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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第三十五話 最後の席を、一人で埋めない

黒い扉の前で、留め書きの鍵が白く光っていた。


 鍵の表面には、細い文字が浮かんでいる。


 何を根拠にするのか。


 誰の声が聞かれていないのか。


 何がまだ分からないのか。


 誰へ助けを求めるのか。


 最後の答えを書く前に、留めるための鍵。


 フィルブランテは、その鍵を手の中で確かめた。


 扉の向こうには、黒い祭壇がある。


 一人だけが座るための椅子。


 二つの世界を映す水鏡。


 そして、透と輝の名。


 裁定候補。


「入るなら、俺たちだけだ」


 アマンテルスが言った。


 黒い日傘を肩へ担ぐ。


「候補にされたのは、俺と輝なんだから」


「違います」


 フィルブランテがすぐに答えた。


「候補にされたのが俺たちだからこそ、俺たちだけで入ってはいけない」


「でも、皆を巻き込むわけには」


「巻き込むかどうかを、兄貴が一人で決めないでください」


 白い扇が、黒い日傘の柄へ軽く触れる。


 この世界へ来てから何度も繰り返した言葉。


 だけど、今も必要な言葉だった。


「裁定台は、入った者へ最後の答えを求めるはずです」


 ノエルが、黒い扉を観察しながら言う。


「候補の二人が入れば、黒水は他の皆を“助言者”か“背景”として扱う可能性が高い。最初から、皆が当事者として入る形を作らなければ」


「扉は通してくれるのか」


 シリルが問う。


 アステリアが、黒い石の表面を見た。


「本来の境界図書塔なら、通すでしょう。裁定台へ入る者を、先に一人へ決めることはありませんでした」


「本来の、というのが気になります」


 リゼットが言う。


 アステリアは頷いた。


「今の裁定台は、ザハルが未記載層の痛みを土台に増築したものです。扉が何を受け入れるか、完全には分かりません」


「分からないなら、分からないと書きましょう」


 フィルブランテは言った。


 白い手帳を開く。


 扉の前の石床へ、短く記した。


 裁定台の内部構造と危険は、全て確認できていない。


 次に。


 透と輝だけを裁定者として入場させることには、同意しない。


 そして。


 入場する者は、裁定を代行せず、各自の見たことと意思を記録する。


 文字が、薄い銀の光になる。


 留め書きの鍵が、それを吸い込んだ。


 黒い扉の中央のペンの記号が、一度だけ震える。


 その下に、新しい文字が浮かんだ。


 入場資格を照合します。


 黒水が、扉の隙間から滲み出る。


 裁定候補:唐傘透。唐傘輝。


 その他:非裁定者。


「その分類に異議があります」


 レオンハルトが、すぐに言った。


 王太子の声は、大広間で会議を開く時と同じだった。


 感情を抑えている。


 でも、相手の前提をそのまま受け取らない声。


「二つの世界を残すか否かは、透と輝だけの人生に関わる決定ではない。王国、魔侯領、黄昏島、対岸世界で生きる者たちの記録に関わる」


 黒水は、彼へ文字を返す。


 王太子は、王国の代表である。


 代表は、裁定者ではない。


「その通りです」


 レオンハルトは頷いた。


「私は、王国を代表して二つの世界を決めない。だが、王国に生きる者の一人として、記録を見て、問いを返す権利がある」


 黒水が、少し止まる。


 今まで黒水は、代表者を一人の答えにしてきた。


 レオンハルトが王太子として答えるなら、王国の答えにできる。


 しかし彼は、王太子であることを隠さず、同時に一人の当事者として立つ。


 それは黒水にとって、扱いにくい。


「私も」


 カイラスが前へ出た。


「七氏族の使者として来ている。でも、七氏族全員の帰る場所を俺が決める権利はない。だから、俺は魔侯領の名で裁定しない。今ここで、アマンテルスと、俺自身が見たことを記録する者として入る」


