第三十三話 最初の夜は、誤りではない
転生開始時刻の訂正まで、四十八時間。
その数字は、雲鍵共同避難所の空に浮かび続けていた。
白い雲の上で、黒い文字だけが時間を刻む。
四十七時間五十九分。
四十七時間五十八分。
数字が一つ減るたび、雲鍵の樹の枝が小さく震えた。
枝の先には、いくつもの灯りがある。
王都。
魔侯領。
アウローラ。
黄昏島。
そして、対岸世界の小さな部屋。
どの灯りも消えていない。
けれど、雲の奥に浮かぶ黒い円は、二つの世界を結んだ最初の瞬間だけを狙っている。
01:12:07.000。
透と輝が同時にゲームをクリアし、眠り落ちた夜。
アマンテルスとフィルブランテが、この世界で目を開けた最初の時刻。
黒水は、その二つの記録を一つずつ消そうとしていた。
「急いで水鏡へ戻る」
アマンテルスが言った。
黒い日傘を開く。
「転生の入口を狙うなら、入口のそばで止める」
「待ってください」
フィルブランテが、白い手帳を閉じる。
「入口を守るだけでは、黒水の言うとおり“二人の到着は誤りではない”と証明できません」
「じゃあ、どうする」
「なぜ俺たちがここへ来たのかを、確認します」
弟の言葉に、アマンテルスは少し黙る。
なぜ来たのか。
それは、ずっと考えないようにしていた問いだった。
ゲームを終えた。
眠った。
次に目を覚ましたら、死ぬはずの令嬢になっていた。
そこに、理由があるのか。
誰かが呼んだのか。
それとも、誰かの間違いなのか。
もし間違いなら。
この世界で二人が助けた人々まで、間違いの続きになるのか。
「水鏡の中枢なら、調べられます」
ノエルが言った。
結晶板には、星冠塔、七鍵聖庫、雲鍵共同避難所、そして水鏡が映っている。
四つの記録が、淡い線で結ばれていた。
「黒水は、転生開始時刻を“到着だけの記録”として扱っている。だから、二人が来なかったことにすれば、現在の記録を上から書き換えられると考えている」
「到着だけ、ではない」
アリスが静かに言った。
雲鍵の樹の根元には、彼女が初めて自分で書いた灯りがある。
黄昏島。
自分の帰る場所。
アリスは、その灯りへ触れながら続けた。
「どこかへ来た記録には、その前にいた場所と、来たあとに結んだものがあります。そこを全部見なければ、到着が誤りだったかどうかは決められません」
「灯鍵と雲鍵を使えば、過去と未来を同時に映せます」
アステリアが、樹海の奥から現れた。
白い灯を持つ第一の灯守。
彼女はいつもより、少しだけ急いでいるように見えた。
「ただし、水鏡へ触れる者は、自分がいちばん戻りたい時刻を見るでしょう。黒水は、そこへ入り込む」
「分かった」
アマンテルスは答えた。
「見ても、勝手に決めない」
「誰かの記録を、自分の都合で使わない」
フィルブランテが続ける。
アステリアは、二人を見た。
長い年月、過去の名前を灯として保ってきた灯守の瞳には、微かな迷いがあった。
「あなたたちは、転生の理由を知れば、元の世界へ戻りたいと思うかもしれません」
「思います」
透は即答した。
周りの皆が、少し驚いたように彼を見る。
でも、彼は目を逸らさない。
「母さんに会いたい。元の部屋に帰りたい。そう思わないふりをするほうが、俺には無理だ」
フィルブランテが、隣で頷いた。
「俺もです」
「けれど」
アマンテルスは、黒い日傘を持ち直す。
「帰りたいからって、ここで生きたことを間違いにしない」
フィルブランテが白い手帳を胸へ抱いた。
「帰る理由を知ることと、帰ることを今決めることは、別です」
アステリアは、ゆっくり頷く。
「では、水鏡の中枢へ」
◇
水鏡の中枢は、黄昏島のさらに深い場所にあった。
雲上庭園から伸びる中間道を下り、記憶樹海の根元を抜ける。
そこには、光でも影でもない、薄明の洞窟がある。
壁に埋め込まれた無数の鏡片は、通る者の姿を映さない。
映すのは、通る者が見ようとしない瞬間だけだ。
アマンテルスの前の鏡片には、幼い頃のアマンテルスが映る。
黒い日傘をうまく開けず、父ヴァルガスの背後で泣いている。
