第三十二話 同着は、片方の負けではない
雲鍵共同避難所の空に、二つの名前が浮かんでいた。
唐傘透。
唐傘輝。
白い雲の上に書かれた文字は、黒い円の中でゆっくり回っている。
その下には、二つの欄。
**対岸世界へ帰還を許可する者。**
**現世界の記録として残す者。**
さらに、その中央に、細い黒い針がある。
針は、右へ少し傾き。
次の瞬間には、左へ少し傾く。
透か、輝か。
黒水は、二人の名の間を何度も往復していた。
「止められないのか」
アマンテルスが、黒い日傘の柄を握る。
いつものように強い声を出している。
けれど、傘の先はわずかに震えていた。
「術式だけを止めようとすると、名前に触れます」
ノエルは結晶板から目を上げなかった。
「黒水の円は、二人の帰還記録と、現世界での存在記録を同時に参照している。乱暴に消せば、どちらか一方の記録が先に欠ける」
「つまり、俺かこいつのどっちかが消える」
アマンテルスが言う。
「現時点では、そうです」
「はっきり言うな」
フィルブランテが低く言った。
「正確に言う必要があります」
ノエルは答える。
「怖いからといって、危険を別の言葉にしてはいけない」
フィルブランテは、一度だけ目を閉じた。
それから、白い手帳を開く。
怖い。
その言葉を、手帳の余白に書いた。
兄が消えるかもしれない。
自分が消えるかもしれない。
どちらかを今、選ばなければならないと言われている。
その怖さを、なかったことにはしない。
「分かりました」
フィルブランテは言った。
「危険は、記録します。でも、選択肢が二つだけだとは認めません」
黒水の円が、低く鳴った。
雲鍵の樹の枝が、二人の名へ近づく。
**選択肢は二つ。**
**帰還者は一。**
**残存者は一。**
その文字を見ると、アマンテルスの口元が歪む。
「勝手に数を決めんな」
彼女は言った。
「二人とも帰るか、二人とも残るか。そもそも、まだ決めてねえ」
黒水は答えない。
ただ、黒い針が、わずかにアマンテルス側へ動いた。
フィルブランテの影が、白く揺らぐ。
兄が消えるほうへ針が動けば。
弟は、きっと止めようとする。
弟が消えるほうへ針が動けば。
兄は、きっと自分を差し出そうとする。
黒水は、それを待っている。
兄弟が互いを救うために、自分から片方を選ぶことを。
「全員、雲鍵の外へ」
シリルが、槍を構えた。
「アマンテルスとフィルブランテの名前に近づくな。黒水は、そばにいる者の記録も引っかけるかもしれない」
「私は離れません」
リゼットが、すぐに言う。
白い花が、彼女の足元へ咲く。
「二人に選ばせないために、皆でここにいるのでしょう」
「近づきすぎれば、お前まで巻き込まれる」
アマンテルスが言う。
「巻き込まれるかどうかを、アマンテルス様が一人で決めないでください」
リゼットの声は、穏やかだった。
でも、譲らない。
「私が残ることは、私が決めます」
その言葉に、アマンテルスは一瞬、何も言えなくなる。
黒水が、二人の間へ小さな文字を出した。
**保護者。被保護者。**
役を決めようとする文字。
しかしリゼットの花が、その文字を覆う。
「私は、助けられるだけの人ではありません」
白い花が、黒水の文字をゆっくり溶かした。
「二人の記録を、私も見ています。だから、証人として残ります」
レオンハルトも、雲鍵の樹の前へ立った。
「私もだ」
王太子の光は、黒水を直接押し返さない。
代わりに、二人の名の周りに細い光の円を作る。
「二人の帰還は、王国の都合で決めることではない。王太子として言うのではない。友人として、私は二人が今、選ばない権利を守る」
カイラスが、反対側に立つ。
「魔侯領も同じだ。アマンテルスが残るか帰るかを、七氏族も俺も決めない」
黒水は、今度は王国の光と魔侯領の雷を見比べた。
どちらかが、兄弟の片方を引き取ればいい。
そういう形を作りたがっている。
しかしレオンハルトもカイラスも、手を伸ばさない。
二人の隣に立つ。
選ぶためではなく、選ばせないために。
「まず、術式の根拠を確認します」
フィルブランテが言った。