「私は、救護院の者として」


 リゼットが言う。


「誰が助かるかを決めるためではなく、選別のせいで傷つく人を先に助けるために入ります」


「俺は、守るために」


 シリルが槍を握る。


「誰を守るかを一人で決めないために」


「私は、術式を照合するために」


 ノエルは結晶板を上げた。


「理解できない記録を、間違いとして消さないために」


「私は、未来を雲へ残すために」


 アリスが言う。


「誰かの未来を、今ここで一つに固定しないために」


「私は、過去の名を灯として保つために」


 アステリアが、灯鍵を胸へ抱く。


「過去の痛みを、未来の命令にしないために」


 最後に、ルカが父の手帳を抱えたまま前へ出た。


 小さな声だった。


 けれど、はっきりしている。


「僕は、帰りたい人です」


 黒水が、彼の足元へ伸びる。


 帰還者。


 被保護者。


 子ども。


 どれかの役に閉じ込めようとする。


 ルカは、黒水を見た。


「でも、僕が帰るために、透さんと輝さんがどっちかいなくなるのは嫌です。だから、僕も見ます」


 黒い扉の文字が、何度も書き換わる。


 非裁定者。


 助言者。


 背景。


 証人。


 当事者。


 黒水は、最後の言葉を消せない。


 皆が、自分の人生と自分の言葉で、ここへ入る理由を記したからだ。


 扉の下から、白い光が漏れた。


 入場資格:複数当事者。


 黒い石が、低い音を立てて開く。


     ◇


 扉の向こうには、空があった。


 上も下もない、薄明の空。


 遠くに、二つの世界が浮かんでいる。


 左には、元の世界。


 夜の街の灯り。


 高い建物。


 窓の向こうで、真琴が机に向かっている小さな部屋。


 右には、現在の世界。


 セレディア王国の白い城壁。


 夜嶺の門。


 アウローラの港。


 黄昏島の樹海。


 どちらも、丸い水面に映る景色のように揺れていた。


 二つの世界の間に、黒い祭壇がある。


 祭壇は、宙に浮かぶ巨大な石台だった。


 中央には、背の高い椅子が一つ。


 その前には、水鏡によく似た黒い円。


 左右の世界は、円の中で重なりかけている。


 祭壇の周囲には、細い席が七つ並んでいた。


 どの席にも、黒水が溜まっている。


 真ん中の椅子だけが、空いている。


「来ましたね」


 声がする。


 椅子の前に、白い司祭服の男が立っていた。


 大司教ザハル・クローディス。


 彼は、現実の身体でここにいるのか。


 記録の影として立っているのか。


 フィルブランテには、すぐには分からない。


 ただ、その目だけが、こちらをよく見ていた。


 敵を見る目ではない。


 診察する者の目。


 壊れたものを、どうすれば動かなくできるか考える目。


「ようこそ、裁定台へ」


 ザハルは、穏やかに言った。


「唐傘透。唐傘輝。そして、二人の周りへ集まった人々」


「名前を知ってるなら、勝手に選ぶな」


 アマンテルスが言った。


 日傘の内側の星が、黒い祭壇を照らす。


「透も輝も、世界を選ぶ役になるつもりはない」


「つもりではなく、すでに候補です」


 ザハルは答えた。


「二つの世界を知り、どちらにも完全には属さず、双方へ帰りたいと願う者。これほど適した裁定者は、ほかにいません」


「適しているからといって、引き受ける義務はありません」


 フィルブランテが言う。


「そうでしょうか」


 ザハルは、静かに首を傾げた。


「あなた方は、これまで何度も決めてきた。毒花の前で。峡谷の洪水の前で。選定院で。停戦連誓の前で。誰を助け、何を守り、どの危険を引き受けるか」


「決めたことはあります」


 フィルブランテは答えた。


「でも、俺たちだけで決めたことはありません」


「結果が同じなら、過程に意味はありません」


 ザハルの声は、少しも大きくならない。


「救われた者がいる。救われなかった者がいる。時間は過ぎる。水は上がる。黒水は広がる。どれほど綺麗に記録しても、最後には誰かが決めなければなりません」


 祭壇の中央の椅子が、ゆっくりこちらを向く。


 背もたれには、黒い文字が刻まれていた。


 最後の席。


「座りなさい」


 ザハルが言った。


「片方が座ればよい。透でも、輝でも構いません。あなた方が選んだ世界を残し、残りを記録として保管しましょう」


「記録として保管?」


 リゼットが、顔を曇らせる。


「生きている人を、思い出にするということですか」


「苦しみは終わります」


 ザハルは言った。


「二つの世界が互いを侵食し、迷い、誰かを奪い続けることもなくなる。選ばれなかった世界は、穏やかな記録として残る。誰も、そこで新たに傷つかない」


「誰も生きられないだけです」


 リゼットの声は、小さい。


 でも、はっきりしていた。


「生きて、傷ついて、助けを求めることができないなら。穏やかでも、帰る場所ではありません」


 ザハルの目が、リゼットへ向く。


「聖女は、いつもそう言う。すべての命は尊いと。だが、救護院で薬が足りない時、あなたは誰へ先に薬を渡しますか」


 リゼットは、少し息を止める。


「決めます」


 彼女は答える。


「でも、薬を渡せなかった人を、最初からいなかったことにはしません」


「それで、何が変わるのです」


「次に薬を増やす人が、何をすればいいか分かります」


 リゼットは、白い花を手の中で開いた。


「助けられなかった人の名前が残っていれば、誰かが次に助けようとできます。あなたのやり方は、助けられなかった人を最初からいなかったことにする。だから、同じことを繰り返します」


