第一話 同着の先は、死亡ルート
画面の隅で、赤い数字が一秒ずつ削れていた。
残り三分十二秒。
「兄貴、そこで右に行ったら聖堂騎士に捕まるぞ」
「古い情報だな、輝。好感度が七十二以上なら見逃される」
「それ、昼の会話イベントを踏んだ場合だけ。兄貴は食堂の壁抜けで飛ばしただろ」
「……マジ?」
唐傘透がコントローラーを握ったまま横を見ると、隣の机に座る弟、輝は画面から一度も目を離さず、眼鏡の位置だけを直した。
二人の間には、空になった栄養飲料の瓶と、開封されたまま忘れ去られた菓子袋が積み上がっている。カーテンの隙間から差し込む朝日は、徹夜明けの兄弟にはまぶしすぎた。
だが、今さら止まるという選択肢はない。
二人が挑んでいるのは、乙女ゲーム『聖花の乙女と銀月の誓い』、通称『せいぎん』の真相ルート・タイムアタック。
聖なる力に目覚めた少女リゼットが王立学院へ入学し、王太子や騎士、魔術師たちと絆を深めながら、魔族との戦争を阻止する物語だ。華やかな恋愛ゲームに見えて、周回後に開放される真相ルートは、政治陰謀、連続暗殺、国境紛争、古代魔法の解読が詰め込まれた高難度仕様である。
透は隠し攻略対象である魔族の留学生、カイラスのルート。
輝は王太子レオンハルトのルート。
開始した時刻は同じ。休憩も同じ。先にエンディング画面へ到達した方が勝ちという、休日を台無しにするには十分すぎる兄弟対決だった。
「うおっ、本当に騎士が来た」
「だから言っただろ。裏庭へ逃げて、二つ目の像の前で闇の護符を使え」
「持ってない」
「は?」
「換金した」
「真相ルートの必須アイテムを売るな!」
「三章の短縮に必要だったんだよ!」
透は笑いながら操作キャラクターを走らせた。聖堂騎士の剣が背後の石床を砕く。画面が赤く明滅し、体力表示が残り一割まで減った。
本来なら失敗である。
だが、透はこういう状況ほど強かった。
「護符がないなら、呪いを受けたまま封印陣へ入る」
「即死するぞ」
「カイラスの固有結界を重ねれば、処理が一瞬遅れる。その間に最後の選択肢を入れる」
「理論上は〇・八秒だ。人間が入力できる猶予じゃない」
「俺を誰だと思ってる」
「人の忠告を聞かない二十四歳児」
言い返そうとした瞬間、隣から激しいキー入力の音がした。
輝の画面では、卒業祝賀祭の断罪イベントが進んでいる。
華やかな蒼玻璃講堂。その中央に立つ王太子レオンハルトが、悪役令嬢フィルブランテへ反逆の証拠を突きつけていた。
『フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。そなたとの婚約を破棄し、王国に対するすべての罪をここに告発する』
淡い金髪の令嬢は、誰にも助けを求めなかった。
青紫の目で婚約者を見つめ、ただ一言、『承知いたしました』と答える。
通常ルートなら、彼女はこのまま衛兵に連行される。その後、処刑、追放、自死のいずれかを迎え、二度と物語へは戻らない。
しかし輝は、直前までに集めた証拠を使い、真犯人を告発する選択肢を高速で入力した。
「王家の帳簿、教会の印章、偽装された暗号鍵……よし、全部ある」
「お前、ムービー飛ばしてるのによく分かるな」
「百回以上見た。台詞の秒数まで覚えてる」
「それはそれで怖いな」
「兄貴にだけは言われたくない」
二つの画面で、別々の最終局面が進む。
透の画面では、学院地下の双月廟が闇に呑まれていた。
中心に立つ魔族令嬢アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルは、黒い影を全身へまとい、人の形を失いかけている。
『来ないで、カイラス』
苦痛で歪みながらも、彼女は笑っていた。
『これは、わたくしの役目です。すべての呪いを抱いて消えるのが、魔侯の娘として生まれた、わたくしの――』
「毎回思うけど、こいつ一人で背負いすぎだろ」
透がぼやく。
「その結果が全ルート死亡だ。敵役が生き残ったら困るって作りなんだろ」
「だからって、母親を殺されて、国から疑われて、最後は化け物扱いってのは後味悪いよな」