「ノエル。この黒水の円は、なぜアマンテルスとフィルブランテだけを二人に分けられるのですか」
ノエルが結晶板を操作する。
空中に、複数の記録が浮かんだ。
現世界の記録。
フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。
アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。
対岸世界の記録。
唐傘透。
唐傘輝。
その間に、細い銀の線がある。
しかし黒水は、現世界の二人の名ではなく、対岸世界の兄弟の名だけを選別している。
「転生記録です」
ノエルが言う。
「二人がこの世界へ移った時、現世界側には別々の身体と別々の名前が登録された。けれど対岸側には、二人が眠り落ちた時刻のまま、二人の“帰還待機記録”が残っている」
「帰還待機」
フィルブランテが繰り返す。
「はい。黒水は、二人を現世界の人間として消すより、対岸へ帰す者と残す者に分けるほうが簡単だと判断している」
「簡単って言うなよ」
アマンテルスが、苛立たしげに言った。
「すみません。術式の判断としてです」
ノエルは、少しだけ顔を曇らせる。
彼もまた、誰かを数値として扱う危うさを知っている。
「黒水が参照しているのは、二人が眠る直前に残した最後の対岸記録です」
結晶板に、見慣れない画面が浮かんだ。
黒い机。
散らかった菓子の袋。
夜の部屋。
二つの画面。
これは、透と輝がいた元の世界。
兄弟が、乙女ゲームをしていた夜の記録だった。
◇
画面の中のアマンテルスは、今より少しだけ若く見えた。
黒いパーカーの袖をまくり、片手でコントローラーを握っている。
隣のフィルブランテは、机の端へ攻略メモを並べ、画面から目を離さない。
『兄貴、右。そこ分岐です』
『分かってるって。お前こそ好感度見ろ、残り二』
『見てます。九秒で終わります』
『俺は八秒』
『競技じゃないでしょう』
『タイムアタックなんだから競技だろ』
二人の声。
雲鍵の庭園にいるアマンテルスとフィルブランテは、黙って画面を見る。
懐かしい。
恥ずかしい。
あの夜は、こんなに明るかったのかと思う。
転生した直後には、思い出す余裕もなかった。
死亡ルートを避けること。
家族を守ること。
仲間を失わないこと。
気づけば、あの部屋は遠い場所になっていた。
画面のゲームは、最後の選択肢へ進む。
透が操作する画面には、アマンテルスがいる。
黒い日傘を閉じ、笑わない魔族令嬢。
輝が操作する画面には、フィルブランテがいる。
白い扇を握り、誰にも助けを求められない悪役令嬢。
どちらも、ゲームの中では死ぬはずだった。
そして、アマンテルスとフィルブランテは最後の選択を押す。
画面に、二つの文字が出る。
**CLEAR。**
**CLEAR。**
時計の数字も、二つ並ぶ。
01:12:07.000。
01:12:07.000。
『……同着?』
画面のフィルブランテが、驚いた声を出す。
『おい、マジか』
画面のアマンテルスが、画面へ顔を近づける。
『え、俺が先に押しただろ』
『記録は同じです。ほら』
『いや、俺が』
『兄貴、往生際が悪い』
『お前もな』
二人は少し言い合う。
でも、すぐに笑った。
勝敗がつかなかったから、怒ったわけではない。
ただ、思ったより疲れていた。
『もう一回やるか?』
『明日でいいです。もう眠い』
『俺も』
『じゃあ、明日、決着をつけましょう』
『おう』
二つのコントローラーが、机の上に置かれる。
画面の光が、眠る二人の横顔を照らす。
そして、記録が一度だけ暗くなった。
白い文字が浮かぶ。
**同時クリア記録:勝者未確定。**
黒水の円が、その文字を拡大した。
**勝者未確定。**
**帰還者の優先順位、未確定。**
「これが根拠です」
ノエルが言った。
「黒水は、二人の同時クリアを“不完全な記録”として扱っている。二人で一つの結果へ到達したのに、対岸側の記録には、一人目と二人目の欄が作られている」
黒水が、二つの欄を大きくする。
