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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第三十六話 同じ答えではなく、同じ頁へ

双月まで、三日。


 黒い祭壇の中央にあった裁定者の席は、空席へ戻った。


 けれど空席を取り戻しただけでは、二つの世界を続ける記録にはならない。


 境界図書塔の最上階。


 雲鍵共同避難所と水鏡を結ぶ小さな円卓の上に、七つの白い紙が並んでいた。


 紙の上には、それぞれ異なる見出しがある。


 出発を見た者。


 到着を見た者。


 傷を受けた者。


 救援を担う者。


 記録を照合する者。


 未来を待つ者。


 答えを保留する者。


 七つの連記席に対応する記録紙。


 どの紙も、まだ半分以上が空白だった。


「各地から届いているのは、最初の返答だけです」


 ノエルが結晶板を見ながら言った。


 彼の指先の上に、細い光の線がいくつも浮かんでいる。


 王都。


 魔侯領。


 アウローラ。


 ルクシア学院。


 イデルバルディ公爵領。


 アルバの帰岸庫。


 そして、対岸世界。


 それぞれの場所から、雲鍵共同避難所へ小さな灯りが届いている。


 けれど、どの灯りも不安定だった。


「黒水が、記録を白紙にしています」


 フィルブランテが言った。


 晶析眼には、各地で書かれた文字が見えている。


 王都の救護院で書かれた、薬が必要な人の名。


 魔侯領で書かれた、峡谷の監視を続けたい氏族の声。


 アウローラの船頭が書いた、旗を問わず救難へ向かいたいという言葉。


 学院の生徒が書いた、明日も同じ教室で学びたいという短い願い。


 公爵領の農夫が書いた、畑と川を守りたいという記録。


 帰岸庫の帰還者が書いた、まだ名前を思い出せない友人のこと。


 真琴が書いた、二人の息子が帰りたいと思うことを待ちたいという文字。


 その言葉の端から、黒水が白く消している。


 文字だけを奪うのではない。


 書いた者に、こう囁く。


 どうせ、全員の意見は同じにならない。


 どうせ、誰かが間違う。


 どうせ、書き直すくらいなら、最初から何も書かないほうがましだ。


「白紙に戻せば、黒水は“無回答”にできます」


 ノエルが言った。


「無回答になった席は、式の側が勝手に残った記録で補う。つまり、声の大きい者、既に権限を持つ者、あるいは黒水が用意した偽の記録だけが残る」


「同じ答えを書かせるわけではない」


 アマンテルスが言う。


「何も書けないようにして、結局は一つの答えにするってことか」


「はい」


 ノエルが頷いた。


「黒水にとって、意見が違うことは問題ではありません。違いを理由に、記録を諦めさせることが目的です」


 フィルブランテは、七つの紙を見る。


 全員が同じ言葉を書く必要はない。


 王都に住む者と、魔侯領に住む者が、同じ未来を望む必要もない。


 元の世界にいる真琴と、黄昏島で生まれたアリスが、同じ帰る場所を選ぶ必要もない。


 ただ。


 違う願いを、誰かが勝手に白紙にしないこと。


 それだけを、ここまで守ってきた。


