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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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40/45

第四十話 選定の鏡を、救難の窓へ

双月境界選定式まで、十二時間。


 黄昏島の空には、まだ昼の色が残っていた。


 それでも二つの月は、いつもより近い。


 銀の月と青紫の月が、互いの光を薄く重ねている。


 空の高いところにあるのに、影は長かった。


 境界図書塔の上空で、七つの連記窓が細く光っている。


 王都。


 魔侯領。


 アウローラ。


 ルクシア学院。


 イデルバルディ公爵領。


 アルバの帰岸庫。


 対岸世界。


 どの窓も、まだ閉じていない。


 けれど、窓の外側には黒水が張りついていた。


 窓を割るのではない。


 内側から、誰かの声を急がせるために。


「黒い祭壇へ行けるのは、今です」


 ノエルが言った。


 結晶板に、黒い扉のひびが映っている。


 第35話で〈留め書きの鍵〉を使って作った、裁定台への入口。


 ひびは、まだ完全には閉じていない。


「黒水は、窓を一つずつ裁定用の提出口に変えようとしている。今なら、こちらから連記窓の手順を祭壇の中へ持ち込めます」


「今じゃなきゃ、どうなる」


 アマンテルスが問う。


「十二時間後、双月が重なれば、祭壇は二つの世界の記録を直接読むようになる。そうなれば、外から窓を開こうとしても遅い」


 フィルブランテは、白い手帳を閉じた。


 中には〈連記窓〉の四つの手順が書かれている。


 呼ぶ者の名と目的。


 聞く者の同意。


 開く範囲と時間。


 閉じる理由と、次に確認する時刻。


 これまでなら、窓を開く前に丁寧に確かめた。


 今は、黒い祭壇へ行くために、少し急ぐ必要がある。


 急ぐことと、急かされることは違う。


 その差を、今こそ間違えないようにしなければならない。


「皆へ知らせます」


 フィルブランテが言う。


「黒い祭壇へ入るのは、俺と兄貴、アリス、アステリア、ノエル、リゼット、シリルです。レオンとカイラスは、それぞれ王都と魔侯領の窓を守る」


「私も、祭壇へ行く」


 レオンハルトが、王都の窓の向こうから言った。


 白薔薇大広間にいる王太子の顔は、少し疲れている。


 それでも、迷いはない。


「黒水が、また私を王国の答えにしようとするなら、現場で拒むべきだ」


「レオン」


 フィルブランテは、一度だけ考えた。


 彼がそばにいれば、心強い。


 でも、王都の窓を守る者がいなければ、黒水は王国の声を勝手に使う。


 それを、フィルが決めてよいのか。


「王都で、今、あなたにしかできないことはありますか」


 フィルブランテは尋ねた。


 レオンハルトは少し黙る。


 そして、窓の外を見る。


 大広間には、ユーディット、近衛兵、市場の代表、救護院の者たちがいる。


 誰も、王太子へ答えを丸投げしていない。


 でも、王太子がここで窓の手順を守ることには意味がある。


「あります」


 レオンハルトは答えた。


「王都の記録を、私の意志だけで提出させない役目です」


「なら、残ってください」


 フィルブランテは言う。


「俺たちは祭壇で、王都の窓を待ちます。いつでも開けるように」


 レオンハルトは、ゆっくり頷いた。


「了解した」


「カイラスも」


 アマンテルスが、魔侯領の窓を見た。


「向こうにいてくれ。七氏族が、黒水の声を自分たちの答えにしないように」


「お前を一人で祭壇へ行かせるのは、正直、気に入らない」


 カイラスが言った。


「だが、今ここで俺ができることは、魔侯領の声をお前の代わりに決めないことだな」


「そう」


 アマンテルスは短く答える。


「頼む」


 カイラスは、雷の紋章へ手を置いた。


