↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/45

第四十一話 待つ願いを、天秤に乗せない

双月境界連記窓の中央で、天秤が揺れていた。


 左の皿には、橙の小さな灯り。


 **唐傘真琴。**


 元の世界で、二人の息子を待つ母。


 右の皿には、青い潮の玉。


 **ミア・クローディス。**


 冬水害の夜、兄との再会を願った妹。


 黒水は二つの願いを、同じ形の文字へ変えようとしていた。


 待つ。


 会いたい。


 帰ってきてほしい。


 それなら、どちらがより大切か。


 どちらの待つ理由が、世界を残す根拠になるのか。


 黒い祭壇の上には、無数の細い針が浮かんでいる。


 針の先は、橙の灯りと青い潮の玉を交互に指していた。


 真琴の灯りが少し強くなれば、青い玉が沈む。


 ミアの玉が光れば、橙の灯りが暗くなる。


 黒水は、まだ答えを出していない。


 ただ、比べることだけを始めている。


「止めます」


 アマンテルスが言った。


 黒い日傘を天秤へ向ける。


 だが、フィルブランテがすぐに腕を上げた。


「待ってください」


「何だ」


「天秤そのものを壊せば、真琴さんとミアさんの記録も、黒水に“比較できないから無効”とされるかもしれない」


 フィルブランテの晶析眼には、天秤の根元に絡みつく術式が見えていた。


 左の皿は、対岸世界の連記窓につながっている。


 右の皿は、青い境界航路と、帰岸庫に残されたミアの頁につながっている。


 黒水は、二人の願いを勝手に重くしているだけではない。


 “比べられない願いは、世界を残す理由にならない”と、式そのものへ書き込もうとしている。


「なら、どうする」


 アマンテルスは、日傘を下ろさないまま問う。


「比べられないものは、理由にできないと言わせない」


 フィルブランテが答えた。


「真琴さんとミアさんの願いを、世界を残すための根拠から外す。二人の願いは、どちらの世界が勝つかを決める材料じゃない」


「では、何です」


 アステリアが尋ねた。


 フィルブランテは、しばらく天秤を見た。


 橙の灯り。


 青い潮の玉。


 待つという言葉。


 あの夜、真琴は、透と輝へ帰還を命じなかった。


 ミアは、兄へまた会いたいと言った。


 どちらも、誰かを自分の手元へ縛りつける言葉ではなかった。


「届くための言葉です」


 フィルブランテは言った。


「真琴さんは、二人が今どこで誰と生きているかを聞こうとした。ミアさんは、自分の居場所が分からないままでも、兄にまた会いたいと伝えた。二人の願いは、どちらかを消すための理由じゃない。離れた相手へ届くための言葉です」


 黒水が、低く鳴った。


 **届かない言葉に、意味はない。**


 **失われた者を待つ言葉は、救えなかった証拠だ。**


「違います」


 リゼットが、白い花を抱えたまま前へ出る。


「届くかどうか分からないから、言わないことにしてはいけない」


 彼女の声は、優しかった。


 でも、揺れてはいない。


「私は、誰かを救えなかったことがあります。助けを求める前に、どうせ間に合わないと思ったこともあります。でも、届かなかったかもしれない言葉を、なかったことにしていい理由にはなりません」