「各地へ行きます」


 フィルブランテが言った。


「全員が一つの場所に集まる必要はありません。雲鍵を通して、各地がそれぞれの頁を書けるようにします」


「どうやって」


 シリルが問う。


「雲記の写しを、各地に置きます」


 アリスが答えた。


 小さな雲の瓶を七つ、円卓に並べる。


「ただし、今の雲記はまだ、一つの雲へ多くの声を集める作りです。黒水が入れば、まとめて白紙にされるかもしれません」


「まとめない」


 フィルブランテが言った。


「雲を、各地で独立して保管します。必要な時だけ、同意した文字を写し合う」


「それだと、照合に時間がかかる」


 ノエルが言う。


「かかります」


 フィルブランテは頷いた。


「でも、黒水に一度で消されるよりはいい。締切までに全てを完璧に揃えるのではなく、今どこまで書けたか、どこがまだ空白かを、皆で見えるようにしましょう」


「未完成のまま、連記する」


 アリスが呟く。


 雲の少女は、少し驚いたようだった。


 これまで記録を守るとは、完成した形へ保管することだと思っていた。


 でも、未来が決まっていないなら。


 未完成であることも、記録できる。


「はい」


 フィルブランテは言った。


「黒水が嫌うのは、未完成そのものではないはずです。未完成のまま、誰かが助けを求められることです」


 アマンテルスが、黒い日傘を開く。


「じゃあ、やることは決まりだな」


 日傘の内側に、星がいくつも灯る。


「皆が書けるようにして、書けないところへ助けを出す。これまでと同じだ」


     ◇


 最初に雲が届いたのは、セレディア王国の王都だった。


 白薔薇大広間の一角には、以前の婚約条項再確認会議で使われた長机が残されている。


 今、その上には王太子府の文書でも、諸侯の投票箱でもない、小さな雲の瓶が置かれていた。


 瓶の中で、灰青色の雲がゆっくり動く。


 雲の表面には、黄昏島の円卓が淡く映っている。


「王都の連記紙は、こちらです」


 ユーディット・フェルンが、書記官たちへ白い紙を配った。


 彼女は第26話の選定院で、生贄にされかけた書記官だった。


 今は、以前より少しだけ背筋を伸ばしている。


「一人ずつ、同じことを書く必要はありません。何を続けたいか。何を恐れているか。自分では決められないことは何か。書ける範囲で書いてください」


 集まった者たちは、すぐにはペンを取らなかった。


 諸侯。


 商人。


 救護院の代表。


 近衛兵。


 王都の市場で働く人々。


 皆、紙を見ている。


「書いて、それが間違っていたらどうなる」


 年配の商人が言った。


「帰岸記録に書いた場所が、黒水の海図になりかけたでしょう」


 アウローラで起きたことを、皆知っている。


 記録は、助けにもなる。


 同時に、利用されることもある。


 だから、ペンを取ることが怖い。


「間違いは、訂正できます」


 ユーディットが言った。


「消す前に、誰が何をどこまで知って書いたかを残します。場所の詳しい情報を書きたくなければ、書かなくていい。今は、皆さんがどこへ帰りたいと思っているかを、誰かに代わりに決めさせないための記録です」