「兄貴、感想は後。入力猶予が来る」
画面上で、カイラスが雷をまとった手を伸ばす。
同時に、輝の画面では王太子が剣を抜き、断罪の場に現れた大司教へ切っ先を向けていた。
選択肢が表示される。
透の画面には、三つ。
輝の画面には、五つ。
「三」
輝が数え始めた。
「二」
透はコントローラーを握り直す。
「一」
二人の指が動いた。
透の画面で雷光が闇を裂き、輝の画面で聖花の光が講堂を満たす。
長い演出を飛ばした先で、二つの画面が同時に白く染まった。
そして同じ瞬間に、金色の文字が浮かび上がる。
――TRUE END。
部屋に、エンディング曲が二重に流れた。
兄弟は黙って、それぞれのタイマーを見る。
表示された記録は、秒どころか小数点以下まで同じだった。
「……俺の勝ちだな」
「何を見たらそうなる。完全な同着だろ」
「最後の入力は俺の方が速かった」
「計測終了は暗転の開始時だ。入力速度は関係ない」
「精神的には俺が勝ってた」
「タイムアタックに精神判定を持ち込むな」
透は椅子の背へもたれた。勝敗がつかなかった悔しさより、ようやく終わったという安堵の方が大きい。
徹夜明けの頭は重く、まぶたが勝手に落ちてくる。
「じゃあ……起きたら、別ルートで決着な」
「まだやる気かよ……」
「今度は、悪役令嬢と魔族令嬢を両方生かす縛りで」
「そんなエンド、公式には存在しない」
「なら、見つけた方の勝ち」
「はいはい。寝言は寝てから……」
そこで輝の声が途切れた。
透も笑う気力を失い、腕を枕にして机へ突っ伏す。
二台の画面では、誰にも選ばれなかった二人の令嬢が映っていた。
白い日傘を持つフィルブランテ。
黒い日傘を持つアマンテルス。
二人の立ち絵の上で、見覚えのない銀色の文字が一瞬だけ瞬いた。
――同着を確認しました。
――未到達条件を補完します。
それを見る者は、もう誰もいなかった。
◇
冷たい。
最初に覚えたのは、頬を撫でる絹の冷たさだった。
次に、花の香り。かすかな薬草の匂い。そして、聞き慣れない女の声。
「お嬢様。フィルブランテお嬢様、朝でございます」
誰だ。
そう言おうとして、フィルブランテは喉を震わせた。
「……あと、五分」
出てきたのは、自分のものとは思えない澄んだ声だった。
沈黙が落ちる。
気のせいか、室内の温度まで下がった。
「かしこまりました。ですが本日は、午前八時より王太子妃教育、十時より舞踏、午後には白薔薇の園遊会に備えた衣装合わせがございます」
フィルブランテ。
王太子妃教育。
白薔薇の園遊会。
眠気が消し飛んだ。
フィルブランテは勢いよく上体を起こした。長い何かが肩から滑り落ち、視界の端で淡い金色が揺れる。
天蓋付きの寝台。真珠色の壁紙。銀糸で薔薇を刺繍したカーテン。ゲーム画面では背景の一枚でしかなかった部屋が、圧倒的な奥行きと匂いを伴って目の前に広がっている。
寝台の脇には、黒い侍女服を着た四十代ほどの女性が立っていた。灰色の髪を一分の乱れもなく結い、こちらを心配そうに見ている。
フィルブランテは彼女を知っていた。
ミレーヌ・ハウゼン。
悪役令嬢フィルブランテに最後まで仕え、追放ルートでは主人を逃がすために命を落とす侍女長。
「お嬢様?」
フィルブランテは返事をせず、寝台から降りた。
足が床へ触れた途端、身体の重心が予想と違う場所へ傾く。反射的に柱をつかみ、そこから数歩、どうにか壁際の姿見まで進んだ。
鏡の中に、見知らぬ少女がいた。
腰まで流れる淡い金髪。薄い寝間着に包まれた細い肩。青と紫の間で揺れる、宝石のような瞳。
透き通るほど白い頬に手を当てると、鏡の少女も同じ動きをした。
「……うそだろ」
少女の唇から、また鈴のような声が落ちた。
その顔を、フィルブランテは何百回も見ている。
断罪イベントで。
回想画面で。
処刑台へ向かう馬車の中で。
「フィルブランテ・アソート・イデルバルディ……」
自分の口が、妙に滑らかな発音でその名を紡いだ。
呼吸が浅くなる。
フィルブランテは、どの主要ルートでも破滅する。
王太子ルートでは公開処刑。
騎士ルートでは国外追放後に死亡。