フィルブランテの前には、白い礼装を着せられ、幼いレオンハルトの隣で固く座るフィルブランテがいる。
リゼットの前には、孤児院の窓から、名前を呼ばれない子どもたちを見ている少女。
カイラスの前には、会議の席で「和平のために一人を切る」と言いかけた自分。
皆が、少しだけ歩みを遅くする。
「鏡は、過去を裁くためにあるのではありません」
アステリアが言った。
「過去を今の命令にしないためにあります」
洞窟の最奥で、道が開ける。
そこには、大きな水鏡があった。
水面は縦に立っている。
銀の月と青紫の月の光を受けながら、どちらの色にも染まらず、ただ静かに揺れていた。
鏡の前には、二つの台座がある。
ひとつには、灯鍵。
もうひとつには、雲鍵。
アステリアとアリスが、それぞれの鍵を置く。
「灯鍵は、過去を固定します」
アステリアが言う。
「雲鍵は、まだ決まっていない未来を残します」
アリスが続ける。
「二つが揃えば、過去を一つの結末に閉じず、未来を根拠のない願いに散らさずに、並べて映せます」
水鏡の表面が、ゆっくり明るくなる。
最初に映ったのは、元の世界の部屋だった。
夜。
机。
ゲーム機。
二つの画面。
二つのコントローラー。
眠り落ちた透と輝。
時刻は、01:12:07.000。
次に、水鏡はこの世界を映す。
白い寝台の上のフィルブランテ。
黒い天蓋の下のアマンテルス。
どちらも目を開ける直前。
二人の令嬢の周りには、見えないほど細い黒い糸が絡んでいた。
原作の死亡ルートへ続く糸。
断罪。
処刑。
怪物化。
戦争。
水鏡は、その糸の間に、二つの淡い光を映す。
元の世界の透。
元の世界の輝。
その光が、二人の令嬢へ降りていく。
アマンテルスは、息を止めた。
「これ……」
「転生の瞬間です」
ノエルが言った。
結晶板の上を、これまで見たことのない術式が流れている。
複雑で、でも不思議なほど整っている。
「水鏡が二つの世界を重ねた。ですが、これは召喚術ではない」
「どう違うのですか」
フィルブランテが問う。
「召喚術なら、誰かが呼ぶ側で、誰かが呼ばれる側です。魔力の流れが一方通行になる」
ノエルは鏡を見る。
「これは違う。二つの世界に、それぞれ同じ形の“助けを求める記録”があった。水鏡がそれを、同じ時刻の記録として重ねた」
「助けを求める記録?」
リゼットが、水鏡へ近づく。
鏡の中で、転生前の透と輝の画面が少しだけ動いた。
ゲームの最後。
二人がそれぞれ、アマンテルスとフィルブランテの死亡ルートを避けるために選んだ行動。
敵を断罪する代わりに、証拠を残す。
守るために一人を犠牲にする代わりに、全員で逃げ道を探す。
まだ現実ではないゲームの中で。
それでも二人は、死ぬはずの令嬢が死なない結末を選んでいた。
「二人は、ゲームをクリアした時」
アステリアが言う。
「物語の中で、二人の令嬢へ“生きてよい”という結末を選びました」
透と輝は、何も言えない。
「この世界の二人の令嬢は、その同じ瞬間に、黒水の選別によって“死ぬ者”として固定されかけていた」
水鏡の中で、原作の糸が二人の首と手首へ巻きつく。
誰かの敵。
誰かの悪役。
誰かの怪物。
そう決められた瞬間。
別の世界で、二人の少年が画面の向こうの二人へ、生き残る結末を与えた。
それは偶然だった。
でも、ただの誤作動ではない。
「水鏡は、助けを求める同じ形の記録を重ねた」
アステリアは続ける。
「二人の少年を、勝者として褒美に呼んだのではありません。二人の令嬢の代わりに、死ぬ役を引き受けさせるために呼んだのでもない」
彼女は、水鏡の中の二つの淡い光を見る。
「“死ぬはずだ”と記された二人へ、“生きる結末を知っている二人”の記録が重なったのです」
「それでも」
フィルブランテが、ゆっくり言った。
「俺たちは、来ることを選んでいません」
「はい」
アステリアは答えた。
すぐに。
言い訳をしない。
「水鏡は、二人の同時クリアと眠りを、“助けを拒まない状態”として扱いました。けれど、眠っている者がどこへ行くかを、鏡が決めてよい理由にはなりません」
水鏡の光が、少し弱くなる。
灯守は、悲しそうに目を伏せた。