 白い花びらが、天秤の下へ落ちる。


 花びらには、小さな文字が浮かんだ。


 **届いたこと。**


 **届かなかったこと。**


 **まだ届くか分からないこと。**


 黒水は、三つ目の文字を嫌う。


 分からないことを、待てないからだ。


 天秤の針が、リゼットの花びらへ向く。


 **不確定。**


 **裁定に不適。**


「不適でいい」


 フィルブランテが言った。


 白い手帳を開く。


「裁定に使わせない」


 黒水の針が、今度はフィルブランテへ向かう。


 **ならば、何のために記録する。**


 彼は一度、息を吸った。


 答えは、ずっと前からあった。


 最初の晩餐会で、誰かの毒杯を止めた時。


 学院の教本が破かれた時。


 峡谷の水が二つの砦を沈めようとした時。


 海の中で、名を忘れた人が帰る岸を探した時。


 記録は、正しい一つの答えを作るためではなかった。


「次に、同じことが起きた時」


 フィルブランテが言う。


「一人で決めずに、助けを求められるようにするためです」


 天秤の針が、止まった。


 ほんの一瞬。


 だが黒水は、すぐに別の文字を落とした。


 **待つ者は、救援を遅らせる。**


 **再会を願う者は、今いる者を見捨てる。**


 右の皿にある青い潮の玉が、強く黒く染まり始める。


 その中から、幼いミアの影が浮かんだ。


 白いリボン。


 濡れた髪。


 八歳の少女。


 黒水は、彼女の口を動かそうとする。


 **お兄ちゃんだけは、私を選んで。**


 ザハルの顔が、わずかに揺れた。


 青い潮の玉を持つ手が、強く震える。


 彼は、祭壇の向こうに立っていた。


 白い司祭服の裾は黒水へ沈みかけている。


 それでも、まだ自分の足で立っている。


「それを言わせるな」


 ザハルの声がした。


 小さい声だった。


 だが、黒水の中からではない。


 ザハル自身の口から出た声だった。


 黒水が、彼の背後で大きく揺れる。


 **お前は、あの言葉を望んだ。**


 **妹がお前を選ぶなら、全てを選ぶ理由になる。**


「望んでいない」


 ザハルは言った。


 しかし次の瞬間、黒水が彼の腕を包んだ。


 青い潮の玉が黒く光る。


 ミアの影の口が、また動く。


 **お兄ちゃんだけは――**


「待って」


 アリスが、雲鍵を抱えて前へ出た。


 彼女の声が、ミアの影へ届く。


「ミアさん。聞こえますか」


 影は、少しだけこちらを見た。


 黒水の文字が、雲鍵の周りへ集まる。


 **記録の影に、今の同意はない。**


「だから、答えてもらおうとしません」


 アリスは言った。


「影が話せないなら、話せないと書きます。でも、黒水が言わせることには同意しない」


 雲鍵の雲が、ミアの影の前へ広がる。


 白い雲は、少女の口を塞ぐためではない。


 黒水の文字だけを、柔らかく包む。


 **お兄ちゃんだけは。**


 その言葉は、黒い文字の中でほどけた。


 代わりに、ミアが第38話で残した言葉が、青い光になって浮かぶ。


 **私がどこにいるかを、みんなの帰る場所を決める理由にしないで。**


 ザハルの目が大きく開かれる。


「それは」


 彼の声が、掠れる。


「……誰が書いた」


「ミアさんの影が、言ったことです」


 アリスは答えた。


「記録の影だから、今のミアさんがその通り思っていると決めることはできません。でも、あなたが望む言葉ではなかった」


 ザハルは、何も言えない。


 黒水が、彼の足元を叩く。


 **偽物だ。**


 **失われた者は、何も語らない。**


「偽物かどうかも、今は決められない」


 フィルブランテが言う。


「でも、黒水が勝手に作った言葉より、ミアさんが残した記録の方を優先する」


「記録の影を、妹だと思えと言うのですか」


 ザハルが問う。


 怒鳴ってはいない。


 だが、その声には、ずっと押し込めていた怒りがあった。


「私は、二十年以上、あの子を探した。名簿を探した。船を探した。海を探した。見つからなかった。何一つ、確かな答えはなかった」


 彼の手の中で、青い潮の玉が震える。


「この島の記録に、妹の影がある。ならば、それを根拠にしてでも、私はあの夜を終わらせたい」


「終わらせるために、全部を終わらせるのか」


 アマンテルスが言った。


 いつものように強い声。


 でも、少しだけ低い。


「お前が妹を探した時間を、俺は知らない。どれだけ苦しかったかも、全部は知らない。だから、簡単に“もう忘れろ”なんて言わない」


 ザハルが、こちらを見る。


「けど」