「任せろ。だが、お前も“任せろ”と言うだけで、無茶をするな」


「兄貴は無茶します」


 フィルブランテが横から言った。


「おい」


「だから俺が見ます」


 弟の言葉に、アマンテルスは少しだけ笑った。


 それから、皆を見る。


「黒い祭壇へ行く前に、一つだけ」


 透の声が、いつもより静かだった。


「俺たちが、あそこで何を言うかはまだ決めてない。二つの世界のどっちを残すかって答えは、出さない。けど、祭壇で見たことは、隠さずここへ返す」


 皆が頷く。


 勝つ方法は、まだ分からない。


 ザハルを止める方法も、黒水を完全に消す方法も、分からない。


 だから、分からないことを隠さない。


 それが、今まで作ってきた手順だった。


     ◇


 黒い扉は、境界図書塔の未記載層にあった。


 白い書架の間を抜けると、そこだけ紙の匂いが薄くなる。


 代わりに、冷たい石の匂いがする。


 ひびの入った扉の前で、留め書きの鍵が淡く光っている。


 フィルブランテが鍵へ手を伸ばした時、黒水が扉の隙間から湧き出した。


 黒い水ではない。


 細い文字の群れ。


 裁定候補、入場せよ。


 その他の者は、外部記録として待機せよ。


「いや」


 フィルブランテは、鍵を握ったまま答えた。


 手帳を開く。


 入場する者は、裁定を代行しない。


 入場しない者は、外部ではない。各地の当事者として、連記窓を通じて記録を届ける。


 黒水が、文字を塗り潰そうとする。


 けれど、七つの連記窓から、同じ形ではない返答が届く。


 王都のユーディット。


『王都の者は、外部記録ではありません。現在も、黒水の雨の下で生きています』


 魔侯領のガレウス。


『魔侯領の者も同じだ。勝手に背景扱いするな』


 アウローラのマレア。


『海の上にいる者は、岸の連中より遠いだけだ。記録の外にいるわけじゃない』


 学院の生徒たち。


『僕たちは、ここにいる』


 薬園のオーギュスト。


『救護を待つ者を、帳簿の外へ置くな』


 帰岸庫のルカ。


『名前がまだ分からない人も、ここにいる』


 そして、真琴。


『私は、対岸にいます。でも、二人の話の外にはいません』


 七つの声が、黒い文字を白く押し戻す。


 扉の向こうから、低い鐘が鳴った。


 入場せよ。


 ただし、誰も外に置かないまま。


 扉が開く。


     ◇


 黒い祭壇は、前に見た時より大きくなっていた。


 二つの世界の間に浮かぶ、宙の石台。


 左には、元の世界。


 夜の街。


 真琴の部屋。


 窓の外を走る車の灯り。


 右には、現在の世界。


 王都の城壁。


 魔侯領の夜嶺。


 アウローラの港。


 学院。


 薬園。


 帰岸庫。


 黄昏島。


 どちらの世界も、黒い円の中で揺れている。


 祭壇の周りには、七つの連記席。


 第35話で白い文字を取り戻した席だ。


 今は、黒水がその上を薄く流れている。


 中央の空席は、誰も座らないまま残っていた。


 まだ聞かれていない者の席。


 文字は白い。


 けれど、黒水の影がその周りを何重にも巡っている。


「来ましたね」


 ザハルが、祭壇の向こうに立っていた。


 白い司祭服。


 手には、青い潮の玉。


 妹ミアの記録へつながる、小さな青いガラス玉。


 彼は以前よりも疲れて見えた。


 目の下に影がある。


 けれど姿勢は、まっすぐだった。


「あなた方は、最後まで空席を守るつもりですか」


「座らない」


 アマンテルスが答える。


「今日も、明日も」


「では、世界が傷つく」


 ザハルは言った。


「各地の窓は、既に黒水に襲われています。王都では物資が不足し、魔侯領では監視塔が揺らぎ、対岸世界では母親が一人で待っている」


「知ってる」


 アマンテルスの声が少し低くなる。


「知ってるから、窓を作った」


「窓」


 ザハルは、言葉を繰り返した。


 少しだけ苦しそうに笑う。