 ザハルは、少し黙る。


 黒い祭壇の端で、冬水害の水音がした。


 ミアの名が、どこかで揺れている。


「ミアさんのことを、忘れていません」


 フィルブランテが言った。


 ザハルの目が、初めて鋭くなる。


「あなたは、妹さんを失ったことを、世界を一つにする理由にしている。でも、ミアさんがいなくなったことは、あなた一人が全てを決める理由にはならない」


「あなた方に、あの水の冷たさが分かるのですか」


 ザハルの声が、少しだけ低くなった。


 穏やかな仮面の下に、硬いものがある。


「待てと言われた。名簿が揃うまで待てと。誰の管轄か決まるまで待てと。私は、妹の名前を書いた。誰かが読んでくれると思った」


 黒い円の中に、冬の川が映る。


 小さな手。


 水に流される白いリボン。


「だが、誰も決めなかった。誰も船を出さなかった。皆が、正しい確認を待っていた」


「違う」


 フィルブランテが、強く言った。


「誰も決めなかったのではない。教会中央評議会が、救援を止めると決めたのです」


 ザハルの目が、わずかに揺れる。


「物資を出さない。船の管轄を決める。名簿を一つにする。それを決めた人たちがいた」


 フィルブランテは続ける。


「けれど、その人たちは、自分の決定を“皆が決めなかったから”と書いた。あなたは、その嘘を見てきた」


 黒水が、祭壇の床を走った。


 ザハルは答えない。


「だから、本当は」


 フィルブランテの声が、少しだけ震える。


「一人で決める人が必要だったのではなく、決めた人が責任を隠せない記録が必要だったのではありませんか」


 長い沈黙。


 黒い円の中の川が、少しずつ遠ざかる。


 ザハルは、やがて小さく笑った。


「聡明です、フィルブランテ嬢」


 その笑みには、喜びも怒りも見えない。


「ですが、遅い。責任を記録しても、妹は戻らなかった」


「戻りません」


 アマンテルスが言った。


 透の声は、低い。


 けれど、逃げない。


「戻らないからって、次のやつの帰る場所を消していい理由にはならない」


「あなたは、妹を失ったことを分かったふりするなと言うでしょう」


 ザハルが言う。


「分からない」


 アマンテルスは、すぐに答えた。


「俺には、ミアさんのことは分からない。兄弟が消えるかもしれない怖さも、今しか分からない。でも、分からないから、俺の怖さで全員を止める権利があるとは言わない」


 黒水の円が、わずかに揺れた。


 ザハルは、二人を見比べる。


 彼の視線には、かすかな苛立ちが混じり始めている。


「では、あなた方に見せましょう」


 彼が指を上げる。


 黒い円が、大きく開いた。


 左の元の世界が、急に鮮明になる。


 真琴の部屋。


 机の上にゲーム機。


 ノート。


 窓の外には、朝の光がある。


 真琴は、椅子で眠っていた。


 その周りに、黒い影が伸びる。


 観測者たち。


 彼らは、部屋の時計を見つめている。


 時計は、01:12:07へ巻き戻り始める。


 次に、右の現在の世界が鮮明になる。


 王都の白い城壁。


 夜嶺の門。


 アウローラの港。


 黒水の雨が、雲の下で再び膨らんでいる。


「双月まで四日」


 ザハルが言う。


「その前に、黒水は両方の世界で閾値を超える。あなた方が裁定を拒めば、境界は不安定なままです。いずれ、二つとも傷つく」


「脅しですか」


 レオンハルトが問う。


「事実です」


 ザハルは答えた。


「私は、二つのうち一つを選べと言っている。君たちは、二つともを救うと言う。だが、二つともを救う手順を、まだ作れていない」


