第二話 白い傘と黒い傘
フィルブランテ・アソート・イデルバルディとして目を覚ましてから、三日が過ぎた。
その三日間でフィルブランテが学んだことは、大きく分けて三つある。
一つ。公爵令嬢の朝は、会社員だった頃より早い。
二つ。礼服というものは、立っているだけで体力を削る。
そして三つ。
「お嬢様。先ほどから招待者名簿の同じ箇所をご覧になっておりますが、何か不備でもございましたか?」
「いいえ。念のため確認しているだけですわ」
三つ目は、完璧な公爵令嬢に隠し事をするのは、タイムアタックより難しいということだった。
向かいの座席に腰掛ける侍女長ミレーヌは、わずかに目を細めた。
豪奢な箱馬車の中には、車輪の音と紙の擦れる音だけが響いている。窓の外には、王都の白い街並みが流れていた。春の陽光を受けた尖塔、花で飾られた街路、遠くにそびえる王城。画面の背景として何度も見た風景が、今は窓一枚を隔てた現実として存在している。
フィルブランテの手元には、本日の〈白薔薇の園遊会〉へ招待された者たちの名簿があった。
王太子レオンハルト・ヴァン・セレディア。
近衛騎士団長子息シリル・グランツ。
宮廷魔導院長の養子ノエル・エルミナージュ。
聖花教会大司教ザハル・クローディス。
そして、魔族使節団。
アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。
名簿のその一行だけ、もう十回以上読んでいる。
もし同着が原因で自分が転生したのなら、アマンテルスも同じ目に遭っている可能性がある。
だが、確証はない。
この三日間、フィルブランテは公爵家の情報網を使い、表向きは園遊会の準備という名目で魔族使節団について調べた。しかし、届いた報告は原作で知っている内容ばかりだった。
アマンテルスは魔侯家の長女。
闇と影を操る若き実力者。
人族との和平には消極的で、気位が高く、敵対者には容赦がない。
どこにも「中身は徹夜明けの二十四歳男性です」とは書かれていない。
「お嬢様」
ミレーヌの声が、少し低くなる。
「本当に、お加減はよろしいのですね?」
「ええ。問題ありませんわ」
「三日前から食事の量を数値で記録なさり、屋敷内の避難経路を確認し、すべての郵便物の差出人を調べていらっしゃいます」
「慎重であることは、公爵令嬢の美徳でしょう?」
「昨日は、浴室の窓から脱出できるかお尋ねになりました」
「……危機管理ですわ」
「その後、窓枠の寸法まで測らせました」
「徹底した危機管理です」
ミレーヌは納得していない顔だった。
フィルブランテ自身、さすがにやり過ぎた自覚はある。だが、この世界にはセーブもロードもない。自室で転んで頭を打つだけでも、人生が終わる可能性があるのだ。
まして自分は、何もしなくても二年後には断罪される悪役令嬢である。
慎重すぎるくらいで、ようやく生存率が五分に届く。
「それよりミレーヌ。魔族使節団の到着経路に変更は?」
「ございません。東門から王都へ入り、迎賓館で一夜を過ごした後、本日の園遊会へ出席すると伺っております」
「同行者は?」
「エルネシア・ルヴィンイヴル夫人、カイラス・ヴェイル・ノクサル卿、侍従および護衛が十二名。魔侯ご本人は領地に残られたとのことです」
エルネシア。
その名に、フィルブランテは招待者名簿から顔を上げた。
アマンテルスの母。
原作では、魔族使節団の歓迎晩餐会で暗殺される人物だ。
日付は明日。
犯行には人族製の聖具が使われ、その死は和平交渉を崩壊させる。アマンテルスが復讐へ傾く、最初にして最大の分岐点。
フィルブランテが攻略した王太子ルートでは、事件は「魔族側の内部抗争」として簡単に処理されていた。真相ルートで人族側の協力者がいたことは判明するが、具体的な手口は別ルートの情報だった。
