら、後にそう名付けたかもしれない。


 だが今の兄弟には、その知識がなかった。


 分かったのは一つだけ。


 杯を止めても、呪いは止まっていない。


 術式は卓布の銀糸を伝い、燭台へ移る。


 燭台から床へ。


 床から、壁の装飾へ。


 そして大広間全体に用いられた銀を道として、エルネシアの影へ向かい始めた。


「全員、銀製品から離れろ!」


 アマンテルスが叫ぶ。


 だが遅い。


 エルネシアの胸元で、白い光が弾けた。


 園遊会で受け取った薔薇は影箱へ封じた。


 それでも追跡印は、すでに彼女の魔力へ焼きついていた。


 白薔薇の形をした黒い痣が、首筋へ浮かび上がる。


「母上!」


 エルネシアの身体が傾いた。


 アマンテルスが抱き止める。


 腕の中で、母の体温が急速に下がっていく。


 原作と同じだ。


 杯を口にしていないのに。


 犯人を押さえたのに。


 手順を変えたのに。


 結果だけが、こちらへ追いついてくる。


「ア、マン……」


「喋るな。今、止める」


 アマンテルスはエルネシアの背へ手を当てた。


 〈宵闇の王権〉。


 呪いを影へ保存する、アマンテルス固有の力。


 母の身体へ侵入した黒い術式を、自分の影へ引きずり込む。


 激痛が走った。


 胸を内側から焼かれる。


 視界の端が黒く欠ける。


 それでもアマンテルスは止めなかった。


「全部、こっちへ来い」


 床に広がる影が、巨大な口のように開く。


 エルネシアの首筋から黒い筋が消え、代わりにアマンテルスの腕へ絡みつく。


「アマン、やめなさい」


「大丈夫だ」


「嘘です」


「このくらい、平気だから」


 平気ではない。


 呪いが多すぎる。


 一人分の暗殺術式ではない。


 人族と魔族の憎悪、和平を望まない者たちの恐怖、失敗した未来の残響まで、すべてが混ざっている。


 影の器が軋む。


 耳元で、ゲームの台詞が聞こえた。


『これは、わたくしの役目です』


『すべての呪いを抱いて消えるのが――』


 原作のアマンテルスが、同じ選択をしようとしている。


 母を救うため。


 国を守るため。


 誰にも頼らず、自分だけが消えればよいと。


「兄貴!」


 フィルブランテの声が響いた。


「来るな!」


 アマンテルスは反射的に怒鳴った。


「こいつは俺が持つ。お前は犯人を逃がすな!」


 給仕の男が、シリルの拘束から逃れようともがいている。


 教会助祭の袖から、証拠を燃やす白い火が上がった。


 魔力の糸の先にいた者も、騒ぎに紛れて逃げようとしている。


 今追えば、黒幕へ近づける。


 今捕らえなければ、証拠は消える。


 フィルブランテは一瞬、そちらを見た。


 アマンテルスは安心した。


 弟なら、合理的に判断する。


 証拠を優先する。


 自分が母を救う間、作戦を続けてくれる。


 だがフィルブランテは、犯人へ背を向けた。


「シリル!」


「はい!」


「給仕と助祭を生かしたまま拘束してください! カイラス卿、魔族側へ伸びる糸を追って! 殿下は広間の避難を!」


 三人へ役割を投げ、自分はアマンテルスのもとへ走る。


「来るなって言っただろ!」


「一人で死亡イベントへ近づかない。最初の約束だ!」


 フィルブランテは膝をつき、アマンテルスの呪いに侵された腕をつかんだ。


 焼けるような痛みが掌へ流れ込む。


 それでも離さない。


「その呪いを、僕へ寄越せ」


「馬鹿か。お前の身体じゃ持たない」


「全部とは言ってない。分けろ」


「無理だ!」


「やる前から決めるな!」