魔術師ルートでは幽閉。
隠しルートでは――。
「お嬢様、もしやご気分が」
「今日は何日ですの?」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
ミレーヌがわずかに目を見開く。
「星輪暦七百四十二年、花芽月十四日でございます」
フィルブランテの頭の中で、ゲームの年表が一気に展開された。
学院入学まで、およそ半年。
リゼットとの出会いより前。
最初の教本破損事件より前。
断罪まで、二年と少し。
まだ間に合う。
そう判断した直後、胸の奥に、ひどく冷たい感情が差し込んだ。
――完璧でなければ、お父様に見放される。
それはフィルブランテの考えではなかった。
幼い少女が、広すぎる部屋で一人、何度も礼の練習をしている。扉の向こうに父の姿を探しながら、泣くことさえ許さずに背筋を伸ばしている。
知らないはずの記憶だった。
なのに胸が痛い。
「……フィル」
どこかで、優しい女の声がした気がした。
フィルブランテは鏡台へ手をつき、目を閉じた。
これは夢ではない。
ただゲームキャラクターの身体へ入っただけでもない。
ここには彼女の時間があり、恐れがあり、守りたかったものがある。
そのすべてを理解するには、まだ頭が追いつかなかった。
「ミレーヌ」
「はい」
「本日の予定を、最初からすべて教えてくださいませ。出席者、使用人の配置、馬車の経路も」
侍女長の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「承知いたしました。しかし、まずはお召し替えを」
「それも予定へ含めて。所要時間を正確に」
「……かしこまりました」
フィルブランテはもう一度、鏡の中の自分を見た。
処刑まで二年。
ゲームなら十分すぎる時間だ。だが、ここにはロードもリセットもない。
一度でも間違えれば、本当に死ぬ。
「兄貴がいたら、こういうときだけは役に立つんだけどな」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。独り言ですわ」
兄貴は今も、机に突っ伏して眠っているのだろうか。
それとも、自分と同じように――。
そこまで考えて、フィルブランテは首を振った。
仮説を立てるには情報が足りない。まずは今日を生き延びる。それから兄を探す方法を考える。
フィルブランテは姿勢を正した。
すると身体が覚えていたかのように、寝間着姿でさえ完璧な公爵令嬢の立ち姿が完成する。
鏡の中の少女は、怯えているようには見えなかった。
それだけが、今はありがたかった。
◇
一方、その頃。
アマンテルスは、自分を殺した剣の冷たさで目を覚ました。
正確には、殺される夢から飛び起きた。
胸を貫く雷の刃。
泣きながら自分の名を呼ぶ魔族の青年。
全身からあふれ出す黒い呪い。
そして、自分自身の声。
『来ないで、カイラス。これは、わたくしの役目です』
「冗談じゃねえ!」
アマンテルスは叫び、豪奢な寝台の上で跳ね起きた。
薄暗い部屋だった。
黒檀の柱。紫色の天蓋。壁を這う銀色の蔓草が、照明もないのに淡く光っている。窓の外には青白い月が浮かび、夜明け前の空を照らしていた。
ここは自分の部屋ではない。
それ以前に、胸元へ落ちてきた長い黒髪も、寝間着越しに分かる身体の輪郭も、自分のものではなかった。
アマンテルスは恐る恐る両手を持ち上げた。
白く細い指。黒紫の爪。手首には、見覚えのある月形の紋章。
「いやいやいや」
頭へ手を伸ばす。
指先に、硬く滑らかなものが触れた。
角だった。
「ちょっと待て」
もう片方にもある。
「待てって」
アマンテルスは寝台から降り、床へ足をついた。立ち上がると同時に長い髪を踏み、派手な音を立てて転んだ。
扉が勢いよく開く。
「アマンテルス様!」
飛び込んできたのは、桃色の髪と小さな蝙蝠の翼を持つ少女だった。夢魔族の侍女、ルーシェ。ゲーム内では情報収集役として登場し、アマンテルスの死亡後は消息不明となる。
彼女は床に倒れたアマンテルスを見るなり、金色の目を丸くした。