彼女があのアマンテルスなら、放っておくはずがない。
逆に本人であったとしても、母親が死ぬ未来を知っているはずはない。
どちらにせよ、接触する必要がある。
「間もなく到着いたします」
御者の声がした。
フィルブランテは名簿を閉じ、息を整えた。
考えるのは得意だ。
だが、今日ばかりは胸の鼓動が計算通りにならなかった。
◇
王城東庭園は、白い薔薇で埋め尽くされていた。
噴水を中心に幾何学的な花壇が広がり、淡い色の礼服をまとった貴族たちが、音楽と紅茶を楽しんでいる。庭園の外周には近衛騎士が立ち、さらにその向こうでは、魔族使節団を警戒する教会騎士が目を光らせていた。
白薔薇の園遊会。
表向きは魔族使節団を歓迎する友好行事だが、実際には互いを値踏みする政治の場である。
「フィルブランテ」
名を呼ばれ、フィルブランテは反射的に振り返った。
金の髪、蒼い瞳、白と青を基調とした王族の礼装。
王太子レオンハルトが、従者を伴って歩み寄ってくる。その隣には、赤褐色の髪を短く整えた青年がいた。護衛役のシリル・グランツである。
画面越しなら見慣れた攻略対象だ。
だが実物は、立ち絵よりも背が高く、視線や呼吸に人間らしい揺らぎがあった。
何より、レオンハルトは自分の婚約者である。
その事実を思い出した瞬間、フィルブランテの背筋を嫌な汗が伝った。
「お待ちしておりました、殿下」
身体が勝手に裾をさばき、完璧な礼を取る。
フィルブランテが十年以上かけて身につけた所作だ。
「そう固くならなくてもよい。今日は公式の会議ではないのだから」
「友好を示す園遊会だからこそ、王家の威信に関わりましょう」
口も勝手に正解を選んだ。
レオンハルトがわずかに苦笑する。
この表情を、フィルブランテは知っている。
原作の序盤、完璧な婚約者へ息苦しさを覚え始めた王太子が見せる顔だ。
ゲームでは、その隙間へリゼットの飾らない笑顔が入り込む。
フィルブランテは焦り、リゼットを排除しようとし、ますますレオンハルトの心が離れていく。
破滅の始まりである。
フィルブランテは反射的に頭の中で選択肢を探した。
相手を褒める。
園遊会の話題を出す。
体調を気遣う。
そこで、自分にはもう画面も選択肢もないのだと思い出す。
「殿下」
「何だろう」
「本日は、わたくしをお構いなく。お役目を優先なさってくださいませ」
レオンハルトが目を瞬いた。
「……珍しいことを言う」
「魔族使節団を迎える主役は殿下です。わたくしが隣を離れない方が、かえって不自然でしょう」
「それは、そうかもしれないが」
「それに、わたくしも個人的に確かめたいことがございます」
「確かめたいこと?」
尋ねられ、フィルブランテは微笑んだ。
フィルブランテの顔で微笑むと、自分では普通のつもりでも、何かを企んでいるように見えるらしい。シリルの手が、ほんの少しだけ腰の剣へ近づいた。
「外交上の相性ですわ」
嘘ではない。
兄弟の相性なら、生まれてから二十一年間かけて確かめてきた。
問題は、その兄が本当に来ているかどうかだ。
庭園の入り口で、長い杖が石床を打った。
ざわめきが止まる。
「ルヴィンイヴル魔侯領使節団、ご到着――」
侍従の声が、白薔薇の庭園へ響き渡った。
空気が変わった。
最初に入ってきたのは、白銀の髪を夜色のヴェールで覆った女性だった。
エルネシア・ルヴィンイヴル。
アマンテルスの母であり、魔族領でも名高い歌唱魔術師。穏やかな微笑みを浮かべているが、彼女が一歩進むごとに、周囲の音が澄んでいくような不思議な圧があった。
その斜め後ろに、金色の瞳を持つ魔族の青年、カイラスが続く。
そして最後に。
黒い日傘が、白い庭園へ現れた。
濡羽色の長髪。
赤紫の瞳。
額の両側に沿う、黒曜石の角。
黒と紫の礼装をまとった魔族令嬢は、恐ろしいほど美しかった。