**先着者。**
**遅延者。**
**帰還者。**
**残存者。**
「ふざけるな」
アマンテルスの声が、低く響く。
影が、彼女の足元から黒水へ伸びる。
アマンテルスは、画面の中の自分を見ていた。
あの夜の自分は、勝ちたかった。
フィルブランテより早く。
兄として。
くだらない意地で。
その小さな勝負が、今、弟を失うための理由にされている。
「兄貴」
フィルブランテが、隣で言った。
「分かってる」
アマンテルスは答えた。
「俺が先に押したとか、フィルブランテが先に押したとか。今は関係ない」
でも、黒水は囁く。
**あなたが勝ちたかった。**
**弟より先に。**
**ならば、弟を残せ。**
アマンテルスの影が、わずかに揺れた。
「違う」
フィルブランテが言った。
「兄貴が勝ちたかったのは、俺を置いていくためではありません」
白い扇が、画面の記録へ向く。
「俺も勝ちたかった。兄貴より早く。この人なら俺をどこまで認めるか、試したかった。だから競っていた」
黒水が、弟の言葉を歪める。
**認められたかった。なら、兄を越えろ。**
**兄を残せ。**
「違います」
フィルブランテは、はっきり言った。
「越えることと、失わせることは同じではない」
白い扇が、黒水の文字を打つ。
「俺たちは、競っていました。でも、同着を見て笑った。悔しかったかもしれない。もう一回やろうと言った。でも、どちらが負けたとは言っていない」
画面の中の二人が、眠る直前に残した声が響く。
『明日、決着をつけよう』
その言葉に、黒水が反応する。
**決着。**
黒い針が、大きく動いた。
今度は、フィルブランテの名前へ向かう。
雲鍵の樹から、黒い枝が伸びる。
フィルブランテの腕へ絡みつこうとする。
「フィルブランテ!」
アマンテルスが、弟の前へ出た。
黒い影が枝を止める。
「兄貴、駄目です!」
「俺が押さえる」
「一人で押さえないでください!」
黒水が、嬉しそうに円を回す。
兄が弟を守る。
弟が兄を止める。
どちらも、相手を先にする。
ならば、片方を「先に失われる者」として選びやすい。
「二人とも、離れて!」
ノエルが叫んだ。
無属性の結界が、黒い枝の周りへ張られる。
枝は止まる。
だが同時に、結晶板に赤い線が走った。
「結界を維持すると、二人の転生記録の接続が弱まります」
「解除しろ!」
フィルブランテが言う。
「でも」
「俺の記録を守るために、兄貴の記録を削るな」
ノエルの手が止まった。
彼は、結界を張ることを選んだ。
最も効率がいいから。
しかし、その効率は、別のところを削る。
ノエルは唇を噛み、結界を細くほどいた。
黒い枝がまた動き出す。
でも、今度は枝の前に、シリルの槍が立った。
「切るんじゃない」
シリルは、誰に言うでもなく呟く。
槍の風が、枝そのものではなく、枝が伸びてくる経路だけを押し戻す。
「アマンテルスもフィルブランテも、ここにいる。記録を切らずに、距離だけ取る」
黒い枝は、二人へ届かない。
けれど、雲の円は止まらない。
時間を稼ぐだけでは足りない。
「同時クリア記録を、書き直せますか」
リゼットが尋ねた。
ノエルは首を振る。
「元の世界の出来事です。私たちの術式だけで、対岸の記録そのものは変えられない」
「変える必要はありません」
アリスが言った。
彼女は、雲鍵の樹の最も低い枝に触れている。
黄昏島を帰る場所として記した、小さな灯りのそば。
「記録は、消さない。書き足せます」
アリスの雲が、転生前の部屋の画面を包む。
「同時クリアは、勝者未確定ではなく。二人が同じ時に終わりへ着いた記録です。次に何をするつもりだったか。二人が、何を約束したか。いま、そこにいる皆さんが、何を見ているか。書き足せるはずです」
「でも、対岸側の証人が必要です」
ノエルが言う。
「元の世界で、二人が眠っていたこと。二人が同じ部屋にいたこと。二人がどちらか一方だけを帰すために眠ったのではないこと。それを、対岸から記録できる人が」
皆の視線が、雲の中の部屋へ向かう。
黒い机。
二つのコントローラー。
そのそばに、一冊のノートがある。
真琴が書いた手書きの記録。
「母さん」