 レオンハルトが、机の端に立った。


 王太子は、誰より先に自分の紙へ書き始める。


 私は、王国の民が明日も自分の生活を続けられるように、救援と防衛の判断を担う。


 次に、少し間を置く。


 私は、王国が残るために、他の世界や他の国の人々が消えることへ同意しない。


 筆を置き、周囲を見る。


「これは、王太子としての命令ではありません」


 レオンハルトは言った。


「私が書く、私自身の記録です。皆さんには、皆さんの言葉で書いてほしい」


 しばらくして、近衛兵の一人が紙を取った。


 黒水の影に怯え、魔族の角を見れば兄の死を思い出した若者。


 彼は、短く書く。


 私は、家に帰りたい。


 その次に、少し考える。


 怖い時に、魔族を敵と呼びそうになる。だから、その前に誰かと話したい。


 文字が、雲の瓶の中に淡い光として浮かぶ。


 それだけだった。


 立派な宣言ではない。


 でも、黒水が一つの敵意に変えられない記録だった。


 次に、市場の女性が書く。


 私は、店を続けたい。


 戦争になれば、仕入れが止まるのが怖い。だから魔侯領との交易を続けたい。


 救護院の者が書く。


 私は、治療薬が足りない時、助けを求める記録を残す。


 諸侯の一人が、長い時間をかけて書く。


 私は、自領を守りたい。だが、領境に逃げてくる人を、出身だけで追い返す命令は出さない。


 言葉は、同じではない。


 でも、白い紙は少しずつ埋まっていく。


 その時、窓の外で雨が降り始めた。


 黒い雨。


 雲の瓶の中の文字が、一瞬だけ滲む。


 誰かが息を呑む。


 雨は、紙の上に文字を出した。


 異なる願いは、記録にならない。


 王国を残したい者は、王国だけを書け。


 レオンハルトの紙の端が、黒く染まる。


 王国を守る。


 そう書いた文字だけを、黒水は大きくする。


 他の世界を消さない、という一行を薄くする。


 黒水は、彼をまた王国の唯一の答えにしたい。


「待ってください」


 ユーディットが、紙の前へ立った。


 彼女は黒水の文字を見た。


 以前なら、自分が書記官として不十分だったから、記録が狙われたのだと思ったかもしれない。


 今は、違う。


「王太子殿下の記録は、王国だけの答えではありません」


 彼女は言う。


「王国を守る責任と、他の場所を消させない意思の両方が書かれています。黒水が片方を読まないなら、それを記録します」


 ユーディットは、新しい紙を取り出す。


 黒水は、レオンハルト殿下の記録から“他の世界を消さない”という一行を除こうとした。


 除かれた一行を、私は読んだ。


 周りの書記官たちが、次々と署名する。


 私も読んだ。


 私も確認した。


 黒水の雨が、少し薄くなる。


 白紙にするには、皆が読んだ文字を、一度に消さなければならない。


 それは、黒水にとって面倒な作業だった。


     ◇


 魔侯領の夜嶺では、七氏族の円卓が開かれていた。


 角を持つ者。


 翼を持つ者。


 影を持つ者。


 鱗を持つ者。


 それぞれの代表が、黒い石の卓を囲んでいる。


 卓上には、アリスの雲の瓶。


 瓶の中に、王都の小さな灯りが映っていた。


「人族の記録など、見せられても困る」


 石角族の若い代表が言った。


「王国が何を書こうと、俺たちの故郷は守られない」


「守られるとは、誰かが約束することではない」


 カイラスが答えた。


 彼は七氏族の席の中央には座らない。


 少し離れた場所に立っている。


 代表として全てを決める立場にならないために。


「今、書くのは王国を信じる宣言ではない。自分たちが何を守り、何を恐れ、何を一人で決められないかだ」


「それを書けば、王国へ筒抜けになる」


「詳細を書かなくていい」


 アマンテルスが言った。


 彼女は、黒い日傘を閉じ、卓の端へ置いた。


「黒水が欲しいのは、俺たちが“人族を敵と呼ぶ”一行だ。だから、怖いことは書いても、敵の名を勝手に決めないことを書く」


 ガレウスが、円卓の端にいた。


 主戦派の将軍は、腕を組んで雲の瓶を見ている。


 黒水は、彼の足元にも小さな文字を落とす。


 王国は、また魔侯領を捨てる。


 先に刃を取れ。


 ガレウスは、その文字をしばらく見ていた。


