第三十七話 未完の頁に、妹の名を置く
黒い頁が、境界図書塔の空を横切った。
頁の中央に書かれた一つの名。
ミア・クローディス。
所在不明。
記録の照合を継続する。
その文字だけを、黒水は黒い祭壇へ引き寄せている。
雲鍵共同避難所の上空に浮かぶ七つの連記席は、まだ白く光っていた。
王都。
魔侯領。
アウローラ。
学院。
慈善薬園。
帰岸庫。
対岸世界。
異なる場所で、異なる人々が書いた頁。
誰か一人に世界を選ばせないための記録。
けれど黒水は、その中央へ未完の救護記録を置こうとしていた。
「最後の回答、というのは何ですか」
リゼットが問う。
黒い頁を見つめる声は、少し硬い。
彼女は救護院で、人が亡くなった記録を何度も見てきた。
そこに“最後”という文字を置くことが、どれほど重いか知っている。
「境界選定式は、最後に一つの根拠を要求します」
アステリアが答えた。
灯守の手の中で、灯鍵が弱く明滅している。
「なぜ、誰か一人が決めなければならないのか。なぜ、二つの世界のどちらかを残して、もう一つを記録にしなければならないのか。その理由です」
「ザハルは、ミアさんを理由にする」
フィルブランテが言った。
「皆で確認しようとして、間に合わなかった。だから一人が決めるしかない。そういう最後の答えにする」
「でも、ミアさんは答えではありません」
アリスが言った。
雲鍵を抱える腕が、少し震える。
「ミアさんは、人です。まだどこにいるか分からない人」
黒い頁の端から、文字がこぼれ落ちる。
所在不明。
照合継続。
その二つが、黒水に塗り潰されかける。
代わりに、太い文字が浮かぶ。
救護遅延により死亡。
「待ってください」
フィルブランテが、白い扇を掲げた。
晶析眼が黒い頁の履歴を読む。
死亡。
その言葉は、元の記録にはない。
黒水が、今書き足したものだ。
「死亡確認の記録はありません」
彼は言う。
「船に乗ったという証言はある。名簿にはいない。そこから先が空白なだけです」
「空白は、黒水にとって死より都合が悪い」
ノエルが結晶板を操作する。
黒水の頁から、細い線がいくつも伸びた。
冬水害が起きた国境地帯。
灰銀峡谷。
王都の中央記録庫。
アウローラの古い港。
そして、黄昏島の水鏡の深い層。
「ミアの記録は、一枚ではありません」
ノエルが言った。
「黒水は、ザハルが手元に残した一枚だけを、最後の答えにしようとしている。ですが、当時の救護には、別の記録が残っているはずです」
「別の記録を見つければ、ミアさんが助かったと証明できるのですか」
リゼットが尋ねる。
「分かりません」
ノエルはすぐに答えた。
「助かったと決めるために探すのではありません。黒水が“死亡”と決める根拠がないことを、記録で確かめるためです」
「それに」
フィルブランテが、黒い頁を見た。
「もし助からなかったとしても。ミアさんの記録を、ザハルの最後の答えにさせる理由にはならない」
アマンテルスが、隣で頷く。
「探す。見つからなかったら、見つからなかったと書く。勝手に救ったことにも、勝手に死んだことにもしない」
黒い頁が、さらに祭壇の方へ引かれる。
残された時間は、あまりない。
「どこから探す」
シリルが問う。
ノエルの結晶板に、古い救護記録の線が三つ浮かぶ。
「当時、ミアが乗ったとされる救難船の係留索。船を受け入れた中立港の一時名簿。そして、水鏡が保管する境界通過の痕跡です」
「三つとも、今から行くには遠すぎる」
レオンハルトが言った。
「だから、皆が行く必要はありません」
フィルブランテは、七つの連記席を見る。
各地の頁は、すでに声を結んでいる。
今度は、それを救援に使う。
「王都は中央記録庫を照合してください。レオンとユーディットに頼みます」
レオンハルトは即座に頷く。
「魔侯領は、灰銀峡谷の救難船が使った係留索と水門の記録を。カイラスとガレウス将軍へ」
「任せろ」
カイラスが、雲の瓶へ雷の紋を送る。
「アウローラは、古い中立港の一時名簿を。ネレアとイオ、マレア船長に」
「帰岸庫は、帰還者の中に当時の救護船を見た者がいないか。ルカとエルドさんに」
最後にフィルブランテは、水鏡を見る。
「俺たちは、水鏡の深層へ入ります。ミアさんが本当に境界を越えた痕跡があるのか、確認する」
「俺たち?」
アマンテルスが問う。