 フィルブランテは左手で儀礼扇〈アルブム〉を開いた。


 白銀の骨が展開し、二人とエルネシアを囲む氷晶の壁を作る。


「フィルブランテの力は記録と固定だ。呪いを消せなくても、形を変えずに凍らせることはできる」


「失敗したら、お前まで」


「成功させる。兄貴がいつも言ってただろ」


 フィルブランテは痛みで歪む顔に、無理やり笑みを作った。


「俺を誰だと思ってる、って」


「それ、俺の台詞だ」


「今日は貸せ」


 扇の先から霜が広がる。


 アマンテルスの腕へ絡んだ呪いが、一部だけ青白く凍りついた。


 黒い文字が、氷晶の中へ閉じ込められる。


 ――対象、エルネシア・ルヴィンイヴル。


 フィルブランテはその一節へ意識を集中した。


「対象の情報を固定する。結果へ進ませない」


「そんな使い方、設定にあったか?」


「ない。今考えた」


「お前も十分、行き当たりばったりだな!」


「誰の兄弟だと思ってる!」


 黒い呪いと青白い氷がぶつかる。


 影が暴れ、氷晶へ亀裂が走った。


 アマンテルスは歯を食いしばり、呪いを影の中へ引く力を弱める。


 一人で全部を抱え込むのではない。


 半分を、弟へ渡す。


 怖かった。


 自分が傷つくより、弟が傷つく方がずっと怖い。


 それでも、フィルブランテが選んだ。


 信じるしかない。


「三つ数える」


 アマンテルスが言う。


「一で俺が呪いを引き剥がす。二でお前が凍らせる。三で影箱へ落とす」


「分かった」


「失敗したら」


「その話は後」


「相変わらず冷たいな」


「氷属性だからな」


 二人は息を合わせた。


「一!」


 アマンテルスの影が、エルネシアの身体から呪いを引き抜く。


「二!」


 フィルブランテの氷が、術式の形を固定する。


「三!」


 床へ落ちた影が折り畳まれ、黒い箱となって閉じる。


 衝撃が大広間を走った。


 燭台の火が一斉に消え、水晶灯が砕ける。


 暗闇の中、氷晶だけが青白く輝いた。


 影箱の内側から、何かが爪を立てる。


 開けろ。


 結果を戻せ。


 定められた死を完成させろ。


 声ではない要求が、二人の頭へ流れ込む。


 フィルブランテは扇を握り直した。


「閉じろ、兄貴!」


「言われなくても!」


 黒い箱が、拳ほどの大きさまで縮む。


 最後に、白薔薇の花弁のような光が一枚だけ漏れた。


 アマンテルスが素手でつかみ、握り潰す。


 光が消えた。


 大広間に、静寂が落ちる。


 エルネシアの胸が上下した。


 一度。


 二度。


 浅いが、確かな呼吸。


 首筋の黒い痣も消えている。


「母上?」


 アマンテルスが呼びかける。


 エルネシアの瞼が震えた。


「……騒がしい、子たちですね」


 アマンテルスの顔が歪んだ。


 泣くのを堪えたのだと、フィルブランテには分かった。


「母上!」


「聞こえています。抱き締めるなら、もう少し力を緩めなさい」


「生きてる」


「そのようですね」


 アマンテルスは額を母の肩へ押し当てた。


 エルネシアは痛みに顔をしかめながらも、娘の黒髪をゆっくり撫でた。


 原作では、ここで死んでいた。


 アマンテルスの腕の中で冷たくなり、二度と目を開けなかった。


 その未来は、変わった。


 フィルブランテは安堵し、力を抜いた。


 途端に右腕へ鋭い痛みが走る。


 手袋の下で、黒い霜が手首まで広がっていた。


「フィルブランテ」


 アマンテルスが気づく。


「平気だ」


「見せろ」


「今は、他にやることがある」


「それ、俺の真似か?」