「あなた方は、窓を希望と呼ぶ。だが窓は、風も、嵐も通す。二つの世界がつながれば、苦しみも増える」


「だから、手順を作る」


 フィルブランテが言った。


「開く前に聞く。何を渡すか決める。閉じる時にも、理由を残す。窓があるからといって、誰でも勝手に通れるわけではない」


「手順は、人を救わない」


「手順だけでは救えません」


 フィルブランテは頷いた。


「でも、手順がないと、救うという言葉を使って誰かを支配できます」


 ザハルの指が、潮の玉を少し強く握る。


 黒い円の中で、二つの世界の映像が近づいた。


 元の世界の街灯り。


 現在の世界の月。


 両方が、同じ水面に映っているように重なる。


「証明してみなさい」


 ザハルが言った。


「その窓が、世界を救うためのものだと。裁定を避けるための逃げ道ではないと」


 黒い祭壇の床が、震えた。


 七つの連記席から、黒水が立ち上がる。


 席の背もたれの白い文字へ、黒い命令が重なる。


 出発を見た者。


 到着を見た者。


 傷を受けた者。


 救援を担う者。


 記録を照合する者。


 未来を待つ者。


 まだ聞かれていない声を残す者。


 黒水は、それぞれの席を一つの世界へ向けようとする。


 出発を見た者は、対岸世界だけを守れ。


 到着を見た者は、現世界だけを守れ。


 傷を受けた者は、過去の損失だけを数えよ。


 救援を担う者は、目の前の者だけを選べ。


 記録を照合する者は、矛盾を削れ。


 未来を待つ者は、今を捨てよ。


 まだ聞かれていない声は、黙れ。


「連記窓を開きます」


 ノエルが言った。


 結晶板を高く掲げる。


「ただし、一度に全部は開けません。黒水が、声の混線を“無回答”と読もうとする。順に、目的を記録して」


「時間がない」


 ザハルが言う。


「だから一つを選べ」


「時間がないから、まず聞く」


 フィルブランテは答えた。


 白い手帳を開く。


 最初の連記窓へ触れた。


 王都の白い光。


「呼ぶ者は、フィルブランテ・アソート・イデルバルディ」


 祭壇の上に、小さな白い枠が浮かぶ。


「目的は、双月境界選定式の開始と、祭壇に現れた黒水の命令を、王都の当事者へ伝えること」


 少し間がある。


 王都の連記窓の向こうで、レオンハルトが答えた。


『聞く者は、レオンハルト・ヴァン・セレディア。王都の連記者を代表せず、一人の聞く者として、目的を聞いた』


「開く範囲は、声と祭壇に現れた命令の写し。王都の防衛情報は、必要な場合を除いて渡さない」


『同意する』


 白い枠が開く。


 王都の大広間が、祭壇の片側に映った。


 黒水はすぐに、レオンハルトの周りへ文字を落とす。


 王国を残せ。


 王国の名で、対岸世界を記録へ戻せ。


 レオンハルトは、黒い文字を読む。


 そして、王都の人々を見る。


「これは、王国を守りたいという皆の願いを使って、他の世界を消す命令です」


 彼は言った。


「誰かが、王国が大切だと書くことを、私は否定しない。しかし、王国を守ることと、他を消すことを同じ紙に書かせるのは違う」


 ユーディットが、王都の連記を掲げる。


『私たちは、王国の継続を願う。だが、王国だけが現実として残ることには同意しない』


 市場の女性が続く。


『私は、店を続けたい。向こうの世界の人が消えたことを知らないまま、店を続けたいわけではない』


 近衛兵が言う。


『俺は、王都を守りたい。だから、守るために誰を見捨てることになるのか、先に聞きたい』


 王都の言葉が、白い光になって祭壇へ届く。


 出発を見た者の席に、王都の光が一つ置かれた。


 黒水の命令が、少し薄くなる。


「次」


 ノエルが言う。


 魔侯領の窓が開く。


「呼ぶ者は、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。目的は、黒水が祭壇で魔侯領を“現世界を残すための軍”に固定しようとしていることを伝える」