誰もが息を呑み、道を開ける。
アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。
フィルブランテの心臓が跳ねた。
アマンテルスが、こちらを見る。
赤紫の目が大きく見開かれた。
ほんの一瞬だけだった。
次の瞬間には、彼女は原作通りの冷ややかな表情を取り戻している。
だがフィルブランテは見逃さなかった。
こちらの顔を見た直後、アマンテルスは明らかに「うわ」と口を動かした。
完璧な魔族令嬢が、初対面の公爵令嬢へ向ける反応ではない。
フィルブランテの中で、確率が一気に跳ね上がる。
アマンテルスの視線が、フィルブランテの白い日傘へ落ちた。
それから彼女は、わずかに口の端を上げた。
その笑い方を、フィルブランテは知っている。
ろくでもないことを思いついたときの、兄の笑い方だった。
「まさか……」
「フィルブランテ?」
レオンハルトに呼ばれ、フィルブランテは慌てて表情を整えた。
「失礼いたしました。魔族の礼装が、思いのほか見事でしたので」
「そなたが他人の衣装を褒めるとは、本当に珍しいな」
余計なところで原作との差分を指摘しないでほしい。
使節団が王太子の前へ進み、エルネシアが優雅に礼を取った。
「セレディア王太子殿下。このたびのご招待、心より感謝申し上げます」
「遠路をよくお越しくださいました、ルヴィンイヴル夫人。両国にとって、今日が新しい一歩となることを願います」
定型の挨拶が交わされる。
カイラスは柔らかな微笑みを浮かべながら周囲を観察し、アマンテルスは退屈そうに庭園を見回していた。
その演技は完璧だった。
ただし、視線だけが何度もフィルブランテの方へ飛んでくる。
兄だ。
たぶん。
いや、ほぼ間違いなく。
だが、公衆の面前で「兄貴か」と確認するわけにはいかない。
下手をすれば転生者だと疑われる以前に、頭がおかしくなったと思われる。
接触する口実が必要だった。
フィルブランテが方法を考えていると、アマンテルスが先に動いた。
彼女はエルネシアの後ろから一歩進み、赤紫の瞳をフィルブランテへ向ける。
「そちらが、セレディア王国に名高い〈白氷の薔薇〉でいらっしゃいますの?」
周囲の貴族たちがざわめいた。
声は甘いのに、明らかに挑発の響きがある。
原作通りのアマンテルスなら、フィルブランテとは最初の顔合わせから険悪だった。ここで親しげにすれば、かえって周囲の疑いを招く。
フィルブランテは白い日傘をわずかに傾けた。
「ええ。あなたが〈宵闇の魔女〉と呼ばれる、アマンテルス様ですのね。噂ほど恐ろしい方には見えませんけれど」
「まあ。人族は、見た目で敵の強さを測るのですか?」
「魔族の方は、噂で友人を選ぶのかしら」
庭園の空気が張り詰める。
レオンハルトが何か言おうとしたが、その前にエルネシアが小さく笑った。
「アマン。せっかくですもの。公爵令嬢に庭園をご案内いただいては?」
兄らしいアマンテルスの眉が動いた。
フィルブランテは心の中で、エルネシアへ深く感謝した。
「わたくしが、ですか?」
「同年代のご令嬢同士、きっと学ぶことも多いでしょう」
どう見ても、娘が初手から外交問題を起こさないよう隔離しようとしている。
レオンハルトも同じ判断をしたらしい。
「フィルブランテ。頼めるだろうか」
「殿下のご命令でしたら」
「命令ではなく、お願いだ」
「では、喜んで」
フィルブランテはアマンテルスへ向き直り、完璧な微笑みを作った。
「こちらへどうぞ。魔侯令嬢」
「ええ。王国自慢の薔薇が、わたくしの肌に合えばよいのですけれど」
アマンテルスが差し出された手を取る。
細い指が触れた瞬間、フィルブランテは確信した。
兄の手とは形も温度も違う。
それなのに握り方が、子どもの頃から何も変わっていなかった。
◇
二人は従者を伴い、庭園の奥へ進んだ。