 彼は、白い鎧を怖いと言った。


 戦友ネヴィルを失ったことを、今も忘れていない。


 だから、黒水の言葉は簡単には消えない。


「俺は」


 ガレウスが、低く言った。


 皆が彼を見る。


「俺は、王国を信じていない」


 卓の空気が固くなる。


 黒水が、喜ぶように揺れた。


 しかし将軍は、続ける。


「王国の全員が、俺たちを守るとも思っていない。次に峡谷で矢が飛べば、俺はまた怒る」


 彼は、雲の瓶を見た。


 そこには、王都の近衛兵が書いた文字が映っている。


 怖い時に、魔族を敵と呼びそうになる。


 だから、その前に誰かと話したい。


「だが、あの兵が、怖いと書いたことは見た」


 ガレウスは言う。


「怖いから俺たちを殺すと書いたわけではない。なら、俺も書く」


 彼が石板へ刻む。


 俺は、夜嶺を守りたい。


 次に。


 王国の軍が峡谷へ入る時は、共同監視団の記録を見たい。


 そして、最後に。


 俺は、戦争を始める命令を一人で出さない。


 石板に雷が走る。


 ガレウスの文字が、雲の瓶へ写る。


 若い石角族の代表は、しばらく何も書かなかった。


 やがて、彼も短く刻む。


 俺は、弟が眠れる夜を続けたい。


 隣の夢魔族の代表が書く。


 私は、商人が夜道を歩けるようにしたい。


 翼を持つ氏族の老女が書く。


 私は、戦争で失った人の名前を、次の子どもの敵意にしない。


 七氏族の言葉は、同じではない。


 人族を信じる、と書いた者はいない。


 でも、すぐに敵と決めない。


 その一行だけは、いくつもの石板に別の形で現れた。


 黒水は、それを一つの弱さに変えようとする。


 迷いは、侵略を招く。


 ガレウスの石板が、黒く濡れる。


 しかしカイラスが、雷を落とした。


 黒水を焼くためではない。


 黒水が消そうとした文字の輪郭を、皆へ見せるために。


「黒水が、何を怖がっているかを記録しろ」


 カイラスは言った。


「俺たちが迷うことではない。迷った時に、皆で決めることだ」


 石板の周りに、別の氏族の署名が増えていく。


     ◇


 アウローラの港では、風が強かった。


 旗なき救難船〈暁なき潮騒〉は、港に戻ってはいない。


 けれどマレアは、海上の救難索を通して、港の雲瓶へ声を届けている。


 第三埠頭の倉庫では、ネレア、イオ、港湾組合の書記たち、船大工たち、船頭たちが集まっていた。


 机の上には、船の航路図ではなく、白い連記紙がある。


「座標は書かないでください」


 ネレアが、最初に言った。


「誰がどこにいるかを黒水に海図として渡さないためです。書くのは、救難を求める時、どんな合図があれば誰が動けるか。それから、動けない時に誰へ繋ぐかです」


「そんなことを書いて、船は出せるのか」


 老いた船頭が言う。


「海は待ってくれない」


「待たせるためではありません」


 イオが答えた。


 彼は、月読盤の潮路補佐として、以前より落ち着いた声を出している。


「一艘が出られない時、ほかの一艘が動けるようにするためです。誰も、一艘の船だけを唯一の救難船にしない」


 船大工が、紙へ書く。


 私は、帆が破れた船を直す。出航できない時は、直せない理由と必要な部品を知らせる。


 船頭が書く。


 私は、旗を見て救難を断らない。だが、黒水の偽信号を確認するため、二人以上の水先が声を照合する。


 港湾組合の者が書く。


 私は、倉庫を開ける。食料の量を隠さない。足りない時は、港の外へ助けを求める。


 ネレア自身も書いた。


 私は、帳簿を一人で抱えない。見た数字と、見ていない数字を分けて渡す。


 雲の瓶へ、港の言葉が浮かぶ。


 その時、倉庫の外で霧笛が鳴った。


 短い音。


 次に、長い音。


 黒い霧が港へ流れ込んでくる。


 霧の中に、救難信号の旗が見えた。


 赤い布。


 助けを求める船がいる。


 だが、イオの顔が変わる。


「偽信号です」


「なぜ分かる」


「旗の結び方が違う。あと、潮の向きがおかしい」


 黒水は、また救難を偽装している。


 助けを求める声を疑わせ、港の人々へ「だから、記録は危険だ」と思わせるために。


 しかしマレアの声が、雲瓶から響く。


『偽物でも、海の下に本物がいるかもしれない』