「悪い手本が身近にいたから」


 言い合っている場合ではない。


 広間の灯りが戻り始める。


 貴族たちは壁際へ避難し、近衛騎士が出入り口を封鎖していた。


 レオンハルトは混乱の中でも指示を飛ばし続けている。


「負傷者を確認せよ。銀製品には触れるな。魔術師を呼べ!」


 シリルは給仕の男を床へ押さえ込み、両手へ拘束具を掛けていた。


 教会助祭も、カイラスの雷鎖に縛られている。


「殿下!」


 別の近衛騎士が駆け込んできた。


「魔族側の控え室から、石角族の護衛が一名逃亡しました!」


「追跡を」


「すでにカイラス卿が追っております」


 取り逃がした者はいる。


 だが、二人は捕らえた。


 エルネシアも生きている。


 完全ではないが、勝利だ。


 フィルブランテはそう評価しようとした。


「これは、どういうことだ」


 低い声が響いた。


 レオンハルトが、凍りついた銀杯のそばに立っていた。


 その手には、砕けた木箱の蓋がある。


 杯を運んだ箱。


 蓋の内側には、青紫色の封蝋が付いていた。


 イデルバルディ公爵家の紋章。


 フィルブランテの血の気が引いた。


「その印は……」


「フィルブランテ。そなたの家のものだな」


「ええ。ですが、その箱は公爵家の管理品ではございません」


「厨房の食器目録には、公爵家から贈られた銀器と記載されています」


「偽造です」


 即答した。


 周囲の視線が、一斉にフィルブランテへ向く。


「では、なぜフィルブランテ様は、事前に杯へ氷の印を?」


 誰かが言った。


「暗殺をご存じだったのでは」


「ご存じだったから防いだのでしょう」


「それなら、なぜ公爵家の箱が使われている」


「魔族令嬢と密談していたという噂も」


「最初から、二人で仕組んだのではないか」


 囁きが広がる。


 最初は別々の声だった。


 やがて、同じ言葉を繰り返し始める。


 フィルブランテ。


 公爵家。


 暗殺。


 反逆。


 フィルブランテの頭に、氷の針を打ち込まれたような痛みが走った。


 強制イベントの残響。


 まだ二年も先のはずの断罪台が、視界へ重なる。


『フィルブランテ・アソート・イデルバルディ』


『そなたとの婚約を破棄し』


『王国に対するすべての罪を――』


「違う!」


 アマンテルスが立ち上がった。


 母をルーシェへ預け、フィルブランテの前へ出る。


「フィルブランテは私たちを助けた! あの印がなければ、母上は死んでいた!」


「しかし、魔侯令嬢」


 白い法衣を揺らし、大司教ザハルが進み出た。


 混乱の中でも、その衣には汚れ一つない。


「彼女が危険を事前に知っていた理由は、明らかにされなければなりません」


「情報源を明かせないだけよ」


「それでは、疑いは残ります」


 ザハルは悲しげにフィルブランテを見る。


「私はフィルブランテ様を信じたい。ですが、公爵家の紋章、彼女が施した魔術、魔族令嬢との秘密の接触。あまりにも多くの要素が重なっております」


 信じたいと言いながら、疑うための材料を一つずつ並べている。


 フィルブランテは痛む頭を押さえ、ザハルを見返した。


「確かに、わたくしは事件を予測していました」


 広間が静まる。


「フィル!」


 アマンテルスが止めようとする。


 フィルブランテは首を横へ振った。


 ここで否定すれば、後から事実が判明したとき、嘘まで罪へ加えられる。


「情報源は、今この場では申し上げられません。ですが、杯に施した氷晶は、触れた者と魔力の履歴を保存しております。わたくしが毒を入れたのなら、その記録も残っているはずです」