 アマンテルスは続けた。


「見つからないことを終わらせたくて、妹の言葉を作るな。お前が会いたいって言うなら、それはお前の言葉だ。ミアの口に入れるな」


 祭壇の上で、黒水が一瞬止まる。


 ザハルの顔が、少し歪んだ。


 彼は、青い潮の玉を見た。


 長い間。


 そして、初めてその玉を自分の掌から少し離した。


「私は」


 ザハルの声が、静かだった。


「ミアに、私を選んでほしかったのかもしれません」


 黒水が、すぐに彼の腕へ絡みつく。


 **認めるな。**


 **それは弱さだ。**


 ザハルは、目を閉じる。


「私は、あの子を救えなかった」


 その言葉は、誰へ向けた告白でもなかった。


 ずっと自分自身へ言えなかった言葉だ。


「だから、あの子が私を選んだなら。あの夜、私は間違っていなかったと思える気がした」


 ミアの影が、天秤の右皿で淡く揺れる。


 誰も、すぐには慰めなかった。


 ザハルが妹を失ったことを、皆が知っている。


 だからといって、彼がしたことが消えるわけではない。


 各地へ黒水を送り、人を選別させ、帰る場所を奪おうとした。


 その事実も、ここにある。


「それは、今ここに記録します」


 フィルブランテが言った。


 白い手帳を開く。


「ザハル・クローディスは、妹を救えなかったことを、自分が間違っていた証拠だと恐れた。その恐れから、他者へ最後の選択を迫った」


 黒水が、手帳へ飛びかかる。


 しかしフィルブランテは筆を止めない。


「そして、今、ザハル・クローディスは、妹の記録の口へ自分が望む言葉を入れようとしたことを認めた」


 ザハルの顔が白くなる。


 自分の弱さが書かれることは、彼にとって罰かもしれない。


 でも、フィルブランテはそこで終わらせない。


「ただし」


 彼は続けた。


「この記録は、ザハルを一人の悪役として固定するために使わない。彼が今後、何を選ぶかを代わりに決めない」


 黒水が、再び大きく揺れた。


 **ならば、罪は消えるのか。**


「消えない」


 フィルブランテは答える。


「傷ついた人がいる。壊された記録がある。責任を問う必要もある。でも、責任を問うことと、今後の全てを黒水に代わりに決めさせることは違う」


 ザハルは、手の中の潮の玉を見る。


 黒水が、彼の指の隙間から滴っている。


「あなた方は、随分と都合の良い言葉を使う」


 彼は言った。


「選ばない。決めない。保留する。では、誰が被害を引き受けるのです」


「決めないんじゃない」


 アマンテルスが言う。


「一人で決めないんだ」


 彼女は、一歩前へ出た。


「被害があったなら、被害を受けた人の話を聞く。責任を取る人を、一人にしない。今すぐ結論が出せないなら、いつ確認するかを決める。お前が今までやったことを、何もなかったことにするって言ってるんじゃない」


 ザハルは、黙っている。


「でも、ミアの名を使って、お前一人が世界の判決を出すのは終わりにしろ」


 その言葉は、強かった。


 アマンテルスは、ザハルを許したわけではない。


 許すかどうかを、今決める気もない。


 ただ、決める人を一人にしないために。


 ミアを、また誰かの答えにしないために。


 黒水は、天秤の皿を大きく揺らした。


 橙の灯りと、青い潮の玉が同時に宙へ跳ねる。


 天秤が二つを吸い込もうとする。


「来ます!」


 ノエルが叫んだ。


「比較の工程を飛ばして、二人の願いを一つの“待つ者の声”にまとめようとしている。重ねれば、どちらも同じ理由として使える!」


 黒水の文字が、二つの光へ絡む。


 **待つ者は、帰還を要求する。**


 **帰還を要求する者は、現在の世界を閉じる。**


「違う!」


 対岸世界の窓から、真琴の声が響いた。


 彼女の橙の灯りが、天秤の左皿から離れる。


 黒水が、真琴の姿を祭壇へ映す。


 夜の部屋。


 机の上のノート。


 ゲーム画面。


 部屋はまだ暗い。


 けれど真琴の手元には、小さな懐中電灯がある。


 彼女は、黒い文字を見た。


 そして、息を吸う。


「私は、二人に帰ってきてほしい」


 真琴は言った。


 黒水が、すぐに文字を重ねる。


 **ならば、今の世界を捨てよ。**


「いいえ」


 真琴は、はっきり答えた。


「帰ってきてほしいと願うことと、二人が今いる世界を捨ててほしいと思うことは、同じではありません」


 橙の灯りが、少し強くなる。


「私は、二人があちらで大切にしている人たちの声を聞きました。リゼットさん。レオンハルトさん。アリスさん。海の上にいる方たち。皆さんが、アマンテルスとフィルブランテを支えてくれていることを知りました」