白薔薇の生け垣が迷路のように続き、中心から離れるにつれて音楽と人声が遠くなる。
フィルブランテの後ろにはミレーヌ。
アマンテルスの後ろにはルーシェ。
さらに少し離れて、両家の護衛が二名ずつ。
このままでは、二人きりで話せない。
「魔侯令嬢は、随分と珍しい日傘をお持ちですのね」
フィルブランテが話題を振ると、アマンテルスが黒い傘を肩へ載せ直した。
「ルヴィンイヴルでは一般的なものですわ。公爵令嬢の傘は、骨が一本傷んでいるようですけれど」
「よくご覧になっているのね」
「人族の品は、少々壊れやすく見えますから」
透だ。
遠回しに「大丈夫か」と聞いている。
フィルブランテが言い返そうとしたとき、アマンテルスは生け垣の向こうへ視線を投げた。
「あら。今、黒角兎が」
「どちらです?」
反応したのはルーシェだった。
「生け垣の向こうへ逃げましたわ。母上がご覧になりたがっていました。探してきてくださらない?」
「お任せください!」
桃色の髪の侍女は、翼を震わせて生け垣の角を曲がった。
アマンテルスは次に、護衛の一人へ扇を向ける。
「あなたも手伝って。黒角兎は人族を怖がるでしょうから、魔族だけで囲むのです」
命じられた魔族の護衛が続く。
フィルブランテは呆れた。
ゲーム内でも、アマンテルスは存在しない魔物を口実に従者を遠ざけていた。兄はその場面を覚えていたらしい。
ならば自分も合わせるべきだ。
「ミレーヌ」
「はい、お嬢様」
「わたくしたちは、あちらの月影薔薇を拝見します。ここでお待ちなさい」
「しかし」
「魔族の令嬢と二人で話す度胸もないと思われては、イデルバルディ家の名に関わります」
ミレーヌは止めようとしたが、フィルブランテの表情を見て言葉を呑んだ。
「……承知いたしました。お呼びになれば、すぐに参ります」
「ええ」
残る護衛にも距離を取らせ、二人は生け垣に囲まれた小さな東屋へ入った。
白い石柱と、蔓薔薇に覆われた屋根。
外から内部は見えにくい。
アマンテルスが指を鳴らすと、二人の影が薄く広がり、東屋の床を覆った。
「これで小声なら聞かれない。たぶん」
令嬢口調が、一瞬で消えた。
フィルブランテの胸が詰まる。
声は違う。
顔も違う。
それでも、間違えるはずがなかった。
フィルブランテは念のため、白い日傘を閉じた。
「傘は一本、帰り道は?」
アマンテルスが目を見開く。
次いで、赤紫の瞳が泣きそうに細められた。
「二人分」
息を吐くような答えだった。
「兄貴!」
「輝!」
次の瞬間、二人は同時に動いた。
フィルブランテは兄の肩をつかもうとして、思ったより細い身体を引き寄せてしまう。アマンテルスも弟の頭を乱暴に撫でようとして、複雑に結い上げられた金髪へ指を引っかけた。
「痛っ!」
「悪い! 髪、どうなってんだこれ!?」
「触るな、三人がかりで結ったんだぞ!」
「三人!? お前、朝から何してんだよ!」
「公爵令嬢してるんだよ! 兄貴こそ、その角、本物か?」
「引っ張るな。たぶん神経通ってる!」
二人は慌てて離れた。
向き合う。
白氷の薔薇と呼ばれる公爵令嬢。
宵闇の魔女と恐れられる魔族令嬢。
どちらも、元の兄弟の面影など欠片もない。
数秒の沈黙の後、アマンテルスが吹き出した。
「お前、その顔で兄貴って呼ぶの、すげえな」
「兄貴こそ、その見た目で口を開くと全部台無しだ」
「何だと」
「美人なのに中身が兄貴」
「お前だって悪役令嬢の顔で浴室の窓を測ってそうだぞ」
フィルブランテは固まった。
「……なぜ分かった」
「測ったのかよ」
二人の笑い声が重なった。
笑っている場合ではない。
分かっているのに、止められなかった。
三日前、自分しかいないと思った異世界で、初めて呼吸ができたような気がした。
アマンテルスが目尻を指で拭う。
「よかった」
