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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第三十九話 窓は、開く前に尋ねる

双月境界選定式まで、二十四時間。


 その数字は、境界図書塔の最上階に浮かぶ水鏡の上で、静かに脈打っていた。


 昨日までの数字とは違う。


 あと何日あるかを示す、遠い期限ではない。


 眠れば半分が過ぎる。


 話し合えば、さらに減る。


 今から作るものが、一度でも失敗すれば、やり直す時間はない。


 円卓の中央には、七つの連記席に対応する光が並んでいる。


 出発を見た者。


 到着を見た者。


 傷を受けた者。


 救援を担う者。


 記録を照合する者。


 未来を待つ者。


 まだ聞かれていない声を残す者。


 どの光も、各地から届く連記に応じて細く揺れていた。


 しかし、その中心にある空席は、まだ空のままだ。


 誰か一人が座るための席ではない。


 まだここにいない者の声を置くための余白。


 その余白を、双月境界選定式が勝手に埋めないために。


 一行は、水鏡の前に集まっていた。


「式が前倒しされた以上、黒い祭壇へ入ってから手順を考える余裕はありません」


 ノエルが言った。


 結晶板の上には、二つの世界を結ぶ細い線が幾重にも重なっている。


 王都。


 魔侯領。


 アウローラ。


 学院。


 慈善薬園。


 帰岸庫。


 対岸世界。


 線は、雲鍵共同避難所と水鏡を通り、黒い祭壇の輪の手前で止まっている。


「今の連記は、各地で書かれた記録を照合することはできます。しかし、選定式の場で各地の人々が直接“今の意思”を伝える窓にはなっていない」


「だから、ザハルは最後に俺たちを裁定候補へ置ける」


 アマンテルスが言った。


「皆の記録はある。でも、その場で声を聞く場所がなければ、結局、俺たちに選ばせられる」


「はい」


 ノエルは頷く。


「黒水が欲しいのは、沈黙です。各地が何を願っているかを、式の場で聞けない状態。そこへ、透と輝の“どちらも捨てられない”という願いだけを置けば、矛盾として裁定できます」