 倉庫の者たちが、顔を上げる。


 以前なら、誰か一人が出航を決めただろう。


 今は、イオが月読盤を見る。


 船頭が潮を読む。


 船大工が使える船を数える。


 ネレアが二人の水先へ照合の伝言を送る。


 港湾組合が倉庫の救命具を開ける。


「黒水の船影を追いません」


 イオが言う。


「救難船を二艘出す。一艘は霧の外で待機し、もう一艘は索を伸ばす。誰が乗るか、誰が残るかを、今ここで一人には決めさせない」


 黒い霧は、港の人々が迷うのを待っていた。


 けれど彼らは、迷ったまま動いた。


 救難を偽と決めつけず。


 危険を隠さず。


 行ける者と、残る者と、確認する者を分ける。


 霧の中から救い上げたのは、黒水に絡まれた小さな漁船だった。


 船上には、港の名も知らない二人の漁師がいた。


 彼らは、旗を掲げた覚えもない。


 黒水に、救難信号の道具として使われていた。


 港の連記紙には、新しい一行が加わる。


 偽の救難信号があっても、救難の声を閉じない。確認と救助を分ける。


 雲の瓶の中で、港の灯りが少し強くなった。


     ◇


 ルクシア学院では、講堂の机が全部、窓際へ寄せられていた。


 生徒たちは、紙と雲瓶を前に座っている。


 黒水の雨が降り始めてから、学院には小さな噂が増えていた。


 魔族の留学生がいるから危ない。


 王太子と悪役令嬢が、世界を選ぶらしい。


 聖女が何とかしてくれる。


 どの噂も、誰かを一人の役へ押し込める。


 だから、リゼットは講堂の前に立ち、最初に言った。


「私は、皆さんの代わりに答えを書きません」


 白い花を、机の上に一輪置く。


「何を書くか、書かないかも。皆さんが決めてください。ただ、黒水が皆さんの不安を別の人への悪口に変えようとしたら、その言葉だけは一緒に確認します」


 生徒の一人が、小さく手を上げる。


「僕は、何を書けばいいのか分かりません」


「分からない、と書いても大丈夫です」


 リゼットは答える。


「分からないまま、一人で答えを出さない、と」


 その生徒は、少し考えてから書いた。


 私は、卒業したら薬師になりたい。


 次に。


 戦争になったら、夢がなくなるのが怖い。だから、誰かが敵だと言った時、理由を聞きたい。


 別の生徒が書く。


 私は、魔族の友人と同じ実験班を続けたい。


 魔族の生徒が書く。


 私は、角を怖がられないようにしたい。でも、怖がる人をすぐ悪い人とも言わない。話す時間がほしい。


 その文字を読んだ人族の少女が、目を伏せる。


 そして、同じ紙の隣に書く。


 私は、角を見ると怖いと思う。でも、怖いから友人をやめたくない。


 講堂は、少し静かになる。


 気まずいかもしれない。


 でも、黒水が望む沈黙とは違う。


 怖いと言ったことを、敵意にしない沈黙。


 次に言葉を選ぶための静けさ。


 シリルは、講堂の後ろに立ち、誰も無理に書かせないよう見ている。


 黒水が、生徒たちの紙へ近づく。


 幼い願いは、世界を続ける根拠にならない。


 文字が、黒く滲む。


 リゼットの白い花が、その上に咲いた。


「なります」


 彼女は言う。


「世界を続ける理由は、大きな言葉だけではありません。明日、友人と勉強したい。仕事をしたい。誰かと食事をしたい。そういうことも、続けたい理由です」


 生徒たちの紙は、黒水に消されなかった。


 すべてを救う約束ではない。


 でも、明日を続けたいという声が、確かに残った。


     ◇


 イデルバルディ公爵領の慈善薬園では、雨が土を黒くしていた。


 黒水の雨は、薬草の葉に落ちると、書かれた札の文字だけを薄くする。


 薬の名前。


 植えた人の名前。


 どこへ送る予定だったか。


 記録が消えれば、薬草はただの草になる。


 オーギュスト・イデルバルディは、雨の中で札を一枚ずつ守っていた。


 財務卿の手には、泥が付いている。


 隣ではミレーヌが、濡れた帳簿を布で押さえていた。


「旦那様。こちらの箱を先に」


「待て。札だけは写してから運ぶ」


「箱が濡れれば、薬が」


「分かっている」


 二人の声には、焦りがある。


 黒水は、そこへ文字を落とした。


 帳簿を守るか。薬草を守るか。