その一言だけは、笑っていなかった。
「お前も来てて」
フィルブランテは答える代わりに、兄の腕を軽く叩いた。
「僕はよくない。よりによって全ルート破滅の悪役令嬢だぞ」
「こっちは全ルート討伐対象だ。似た者同士だな」
「張り合うところじゃない」
「勝敗ついてないからな」
「まだ続ける気か?」
「どっちが先に死亡フラグを全部折るか」
フィルブランテはため息をつき、すぐに真顔へ戻った。
「その話だ。エルネシア夫人の暗殺イベントは覚えてるか」
アマンテルスの表情から笑みが消えた。
「ああ。明日の歓迎晩餐会だ」
「やっぱり日付は同じか。具体的な手口は?」
「銀色の杯に仕込まれた呪毒。人族の聖具を砕いて混ぜるから、死体から光属性の痕跡が出る。それで魔族側が人族の暗殺だと判断する」
「どの杯だ?」
「母上の席に置かれるやつ」
「そうじゃない。いつ、誰が、どこで入れ替える?」
「そこはムービー飛ばした」
「兄貴!」
「お前は知らないのかよ」
「王太子ルートでは晩餐会の翌朝から始まるんだ。事件現場は文章で説明されるだけだ」
「使えねえな」
「必須アイテムを売った人に言われたくない」
険悪な視線がぶつかる。
すぐに二人とも黙り、同時に息を吐いた。
現代なら、分からないイベントは攻略情報を検索すれば済んだ。
今は違う。
失敗すれば、人が死ぬ。
しかもその人は、もう画面の中の登場人物ではない。
「母上に会った」
アマンテルスが低く言った。
「三日前の朝、二人で飯を食った。俺が嫌いだった木の実を、何も言わず自分の皿に移してくれた」
赤紫の瞳が伏せられる。
「アマンテルスが小さい頃から、ずっとそうしてたらしい。記憶がある。声も、手の温度も。あの人は生きてる。俺を見て笑った。だから、イベントだからって死なせるのは無理だ」
フィルブランテは兄の顔を見つめた。
アマンテルスは昔から、自分のことより他人の危険へ先に飛び込む。
この三日間で、アマンテルスの感情まで受け継いだのなら、なおさら止まらないだろう。
「分かってる。ただし、一人で何とかしようとするな」
「してない。だからお前を探した」
「黒角兎なんて雑な嘘で?」
「ルーシェは信じただろ」
「あの子が素直なだけだ」
フィルブランテは閉じた白い日傘の先で、石床へ簡単な図を描いた。
「晩餐会の主催は王家。食器と料理は、迎賓館の使用人だけでなく、王宮礼典局と教会の検分を通る。フィルブランテは王太子の婚約者だから、僕も準主催者として口を出せる」
「杯を全部交換するか?」
「駄目だ。事件を防ぐだけなら簡単だけど、運命の修正力が本当にあるなら、別の料理か別の場所で狙われる」
「じゃあ、わざと杯を残す」
「そう。相手には計画通りだと思わせる。兄貴はエルネシア夫人の影に印を置いて、異常があればすぐ呪いを隔離する」
「できると思う。まだこの身体の魔法に慣れてないけどな」
「僕は食器の搬入記録を押さえる。フィルブランテの〈晶析眼〉なら、入れ替えられた杯の魔力履歴も読めるかもしれない」
「使えるのか?」
「まだ、水差しを凍らせた実績しかない」
「使えねえな」
「兄貴よりは計画的だ」
アマンテルスは顎へ手を当てた。
「犯人を捕まえるだけじゃ駄目だな。人族だけ捕まえたら、魔族側の協力者が消える。逆も同じだ」
「珍しく正しい。可能なら、呪毒を仕込む瞬間まで泳がせる。両側の実行役をつなぐ証拠が必要だ」
「母上を囮にするのか」
影が揺れた。
兄の声に、アマンテルスの怒りが混じる。
東屋の床を覆っていた闇が、棘のように立ち上がった。
フィルブランテは逃げずに、アマンテルスの赤紫の目を見返す。
「違う。囮にされる未来を、こちらが監視下へ置く。直前に本人へも説明する」
「反対されたら?」
「中止する。本人の意思を無視して進める作戦は、助けるとは言わない」