 フィルブランテは、白い手帳を開いた。


 昨日まで、ここには事件の記録が多く書かれていた。


 暗殺未遂。


 教本破損。


 毒花。


 峡谷の洪水。


 選定院。


 水鏡。


 どの事件でも、最初は誰かが一人で答えを出すよう迫られた。


 そして、皆で見たこと、知らないこと、助けてほしいことを書き出していくうちに、別の道が見つかった。


 今回も同じだ。


 ただ、相手が二つの世界であるだけで。


「窓を作りましょう」


 フィルブランテが言った。


「水鏡を、裁定のための鏡ではなく、必要な時だけ互いへ声を届ける窓に戻す」


「それは、前にも言っていた」


 アマンテルスが言う。


「でも、“戻す”だけじゃ足りない。誰がいつ、どう開けるかを決めないと、黒水も通る」


「そうです」


 フィルブランテは頷いた。


 白い手帳の新しい頁へ、見出しを書く。


 窓開きの記録。


 皆が、その文字を見る。


「最初に、窓を開きたい者は、自分の名と目的を伝えます」


 フィルブランテが言う。


「次に、窓の向こう側にいる者が聞く。聞いた側が、窓を開けてよいか、自分の意思で答える」


「片方が勝手に開かない」


 リゼットが言った。


「はい」


「それから」


 ノエルが続ける。


「窓が開いている時間と、何を渡せるかも記録します。声だけなのか。手紙を写すのか。救援を求める合図まで許可するのか。人を通すのか」


「人を通すのは、今は駄目です」


 アステリアが言った。


 水鏡の表面を、静かに見つめる。


「青い境界航路のように、予想できない道が開く。双月の前に人を通せば、黒水にも別の入口を与えます」


「それを書きます」


 フィルブランテは、手帳へ続けた。


 現在、窓は声と記録の写しに限る。人の通行は認めない。


 アマンテルスが、少し眉を寄せる。


「今は、か」


「今は、です」


 フィルブランテは答えた。


「ずっと認めない、とも書かない。双月の後に、皆で安全な方法を探す余地を残します」


 透は、少しだけ笑った。


 弟は、本当に変わった。


 いや、変わったというより。


 最初から持っていた、細かいところまで見ようとする目が、今は一人で抱え込むためではなく、皆で決めるために使われている。


「最後は、閉じる記録です」


 アリスが言った。


 雲鍵の小瓶を、円卓の中央へ置く。


「窓を閉じる時も、片方だけで閉じない。何を伝えて、何がまだ伝えられていないか。次にいつ確認するかを書きます」


「これなら、黒水が“返事がない”を“消してよい”に変えにくい」


 ノエルが言う。


「返事がない理由が、記録に残るからです」


 手帳の頁に、四つの項目が並んだ。


 呼ぶ者の名と目的。


 聞く者の同意。


 開く範囲と時間。


 閉じる理由と、次に確認する時刻。


 たった四つ。


 でも、どれか一つでもなければ、窓は誰かの命令になる。


 誰かが勝手に人を呼びつける窓。


 誰かが勝手に秘密を奪う窓。


 誰かが勝手に閉じて、取り残す窓。


「名前をつけるなら」


 アマンテルスが言った。


「“聞いてから開く窓”だな」


「少し長いですが、意味はそのままですね」


 フィルブランテが言う。


「短くするなら、〈連記窓〉でしょうか」


 アステリアとアリスが、同時に頷いた。


「よい名前です」


 アステリアが言う。


「記録を一つにする窓ではない。異なる記録を、隣へ置く窓」