 フィルブランテは凍った杯へ手を向けた。


「調べてください。王宮魔術師でも、教会でも、魔族の術者でも構いません。ただし、必ず三者立ち会いのもとで」


 ザハルの目が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。


「証拠の魔術そのものを、あなたが施したのでしょう?」


「だからこそ、三者で検証するのです。わたくし一人の潔白を信じろとは申しません」


 フィルブランテはレオンハルトへ向き直る。


「殿下。銀杯、運搬箱、捕らえた二名、床へ残る魔力の糸を、王家の名で封印してくださいませ。いずれも一つの組織だけへ預けてはなりません」


 レオンハルトは黙って、フィルブランテを見つめていた。


 原作なら、ここで王太子は疑いを深める。


 自分の知らないところで動き、証拠を操作する婚約者へ、不信を抱く。


 その未来が頭をよぎる。


 それでもフィルブランテは、目を逸らさなかった。


 やがてレオンハルトが剣を抜く。


 切っ先を、床へ向けた。


「王太子レオンハルトの名において命じる。本件の証拠は王家、教会、魔侯領の三者で共同管理する。フィルブランテのものを含め、何人の証言も単独では採用しない」


 大司教が口を開く。


「殿下、しかし――」


「彼女が疑われるべきなら、正しい手順で疑われるべきです。功績も同じだ。フィルブランテとアマンテルス嬢が動かなければ、今夜、ルヴィンイヴル夫人は命を落としていた」


 レオンハルトはフィルブランテを見る。


「そなたの行動に、すべて納得したわけではない」


「承知しております」


「だから、これから説明してもらう」


「お話しできる範囲であれば」


「相変わらず、頑固だな」


「殿下ほどではございませんわ」


 レオンハルトの口元が、ごくわずかに緩んだ。


 断罪の幻が、一瞬だけ遠のく。


 完全に消えたわけではない。


 周囲の囁きも残っている。


 それでも、原作と同じ道ではない。


 一本だけ、別の道が生まれた。


     ◇


 騒ぎが収まったのは、夜半を過ぎてからだった。


 エルネシアは迎賓館の客室へ移され、魔族と人族、双方の治癒師による診察を受けた。体内に呪毒は残っておらず、数日の安静で回復するという。


 給仕の男と教会助祭は、別々の牢へ収容された。


 魔族側の協力者は逃亡。


 カイラスが追跡したものの、旧水路の入り口で魔力の糸を切られた。


 そして、暗殺に使われた箱には、イデルバルディ家の印が残った。


 成功と失敗が、同じ数だけ並んでいる。


 アマンテルスとフィルブランテは、人目を避けて迎賓館北棟の小さな薬草園へ出た。


 夜露に濡れた葉が、月光を反射している。


「腕を見せろ」


 アマンテルスが言った。


「その前に、兄貴の方だ」


「俺は平気」


「だったら先に見せられるだろ」


「お前、性格悪くなったな」


「フィルブランテの影響かもな」


 フィルブランテはため息をつき、右手の手袋を外した。


 手首から肘へ、黒い霜のような模様が残っている。


 凍らせた呪いの一部が、完全には抜けていない。


 アマンテルスの顔が険しくなる。


「痛むか」


「少し。動かせる」


「少しじゃ分からない。数字で言え」


「兄貴がそれを言うのか」


「今は俺が聞いてる」


「十段階で三。魔力を使うと五」


「治癒師に見せろ」


「説明できない」


「暗殺を予知した理由よりは簡単だろ」


「兄貴の腕も見せろ」


 アマンテルスは渋々、長い手袋を外した。


 白い腕へ、黒い文字が何重にも巻きついている。


 フィルブランテよりひどい。


「十段階で?」


「二」


「嘘をつくな」


「四」


「まだ嘘だ」


「六」


「治癒師に見せろ」


「説明できない」


「僕の台詞を使うな」


 二人は顔を見合わせた。


 同時にため息をつく。


「一応、勝ったんだよな」


 アマンテルスが薬草園の長椅子へ座った。


「エルネシア夫人は生きてる」


「母上でいい。お前も、もう他人じゃないだろ」


 フィルブランテは隣へ腰を下ろした。


 胸の奥へ、見知らぬ温かさが広がる。


 フィルブランテには母がいない。


 だからエルネシアがアマンテルスの髪を撫でる姿を見たとき、羨ましいと思った。


 それがこの身体の感情なのか、転生者としての自分のものなのかは分からない。


「……母上は生きてる。犯人も二人捕まえた。だから、目的の半分以上は達成した」


「でも、お前に疑いが向いた」