 どちらかを選べ。


 オーギュストの手が止まる。


 以前の彼なら、数字を優先したかもしれない。


 資材の数。


 流通の順。


 損失の計算。


 でも、セラフィナの帳簿を読んでから、彼は知っている。


 数字は、人を守るために読むものだ。


「箱を運ぶ者と、写す者を分ける」


 彼は言った。


「人を増やせば、どちらも守れる」


「薬園の者だけでは足りません」


 ミレーヌが言う。


「なら、隣の村へ知らせる」


 オーギュストは、雲瓶へ手を伸ばす。


「こちらは、イデルバルディ公爵領。薬草の札と救護箱が黒水の雨に狙われている。写しを取る手と、運ぶ手が必要だ」


 彼は、初めて領主としてではなく、助けを求める者として言った。


 すぐに、雲瓶の向こうから返事が来る。


 薬園の元で働いていた農夫。


 救護院の若い助手。


 学院を卒業したばかりの書記。


 イザベル・ローゼンも、父の古い帳簿を抱えて現れた。


「偽造の見分け方なら、少し分かります」


 彼女は言った。


 かつて、教団の命令でフィルを陥れた少女。


 今は、黒水が札を書き換えようとする線を見つける。


「ここです。薬草の名前を消して、別の箱の番号を足そうとしている」


 ミレーヌが頷く。


「では、写しを三部。薬園、救護院、雲鍵へ」


 オーギュストは、雨の中で紙へ書く。


 私は、薬草と帳簿のどちらかを選ばない。


 薬が誰へ届くかを記録し、足りない時は損失を隠さず助けを求める。


 次に、少しだけ迷ってから書いた。


 私は、娘の人生を国家の帳簿に記載する前に、娘の意思を聞く。


 ミレーヌは、その文字を読んだ。


 何も言わない。


 ただ、帳簿の端に、自分の名を添える。


 見た者として。


 黒水の雨は、薬園の札をすべて消せなかった。


 人の手で書いた写しが、三つの場所に残ったからだ。


     ◇


 アルバの帰岸庫では、ルカとエルドが、並んで灯りを見ていた。


 帰還者の記録庫には、まだ名前を取り戻せていない人々がいる。


 自分がどこから来たのか。


 誰が待っているのか。


 帰りたい場所があるのか。


 それさえ、はっきりしない者たち。


 黒水は、彼らへ一番強い言葉を投げていた。


 帰る場所を思い出せない者は、記録にならない。


 記録にならない者は、選定から外れよ。


 帰還者たちは、紙を見て動けなくなっていた。


 何を書けばいいのか分からない。


 名前がない。


 記憶がない。


 望みさえ、言葉にできない。


 ルカは、自分の父の手帳を抱えている。


 父の名を知った。


 自分が帰りたいと思っていることも、少しずつ分かってきた。


 でも、隣の人はまだ分からない。


「書けない人は、どうするんだろう」


 ルカが、エルドへ尋ねる。


 海の底から戻った男は、しばらく黙った。


 彼自身も、長いあいだ自分がどこへ帰るのか分からなかった。


 姉マレアの名を呼ばれるまで。


「見た人が書く」


 エルドは言った。


「でも、代わりに決めない。ここにいる、と書く」


 ルカは、白い紙を取った。


 隣に座る年配の女性を見た。


 彼女は、自分の名も、元の世界も思い出せない。


 ただ、毎朝、窓の外の波を見る。


「僕は、この人が毎朝、波を見ているのを知っています」


 ルカは書く。


「この人は、青い布を見ると泣きます。帰りたい場所は、まだ分かりません」


 次に、エルドが書く。


「俺は、この人が夜に眠れない時、子守歌を口ずさむのを聞いた」


 帰岸庫の書記が書く。


「私は、この人が今日、食事を食べたことを記録する」


 女性は、少し驚いたように皆を見る。


 自分のことを、誰かが書いている。


 でも、帰る場所を勝手に決めてはいない。


 しばらくして、彼女は小さく言った。


「……海の近く、だった気がする」


 それだけが、彼女自身の最初の文字になった。


 帰岸庫の灯りが、少し強くなる。


 黒水は、名前のない者を白紙にできなかった。


 名前が完全に戻っていなくても、ここにいることは記録できる。


     ◇


 対岸世界では、真琴が自宅の机に座っていた。


 窓の外は、普通の夕方に見える。


 車の音。


 遠くの子どもの声。


 冷蔵庫の低い音。