 その言葉は、正しい部分を持っていた。


 皆で記録を作ってきた。


 保留する権利を守ってきた。


 帰岸記録も、雲鍵共同避難所も作った。


 でも、二つの世界が常に安全に行き来するための手順は、まだできていない。


 だから、ザハルはそこを狙う。


 空欄を、急かす。


「作ります」


 ノエルが言った。


 彼は黒い円を見つめ、術式を読み取っている。


「まだ、完全ではありませんが」


「ノエル」


 フィルブランテが、彼を見る。


「裁定台の席は、一つではありません」


 ノエルの結晶板に、祭壇の構造が映る。


 中央の大きな椅子。


 そして、その周りの七つの細い席。


 黒水は、それらを黒く塗り、一人の裁定者を置くための装飾にしている。


「本来、この七つの席は何ですか」


 アステリアが、祭壇を見つめた。


 灯守の声に、驚きが混じる。


「……分かりません。境界図書塔の記録には、裁定台そのものがなかったはず」


「未記載層を土台にしたなら」


 フィルブランテが言う。


「ザハルは、元にあった何かを、書き換えたはずです」


 晶析眼が、黒水の下を読む。


 七つの細い席の背もたれ。


 黒い文字の下に、白い文字がある。


 一つ目。


 出発を見た者。


 二つ目。


 到着を見た者。


 三つ目。


 傷を受けた者。


 四つ目。


 救援を担う者。


 五つ目。


 記録を照合する者。


 六つ目。


 未来を待つ者。


 七つ目。


 答えを保留する者。


 中央の椅子には、元から何も書かれていない。


「これは、裁定台じゃない」


 フィルブランテが言った。


「本来は、境界を越える時の連記席です」


 ザハルの表情が、初めて変わった。


 穏やかな目が、少しだけ細くなる。


「続けなさい」


 彼は言った。


 まるで、生徒の答えを聞く教師のように。


「誰かが境界を越える時、出発を見た者だけでは足りない。到着を見た者だけでも。傷を受けた者、救援を担う者、記録を照合する者、未来を待つ者。そして、今は決められないと言う者」


 フィルブランテの言葉とともに、七つの席の白い文字が強くなる。


「七人が、同じ答えを出すための席ではない。それぞれ違うことを書いて、誰か一人の答えが全てを消さないようにするための席です」


「なら、中央の席は何だ」


 アマンテルスが問う。


 黒い大きな椅子。


 ザハルが、今もその前に立っている。


 フィルブランテは、椅子を見る。


 そこには、黒水の下に白い文字がない。


 最初から、空白だった。


「中央の席は、誰も座らない席です」


 アリスが言った。


 雲鍵の管理者は、七つの白い席を見回す。


「最後の答えを置く場所ではなく、まだ聞かれていない声のために空けておく場所」


 黒水が、激しく祭壇を叩いた。


 ザハルは、しばらく黙っている。


「美しい解釈です」


 やがて彼は言う。


「しかし、空席は責任を取らない」


「空席は、責任から逃げるためのものではありません」


 フィルブランテが答えた。


「誰が座るべきかを、今いる人だけで決めないためのものです」


「何も決められない」


「決めることはあります」


 フィルブランテは、祭壇の左右に映る二つの世界を見る。


「危険を止める。救援を送る。記録を照合する。水鏡を守る。その役目は、今ここにいる人が分けて決める。けれど、二つの世界のうちどちらを残すかという選別だけは、誰も決めない」