 カイラスが、すぐに答えた。


『聞く者は、カイラス・ヴェイル・ノクサル。魔侯領の全てを代わりに決めず、今ここにいる聞く者として同意する』


 夜嶺の円卓が、祭壇の反対側に映る。


 黒水は、紫の月の影を大きくする。


 魔侯領を守れ。


 王国と対岸世界を閉じよ。


 ガレウスが、黒い文字を見た。


 かつてなら、反射的に剣を抜いたかもしれない。


 だが、彼は石板を取る。


『俺は、夜嶺を守る』


 短い文字。


 次に。


『だが、夜嶺を守るために、王国と対岸世界の名を消す命令は受けない』


 七氏族の代表たちが、別々の言葉を書く。


 子どもが眠れる夜を残したい。


 交易の道を続けたい。


 戦友の死を、次の戦争の理由にしたくない。


 人族を怖いと思うことを隠さない。


 でも、怖いから敵だと書かない。


 それらが、紫の光になって祭壇へ届く。


 到着を見た者の席に、魔侯領の光が置かれる。


 黒水の軍旗が、霧になる。


「次」


 アウローラ。


 学院。


 慈善薬園。


 帰岸庫。


 それぞれの窓が、順に開く。


 時間は、確かにかかる。


 黒水は何度も、鐘を鳴らした。


 急げ。


 答えを一つにしろ。


 世界が壊れる。


 だが、窓の向こうの人々は、同じ答えを書かない。


 アウローラのマレアは、海で助けを呼ぶ船を、旗で分けないと記す。


 イオは、航路の危険を知る者として、渡せる情報と渡せない情報を分ける。


 ネレアは、帳簿の数字を一人で抱えないと書く。


 学院の生徒たちは、明日も学びたいと書く。


 怖いと書く者もいる。


 戦争が起きれば、友人と同じ教室にいられなくなると書く者も。


 その言葉は、立派な国家の宣言ではない。


 でも、未来を待つ者の席に、金の光となって届く。


 慈善薬園では、オーギュストが薬草と帳簿の両方を守るために、足りない人手を隠さずに助けを求めると書く。


 ミレーヌは、仕える者として、主人の人生を代わりに決めないと書く。


 イザベルは、かつての罪を消すのではなく、偽造を見つけた時に黙らないと書く。


 その言葉が、救援を担う者の席へ緑の光を置く。


 帰岸庫では、ルカが、名を忘れた人々のそばに立つ。


『ここには、まだ自分の帰る場所を言えない人がいます』


 彼は言う。


『でも、言えない人を、世界の外へ置かないで』


 テッサが青い潮の玉を握り、続ける。


『私は、ミアの最後を知りません。だから、知らないことを最後の答えにしません』


 記録を照合する者の席へ、海色の光が届く。


 七つの席のうち、六つが白くなる。


 残る一つ。


 出発を見た者の席には、まだ完全な光がない。


 対岸世界。


 真琴の窓だけが、黒水の影に覆われている。


「母さん」


 アマンテルスが、窓へ呼びかける。


「今、開けられるか」


 返事はない。


 黒い祭壇の上で、時間が減っていく。


 十二時間。


 十一時間四十三分。


 黒水が、空席の周りへ集まる。


 まだ一つ、声が足りない。


 だから、空席を透と輝の席へ戻そうとする。


 出発を見た者は、母だけである。


 母が答えないなら、息子が代わりに答えよ。


 アマンテルスの足元に、黒い椅子が現れた。


 フィルブランテの足元にも。


 座ればいい。


 母の代わりに。


 元の世界を知る者として。


 どちらの世界を残すか、書けばいい。


「座らない」


 アマンテルスが言う。


 黒い椅子が、足首へ絡む。


「母さんの声を、俺が代わりに書くな」


「しかし母親は、対岸世界に一人です」


 ザハルが言う。


 彼は、祭壇の向こうから動かない。


 その声には、ほんの少しだけ疲れがある。


「一人で待つ者は、いずれ答えを出せなくなる。あなた方は、それを知りながら母親を待たせるのですか」


「一人にしていません」


 フィルブランテが言った。


 白い扇で、黒い椅子の背を砕く。


「連記窓の聞く者は、母さんだけの記録を待っているわけではない。母さんが見ていることと、まだ見ていないことを、皆が一緒に聞く」


 アリスが、雲鍵を水鏡へ向けた。


「対岸世界の窓へ、聞く者の記録を先に置きます」


 雲が、黒水の向こうへ伸びる。


 王都のレオンハルトの声。


『真琴殿。私は、透と輝の仲間です。あなたの息子たちへ、ここで生きたことを伝えます』