「俺と兄貴、アリス、アステリア、ノエル。あとはリゼットとシリル」
「レオンは?」
「王都の記録庫には、王太子の署名が必要になるかもしれません。ここに残るより、向こうの方ができることがある」
レオンハルトは、一度だけフィルブランテを見た。
以前なら、離れることを心配したかもしれない。
あるいは、婚約者として守るために、そばへ残ろうとしたかもしれない。
だが今は、ただ頷く。
「分かった。王都で見たことは、必ず写しを送る」
「無理はしないでください」
フィルブランテが言う。
「そちらも」
レオンハルトは答えた。
短い言葉。
けれど、互いの行動を勝手に決めない約束が、その中にあった。
◇
水鏡の深層へ入る道は、冷たい雨の中を歩くようだった。
鏡の前に立つと、水面が足元からほどける。
そこには、過去へ戻る道も、死者の国もない。
誰かが見たが、正しく残されなかった瞬間だけが、浅い水の上に浮かんでいた。
アステリアが灯鍵を掲げる。
アリスが雲鍵を抱える。
二つの鍵の間に、細い道ができる。
左右には、いくつもの映像が浮かんでいた。
冬の川。
壊れた橋。
白い雪。
濁流へ沈む家々。
叫ぶ声。
遠くで鳴る鐘。
「ここから先は、記録が欠けています」
ノエルが言った。
結晶板に、いくつもの空白が浮かぶ。
「見えるものが事実とは限りません。水鏡は、見た人の記憶と、残った記録を重ねます。黒水も、そこへ混ざろうとする」
「なら、見たものをすぐ答えにしない」
フィルブランテが答える。
「誰が見たか、どこが分からないかを分けて書く」
一行は、水の上の道を進む。
やがて、冬の川辺へ出た。
少年がいる。
濡れた司祭見習いの服。
腕には、小さな女の子を抱えている。
ザハル。
まだ少年だった。
腕の中の少女が、ミアだ。
白いリボンを髪に結び、寒さで唇を青くしている。
「お兄ちゃん、あの子も」
ミアが指を指す。
少し離れた瓦礫に、もう一人の小さな子どもがいる。
泣く力もない。
ザハルは、川辺に繋がれた小舟を見る。
小舟には、三人しか乗れない。
自分。
ミア。
そして、瓦礫の子。
救助を求める者は、他にもいる。
だが、近くに大人はいない。
黒水が、映像の端から滲む。
ここで、彼は選んだ。
妹を乗せた。
その結果、妹を失った。
「違う」
アマンテルスが、低く言った。
「まだ、続きを見ていない」
黒水が、川の映像を早送りしようとする。
しかしシリルの槍が、水面へ突き立てられた。
「急がせるな」
騎士の声が響く。
「見たことだけを残せ」
時間が、元へ戻る。
少年ザハルは、ミアを抱えたまま舟へ乗せる。
瓦礫の子へ手を伸ばす。
だが、その時、濁流がさらに大きくなる。
舟が揺れる。
ミアが、兄の手首を掴む。
「一緒に乗れるよ」
「無理だ」
少年ザハルの声は、震えている。
「舟が沈む」
「じゃあ、あの子を乗せよう」
ミアは言った。
小さな子どもが言うには、重すぎる言葉だった。
でも、彼女は泣いていない。
「私、ここで待ってる。お兄ちゃん、また来て」
ザハルが、首を振る。
「だめだ。お前を先に乗せる」
「でも、あの子、動けない」
映像の中で、黒水が大きくなる。
この瞬間だけを、ザハルは何度も思い出したのだろう。
妹を先に乗せるか。
瓦礫の子を助けるか。
二人のうち、どちらか。
だが水鏡の深層には、黒水が消していたもう一つの音がある。
遠くから、船の鐘が鳴る。
アウローラの救護船の鐘。
流木の影から、二人の船頭が現れる。
「右岸に子どもが二人!」
「係留索を回せ!」
少年ザハルは、叫ぶ。
彼は舟を出さなかった。
ミアを舟に乗せたまま、係留索を岸へ結び直した。
瓦礫の子の方へ、濁流の中を走る。
大人の船頭たちが、舟を引き寄せる。
ミアの乗った小舟は、アウローラの救護船へ繋がれた。
その時、さらに上流から流木が来る。
係留索が切れる。
小舟は、救護船の側へ流れる。
しかし霧が濃く、名前を確認する時間がない。
船頭の一人が、叫ぶ。
「子どもを先に甲板へ!」
ミアの姿が、白い霧に消える。
少年ザハルは、瓦礫の子を抱えたまま、岸に残る。
「ミア!」
その声が、水鏡の深層を震わせた。
映像が、そこで途切れる。
静かになる。
誰も、すぐには言葉を出さない。
「ミアさんは、ザハルが見捨てたわけじゃない」
リゼットが、小さく言った。
「はい」
フィルブランテが答える。