「それでは境界は閉じない」


「閉じる必要がありません」


 アマンテルスが言う。


「窓に戻せばいい」


 黒い日傘の内側の星が、七つの席を照らす。


 ザハルは、初めて笑みを消した。


「あなた方は、窓を残すことの危険を知らない」


「知っています」


 アマンテルスは答えた。


「だから、誰でも勝手に通れる窓にはしない。帰岸記録も、雲鍵も、そうやって作った」


「誰が通るかを皆で確認する。本人の同意を取る。向こうの世界の証人を確かめる。帰る時刻も、帰る場所も、勝手に決めない」


 フィルブランテが続ける。


「危険だから閉じるではなく、危険だから手順を作る」


 ザハルの背後で、冬水害の川が再び揺れた。


 彼は、一瞬だけそちらを見た。


 ミアの白いリボン。


 水に消えた小さな影。


「手順は、間に合わないことがある」


 ザハルは言った。


「そうです」


 リゼットが答えた。


「だから、手順を作り続けます。間に合わなかった記録を残して、次に早く助けられるように」


「次などない者もいる」


「だから、名前を残します」


 リゼットの白い花が、水害の影へ届く。


「次に同じことをしないために。失った人を、誰かが一人で世界を閉じる理由にしないために」


 ザハルの周りの黒水が、わずかに揺らいだ。


 彼が揺らいだのか。


 黒水が彼を揺らしたのか。


 まだ分からない。


 だから、フィルブランテは決めつけない。


「ザハル」


 彼は、初めて大司教の名を呼び捨てにした。


「あなたの妹の記録を、俺たちは使いません。あなたを説得するための材料にも。教会を断罪するための証拠にも」


「では、なぜ書き直した」


「ミアさんが、一人の人だったからです」


 フィルブランテは言った。


「それだけです」


 長い沈黙。


 祭壇の上で、二つの世界の映像が静かに揺れている。


 ザハルは、何かを言いかけた。


 しかしその前に、黒水が彼の足元から大きく立ち上がった。


 黒い波が、七つの席へ向かう。


 今、皆がそこへ座れば、黒水が席を再び裁定席へ変えるかもしれない。


「来るぞ!」


 シリルが叫ぶ。


 黒水は、誰かを攻撃しない。


 七つの席へ、それぞれ違う役を押しつける。


 出発を見た者には、対岸世界だけを守れ。


 到着を見た者には、現世界だけを守れ。


 傷を受けた者には、過去だけを守れ。


 救援を担う者には、全員を救え。


 記録を照合する者には、真実を一つに定めよ。


 未来を待つ者には、何も決めるな。


 答えを保留する者には、何もするな。


 役が、極端な命令へ歪められる。


「席に座るな!」


 アマンテルスが叫ぶ。


 しかし、黒水の波は皆の足元を押し、それぞれの席へ近づけていく。


 フィルブランテは、留め書きの鍵を掲げた。


「役目の説明を書き換えます!」


 鍵の表面が光る。


 しかし黒水が、フィルブランテの手を狙う。


 弟が鍵を持てば。


 弟がまた、記録者として一人で全部を背負えば。


 黒水はそこへ責任を集められる。


 アマンテルスが、弟の前へ出ようとする。


 だがフィルブランテは、首を振った。


「兄貴、庇わないで。横に」


 アマンテルスは一瞬、戸惑う。


 それから、弟の横に立つ。


 前でも後ろでもない。


 隣に。


「鍵は、一人で使わない」


 フィルブランテが言う。


 レオンハルトが光を添える。


 カイラスが雷を走らせる。


 リゼットの花が黒水の波を分ける。


 ノエルが役の文字の履歴を読む。


 シリルが黒水の流れを、席ではなく空席へ向ける。


 アリスとアステリアが、雲鍵と灯鍵を重ねる。


 七人が、七つの席へ一人ずつ座るのではない。


 七つの席の周りへ、皆が立つ。


「出発を見た者は、出発だけを正しいとしない」


 真琴の声が、遠い対岸から響く。


「到着を見た者は、到着だけを正しいとしない」


 リゼットが言う。


「傷を受けた者は、傷を未来の命令にしない」


 ガレウスの声が、魔侯領から雲鍵を通って届く。


「救援を担う者は、救えないことを隠さず、助けを呼ぶ」


 リゼットが続ける。


「記録を照合する者は、未確認を確定させない」


 ノエルが言う。


「未来を待つ者は、待つだけでなく、今できる救援を選ぶ」


 アリスが言う。


「答えを保留する者は、危険を放置せず、保留の理由と期限を記す」


 フィルブランテが言った。


 七つの役が、黒水の命令から離れていく。


 黒水は、誰か一人に座らせられない。


 だから、祭壇の中央の空席へ集まる。