アマンテルスは黙った。
床の影が、少しずつ静まる。
「……分かった」
「本当に?」
「お前の案で行く。ただし、危ないと思ったら証拠は捨てて母上を助ける」
「当然だ」
二人は頷いた。
その瞬間、東屋の外から足音が聞こえた。
「アマンテルス様?」
カイラスの声だった。
アマンテルスが小さく舌打ちする。
「もう来たのか。あいつ、昔から勘が鋭い」
「兄貴の知り合いみたいに言うな」
「アマンテルスの記憶だと、幼なじみなんだよ。転んだ回数まで覚えてる」
「魂の重なりか」
「たぶんな」
足音はもう近い。
別の方向からは、シリルの声もした。
「フィルブランテ様、ご無事ですか」
「どうする?」
「どうするも何も、二人きりで仲良く密談していたと思われたら、原作との差が大きすぎる」
「じゃあ喧嘩するか」
「兄貴、楽しんでるだろ」
アマンテルスは令嬢らしい笑みを浮かべ、黒い日傘を開いた。
「まさか」
声が一瞬で、甘く冷たいものへ変わる。
フィルブランテも白い日傘を開き、二人は東屋から出た。
カイラスとシリルが、生け垣の両側からほぼ同時に姿を現す。
「ご心配には及びませんわ、シリル」
フィルブランテは、令嬢らしい微笑みを作った。
「魔侯令嬢と、少々意見を交わしていただけです」
「意見、ですか」
シリルの視線が、二人の間を往復する。
アマンテルスが肩をすくめた。
「公爵令嬢から、人族の流儀をご教授いただきましたの。実に興味深い時間でしたわ」
「それは何よりです」
カイラスは微笑んでいる。
だが金色の瞳は、東屋の床に残る影の魔力を見逃していなかった。
「フィルブランテ様とは、気が合いそうですか?」
「まさか」
アマンテルスとフィルブランテの声が重なった。
二人は一瞬だけ顔を見合わせる。
まずい。
息が合いすぎた。
フィルブランテは扇を開き、口元を隠した。
「わたくしたちが理解し合うには、少々時間が必要ですわ」
「ええ。人族の令嬢は、何でも予定通りに進めたがるようですから」
「魔族の令嬢は、行き当たりばったりを勇敢さと呼ぶようですものね」
「予定表で呪いが倒せるなら、苦労はしませんわ」
「少なくとも、必須の護符を売るよりは賢明でしょう」
アマンテルスのこめかみが動いた。
「それは今、関係ないでしょう?」
「大いに関係があります」
「お二人とも」
カイラスが間へ入った。
「何のお話でしょうか」
「例え話ですわ」
二人はまた同時に答えた。
シリルの目が細くなる。
フィルブランテは咳払いをした。
「ともかく。魔侯令嬢」
白い日傘を傾け、黒い日傘の縁へ軽く触れさせる。
「あなたが王国へ害をなさる方かどうか、わたくしはこの目で確かめます」
表向きは宣戦布告。
内実は、明日の作戦に協力するという確認だった。
アマンテルスも意味を理解した。
「望むところですわ、公爵令嬢」
黒い傘が、白い傘を押し返す。
「あなたこそ、わたくしたち魔族の敵ではないと証明なさいませ」
周囲で見守っていた貴族たちが息を呑んだ。
翌日には、〈白氷の薔薇と宵闇の魔女が園遊会で宣戦布告〉という噂が王都を駆け巡ることになる。
当人たちにとっては、人生で何度目かも分からない兄弟同盟の成立だった。
◇
庭園の中央へ戻る途中、アマンテルスは黒い日傘の下で小声を落とした。
「今夜、迎賓館の北側の窓を開けておく」
隣を歩くフィルブランテは、前を向いたまま答える。
「公爵家の紋章が入った手紙は使えない。図書館の貸出票に見せかけて、明日の配置図を送る」
「どうやって?」
「ミレーヌに頼む」
「信用できるのか」
「少なくとも、原作ではフィルブランテのために命を捨てた」
「それを信用って呼んでいいのか?」
アマンテルスの問いに、フィルブランテは答えられなかった。
ゲームでは忠誠心の証明になる。