 魔侯領のカイラス。


『俺は、透がアマンテルスとして生きた時間を見た。お前の息子は、勝手に一人で背負おうとするが、放っておかない』


 アウローラのマレア。


『あんたの息子たちは、海で救難索を切らなかった。だから、こっちも待つ索を切らない』


 リゼット。


「私は、二人に選ぶ時間をもらいました。今度は、私たちが待ちます」


 声が重なる。


 大きな言葉ではない。


 それぞれ、透と輝の一部しか知らない。


 けれど、知らないことを埋めずに、知っていることだけを置いていく。


 黒水の中で、対岸世界の窓が、少しだけ白くなる。


 真琴の部屋。


 机の上のノート。


 ゲーム画面。


 真琴は、まだそこにいる。


 黒い影が、部屋の壁に広がっている。


 しかし彼女の手には、ペンがある。


 真琴は、ノートへ何かを書いていた。


『聞こえます』


 かすかな声が、連記窓から届く。


 透と輝は、同時に息を吐いた。


『今、外が暗いです。何が起きているか、私は全部は分かりません』


 真琴は言う。


『でも、あなたたちの声と、皆さんの声は聞こえています』


 黒水が、画面へ文字を落とす。


 母として、息子の帰還を選べ。


 真琴は、その文字を見た。


 目を閉じる。


 きっと、帰ってきてほしい。


 今すぐ、二人を抱きしめたい。


 その願いは、変わらない。


 けれど彼女は、文字を読む。


 “帰還を選べ”の後に、何が書かれていないかを見る。


「この言葉は」


 真琴が、静かに言った。


『透と輝が、誰と生きてきたかを、書いていません』


 黒水が、画面を揺らす。


『今すぐ答えよ。時間がない』


『時間がないなら、なおさら。私だけに書かせないで』


 真琴は、ノートへ書く。


 私は、息子たちの帰還を願う。


 次に。


 私は、息子たちが帰る時刻と、そのために失われるものを、一人で決めない。


 そして、最後に。


 私は、二人が今いる世界で大切にしている人々の声を聞いた。聞いたことを、ここに記す。


 彼女の文字が、対岸世界の窓を白く照らす。


 出発を見た者の席へ、橙の光が届いた。


 七つ目の連記席が、すべて白くなる。


 祭壇の中央。


 誰も座らない空席の周りに、七つの光が円を作った。


 黒水が、初めて大きく後退する。


 ザハルの顔から、わずかに色が消えた。


「七つの席が、全て応答した」


 ノエルが言った。


 結晶板が、白い術式を映す。


「今なら、裁定台の式を連記窓の式へ書き換えられる」


「どうやる」


 シリルが問う。


「中央の空席を、祭壇の中心から外す」


 ノエルは答えた。


「誰も座らない余白を、最後の判断の場所ではなく、窓を閉じた後にも残す確認欄へ変える。祭壇に置かれている二つの世界を、“選択肢”ではなく“呼ぶ先”として記録する」


「できるのですか」


 リゼットが問う。


「術式上は」


 ノエルは、少しだけ言葉を選ぶ。


「ただ、黒水は必ず抵抗します。式の中心を変えれば、二つの世界の記録が一度、全部開く。守る仕組みが不十分なら、黒水も一緒に窓へ入る」


「それでもやる」


 フィルブランテが言った。


「黒水が入り込む危険があるから、二つの世界を閉じて一つにする、にはしない」


 アマンテルスが、隣で日傘を開く。


「窓は、開く前に尋ねる。黒水にも、勝手に入るなって聞かせる」


「黒水が、答えると思いますか」


 アステリアが問う。


「答えなくても、答えない記録は残せる」


 フィルブランテが言う。


 それは、今まで何度も使ってきた手順だった。


 返答がないからといって、同意にしない。


 沈黙を、勝手な許可にしない。


 ノエルが、七つの席へ術式を広げる。


 アステリアが灯鍵を置く。


 アリスが雲鍵を置く。


 リゼットの白い花が、祭壇の黒い円の縁に咲く。


 シリルが、黒水が入る隙間を槍で封じる。


 アマンテルスの影が、二つの世界を映す円の外側を覆う。


 フィルブランテの氷晶が、空席の文字を守る。


 そして、七つの連記窓から、各地の声が届く。


 王都の白。


 魔侯領の紫。


 港の青。


 学院の金。


 薬園の緑。


 帰岸庫の海色。


 対岸世界の橙。


 七つの光が、空席を囲む。


「今、ここにいる者は」


 フィルブランテが言った。


 白い手帳の頁へ、言葉を書く。