 大きな黒い椅子が、皆へ呼びかける。


 最後に決める者を、選定せよ。


 黒水が、アマンテルスとフィルブランテの名を再び浮かべた。


 透。


 輝。


 裁定候補。


「違う」


 二人の声が重なる。


 同時に。


「最後の席は、空ける」


 黒水が、椅子を揺らす。


 空席では、世界が決まらない。


 そう言いたいのだろう。


 フィルブランテは、留め書きの鍵を黒い椅子の背もたれへ触れた。


 鍵は、ゆっくり回る。


 椅子の黒い文字が剥がれる。


 最後の席。


 その下に、元からあった文字が現れた。


 まだ聞かれていない者の席。


 黒水が、悲鳴のような音を上げる。


 大きな椅子が、少しずつ小さくなる。


 王座の形を失い、低い空の椅子へ変わる。


 誰か一人が座るための場所ではない。


 まだここにいない者の声を、後から置くための余白。


 ザハルは、その変化を見ていた。


 彼の顔から、穏やかな表情が消えている。


 怒りだけではない。


 戸惑いにも見えた。


「空席を残して、どうやって間に合う」


 ザハルが言う。


 今度の声は、命令ではなかった。


 問いに近い。


「間に合わないこともあります」


 フィルブランテは答えた。


「でも、間に合わせるために、今から全員の帰る場所を消すことはしない」


「あなたは、妹を失った」


 アマンテルスが続ける。


「だから、次は全部守りたいんだろ。でも、全部守るために全部を閉じ込めたら。ミアさんが帰れなかった世界と同じになる」


 ザハルの瞳が、一度だけ大きく揺れた。


 黒水の波が、彼の足元から離れかける。


 しかし次の瞬間、祭壇の奥から、別の黒い波がザハルを包んだ。


 彼自身が黒水を操っているのではない。


 黒水もまた、彼の痛みを使っている。


 そのことを、皆が初めてはっきり見た。


「ザハル!」


 リゼットが呼ぶ。


 けれど、黒水は彼の身体を黒い幕のように覆う。


 ザハルは、祭壇の奥へ後ずさる。


「まだ、遅い」


 彼の声が、黒水の中から響く。


「双月は待たない。世界は、選ばなければならない」


 黒い祭壇の床が、大きく割れた。


 ザハルの足元に、深い穴が開く。


 その先には、水鏡より大きな黒い円。


 双月境界選定式の中枢。


 ザハルはそこへ落ちたのではない。


 自ら、一歩を踏み出した。


 黒水が彼を飲み込み、祭壇の奥へ消える。


 残された黒い円の上に、文字が浮かんだ。


 裁定者の席:無効。


 皆が、息を止める。


 次の文字。


 代替手順を要求します。


 ノエルが、結晶板へ手を伸ばす。


「黒水は、中央の裁定席を失った。ですが、双月境界選定式そのものは止まっていない」


「代替手順って何だ」


 シリルが問う。


 結晶板には、七つの連記席と、空の椅子が映っている。


 そこから、白い線が各地へ伸びた。


 王都。


 魔侯領。


 アウローラ。


 帰岸庫。


 対岸世界。


「裁定を一人が行えないなら」


 ノエルが言う。


「式は、各地の当事者が連記席を埋めるまで保留されます」


「それなら、時間を稼げるのですか」


 リゼットが問う。


「いいえ」


 ノエルは、少し青い顔で答えた。


「黒水は、保留を“無回答”として扱い始めています。双月までに、各地で誰が何を続けたいかを書き、互いの記録を照合できなければ。式は、残った記録だけで世界を選ぶ」


 フィルブランテは、黒い円を見る。


 誰か一人が裁定する席は、空席へ戻った。


 それは、大きな前進だった。


 でも、空席にしただけでは、二つの世界は続かない。


 各地にいる人々が、自分の場所で、自分の言葉を書かなければならない。


 王都の人々。


 魔侯領の七氏族。


 アウローラの港。


 学院。


 慈善薬園。


 帰岸庫の帰還者。


 そして、元の世界の真琴。


 皆が、まだ聞かれていない者の席に、自分の声を置く必要がある。


 黒い円の上に、最後の文字が浮かんだ。


 連記の期限:双月まで、三日。


 アマンテルスが、弟を見る。


 フィルブランテも、兄を見る。


 裁定者にはならなかった。


 でも、今度は二人が、皆へ助けを求める役になる。


「戻ろう」


 フィルブランテが言った。


「各地へ」


 アマンテルスが頷く。


 黒い祭壇の空席は、誰のものでもないまま残っている。


 まだ聞かれていない声のために。


 そして双月まで、三日。

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