「でも、助かったとも、まだ言えない」
「救護船には乗った」
ノエルは結晶板へ記す。
「当時の映像には、救難船の鐘と係留索の印が残っています。これは、アウローラ側の記録と照合できます」
「それに」
アリスが、水面の一点を見つめた。
「ミアさん、待ってるって言った」
白い霧の中で、ほんの一瞬だけ、少女の手が見える。
小さな手は、救護船へ上がる前に、何かを握っていた。
青いガラス玉。
雲鍵の雲が、その形を覚える。
「これは、何ですか」
アステリアが問う。
アリスは目を閉じた。
「帰る人が、最初の場所を忘れないように持つもの。アウローラの港で、昔から子どもへ渡された“潮の玉”です」
ノエルが、すぐに結晶板を動かす。
「アウローラの一時名簿に、潮の玉の配布記録が残っているかもしれません」
水鏡の向こうで、雲瓶が光る。
ネレアの声が届いた。
『あります。古い港の記録庫で、青い玉の番号札を見つけました』
映像の中のガラス玉には、小さな記号がある。
アリスが、それを雲へ写す。
『番号は、四十七』
ネレアが答える。
少し間を置いて、声が震えた。
『一時名簿に、四十七番があります。名前は、ミア・クローディス。年齢、八歳。同行者なし。救難船〈白波の籠〉へ移送』
一行の前で、黒水が大きく揺れた。
黒い頁の“死亡”という文字に、ひびが入る。
「生きていた」
アマンテルスが言う。
「少なくとも、あの後、救難船へ移された」
フィルブランテは頷く。
「それも、どこまでかは分からない。だから、そこまでを書きます」
黒水は、次の問いを落とす。
救難船〈白波の籠〉は、沈没した。
結局、ミアは死んだ。
水鏡の深層に、暗い海の映像が広がる。
白い救難船。
嵐。
折れた帆。
多くの人が泣いている。
黒水が、また一つの結末を急がせる。
「船が沈んだのか」
シリルが問う。
「一部は事実です」
ノエルが言った。
「ただし、沈没したのは救難船そのものではない。第二の避難船です。〈白波の籠〉から移された人々の一部が乗っていた」
「ミアさんは、どちらにいたか分からない」
「はい」
また空白。
黒水は、その空白を嫌う。
だから、沈没の映像だけを大きくする。
だがその時、雲瓶の向こうから、別の声が届いた。
ルカだ。
『帰岸庫で、古い子守歌を知っている人がいます』
水鏡の深層に、帰岸庫の灯りが映る。
名を忘れた年配の女性。
第36話で、青い布を見ると泣いていた女性。
彼女は、波を見ながら小さく歌っている。
「青い玉を、ポケットに」
その歌詞に、アリスが顔を上げた。
「潮の玉の歌です」
女性は、歌いながら、手の中の小さな青いガラス玉を見せた。
四十七番。
アリスが雲へ写したものと、同じ記号。
女性の声が、震える。
「小さい子が、くれたの」
ルカが、そっと聞く。
「その子の名前、覚えていますか」
女性は、長い間、答えなかった。
誰も急かさない。
答えを出せと、言わない。
やがて、彼女の目から涙が落ちる。
「ミア」
小さく言った。
「ミアって子。嵐の前に、私の弟へ青い玉をくれた。怖がらないようにって」
女性の記憶は、途切れ途切れだった。
救難船の甲板。
濡れた子どもたち。
ミアが、自分より幼い弟へガラス玉を渡したこと。
嵐が来る前、救難船が二手に分かれたこと。
ミアは、病気の子どもたちを乗せた小舟へ、手伝いに行ったこと。
それから先は、覚えていない。
でも、ミアは確かにそこにいた。
泣いていたのではない。
誰かを助けようとしていた。
黒水が、激しく波立つ。
それが何になる。
結局、所在は不明だ。
「何になります」
フィルブランテが答えた。
「ミアさんは、未完の救護記録ではある。でも、ザハルが一人で裁定するための“失敗の証拠”ではない」
白い手帳を開く。
水鏡の深層へ、新しい頁が浮かぶ。
ミア・クローディス。八歳。
冬水害時、兄ザハル・クローディスと救護にあたった。
中立救難船〈白波の籠〉へ移送された。
嵐の前、年少の避難者を助けるため、小舟へ移ったとの証言がある。
以後の所在は不明。
フィルブランテは、そこで筆を止める。
死んだとは書かない。
助かったとも書かない。
英雄だったとも、犠牲だったとも書かない。
ただ、彼女がいた。
自分の意思で誰かのそばへ行った。
分からないところは、分からないまま。
「最後に、これを」
アリスが、雲を一片置いた。