 アリスは、雲の小瓶を持ち上げた。


「窓は、開く前に尋ねる。開いた後も、相手の言葉を勝手に書き換えない。閉じた後も、また聞けるようにする」


 雲の中に、小さな白い枠が浮かんだ。


 四つの項目を持つ、まだ何も映していない窓。


 〈連記窓〉の最初の形だった。


     ◇


 最初の試験は、王都の白薔薇大広間とつないだ。


 雲の枠の向こうに、レオンハルトとユーディット、そして王都の書記たちが映る。


 向こうの空は、黒水の雨で薄暗かった。


 水鏡の前にいるフィルブランテが、息を整える。


「呼ぶ者は、フィルブランテ・アソート・イデルバルディ」


 白い枠の下に、彼の名が現れる。


「目的は、双月境界選定式について、王都で作成された連記の写しと、現在の危機の状況を確認すること」


 少し間がある。


 向こうで、レオンハルトが枠を見る。


「聞く者は、レオンハルト・ヴァン・セレディア」


 彼の声が、水鏡の前まで届く。


「目的を聞いた。王都の連記写しと、危機の状況を、声と記録の写しで共有することに同意する」


 白い枠が、少し大きくなる。


「開く範囲は、声と、選定式へ関わる記録の写しだけ。王都の住民名簿と避難経路の詳細は、同意を得るまで渡さない」


 ユーディットが、隣で紙を開く。


「閉じる時刻は、こちらの砂時計が一巡するまで。以後の確認は、三時間後に行います」


 四つの項目が満たされる。


 連記窓が、静かに開いた。


 水鏡と雲鍵の間に、細い白い道ができる。


 道を通るのは、声と、紙の上の光だけ。


 レオンハルトの姿が、少しだけ鮮明になる。


「こちらでは、王都の連記は維持されています」


 彼は言う。


「ただし、黒水が救護院と市場の間の記録を狙っている。物資の流れを切るためではなく、両者へ“どちらを先に守るか”を選ばせるために」


「また選別か」


 アマンテルスが言う。


「今は、まだ言葉だけです」


 ユーディットが答える。


「市場の人々へ、救護院が優先されれば商売が止まると囁いている。救護院へは、市場を守れば薬が届かないと」


「どちらも必要だ」


 リゼットが言った。


「薬も、食べ物も」


「王都側では、救護院の者と市場の代表が、互いの在庫と必要量を記録し始めています」


 レオンハルトが言う。


「足りないなら、その事実を隠さずに、魔侯領とアウローラへ助けを求める」


「連記窓を、救援の要求に使えます」


 フィルブランテが言った。


「ただし、誰へ何を求めるかを書いてから」


 試験の窓は、問題なく閉じた。


 閉じる前に、レオンハルトが言う。


「王都の記録を、こちらから一方的に渡してはいない。だが、必要な時に助けを求める先が見えた」


「はい」


 フィルブランテが頷く。


「それが窓です」


 白い枠が、静かに小さくなる。


 閉じる理由。


 試験終了。


 次に確認する時刻。


 三時間後。


 文字が残る。


 窓は閉じた。


 でも、道が消えたわけではない。


 次に開くための記録が、雲の中に残っている。


     ◇


 次の窓は、魔侯領の夜嶺へつながった。


 カイラスとガレウス、七氏族の代表たちが、石の円卓を囲んでいる。


 その周りには、黒水の霧が薄く流れていた。


「呼ぶ者は、カイラス・ヴェイル・ノクサル」


 カイラスの声は、いつもより少し硬い。


「目的は、峡谷北の監視塔で起きた黒水の濃度上昇について、共同監視団の救援を求めること」