 真琴は、窓の向こうの人々を見るように、一人ずつ名を呼ぶ。


 リゼットが、少し驚いた顔をする。


 アリスの雲が、柔らかく揺れる。


「だから、私は待ちます。でも、待つことは、二人を引っ張ってくる紐ではありません。二人が、いつか自分で帰る道を選べるように、ここに灯りを置いておくことです」


 橙の灯りは、天秤の皿から離れた。


 祭壇の空に、小さな窓として浮かぶ。


 **唐傘真琴の願い。**


 **息子たちが、自ら選んだ時に帰る道を残す。**


 黒水が、文字を消そうとする。


 しかし、その窓には聞く者の記録がある。


 アマンテルス。


 フィルブランテ。


 リゼット。


 レオンハルト。


 カイラス。


 アリス。


 マレア。


 ルカ。


 皆が、真琴の言葉を聞いた。


 だから、黒水はそれを“帰還要求”に書き換えられない。


 次に、青い潮の玉が揺れた。


 ミアの影が、黒い天秤の右皿から離れようとする。


 しかし彼女の周りには、黒水が深く絡みついている。


 真琴のように、今いる本人の声が、確かに届いているわけではない。


 記録の影。


 過去の光。


 青い境界航路の向こうにいるかもしれない少女。


 黒水は、そこを使う。


 **証言不能。**


 **よって、兄の記憶を優先する。**


 ザハルの前に、黒い筆が現れた。


 彼の手を掴んで、ミアの代わりに書かせようとする。


 **妹は、兄に会いたいと願った。**


 その文字は、事実かもしれない。


 ミアは、また会いたいと言った。


 でも黒水は続けようとする。


 **よって、兄は妹を失った世界を閉じるべきである。**


「そこで、勝手に繋ぐな」


 フィルブランテが叫んだ。


 氷晶の光が、黒い筆を凍らせる。


 ザハルの手首へ絡んだ黒水を、アマンテルスの影が切り裂く。


 黒い筆は、石の上へ落ちた。


 しかし文字は、まだ空に残っている。


 妹は、兄に会いたいと願った。


 事実。


 だから、兄は世界を閉じるべき。


 黒水が作った、飛躍。


「前半だけ、記録します」


 アリスが言った。


 雲鍵を、青い潮の玉へ向ける。


「ミアさんは、お兄さんにまた会いたいと願った。そこまで」


 青い雲が、文字の前半を包む。


 後半の“よって”という黒い接続詞を、雲が遠ざける。


「会いたいと願ったことは、世界を閉じる理由にはならない」


 アリスの声は震えていた。


 それでも、止まらない。


「ミアさんが、お兄さんに会いたいと願ったなら。その願いは、お兄さんへ届けます。届くことと、他の人の帰る場所を消すことは、違います」


 青い潮の玉の中で、ミアの影が少しだけ明るくなる。


 彼女は、黒水に言わされるのではなく、記録に残っていた声をもう一度響かせた。


 **お兄ちゃん、また来て。**


 その言葉は、命令ではない。


 “今すぐここへ来い”でもない。


 “世界を捨てろ”でもない。


 ただ、再会を願う言葉。


 ザハルの目から、一筋だけ涙が落ちた。


 黒水は、それを見逃さない。


 涙を、弱さと名づける。


 **お前は、妹を待つ苦しみに耐えられない。**


 **だから、今すぐ世界を決めろ。**


「耐えられない」


 ザハルが言った。


 皆が、彼を見る。


 彼は、青い潮の玉を両手で包んでいる。


 黒水が、腕へ、肩へ、喉へ絡みついている。


「私は、待つことに耐えられなかった」


 その声は、ひどく静かだった。


「妹がどこにいるか分からない。そのまま生きていくことに耐えられなかった。だから、誰か一人が答えを出せば、待つことは終わると思った」


「今も、待てませんか」


 リゼットが尋ねた。


 問い詰める声ではない。


 ただ、今の答えを聞く声。


 ザハルは、すぐには答えなかった。


 黒水が、彼の唇を黒く染める。


 だが、その時、アリスの雲が青い潮の玉の周りへ広がった。


 雲の中に、小舟の記録が映る。


 嵐の海。


 白いリボン。


 青い灯へ進む子どもたち。


 ミアの影は、そこにいる。


 所在は不明。


 照合継続。


 それでも、白紙ではない。


 ザハルは、その雲を見た。


「分かりません」


 彼はようやく言った。


「待てるかどうか。私は、まだ分かりません」


 黒水が、激しく揺れた。