 いつもなら、透と輝が帰ってきて、何かを食べたいと言い、部屋を散らかして、ゲームの話をしている時間。


 でも今、二人はいない。


 机の上には、二つのコントローラーと、開かれたノートがある。


 ゲーム画面には、黒い文字が浮かんでいた。


 CONTINUE。


 NEW GAME。


 二つの世界を続けますか。


 真琴は、どちらのボタンにも触れない。


 代わりに、ノートへ書く。


 私は、唐傘真琴。透と輝の母です。


 筆が、少し震える。


 黒い画面から、文字がにじみ出る。


 あなたは、一人でいる。


 一人で待つ者に、連記の資格はない。


 真琴は、その文字を見る。


 一人だ。


 今、この部屋には一人しかいない。


 それは事実だ。


 黒水は、事実を使う。


 だから、すぐに否定しない。


 真琴は、ノートへ続けて書く。


 私は、今この部屋に一人でいる。


 黒い文字が、少し揺れる。


 真琴は、次に書く。


 けれど、一人で決めるためにいるのではない。


 雲鍵の小さな灯りが、画面の端に映る。


 黄昏島。


 王都。


 魔侯領。


 港。


 帰岸庫。


 透と輝。


 顔を見たことのない人たち。


 でも、声を聞いた。


 息子たちが大切にしている人たちの声を聞いた。


「透。輝」


 真琴は、小さく呼ぶ。


 画面の雲が、淡く光る。


『聞こえる』


 二人の声が、遠くから返る。


 真琴は、一度だけ目を閉じた。


 会いたい。


 今すぐ帰ってきてほしい。


 その願いは、消えない。


 でも、願いを二人への命令にしない。


「私は、二人が帰りたいと思う場所を、二人が自分で選ぶまで待ちます」


 真琴はノートへ書く。


「そして、二人がいる世界を、二人だけに守らせません」


 黒い画面が、文字を変える。


 それでは、誰が二人の帰還を保証する。


 真琴は、少し考える。


 保証できない。


 未来は、分からない。


 だから、正直に書く。


 私は、保証できない。


 その下に。


 でも、帰れない時に、二人の名を忘れない。助けを求める声を聞く。見たことを書き続ける。


 画面の黒い文字が、少し薄くなる。


 黒水は、完璧な約束を欲しがる。


 一人だけが、必ず守ると書けば、その人を選別できるから。


 真琴は、保証できないと書いた。


 それでも、待つことと記録することを選んだ。


 それは、小さな声だった。


 でも、雲鍵の灯りへ届く。


     ◇


 境界図書塔の円卓で、七つの連記紙が少しずつ明るくなっていた。


 王都。


 魔侯領。


 アウローラ。


 学院。


 公爵領。


 帰岸庫。


 対岸世界。


 それぞれの頁には、違う文字がある。


 世界を守りたい。


 弟が眠れる夜を続けたい。


 旗を問わず助けたい。


 友人と勉強したい。


 薬を届けたい。


 名前を思い出せない人を置いていきたくない。


 息子たちが帰る場所を、自分で選ぶまで待ちたい。


 同じ言葉は一つもない。


 しかし紙の端には、どれにも同じ形の小さな印がある。


 誰か一人に、全部を選ばせない。


「六つの連記席は、応答しました」


 ノエルが言った。


 結晶板には、六つの白い光が並んでいる。


「七つ目は?」


 アマンテルスが問う。


 ノエルの表情が、少し硬くなる。


「答えを保留する者の席です」


 円卓の七枚目。


 白い紙は、まだほとんど空白だった。


 保留すること。


 それは、決めないことではない。


 危険を放置することでもない。


 今は決められない理由と、確認する期限と、助けを求める先を書くこと。


 それを誰が担うのか。


 各地の人々は、まだ迷っている。


 保留と書けば、逃げたと思われるかもしれない。


 黒水は、そこへ細い文字を落とした。


 保留は、無責任。


 未完成は、無回答。


 七枚目の紙の文字が、消えかける。


「違います」


 フィルブランテが、すぐに言った。


 白い手帳を開く。


「保留は、答えを出せない者が書くものではありません。答えを急かされている時、まだ聞くべき人がいると分かった者が書くものです」


「では、誰が書く」


 アステリアが尋ねる。