フィルブランテが、雲へ近づく。
「母さんに、届くか」
アリスは、雲を少し開く。
空気が変わる。
雲の奥から、対岸の部屋が見えた。
時計は、七時十四分を過ぎている。
前に止まっていた時間が、少しずつ進んでいる。
机の前には、真琴が座っていた。
母は、二つのコントローラーを見ている。
その手には、ノートとペン。
部屋の外に観測者の影はない。
しかし、窓の端に黒い染みがある。
こちらの黒水が、対岸にも届いている。
『アマンテルス? フィルブランテ?』
雲の向こうから、真琴の声がした。
今度は、本物だと分かる。
急かさない声。
怖がっている。
でも、決めつけない声。
「母さん」
二人の声が、重なった。
アマンテルスとフィルブランテ。
でも、その奥には、アマンテルスとフィルブランテの声もある。
『聞こえてる』
真琴が、目を閉じる。
『よかった』
その一言で、アマンテルスは胸の奥が痛くなった。
帰りたい。
母のそばへ行きたい。
でも、今、母の声を使って弟を失わせようとしている黒水に、答えを渡せない。
「母さん。聞いて」
フィルブランテが言った。
「俺たちが、どっちが先に帰るか選べって言われてる」
雲の中の真琴の手が、ぎゅっとペンを握る。
『そんなこと、選ばない』
「でも、選ばないだけじゃ、止まらないかもしれない」
『分かった』
真琴は、すぐには「大丈夫」と言わなかった。
代わりに、ノートを開く。
『何を書けばいい?』
フィルブランテは、少しだけ息を止めた。
母が、助けるために一人で答えを出そうとしない。
何を書けばいいかを聞く。
それは、これまで皆で作ってきた記録の形だった。
「見たことを」
フィルブランテは言った。
「母さんが見たことを。俺たちがどこで、どうして眠ったかを」
真琴は、ノートへ書き始める。
ペンの音が、雲を通して聞こえた。
『唐傘透と唐傘輝は、二人で同じ部屋にいた』
文字が、雲の上に白く浮かぶ。
『二人は、同じゲームを別々の画面で遊んでいた』
黒水が、すぐに文字の間へ入ろうとする。
しかし真琴は、書くのを止めない。
『二人は、同じ時刻にクリアした』
**同時クリア。**
黒水の円が、大きく揺れた。
針が、行き場を失う。
『アマンテルスが先でも、フィルブランテが先でもない』
真琴は書く。
『二人は、同時に終わった』
黒水が、文字を黒く塗ろうとする。
だが、アリスの雲が文字の周りを包む。
フィルブランテの晶析眼が、黒い線と白い文字を分ける。
ノエルが、記録の時刻を照合する。
01:12:07.000。
01:12:07.000。
完全に同じ数字。
「これは、偶然の誤差ではありません」
ノエルが言った。
彼の声が、記録に重なる。
「二つの記録装置は、同一の時刻を記録している。先着者と遅延者の順位は、存在しない」
黒水が、別の文字を出す。
**同時は、順位を決められない不具合である。**
「不具合ではありません」
ノエルが答えた。
「二つの独立した行為が、同じ結果へ着いた事実です。記録できないのは、順番しか扱えない記録形式の側です」
黒水の円に、ひびが入った。
けれど、まだ割れない。
黒水は、最後の問いを残している。
**二人が同着なら、帰還も同時に求めるのか。**
**現世界の二人は、誰が残すのか。**
今度は、選択肢が四つに増える。
アマンテルスが帰る、フィルブランテが残る。
フィルブランテが帰る、アマンテルスが残る。
二人が帰る、現世界を消す。
二人が残る、対岸を閉じる。
黒水は、二人で帰る道に、必ず別の世界を消す条件を付けている。
それが、本当の罠だった。
「兄貴」
フィルブランテが、アマンテルスを見る。
アマンテルスも、弟を見る。
言わなくても分かる。
片方だけが帰ることは選ばない。
でも、二人だけが帰るために、今いる世界を消すことも選ばない。
答えがないように見える。
だから、黒水は勝てると思っている。
その時、レオンハルトが前へ出た。
「選択肢の前提を確認する」
王太子の声は、静かだった。
「なぜ二人が帰るために、現世界が消える必要がある」
黒水は答えない。