 **不適。**


 **裁定者は、分からないと答えられない。**


「裁定者じゃないから、言える」


 フィルブランテが言った。


「今まであなたは、自分を裁定者にした。だから、分からないと言えなかった。でも、今は違う」


 白い手帳のミアの頁に、新しい行が加わる。


 **ザハル・クローディスは、妹の所在について、現時点で答えを知らない。**


 その下に。


 **ザハル・クローディスは、待つことに耐えられるかどうかも、現時点で答えを知らない。**


 黒水が、文字へ飛びかかる。


 だが、ザハル自身が潮の玉を手放した。


 青い玉は、黒水の手に落ちない。


 雲鍵共同避難所の雲へ、ゆっくり浮かんでいく。


 黒水の天秤が、大きく傾いた。


 左の橙の窓。


 右の青い窓。


 どちらも、皿へ乗っていない。


 天秤は、比べるものを失った。


 黒い針が、空を切る。


 **待つ願いは、裁定の根拠に不適。**


 黒水は、悔しそうにその文字を消そうとする。


 しかし今度は、フィルブランテが先に書いた。


 **待つ願いは、届くための記録として保持する。**


 文字が、黒い祭壇の石へ深く刻まれた。


 天秤が、ゆっくり崩れる。


 橙の灯りは、連記窓の一つへ戻る。


 青い潮の玉は、雲鍵の中で小さく光る。


 真琴の言葉と、ミアの言葉。


 どちらも、世界を勝たせる理由ではない。


 離れた相手へ、いつかまた会いたいと伝えるための灯りとして残った。


     ◇


 天秤が崩れた時、黒い祭壇の奥で大きな音がした。


 石が割れた音ではない。


 何かが、内側から目を覚ます音。


 ザハルの背後にあった黒水が、一斉に彼から離れた。


 それは、彼を解放したのではない。


 逆に、彼を一人の器として使うことをやめたのだ。


 黒水は、祭壇の中央。


 誰も座らない空席へ集まり始める。


 白い文字。


 **まだ聞かれていない者の席。**


 その周りへ、黒い水が渦を巻く。


「空席を、また使う気です」


 ノエルが言った。


 結晶板の上で、術式が変わる。


「真琴さんとミアさんの天秤が失効したことで、式は“最も重い願い”を根拠にできなくなった。代わりに、まだ聞かれていない者を、最後の裁定者にしようとしている」


「まだ聞かれていない者?」


 シリルが問う。


 黒水は答えない。


 ただ、空席の周りに無数の影を浮かべる。


 名を忘れた帰還者。


 救護院で声を上げられなかった子ども。


 冬水害で記録から漏れた人々。


 黒水の雨で不安に震えた者たち。


 そして、まだ言葉を残せていない者たち。


 黒水は、彼らの沈黙を集めている。


 “聞かれていない者”の代わりに、世界を閉じろと言わせるために。


「それは、駄目です」


 アリスが言った。


 雲鍵を抱く手が、震える。


「聞かれていない人のための席なのに。聞かれていないまま、選ばせるなんて」


「その通りです」


 アステリアが頷く。


「空席は、声がない者を埋めるための席ではない。声が届くまで、結論を止めるための席です」


 ザハルは、少し離れた場所で膝をついていた。


 黒水から離れたことで、顔は青白い。


 けれど彼は、まだここにいる。


 逃げようともしない。


「黒水は、誰の沈黙も理由にできます」


 彼が言った。


「名を知らない者。話せない者。既に死んだ者。答えを出せなかった者。彼らのためと言いながら、彼らに代わって、またあなた方へ選ばせるでしょう」


「あなたは、黒水のことを知っている」


 フィルブランテが言う。


 ザハルは、視線を上げた。


「知っています。私が、そういうものを必要としたから」


 その言葉に、誰もすぐには答えない。


 ザハルの責任は消えない。


 しかし、彼を黒水と同じ言葉だけで閉じ込めれば。


 今度は、彼の知らないことも、変わるかもしれないことも、全部黒く塗りつぶしてしまう。


「協力できますか」


 リゼットが尋ねた。


 ザハルは、驚いたように彼女を見る。


「何を」


「黒水が、まだ聞かれていない人の声を勝手に使わないようにすることです」


 リゼットは、白い花を祭壇の空席の前へ置く。


「あなたに、許されたとは言いません。あなたが今までしたことの責任を、今ここで終わりにできるとも言いません。でも、黒水が人の声を奪う仕組みを知っているなら。止めるために、あなたの知っていることを聞きたいです」