「それは、水鏡の過ちです。二つの世界を救いたいと願っても、誰かの人生を勝手に移す理由にはならない」
透は、水鏡の中の自分を見る。
眠っている。
何も知らない。
弟も、隣で眠っている。
あの時、誰かが「生きてほしい」と願ったことは嬉しい。
でも、自分たちが選んだわけではないことも、本当だった。
「じゃあ」
アマンテルスは、低い声で言う。
「俺たちがここにいることは、間違いなのか」
アステリアは顔を上げる。
「最初に、選ばせなかったことは間違いです」
彼女は言った。
「でも、あなたたちが来てから、自分で結んだ記録まで間違いにはなりません」
フィルブランテの白い手帳。
暗殺を止めた記録。
教本を破った者へ謝った記録。
毒花を三人で摘んだ記録。
父と帳簿を開いた記録。
敵を選ばない停戦の補記。
帰る場所を一つにしない雲鍵共同避難所。
その全てが、水鏡の周りに小さな光として浮かぶ。
「来た理由は、勝手に決められた」
フィルブランテが言う。
「でも、来てから何をしたかは、俺たちが決めた」
「そうです」
リゼットが、隣で頷く。
「私たちは、二人に助けられました。でも、それは二人が最初から私たちを助ける役だったからではありません」
白い花が、水鏡の足元で咲く。
「助けてくれたから、私も一緒に選びます」
アマンテルスは、黒い日傘を少し下げた。
肩から、わずかに力が抜ける。
「俺は、最初からアマンのために生きるって決めてたわけじゃない」
彼女は言う。
「でも、アマンの父さんが荷物に守護符を入れてくれた時、母さんが歌ってくれた時、ルーシェがうるさかった時。俺は、ここにいてよかったと思った」
透の言葉は、少し乱暴で、素直ではない。
でも、水鏡はその言葉をまっすぐ受け取った。
「俺も」
フィルブランテが言う。
「フィルの父が帳簿を渡してくれた時。ミレーヌが何も聞かずに背中を押してくれた時。レオンが、婚約を今決めなくていいと言った時。俺は、フィルとして生きたことを消したくないと思った」
水鏡の周りの光が、少しずつ明るくなる。
だが、その時だった。
鏡の中心に黒い線が走る。
黒水が、二つの場面の間へ入り込んだ。
元の世界の眠る二人。
この世界で目を開ける二人。
その間の光を、黒い手がつかむ。
選ばなかった到着は、無効とする。
二名の助けは、召喚者不在の侵入である。
最初の夜を、訂正せよ。
水鏡の中の透と輝の姿が、薄くなる。
同時に、この世界のアマンテルスとフィルブランテの周りで、原作の黒い糸が再び動き出した。
フィルブランテの首へ、断罪の輪。
アマンテルスの腕へ、怪物化の鎖。
「来たことを正しいと言い切る必要はない」
フィルブランテが、黒水へ向かって言った。
「でも、勝手に来たからといって、今の俺たちを消す理由にはならない」
黒水は、さらに鏡を濡らす。
ならば、いつ出る。
いつ帰る。
期限を示せ。
また、今すぐの答えを求める。
ここへ来たことを認めるなら、帰る時刻も決めろ。
決められないなら、存在を保留ではなく無効にしろ。
「急かして選ばせるな」
アマンテルスが言った。
黒い影が、原作の鎖を受け止める。
「俺たちは、帰るか残るかをまだ決めてない。それを理由に、今ここで生きてることまで消すな」
「ですが、黒水は記録の空欄を使っています」
ノエルが言う。
「転生が非同意だったこと。帰還時刻が未定なこと。その二つの空欄を、無効という言葉で埋めようとしている」
「空欄を、偽の答えで埋めない」
フィルブランテが言う。
白い手帳を開いた。
「今までと同じです。空欄には、空欄である理由と、次に確認する手順を書きます」
「転生の記録へ?」
アステリアが問う。
「はい。転生が本人の同意なく起きたこと。今の二人が、帰還を保留していること。二つの世界で生きた記録を消さないこと。それを」
フィルブランテは、水鏡を見る。
「でも、俺たち二人だけで書きません」
水鏡の前に、白い紙が現れた。
雲鍵共同避難所の記録紙。
紙の上には、最初から四つの欄がある。
対岸世界で見た者。
現世界で見た者。
水鏡の仕組みを知る者。
転生した当事者。