代わりに、星冠塔、水鏡、雲鍵の影を出す。
三つの選別記録。
どれも、誰かを一人にし、誰かを固定し、誰かを敵にした記録。
黒水の術式は、それらを使って二つの世界を分けようとしている。
「必要なのではない」
フィルブランテが言った。
彼女の晶析眼が、四つの選択肢の根元を見る。
「黒水が、その形でしか記録を使えないようにしているだけです」
「なら、その前提を書き換えられるか」
レオンハルトが問う。
「……今までのように、記録の形を変えれば」
フィルブランテは、雲鍵共同避難所を見た。
王国。
魔侯領。
アウローラ。
黄昏島。
対岸世界。
すでに、どの世界も一つを基準にせず、救難索でつながっている。
雲鍵は、帰る場所を一つにしないための避難所になった。
なら、帰る人も。
「帰還は、移動の選定ではありません」
フィルブランテが言った。
皆が、彼を見る。
「帰還は、その人が今いる場所を消すことではない。別の場所へ移るために、今の人生を無かったことにする必要もない」
アマンテルスの表情が、少し変わる。
「俺たちは、元の世界へ帰りたい」
彼女は言う。
「でも、アマンテルスとして生きたことも、フィルとして生きたことも、消したくない」
「だから、帰る時には、こちらへ戻る道も必要です」
フィルブランテが続ける。
「一度だけ移る扉ではなく、二つの世界の間を、誰か一人の犠牲なしに行き来できる記録。少なくとも、帰ることを決めるまでは、両方の世界で生きてきたことを残す記録」
黒水が、激しく波打つ。
そんな記録はない。
二つの世界は、一つを消さなければつながれない。
それがザハルの前提。
それが、これまで黒水が作ってきた選別の前提。
「ある」
アリスが言った。
雲鍵の樹の下で、彼女は小さな灯りを両手に包んでいる。
「雲鍵共同避難所は、どの世界も基準にしません。だから、帰還記録も、一方通行にしないことはできます」
「ただし、条件があります」
ノエルが、結晶板を見て言った。
「二人だけの意思では足りません。唐傘透と唐傘輝が、現世界で誰として生き、どの世界に何を残し、誰が帰還を見送るのか。全てを、一人が代わりに決めない記録が必要です」
「皆で、書く」
リゼットが言った。
「二人のことを、皆で見てきたことを書きます」
「ただし」
フィルブランテは、すぐに付け加えた。
「皆が、二人の帰還を決めるわけではありません。証人は、二人の代わりに選ばない。二人が、いつか帰ると決めた時、何を失わせないかを記すだけです」
黒水の四つの選択肢が、細かく揺れ始めた。
帰還者。
残存者。
そんな欄しかない帳簿に、別の欄を増やそうとしている。
「名前を」
アリスが言った。
「この記録に、名前を付けましょう」
アマンテルスは、弟を見た。
フィルブランテも、兄を見る。
転生前、二人は同着だった。
勝者がいなかったわけではない。
負けた者がいなかったわけでもない。
二人で、同じ時にゴールへ着いた。
「同着帰還記録」
フィルブランテが言った。
黒水が、意味を測れないように停止する。
「二人が一緒に帰るための記録じゃありません」
彼は言った。
「二人が、どちらかを置いて帰らないための記録です」
「それなら、条件も足す」
アマンテルスが、黒い日傘を雲へ掲げる。
「帰るか残るかを、今決めない。二人の帰還は、二人だけで決める。でも、二人が決めるために、この世界の皆が失われないことは、皆で守る」
雲鍵の樹の根元に、白い帳簿が現れた。
表紙には、まだ何も書かれていない。
フィルブランテが、ペンを取る。
アマンテルスが、その隣へ立つ。
二人の手は、触れない。
別々の人間だから。
それでも、同じ帳簿の上にある。
「私は、唐傘輝」
フィルブランテが書く。
白い文字が、雲へ浮かぶ。
「フィルブランテ・アソート・イデルバルディとして生きています」
次に、アマンテルスが書く。
「俺は、唐傘透」
黒い文字が、白い文字の隣に並ぶ。
「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルとして生きています」
二つの名は、上下ではない。