 ザハルは、しばらく花を見ていた。


 白い花びらの一枚に、ミアの新しい記録が映っている。


 所在不明。


 照合継続。


 それは、妹を待ち続ける苦しみを消さない。


 でも、その苦しみを誰かの首へかける言葉にもしていない。


「黒水は、空席の下にある“未記載の井戸”へ集まります」


 ザハルが言った。


「そこは、記録から漏れた声が最初に沈む場所です。私が……私たちが、虚無教団が、黒水を集め始めた場所でもある」


「そこを閉じれば、黒水は止まるのか」


 アマンテルスが問う。


「閉じれば、また沈むだけです」


 ザハルは答える。


「黒水は、閉じられた声を燃料にします。井戸を閉じるのではない。そこから上がってくる声が、誰かの裁定に使われない形を作らなければならない」


 ノエルが、結晶板へ地図を浮かべた。


 空席の下。


 黒い祭壇のさらに奥。


 未記載の井戸。


 そこから、二つの世界の無数の細い線が伸びている。


「黒水の中枢です」


 ノエルが言った。


「最後の選定は、そこから始まる」


 結晶板の端に、数字が浮かぶ。


 六時間。


 五時間五十九分。


 時間は、止まらない。


 天秤を崩しても。


 ザハルが分からないと認めても。


 決戦は、近づいている。


 黒水は、空席の下へ沈んでいく。


 無数の影を抱えたまま。


 まだ聞かれていない者の沈黙を、最後の答えに変えるために。


 アマンテルスは、黒い日傘を閉じた。


「行くぞ」


 フィルブランテが頷く。


 だが、ザハルが言った。


「待ってください」


 皆が、彼を見る。


 ザハルは、青い潮の玉が雲鍵へ収まった方を見た。


 そして、ゆっくり立ち上がる。


「未記載の井戸へ入れば、黒水は私の記憶を使うでしょう。ミアのことも。私が失った人のことも。あなた方を選ばせるために」


「分かってる」


 アマンテルスが言う。


「なら」


 ザハルは、少しだけ迷った。


 それから、初めて自分の言葉で言う。


「私も、記録を残させてください」


 フィルブランテが、白い手帳を差し出す。


 ザハルは受け取らない。


 自分の紙片を取り出した。


 水害の後から、ずっと持っていたのだろう。


 端が擦り切れた小さな紙。


 彼はそこへ、ゆっくり書く。


 **私は、ミアがどこにいるかを知らない。**


 次に。


 **私は、ミアにまた会いたい。**


 そして、筆を止める。


 黒水が、紙の端から“だから世界を選ぶ”と書き足そうとする。


 ザハルは、それを見た。


 しばらく手が震えていた。


 でも、黒い文字を自分で消す。


 最後に、こう書いた。


 **私は、この願いを、他者の帰る場所を消す理由にしない。**


 紙は、白く光った。


 連記窓の一つへ、まだ座らない小さな光として置かれる。


 許しではない。


 赦免でもない。


 ただ、ザハルが今ここで自分の願いを、他者のための判決にしないと記した事実。


 アステリアが、静かに灯鍵を掲げる。


「未記載の井戸へ向かう前に、記録します」


 灯守の声が、祭壇へ響く。


「今いる者は、まだ聞かれていない者を代わりに裁定しない。聞こえない声を、黒水の言葉で補わない」


 各地の窓から、返答が届く。


 王都。


 魔侯領。


 港。


 学院。


 薬園。


 帰岸庫。


 対岸世界。


 皆が、それぞれの言葉で同意を記す。


 黒い祭壇の空席は、白いまま残る。


 その下で、未記載の井戸が、低く鳴った。


 双月まで、残り五時間。


 最後の敵は、黒水だけではない。


 まだ聞けていない、無数の声。


 それを、答えとして消さないために。


 一行は、空席の下へ続く階段を見つめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。