「どちらの世界を残すかを選ばない」


 黒水が、祭壇を震わせる。


「今、ここにいる者は」


 アマンテルスが続ける。


「二つの世界から助けを求める声を、片方の沈黙にしない」


 ザハルが、初めて一歩を踏み出した。


「それでは、窓は永遠に開いたままになる」


「違う」


 アリスが言った。


 雲鍵の雲が、空席の周りで小さく渦巻く。


「開く時も、閉じる時も。次に確かめる時も書く。永遠ではない。今、必要な間だけ、互いの声を聞けるようにする」


「そして」


 アステリアが、灯鍵を上げた。


「窓を閉じることは、相手を消すことではない。次に開くことを忘れないための記録を残すことです」


 黒い円の上に、白い文字が浮かぶ。


 双月境界選定式。


 その下に、別の文字が重なる。


 双月境界連記窓。


 黒水が、激しく鳴る。


 祭壇の石が割れ、二つの世界の映像が一気に近づく。


 元の世界の部屋。


 現在の世界の王都。


 互いの景色が、重なりかける。


 大きな風が吹く。


 七つの窓の外で、各地の灯りが揺れる。


 黒水が、最後の抵抗として、中央の空席へ集まった。


 空席を黒く染める。


 そして、透と輝の名をもう一度浮かべる。


 空席を埋めよ。


 裁定候補、唐傘透。唐傘輝。


 アマンテルスの足元に、黒い椅子が現れる。


 フィルブランテの足元にも。


 今度は、椅子が二つ。


 兄と弟が並んで座ればいい。


 二人で選べば、一人ではない。


 黒水は、そんな新しい形の罠を作っていた。


「兄貴」


 フィルブランテが言う。


「分かってる」


 アマンテルスが答える。


 二人は、黒い椅子を見た。


 一緒に座れば。


 兄弟二人で決めるなら。


 それは、今までよりましに見えるかもしれない。


 でも、各地の人々をまた背景へ戻すことになる。


 兄弟二人に、皆の帰る場所を背負わせることになる。


「俺たちは、二人で選ぶために同着したんじゃない」


 アマンテルスが言った。


 黒い日傘を、二つの椅子へ向ける。


「二人で、片方を負かさないために同着したんだ」


「俺たちは、二人だけで世界を決めない」


 フィルブランテが言う。


 白い扇を振る。


 二つの椅子が、氷晶と影の間で砕けた。


 黒水の椅子は、空席へ届かない。


 七つの光が、中央を囲んでいるからだ。


 空席は、白いまま残る。


 しかし、黒い円の向こうでザハルが手を上げた。


 彼の青い潮の玉が、黒く光る。


「ならば、式は自ら答えを探すでしょう」


 ザハルの声が、祭壇へ響く。


 彼は、まだ完全には黒水に飲まれていない。


 けれど、その背後には、名のない黒い波が立っている。


「連記窓を作ったことで、二つの世界の声はここへ届くようになった。なら、式は次に問う。どの声が、本当に世界を続ける理由になるのかと」


 黒い円の中に、無数の文字が浮かぶ。


 王国を守りたい。


 夜嶺を守りたい。


 店を続けたい。


 友人と学びたい。


 薬を届けたい。


 名を思い出したい。


 息子たちを待ちたい。


 違う願い。


 違う言葉。


 黒水は、それらを比べ始める。


 どれが大きい。


 どれが正しい。


 どれが世界を残す理由になる。


「今度は、願いに順位をつけるつもりです」


 ノエルが言った。


 結晶板が、激しく明滅する。


「連記窓は作れた。ですが、窓へ届いた声の重さを、黒水が比べようとしている」


「それも、選別だ」


 リゼットが言う。


 白い花が、黒い円の前で揺れる。


「はい」


 ノエルは答えた。


「そして、黒水が最初に比べようとしているのは」


 結晶板に、二つの文字が浮かぶ。


 唐傘真琴。


 ミア・クローディス。


 元の世界で息子を待つ母。


 冬水害の夜、兄との再会を願った妹。


 どちらの願いが大切か。


 どちらの待つ理由が、世界を残す根拠になるのか。


 黒水は、二人の名を天秤へ置こうとしている。


 ザハルの青い潮の玉が、黒い光を増す。


 真琴の橙の灯りが、少し揺らぐ。


 双月境界連記窓は、生まれた。


 だが、窓の前に並べられた声を守るための戦いは、まだ終わっていない。


 双月まで、残り六時間。

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