雲の中には、少女の声がある。
水鏡の映像から拾った、かすかな言葉。
お兄ちゃん、また来て。
その声を、フィルブランテは記録の下に添えた。
ミアは、待つことを命令しなかった。再会を願った。
黒い頁が、強く震える。
“死亡”という文字が、完全に消える。
代わりに、黒水が新しい文字を書こうとする。
未完の記録は、裁定に不適。
その文字は、白く消えていく。
「適さないなら、最初の回答にはできない」
ノエルが言った。
「ミアの記録を、ザハルの最後の根拠から外せます」
結晶板に、黒い祭壇の術式が映る。
中央の黒い頁から、一本の線が切れた。
双月境界選定式を支える根拠の一つが、失われた。
皆が、少しだけ息を吐く。
しかし、黒水はすぐに消えなかった。
水鏡の深層の遠くに、ザハルの姿が立っている。
白い司祭服。
黒い波の向こう。
彼は、ミアの新しい記録を見ていた。
顔はよく見えない。
けれど、彼の手に何かがある。
青いガラス玉。
四十七番の潮の玉と同じもの。
彼は、それをずっと持っていたのだろう。
『妹は、誰かを助けたかった』
ザハルの声が響く。
さっきまでより、ずっと小さい。
『それなら、なおさら。あの子が生きられなかった世界を、私は許せない』
「許せなくていい」
アマンテルスが言った。
黒い日傘を、ザハルへ向ける。
「でも、許せないからって、全員の帰る場所を消すな」
ザハルは、こちらを見た。
『君たちは、私が妹を道具にしていると言う』
「そうだ」
『では、君たちは何をしている。妹の新しい記録を、私を止める鍵にしているのではないか』
問いは、鋭い。
フィルブランテの手が、少し止まる。
確かに、ミアの記録を見つけたことで、黒水の術式の根拠を外せた。
それを、ただの鍵として使えば。
ミアを、別の目的の道具にしてしまう。
「違います」
リゼットが言った。
彼女は、ミアの頁を見ている。
「私たちは、ミアさんの記録を使って、あなたを倒すとは書きません」
白い花が、頁の上に咲く。
「ミアさんのことを知ったから、あなたが何を怖がっているかも知りました。でも、あなたを許すかどうかは、今は決めません」
ザハルの影が、少し揺れる。
「ただ」
リゼットは続ける。
「ミアさんが誰かを助けたかった人なら。ミアさんの名を使って、誰かを切り捨てることには、私は同意しません」
ザハルは、何も答えない。
黒水が彼の周りで大きくなる。
その向こうから、深い鐘の音が鳴った。
双月境界選定式の中枢。
黒い祭壇が、さらに近づいている。
『根拠を一つ失いました』
ザハルは、最後に言った。
『ですが、式はまだ終わりません。未完の救護記録が裁定に不適なら、私は完成させればよい』
黒水の波が、ミアの頁の端を叩く。
その上に、黒い文字が浮かぶ。
最終照合の証人を招く。
ノエルの顔が変わる。
「まずい」
「何が」
シリルが問う。
結晶板には、黒い祭壇から一本の線が伸びている。
線の先は、黄昏島の外でも、王都でも、魔侯領でもない。
帰岸庫。
そして、その更に奥。
水鏡の届かない、古い海の底。
「ザハルは、ミアの最後を知る証人を探すつもりです」
ノエルが言った。
「もし本当に、あの小舟にいた者。あるいは、ミアの最期を見た者の記録を見つければ。黒水はそれを“完成した救護記録”として、また裁定の根拠にする」
「でも、帰岸庫にはもう探せる人がいる」
ルカの声が、雲瓶から届く。
年配の女性が、青いガラス玉を握っている。
「僕たちが先に探します。ミアさんを、最後の答えにするためじゃない。ミアさんがどこへ帰りたかったのか、まだ聞けるかもしれないから」
水鏡の深層で、黒水が引いていく。
ミアの頁は、白いまま残った。
未完のまま。
所在不明のまま。
でも、白紙ではない。
少女の名。
少女が誰かを助けようとしたこと。
そして、兄へもう一度会いたいと願ったこと。
それらが、消えずに残る。
フィルブランテは、頁の端に最後の一行を書いた。
この記録は、誰か一人に世界を選ばせる根拠にしない。
その文字が定着した時、水鏡の奥で、黒い祭壇の光が一度だけ弱くなった。
だが、すぐに遠い海の底から、別の灯りが点る。
青い、古い灯り。
四十七番の潮の玉と、同じ色。
双月まで、二日。
ザハルが向かう先には、ミアの最後を知るかもしれない、まだ聞かれていない証人がいる。