だが今は、ミレーヌも生きている人間だ。死ぬと知っているから利用するのでは、原作と何も変わらない。
「……命は懸けさせない。事情も、話せる範囲で話す」
「ならいい」
「兄貴こそ、ルーシェを黒角兎で釣るな」
「あいつ、楽しそうだったぞ」
「そういう問題じゃない」
二人が小声で言い合っていると、突然、甘い香りが風に乗った。
白薔薇の香りではない。
もっと冷たく、金属に似た匂い。
アマンテルスが足を止めた。
「兄貴?」
「静かに」
赤紫の瞳が細くなる。
黒い日傘の下から伸びた影が、地面を薄く這った。
影は庭園の中央を横切り、茶会用の卓へ近づく。
そこではエルネシアが、レオンハルトや大司教ザハルと穏やかに言葉を交わしていた。
ザハルは白い法衣をまとい、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「魔族領の歌唱魔術については、私も以前から深い関心を抱いておりました」
「まあ。いつか教会の聖歌もお聞かせいただきたいものです」
「喜んで。光と闇が、正しい秩序のもとで響き合う日を願っております」
大司教が一輪の白薔薇を取り、エルネシアへ差し出す。
アマンテルスの影が、その薔薇へ触れた。
黒い花弁が一枚だけ、幻のように浮かび上がる。
すぐに消えた。
「今の、見えたか」
「ああ」
フィルブランテにも見えた。
白い薔薇の芯に、細い黒線が走っていた。
「呪いか?」
「違う。目印だ。魔族の魔力に反応する追跡印」
「誰が付けた」
アマンテルスは答えず、大司教を見つめた。
ザハル・クローディス。
原作の真相ルートで正体を現す、虚無教団の指導者。
ゲーム開始前の今から、すでに動いている。
ザハルがふと顔を上げた。
遠く離れているはずなのに、その視線は迷わずフィルブランテとアマンテルスを捉えた。
慈愛深い微笑みが、ほんの少し深くなる。
「気づかれたか?」
「分からない。見るな」
二人は会話をやめ、互いに敵対する令嬢の顔へ戻った。
エルネシアは何も知らず、白薔薇を受け取る。
アマンテルスの指が、日傘の柄を強く握った。
「今日のうちに、あの印を調べる」
「一人で行くな」
「分かってる」
「本当に分かってる顔じゃない」
「うるさいな。お前も処刑されそうな顔してるぞ」
「元からだ」
一瞬、どちらからともなく笑いそうになった。
しかし今度は、笑わなかった。
敵は二年後に現れるのではない。
もう目の前にいる。
しかも相手は、自分たちが未来を知っていることなど知らないはずなのに、最初の一手を打ち終えている。
フィルブランテは白い日傘をわずかに傾けた。
アマンテルスの黒い日傘が、その影へ重なる。
「作戦名を決める」
「必要か?」
「記録するとき不便だ」
「じゃあ、同着同盟」
「却下。格好悪い」
「全ルート死亡回避隊」
「もっと却下」
「注文が多いな、公爵令嬢」
フィルブランテは重なった二本の傘を見る。
白と黒。
本来なら、決して同じ場所に並ばない二人の令嬢。
「〈双傘同盟〉」
アマンテルスも傘を見上げた。
「まあ、悪くない」
「決まりだ。最初の目標は、明日の晩餐会でエルネシア夫人を生存させること」
「犯人も捕まえる」
「最優先は生存。証拠は二番目」
「分かってるよ」
アマンテルスは前を向いた。
白薔薇を手にした母が、こちらへ微笑んでいる。
その隣で、大司教もまた笑っていた。
「今度こそ、最速で助ける」
「違う、兄貴」
フィルブランテは静かに言い直した。
「最速じゃない。二人で、確実にだ」
アマンテルスは少しだけ目を見開き、それから笑った。
「ああ。そうだったな」
園遊会の鐘が鳴る。
原作では敵同士だった白と黒の令嬢は、互いを睨むふりをしながら、同じ敵へ視線を向けた。
歓迎晩餐会まで、残り二十六時間。
唐傘兄弟の最初の死亡フラグ攻略が、始まった。