「聞く者は、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル」


 アマンテルスが答える。


「目的を聞いた。濃度情報と、救援に必要な人員・物資を声と記録で受け取ることに同意する」


 窓が開く。


 石の円卓の向こうに、峡谷の監視塔が映った。


 黒い霧が塔の半分を覆っている。


「黒水が、塔に残る共同監視団の記録だけを狙っている」


 ガレウスが言った。


「王国側の兵が先に逃げたと書き、魔侯領側の見張りが先に門を閉じたと書いている。両方とも、まだ確認していない」


「確認した者は?」


 フィルブランテが問う。


「塔の中に、王国側と魔侯領側、それぞれ一人ずつ残っている」


「なら、二人の声を聞く」


 アマンテルスが言う。


「片方の報告で、逃げたとか閉じたとか決めない」


 窓の向こうに、二人の若い見張りが映る。


 王国側の兵士と、魔侯領側の角を持つ見張り。


 どちらも、黒水の霧に咳き込んでいる。


「王国側の人は、先に逃げたのか」


 カイラスが尋ねる。


 見張りは、首を振った。


「違う。外にいた子どもを、中へ入れに行った」


「魔侯領側の人は、門を閉じたのか」


 アマンテルスが問う。


 兵士が、息を整えて答える。


「閉じた。でも、黒水の霧を外へ出さないためだ。俺たちを閉じ込めたわけじゃない」


 黒水の霧が、強く揺れる。


 それは、嘘ではない。


 ただ、都合の悪い前後を消して、一方だけの裏切りにしたかった。


「救援を出す」


 ガレウスが言った。


「でも、こちらだけで突っ込めば、塔の中の黒水が峡谷へ散る」


「王都から浄化薬を回せます」


 リゼットが言う。


 彼女は、第三の連記窓を提案する前に、手帳を開いた。


「呼ぶ者は、リゼット・アウレリア。目的は、峡谷監視塔の負傷者と子どもへ浄化薬を送ること。聞く者は、王都の救護院と、アウローラの旗なき救難船」


 窓は、二つ同時には開かない。


 だが、一つずつ確認すれば、連なる。


 王都の救護院が、在庫と輸送手段を答える。


 アウローラのマレアが、旗なき船の小艇で峡谷の水路へ入れるかを答える。


 魔侯領の監視団が、塔の外で霧を抑える。


 王国の兵が、門を内側から開ける。


 誰か一人が全部を決めない。


 でも、誰も動かないわけでもない。


 連記窓を通して、必要な役目が次々とつながる。


 数刻後、監視塔の黒水は、峡谷へ広がる前に封じられた。


 子どもたちも、見張りたちも救い出される。


 窓を閉じる時、ガレウスは短く言った。


「使えるな」


「何がですか」


 アマンテルスが尋ねる。


「保留だ」


 将軍は、少しだけ不機嫌そうに言った。


「先に怒鳴っていたら、門を閉じたやつを敵だと思っていた。聞く時間はあった」


 それだけ言って、窓の向こうで腕を組む。


 アマンテルスは、少し笑った。


「覚えとけ」


「何をです」


「聞く時間があった、って報告」


 ガレウスは顔をしかめた。


 でも、隣の書記がしっかり書き留めている。


     ◇


 連記窓は、少しずつ各地へ広がった。


 学院では、生徒たちが黒水の噂を聞いた時、誰が発言したか、誰が聞いたかを記録してから話し合った。


 慈善薬園では、薬草の不足を隠さず、王都と港へ助けを求めた。


 アウローラでは、旗を持たない小艇が、救難の声を受け取る手順を港の掲示板へ貼った。


 帰岸庫では、名を思い出せない者へ「分からない」と書くための紙が配られた。