横に並ぶ。
「俺たちは、同じ時刻に元の世界からここへ来た」
「俺たちは、どちらか一人だけを帰還者として選ばない」
「俺たちは、どちらか一人だけを現世界の残存者として選ばない」
黒水が、帳簿の上を濡らそうとする。
しかし、今度は全員が紙の周りに立っている。
「私は、リゼット・アウレリア」
リゼットが、次に書いた。
「私は、二人が自分の命を諦めず、私に聖女という役を押しつけず、助けを求めることを覚えたのを見た」
白い花が、一行ごとに咲く。
「私は、二人の帰還を決めない。けれど、二人が帰るために、私たちの人生を消させない」
「俺は、レオンハルト・ヴァン・セレディア」
レオンハルトが書く。
「王国のためにフィルブランテの人生を選ばない。唐傘輝の帰還も選ばない」
「ただ、フィルブランテがこの世界へ残した行政、救援、交友、選択を、婚約や王国の都合で失わせない」
「俺は、カイラス・ヴェイル・ノクサル」
カイラスが書く。
「アマンテルスを和平の犠牲にしない。唐傘透を魔侯領のために残す者として選ばない」
「アマンテルスが帰ると決めても、魔侯領が彼女の帰る場所であった記録を消さない」
ガレウスが、太い指でペンを持った。
「俺は、ガレウス・ドラク」
彼は書く。
「俺は、アマンテルスが俺の姪であり、唐傘透という名を持つことを知った。どちらか片方だけを本物と呼ばない」
その短い一行に、黒水が強く揺れた。
人は一つの役でなければならない。
それが、黒水の力の源だった。
しかし、ガレウスはアマンテルスを姪としても、一人の当事者としても否定しない。
戦場で多くを一つにまとめてきた将軍が、今、二つの名を並べて書いた。
「俺は、シリル・グランツ」
シリルが続ける。
「危険な時、二人を守る。ただし、片方を守るために片方を置く命令には従わない。救えない場合は、救えないことを記録して助けを求める」
「私は、ノエル・エルミナージュ」
ノエルの筆先が、少し止まる。
「二人の転生を、異常な術式としてだけ扱わない」
彼は書く。
「理解できない記録を、消去や分離の対象にしない。二人が望む場合に限り、二つの世界を往復する安全な術式を研究する。その研究に、二人の拒否権を含める」
「私は、アリス・クラウド・ドリアスアリド」
アリスは、雲の中に自分の灯りを見ながら書く。
「雲鍵共同避難所は、唐傘透と唐傘輝の二人の帰還を、一方通行の選定として扱わない」
「二人の名を、上下ではなく並べて保管する。帰る時も、残る時も、二人の名と、今ここで結んだ関係を消さない」
最後に、対岸世界の雲が明るくなった。
真琴の手書きの文字が、帳簿の下へ浮かぶ。
『私は、唐傘真琴』
母の文字。
『透と輝の母です』
アマンテルスの影が、少し揺れた。
フィルブランテは、手帳を握りしめる。
『私は、二人のどちらが先に帰るかを決めない』
真琴は書く。
『二人が帰りたいと思うことを、責めない』
『今いる場所を大切にしたいと思うことも、責めない』
『二人が、誰かを置いてくるしかない時は、急いで答えを出さないでほしい』
黒水が、最後の文字へ襲いかかる。
急ぐな、という言葉が一番嫌いだ。
選別は、急がせなければ成立しない。
しかし真琴の手書きの記録は、黒水に濡れない。
対岸で、彼女自身が書き、こちらで多くの人が読んでいる。
誰か一人の声を真似ても、黒水は同じ形にできない。
帳簿の表紙に、白い文字が刻まれる。
**同着帰還記録。**
その下に、二つの名。
唐傘透/アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。
唐傘輝/フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。
二つの斜線は、分ける線ではない。
双方の名が、同じ人へ続いていることを示す線だった。
◇
黒水の円が、耳を裂くような音を立てた。
先に失われる者。
という文字が、何度も現れては消える。
黒水は、アマンテルスを選ぼうとする。
しかし、同着帰還記録が、二人の名を並べ直す。
フィルブランテを選ぼうとする。