「刺客ですか!? 呪いですか!? それとも寝台から落ちましたか!?」
「最後のやつ」
「まあ!」
刺客より信じられないものを見る顔をされた。
ルーシェに助け起こされ、アマンテルスは壁に掛けられた黒い鏡の前へ立つ。
そこに映った女を見て、言葉を失った。
濡羽色の髪。赤紫の瞳。黒曜石のような角。人族離れした美貌と、黙っていれば近寄りがたい冷たい気配。
つい数分前まで、画面の中で呪いに呑まれていた女。
「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル……」
「はい。アマンテルス様でございます」
ルーシェが当然のように答えた。
アマンテルスは鏡へ両手をついた。
アマンテルス。
全攻略対象のルートで死亡する魔族令嬢。
和平交渉に失敗し、母を殺され、祖国にも王国にも利用され、最後は自分から呪いを抱えて怪物になる女。
「よりによって、一番死に方が痛そうなやつかよ……」
「死に方?」
「何でもない」
その瞬間、扉の外から低い鐘の音が響いた。
ルーシェがはっとして、翼を小さく震わせる。
「大変です。お支度を急がなくては。今朝はエルネシア様と朝食をお取りになった後、人族領へ向けて出立なさるのでしょう?」
「エルネシア……」
名前を口にした途端、胸の奥が熱くなった。
白銀の髪をした女性が、幼い自分の角を撫で、古い子守歌を歌っている。
知らない光景なのに、懐かしい。
会いたい、と思った。
アマンテルスではなく、この身体が。
いや。もう、その境界さえ曖昧だった。
「母上は、生きてるのか」
「当然でございましょう。何をおっしゃっているのです?」
生きている。
原作で、和平交渉の直前に暗殺される母親が。
「ルーシェ。今日は何日だ?」
「星輪暦七百四十二年、花芽月十四日です」
アマンテルスは目を見開いた。
ゲーム開始の半年前。
そして、アマンテルスの母エルネシアが狙われる最初の死亡イベントまで、あと四日。
「四日しかないのかよ」
「何がでございます?」
「いや、こっちの話だ」
アマンテルスは鏡から離れた。
状況は最悪だ。
情報は足りない。魔族側のイベントは知っているが、暗殺の実行犯が誰だったかは、タイムアタック中に文章を飛ばした。分かるのは日時と結果だけ。
それでも、母親が死ぬと知っていて放置する選択肢はない。
「まず飯だ」
「はい?」
「母上と話す。それから、出立の予定を全部見直す。護衛、経路、荷物、同行者――怪しいやつは片っ端から洗う」
ルーシェは驚いた顔をした後、楽しそうに笑った。
「今朝のアマンテルス様は、いつにも増して勇ましいのですね」
「今朝から生まれ変わったんでね」
「まあ。縁起でもないご冗談」
冗談ではなかった。
アマンテルスは慣れない長髪を背へ払い、扉へ向かう。
その途中、机の上に置かれた一通の招待状が目に入った。
白い薔薇の封蝋。
差出人はセレディア王家。
開かれた招待状には、魔族使節団を迎える園遊会の出席者が記されていた。
レオンハルト王太子。
シリル・グランツ。
ノエル・エルミナージュ。
そして。
フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。
悪役令嬢の名を見た瞬間、アマンテルスの脳裏に、机へ突っ伏す直前の弟の声がよみがえった。
『そんなエンド、公式には存在しない』
同じ時刻に眠った。
同じ記録でクリアした。
もし、この転生が同着と関係しているなら。
「まさかな」
アマンテルスは招待状を持ち上げた。
数日後の白薔薇の園遊会。
そこで、悪役令嬢フィルブランテに会える。
弟がいる保証など、どこにもない。
それでもアマンテルスは、先ほどまでより少しだけ強く笑った。
「待ってろよ、フィルブランテ」
黒い日傘を手に、魔族令嬢は歩き出す。
その頃、遠く離れたセレディア王都では、白い日傘を差した悪役令嬢が、同じ園遊会の出席者名簿を開いていた。
二人とも、まだ知らない。
次に顔を合わせた瞬間から、原作には存在しない最難関ルートが始まることを。