 対岸世界では、真琴がノートの余白に、窓を開く前の四つの項目を写した。


 呼ぶ者の名と目的。


 聞く者の同意。


 開く範囲と時間。


 閉じる理由と、次に確認する時刻。


 彼女は、ゲーム画面の黒い選択肢を見ながら、ノートへ書く。


 私は、唐傘真琴。透と輝の母。


 目的は、二人の声を聞き、二人が無事かを確認すること。


 画面の雲が、淡く光る。


 遠くで、フィルブランテの声が届く。


『聞く者は、唐傘輝。目的を聞いた。声だけで、十分に時間を限って話すことへ同意する』


 真琴の目が、少しだけ潤む。


 でも、すぐに泣かない。


 黒水は、泣くことを弱さにして、誰かを急かすかもしれない。


「二人とも、ご飯は食べていますか」


 最初に出た言葉は、それだった。


 水鏡の向こうで、アマンテルスが吹き出す。


『母さん、最初にそれ?』


『一番大事でしょう』


 真琴は答える。


 フィルブランテが、少し困ったように笑う気配がある。


『食べています。寝る時間は、あまりないですが』


『それは駄目です。少なくとも、交代で休んで』


 黒い画面の端に、細い文字が浮かぶ。


 母は、帰還を命じない。だが、待ち続ける。


 黒水が、そこから別の言葉を作ろうとする。


 待つ者を、一人にするな。


 真琴は、その文字を読んだ。


 確かにそうだと思う。


 一人で待つのは、苦しい。


 でも、黒水が望むのは、真琴が苦しさから、二人へ「今すぐ帰れ」と命じることだ。


 だから彼女は、ノートへ書く。


 私は、一人で待つことが苦しい。


 その下に。


 だから、待つことを一人の役にしない。二人が大切にしている人たちと、声をつなぐ。


 雲の向こうで、アリスの声がした。


『聞こえています。私は、アリス。黄昏島の灯守です』


『初めまして』


 真琴は、少し息を整える。


『透と輝が、あなたたちのことを大切にしています。だから、二人を一人で帰らせることは、今は望みません』


 アリスの雲が、柔らかく揺れた。


 違う世界の母。


 会ったことのない人。


 でも、アリスが帰りたいと書いた黄昏島を、真琴は否定しない。


 連記窓は、少しずつ二つの世界の間に、ただの通信路ではないものを作っていた。


 それは、誰かが誰かを支配しないための距離。


 そして、助けを求めるために残す近さだった。


     ◇


 夕方。


 境界図書塔の空が、急に暗くなった。


 雲鍵共同避難所の灯りが、すべて同時に揺れる。


 王都の白。


 魔侯領の紫。


 アウローラの青。


 学院の金。


 薬園の緑。


 帰岸庫の淡い海色。


 対岸世界の小さな橙。


 七つの光へ、黒水が一斉に伸びた。


「来ました」


 ノエルが言う。


 結晶板の上で、黒い線が七つの連記窓を結ぶ。


「黒水は、連記窓が直接声をつなぐ前に、各地の窓へ“緊急命令”を送ろうとしている」


 水鏡の前に、黒い文字が浮かぶ。


 双月境界選定式、緊急開始。


 各地の連記窓は、裁定記録の提出を要求される。


 提出しない記録は、無回答として閉鎖する。


「あと二十四時間ではなかったのか」


 シリルが言った。


「式そのものの開始ではありません」


 ノエルは答える。


「黒水は、各地の窓を先に裁定用の提出口へ変えようとしている。今、どれか一つでも慌てて“王国を残す”“魔侯領を残す”“家族を優先する”と書けば、その一行を選定式へ取り込まれる」