しかし、同じ記録が、先後の欄を空白へ戻す。
帰還者を一人にしようとする。
真琴の記録が、二人を同じ部屋にいた者として残す。
現世界の残存者を一人にしようとする。
王国と魔侯領、仲間たちの記録が、二人の現在の人生を別々に、しかし切り離さずに残す。
黒水の針が、急速に回転する。
右。
左。
右。
左。
そして、止まった。
針は、二人の名前のちょうど真ん中を指している。
黒い円に、初めて白いひびが入る。
**優先順位:不成立。**
**先に失われる者:選定不能。**
雲鍵の庭園に、皆の息を吐く音が重なった。
アマンテルスは、すぐに弟を見る。
フィルブランテも、兄を見る。
二人とも、そこにいる。
「生きてるか」
「兄貴こそ」
「当たり前だ」
「今は、当たり前ではありませんでした」
フィルブランテの声は少し震えていた。
アマンテルスは、何か言おうとして、結局、弟の肩を軽く叩いた。
「悪かった」
「何がです」
「最初、俺が先に押したとか思った」
「俺も、俺のほうが早かったと思っていました」
「どっちも子どもだな」
「兄貴よりは冷静でした」
「今の流れでそれ言う?」
リゼットが、思わず小さく笑う。
緊張が少しだけほどけた。
だが、ノエルは結晶板を見て、表情を変えた。
「待ってください」
彼の声に、皆が再び振り向く。
黒水の円は、確かに選定不能と表示している。
けれど、円の外側にあった黒い縁が、雲鍵の根元へ沈み始めていた。
「何だ」
シリルが槍を構える。
「黒水は、兄弟の優先順位を決めることに失敗した」
ノエルは言う。
「しかし、選別そのものをやめたわけではない」
結晶板に、星冠塔、水鏡、双月停戦連誓、雲鍵共同避難所の四つが浮かぶ。
黒い線が、四つをつなぐ。
その中心に、新しい円が現れた。
今度は、アマンテルスとフィルブランテの名ではない。
黒水が示しているのは、二人が転生した瞬間の時刻だった。
01:12:07.000。
対岸世界の記録。
そして、黄昏島の水鏡が初めて二つの世界を映した瞬間の記録。
同じ形の円が、二つの時刻を囲む。
「黒水は、二人のうちどちらかを消せないなら」
フィルブランテが、ゆっくり言った。
「二人が同時に渡った“入口”そのものを、選別しようとしている」
「転生した瞬間を?」
リゼットが問う。
ノエルは、頷いた。
「はい。二人の記録を分けられないなら、二人がこちらへ来た記録そのものを“誤り”として消そうとしている」
雲の中の元の世界の部屋が、一度だけ大きく揺れた。
机。
コントローラー。
眠っている二人。
その映像の上に、黒い文字が浮かぶ。
**同着記録を無効とする。**
**転生開始時刻を訂正する。**
**二名の到着を、未到着として扱う。**
アマンテルスの顔から、血の気が引く。
フィルブランテも、手帳を強く閉じた。
もし、二人がこの世界へ来なかったことにされれば。
アマンテルスとフィルブランテは、原作の死亡ルートへ戻るのか。
リゼットたちは、今までの選択を忘れるのか。
あるいは、兄弟がいたことだけが消えるのか。
どちらにせよ、皆で書いた記録が、最初の頁から壊される。
黒水は、一人を失わせることに失敗した。
だから次は。
二人がいた未来ごと、選ばなかったことにしようとしている。
ノエルの結晶板に、数字が浮かぶ。
双月まで、あと五日。
その下に、別の数字。
**転生開始時刻の訂正まで、四十八時間。**
雲鍵の樹が、低く震えた。
アリスの小さな灯りも。
王国の灯りも。
魔侯領の灯りも。
元の世界の部屋の灯りも。
消えてはいない。
けれど、黒水は今、二人が灯りを結んだ最初の夜へ手を伸ばしている。
フィルブランテは、白い手帳を開いた。
同着帰還記録の最後に、短く書く。
**同着は、片方の負けではない。**
そして、その下に。
**二人が来たことを、誰にも無かったことにさせない。**
アマンテルスが、隣で日傘を開く。
「次は、俺たちが来た入口を守る」
黒い日傘の内側に、二つの月が映る。
白い雲の中に、二人の名前が並んでいた。
まだ、どちらも消えていない。