 フィルブランテは、少し考える。


 皆に、保留を任せればいいわけではない。


 誰か一人を保留役にすれば、また役へ固定することになる。


「各地で、まだ聞かれていない人がいると気づいた人が書きます」


 彼は答えた。


「一人の席ではなく、皆の間にある席にします」


 アリスが、雲の瓶を一つ持ち上げた。


「雲なら、紙の余白をつなげられます」


 彼女は言う。


「七枚目を、一枚の紙にしない。六つの頁の余白に、まだ聞けていない声を書けるようにする」


「それで、七つ目の連記席になるのか」


 シリルが問う。


「本来の席は、そうだったのかもしれません」


 アステリアが、静かに言う。


「答えを保留する者は、一人の役ではない。各地で、まだ聞かれていない声を指さす人々だった」


 雲鍵の雲が、六つの白い紙の端をつなぐ。


 余白が、細い橋になる。


 王都の市場の女性が、紙の端に書く。


 まだ、黒水の雨で店を閉じた人の声を聞けていない。


 魔侯領の若い代表が書く。


 まだ、主戦派の兵の家族へ聞けていない。


 アウローラのネレアが書く。


 まだ、港を出た船の乗員全員の名が分からない。


 学院の生徒が書く。


 まだ、怖くて紙へ書けない友人がいる。


 薬園のイザベルが書く。


 まだ、父の負債で教団に従っている家の声を聞けていない。


 帰岸庫のルカが書く。


 まだ、自分の名前を思い出せない人がいる。


 真琴が書く。


 まだ、透と輝が自分の言葉で帰る時刻を決めていない。


 それらの余白が、雲を通して一つにつながる。


 七つ目の連記席が、白く光った。


 答えを保留する者。


 という見出しは、少し変わる。


 まだ聞かれていない声を、残す者。


 黒水の雨が、円卓の上で大きく跳ねた。


 すべての紙を白紙にするために。


 しかし、今度は紙が一箇所にない。


 王都の机。


 魔侯領の石板。


 港の航路図の余白。


 学院の生徒のノート。


 薬園の札。


 帰岸庫の手帳。


 真琴のノート。


 同じ文章ではない。


 同じ場所にもない。


 黒水が一つを濡らしても、ほかの場所に写しがあり、何を消したかを読んだ者がいる。


 黒水は、すべてを白紙にできない。


 やがて、黒い雨は細くなり、雲鍵の外へ引いていった。


 七つの連記席が、境界図書塔の上空に浮かぶ。


 七つの白い光。


 中央には、まだ誰も座らない空席。


 けれど空席の周りには、無数の細い線が伸びている。


 まだ聞かれていない声へ続く線。


「連記は、成立しました」


 ノエルが言った。


 皆が、息を吐く。


 双月まで三日。


 今日一日で、各地の人々は、自分の帰る場所を同じ言葉にせずに記した。


 それは、黒水がいちばん嫌う形だった。


 しかし、ノエルの結晶板は、すぐに別の色へ変わる。


 白い光の中央に、黒い一点がある。


「どうした」


 アマンテルスが尋ねる。


「黒水は、連記の成立を妨げることに失敗しました」


 ノエルの声は、静かだった。


「ですが、各地の記録から、ある一つの名前だけを抜き出しています」


 結晶板に、黒い頁が浮かぶ。


 そこには、幼い文字が一つだけ書かれていた。


 ミア・クローディス。


 所在不明。


 記録の照合を継続する。


 第34話で書き直した、ザハルの妹の記録。


 黒水は、その頁だけを黒い祭壇へ引いている。


 次に浮かぶ文字。


 未完の救護記録を、最後の回答とする。


 アステリアの顔が、青ざめる。


「ミアの記録を、裁定の根拠にするつもりです」


 アリスの雲が、不安定に揺れる。


「でも、ミアさんは。まだ所在不明と書きました」


「だからです」


 フィルブランテが、白い手帳を握る。


「黒水は、分からないことを残した記録を、未完成の失敗にしたい」


 黒い頁の向こうで、ザハルの声がした。


 穏やかで、遠い声。


『妹を、まだ待つと言うのですか』


 双月まで、三日。


 皆の連記は、ようやく一つの頁になった。


 しかし黒水は次に、ザハルがもっとも手放せない一人の名を使い、その頁を破ろうとしている。

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