 黒い文字が、各地へ同時に飛ぶ。


 王都の大広間では、白い窓の上に選択肢が出る。


 王国の継続を最優先と記す。


 魔侯領の円卓には。


 魔侯領の生存を最優先と記す。


 アウローラの港には。


 救難船の帰港を最優先と記す。


 学院には。


 生徒の退避を最優先と記す。


 慈善薬園には。


 薬草の保全を最優先と記す。


 帰岸庫には。


 帰還者の帰路を最優先と記す。


 対岸世界の真琴の画面には。


 息子の帰還を最優先と記す。


 どれも、間違いではない。


 誰かにとっては、いちばん大切なことだ。


 だからこそ、黒水はそれを使う。


 一つの願いを、他の全てを切る刃に変える。


「窓を閉じますか」


 アリスが問う。


 黒水の文字を遮断すれば、各地は守れるかもしれない。


 けれど、窓を閉じれば、今度は皆が本当に孤立する。


「閉じない」


 フィルブランテが言った。


 少し早すぎる返事だったかもしれない。


 でも、すぐに理由を書く。


「黒水が選択肢を送ってきたことを、各地へ見せます。何を急がせようとしているのか、皆で確認する」


「それで、誰かが選んでしまったら」


 アマンテルスが問う。


「選んだこと自体を、すぐに敵へしない」


 フィルブランテは答えた。


「王国を守りたい。家族を帰したい。薬草を守りたい。その願いは、間違っていない。だから、何を切り捨てる形に書き換えられているかを、先に聞く」


 白い手帳に、新しい一行が加わる。


 緊急の選択肢を受け取った時、その選択肢が何を残し、何を切り捨てる形にされているかを、提出前に読み上げる。


「各地へ送ります」


 ノエルが言う。


 連記窓が、黒水の選択肢を隠さず映す。


 王都で、レオンハルトが言った。


『王国の継続を願う。だが、そのために他の世界を残さないとは書いていない』


 魔侯領で、カイラスが言う。


『魔侯領の生存を願う。だが、それは王国や対岸世界の死を選ぶことではない』


 アウローラで、マレアが言う。


『救難船の帰港を願う。だが、海で助けを求める他の船を捨てる帰港には同意しない』


 学院で、生徒の声が重なる。


『退避したい。でも、残る人をいないことにしない』


 薬園で、オーギュストが言う。


『薬草を守りたい。だが、薬を待つ人より箱を優先するとは書かない』


 帰岸庫で、ルカが言う。


『帰りたい。でも、僕だけが帰ることを最優先とは書かない』


 そして、対岸世界で。


 真琴が画面を見つめている。


 息子の帰還を最優先と記す。


 母として、押したくなる言葉だった。


 透と輝が帰ってくるなら。


 それを願うことが、何より正しいと思える。


 黒水は、それを知っている。


 画面のボタンが、赤く光る。


 だが真琴は、ノートを開く。


 そして、連記窓へ言った。


『私は、息子たちの帰還を願います』


 向こうで、透と輝の声が少し息を呑む。


『でも、“最優先”と書くなら、そのために誰の帰る場所が後回しになるのかを、私は先に聞きます』


 黒水が、画面を黒く染める。


 聞く時間はない。


『あります』


 真琴は答えた。


『今、ここで聞いています』


 彼女は、画面の赤いボタンを押さない。


 代わりに、ノートへ書く。


 私は、息子たちの帰還を願う。


 私は、息子たちの帰還を、他者の帰る場所を消す理由にしない。


 その文字が、連記窓を通って七つの場所へ届いた。


 黒水の選択肢が、一つずつひび割れていく。


 王国を守りたいという願いは残る。


 魔侯領を守りたいという願いも残る。


 家族へ帰ってきてほしい願いも残る。


 しかし、それらを一つだけの答えにする文字は、どこにも残らない。


 黒水が、低い音を立てた。


 連記窓の白い枠が、大きく揺れる。


 敵は、窓を閉じられなかった。


 だから、別の方法を取る。


 七つの窓のうち、一つだけを黒く塗り潰す。


 対岸世界の窓。


 真琴のいる部屋が、急に映らなくなる。


「母さん!」


 アマンテルスが、思わず叫んだ。


 雲の橙の灯りが、黒水の中へ沈んでいく。


「落ち着いて」


 フィルブランテが言う。


 声は硬い。


 彼自身も、手帳を持つ手が震えている。


「窓を閉じた記録を確認する」


 連記窓の四つ目。


 閉じる理由と、次に確認する時刻。


 黒水は、そこを書かずに窓を閉じようとしている。


 だから、完全な閉鎖にはならない。


「閉じたのではない」


 ノエルが、結晶板を見て言う。


「黒水が、対岸世界の窓を“無回答”に見せようとしている。真琴さんの記録そのものは、まだ残っています」


「どこだ」


 透の声が低くなる。


「ゲーム画面の中です。CONTINUEとNEW GAMEの選択肢の間」


 水鏡の奥に、黒い画面が映る。


 CONTINUE。


 NEW GAME。


 その間に、細い白い線がある。


 真琴が書いた、二つの文章。


 息子たちの帰還を願う。


 その帰還を、他者の帰る場所を消す理由にしない。


 黒水は、その白い線を消し切れていない。


「連記窓の手順が、効いています」


 ノエルが言った。


「真琴さんが、閉じる理由も、次に確認する時刻も書かずに窓を閉じることへ同意していない。黒水は、窓の外側を暗くすることしかできない」


「なら、開き直す」


 アマンテルスが言う。


 黒い日傘を持ち上げる。


「今すぐ」


「待って」


 フィルブランテが、兄の腕を掴んだ。


「開く前に尋ねる」


 透の目が、少し鋭くなる。


「でも、母さんが」


「分かっています」


 輝の声も、少し揺れている。


「でも、俺たちが焦って窓をこじ開けたら。黒水が待っていた入口になる」


 アマンテルスは、言葉を失う。


 目の前で、母の灯りが黒くなっている。


 助けたい。


 今すぐ。


 兄として。


 息子として。


 でも、ここで自分が勝手に開けば。


 また、誰かを選ぶ窓になる。


「何をする」


 透は、絞り出すように言った。


 フィルブランテは、白い手帳を開く。


「母さんが書いた、窓を閉じないための記録を読む」


 彼は、皆へ言う。


「対岸世界の窓は、真琴さんだけの窓ではありません。母さんが“二人が大切にしている人たちと声をつなぐ”と書いてくれた。だから、皆が聞く側として、母さんの記録を受け取る」