「予想外ではあるけど、対処できる。氷晶に記録が残ってる」


「消されたら?」


「複製する」


「どうやって」


「これから考える」


「行き当たりばったりじゃねえか」


「兄貴の悪影響だ」


 アマンテルスは笑った。


 しかし、すぐに真顔へ戻る。


「杯を止めたのに、呪いは母上へ届いた」


「ああ」


「犯人の仕掛けた予備術式か?」


「その可能性はある。でも、〈晶析眼〉で読めたのは、対象と結果だけだった。経路を指定していない呪いなんて、普通は成立しないはずだ」


「普通じゃないなら?」


 フィルブランテは自分の腕に残る黒い霜を見た。


 頭の奥で、断罪台の声がまだ響いている。


「運命の修正力」


 口に出すと、夜風が冷たくなった気がした。


「原作の重大事件を変えると、別の方法で同じ結果へ戻そうとする。僕たちが杯を止めたから、呪いが別の経路を選んだ」


「ゲームが、筋書き通りにしようとしてるってことか」


「ゲームそのものに意思があるとは限らない。この世界の魔法か、長年積み重なった恐怖か、もっと別の何かかもしれない」


「どっちでも同じだ」


 アマンテルスは夜空を見上げた。


「向こうが結果を変えたくないなら、結果ごとぶち壊す」


「簡単に言うな。今回は二人とも呪いを受けた」


「でも壊せた」


「ぎりぎりだ」


「二人なら、だろ」


 フィルブランテは兄を見た。


 無謀な笑い方だった。


 けれど、以前とは少し違う。


 一人でやる、とは言わなかった。


「次からは、もっと事前に退路を作る」


「はいはい、予定表」


「記録も残す。修正力がどんな条件で動くか比較する」


「実験かよ」


「命懸けのな」


「趣味悪いな」


「このゲームをタイムアタックしていた兄貴にだけは言われたくない」


 また、二人の声が重なった。


 静かな薬草園に、かすかな笑いが落ちる。


 そのとき、北棟の窓が開いた。


「お二人とも」


 ミレーヌが、無表情で立っていた。


「負傷を隠して夜風に当たるのは、どちらの国の治療法でございましょうか」


 アマンテルスとフィルブランテが同時に姿勢を正す。


「これは、その」


「外交上の意見交換ですわ」


「腕を出しなさいませ」


「ミレーヌ、わたくしは」


「両腕です」


 拒否を許さない声だった。


 アマンテルスが小声で尋ねる。


「お前の侍女、怖くない?」


「優秀なんだ」


「聞こえております」


 二人は黙って、黒い痕の残る腕を差し出した。


     ◇


 同じ夜。


 王城地下の小礼拝堂で、大司教ザハルは一人、祈りを捧げていた。


 祭壇の上には、黒く変色した白薔薇が置かれている。


 本来なら、エルネシアの死と同時に灰となるはずの追跡具。


 花は燃えず、ただ二つに裂けていた。


 片方の花弁は黒い影に染まり、もう片方は青白い氷へ覆われている。


「結果を分けたのですか」


 ザハルは薔薇へ指を伸ばした。


 影が指先へ噛みつこうとし、氷がその動きを固定する。


 二つの力は反発せず、互いの欠点を補っていた。


 あり得ない組み合わせだった。


 原作など知らないザハルにとっても、フィルブランテとアマンテルスは敵対するはずの存在である。


 王国の氷と、魔族領の闇。


 王太子妃候補と、戦争の火種。


 二人が手を結ぶ理由などない。


「役を外れた者が、二人」


 背後の暗がりから、黒衣の人物が問いかける。


「失敗を、どう処理なさいますか」


「失敗ではありません」


 ザハルは穏やかに答えた。


「エルネシアは生き延びました。しかし人々は、代わりにフィルブランテを疑い始めた」


「魔族令嬢も、予定より早く呪いを取り込んだ」


「運命は賢明です。塞がれた道に執着せず、別の道を選ぶ」


 大司教は二つに裂けた薔薇を見下ろした。


「けれど、あの二人は危険ですね」


「排除を?」


「いいえ」


 慈愛深い微笑みが、暗い礼拝堂へ浮かぶ。


「役を拒む者には、よりふさわしい舞台を用意しましょう」


 ザハルが指を鳴らす。


 祭壇の下から、一冊の教本が現れた。


 王立ルクシア学院で、新入生へ配られる聖花学の教本。


 表紙には、まだ学院へ入学していない少女の名が書かれている。


 リゼット・アーヴェイン。


「次は、悪役令嬢らしく振る舞っていただきます」


 礼拝堂の蝋燭が、一斉に消えた。


 暗闇の中、破られた教本の紙片だけが、白い花弁のように舞っていた。

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