 アリスが、雲鍵を抱えた。


「一人で待つ人を、一人にしない」


 雲が、黒い画面の白い線へ伸びる。


 リゼットが、白い花を重ねる。


「助けを求める声が聞こえない時も、聞こえないことを記録します」


 レオンハルトが、王都から連記窓へ署名を送る。


『王国の者としてではなく、透と輝の仲間として。真琴殿の記録を、今ここで受け取る』


 カイラスの雷が、夜嶺から届く。


『魔侯領の者としてではなく、アマンテルスの幼なじみとして。俺も聞く』


 マレアの声。


『海の上にいる者として。帰るのを待つ者を、波の向こうに一人で置かない』


 ルカの声。


『僕も。真琴さんが、透さんと輝さんのお母さんだって知っています』


 そして、アステリアが灯鍵を掲げた。


「対岸世界の窓は、呼ぶ者と聞く者の記録を保持しています」


 白い灯りが、黒い画面の端へ届く。


「呼ぶ者は、唐傘真琴。目的は、息子たちの無事を確認すること」


 皆の声が、続く。


「聞く者は、唐傘透」


「聞く者は、唐傘輝」


「聞く者は、リゼット」


「聞く者は、アリス」


「聞く者は、レオンハルト」


「聞く者は、カイラス」


「聞く者は、まだ名を言えない帰還者たち」


 黒い画面の白い線が、少しずつ太くなる。


 黒水は、母の窓を無回答にできない。


 聞く者が、こんなにいる。


 次の瞬間、画面の奥から、真琴の声が聞こえた。


『聞こえる?』


 小さな声。


 少し息が乱れている。


 でも、はっきりしている。


「母さん!」


 透と輝の声が、同時に重なった。


 真琴は、少し笑ったようだった。


『大丈夫。部屋の明かりが消えただけ。ノートはここにある』


 黒水は、部屋を暗くできた。


 でも、真琴の名も、彼女が書いた記録も、聞く者の声も消せなかった。


『私は、二人が帰ってくるのを待っています』


 真琴は言う。


『でも、二人だけに、帰る場所を選ばせません』


 その言葉が、連記窓の中央を白く照らす。


 黒水は、対岸世界の窓から引いていった。


 ただし、完全に消えたわけではない。


 水鏡の奥で、黒い祭壇が大きく揺れる。


 ザハルの声が、初めてはっきりと各地へ響いた。


『よくできました』


 穏やかな声。


 けれど、今は慈愛を装う余裕がない。


『窓を開く前に尋ねる。互いの声を待つ。異なる願いを並べる。確かに、美しい手順です』


 七つの連記窓に、黒い影が一つずつ映る。


 ザハルは、皆の言葉を聞いていた。


『しかし、手順には時間がかかる』


 水鏡の向こうで、二つの月が近づき始める。


 まだ夜ではない。


 なのに、銀と青紫の光が重なり、昼の空へ細い輪を作っている。


『私は、あなた方に二十四時間を与えません』


 黒い祭壇の鐘が鳴る。


 低い音。


 連記窓の白い枠が、全部震えた。


 ノエルの結晶板に、数字が浮かぶ。


 双月境界選定式まで、十二時間。


 アリスの雲が、強く揺れる。


「半分に」


「黒水が、月の記録を引き寄せた」


 ノエルが言った。


「式の開始が早まる。今度は、窓の試験ではなく、本当に黒い祭壇へ各地の声を届けなければならない」


 ザハルの声が、最後に響く。


『十二時間後、二つの世界は答えを出す。透。輝。今度こそ、あなた方が座りなさい』


 黒い影が消える。


 七つの連記窓は、まだ開いている。


 各地の灯りも、まだ消えていない。


 けれど、決戦まで残った時間は半分になった。


 フィルブランテは、手帳の〈連記窓〉の頁を閉じた。


「試験は終わりです」


 彼は言う。


 隣のアマンテルスを見る。


「次は、あの窓を黒い祭壇の前で開く」


 透は、黒い日傘を開いた。


「十二時間で、全員の声を持っていく」


 どちらの世界も。


 誰か一人の答えにもさせないために。

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