それぞれの欄に、名前を書く余白。
黒水が、紙を黒く塗ろうとする。
しかしアリスの雲が、紙の上に薄く広がった。
「雲鍵共同避難所は、まだここにあります」
アリスが言う。
「どちらかの世界を基準にしないなら、最初の夜も、一つの世界だけの記録にはしません」
「対岸世界で見た者」
雲の中で、真琴がノートを開いた。
母の手は、少し震えている。
でも、ペンは止まらない。
『私は、唐傘真琴』
文字が、水鏡の紙へ浮かぶ。
『透と輝の母です』
黒水が、すぐに母の文字を試す。
あなたは、二人を返してほしいのではないか。
真琴の肩が、少しだけ揺れる。
帰してほしい。
もちろん、そう思う。
子どもが眠ったまま、知らない場所へいる。
それが怖くないはずがない。
でも、真琴は黒水へ答えない。
紙へ書く。
『私は、二人が同じ部屋で眠ったことを見た』
『二人が、同じ時刻にゲームを終えたことを見た』
『二人が、どこへ行くことに同意したかは見ていない』
『だから、私の願いで、二人が帰る時刻を決めない』
最後の文字が、水鏡に定着する。
対岸世界の証人。
母は、二人の帰還を命じない。
見たことと、見ていないことを分けて書く。
「現世界で見た者」
リゼットが、紙の前へ出た。
「私は、リゼット・アウレリア」
彼女は書く。
「私は、フィルブランテとアマンテルスが、私を聖女に固定する役を断るのを見た」
「私は、二人が私の代わりに選ばず、私が選ぶのを待ってくれたことを知っている」
「私は、二人がこの世界へ来た時に同意したかは知らない」
「でも、来てから、二人がこの世界で自分の意志で誰かと関係を結んだことを知っている」
彼女の文字のそばに、白い花が咲く。
シリルが書く。
レオンハルトが書く。
カイラスが。
ガレウスが。
ミレーヌの遠い声も、雲鍵を通して届く。
父オーギュストの、短いが重い文字も。
ヴァルガスとエルネシアの署名も。
皆が、透と輝の代わりに帰還を決めない。
ただ、二人が現世界で生き、選び、誰かの記録に残ったことを証言する。
「水鏡の仕組みを知る者」
アステリアが、灯鍵に触れた。
「私は、アステリア。黄昏島の第一の灯守」
彼女は書く。
「水鏡は、二人の明確な同意を得ずに、助けを求める記録を重ねた」
その一行で、水鏡は大きく揺れた。
灯守が、鏡自身の過ちを書く。
黒水は、それを喜ぶように見えた。
けれどアステリアは、続ける。
「水鏡は、二人を支配する権利を持たない」
「水鏡は、二人がこの世界で新たに結んだ記録を、無効とする権利も持たない」
「水鏡は、二人が帰還について考え、選び、必要なら両方の世界へ助けを求めるための窓であり続ける」
灯鍵が、強く光る。
過去の過ちを、消さない。
でも、その過ちを今の命令にしない。
アリスが、雲鍵へ触れた。
「私は、アリス・クラウド・ドリアスアリド」
「雲鍵は、まだ決まっていない帰還の未来を、一つに決めない」
「二人が帰ると決める日まで。あるいは、帰らないと決める日まで。どちらの未来も、本人の同意なく閉じない」
雲鍵が、紙の四つの欄をつなぐ。
最後に、転生した当事者の欄が残る。
アマンテルスとフィルブランテが、紙の前に立つ。
黒水は、最後の抵抗をする。
あなたたちは、選ばれずに来た。
だから、選ばれずに消えよ。
原作の黒い糸が、二人の背後で大きく膨らむ。
断罪台。
処刑台。
怪物の鎖。
すべてが、一度に二人を引こうとする。
アマンテルスが、日傘を開く。
フィルブランテが、白い扇を掲げる。
黒と白。
二つの傘。
二人の令嬢。
二人の兄弟。
「俺は、唐傘透」
アマンテルスが書く。
「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルとして、この世界で生きている」
黒水が、文字を裂こうとする。
しかし、日傘の内側の星が、黒い糸を受け止める。
「俺は、ここへ来ることを選んでいなかった」
透は書く。
正直な文字。
「それでも、ここで生きて、ここで出会った人を守りたいと選んできた」
次に、フィルブランテが書く。
「俺は、唐傘輝」
「フィルブランテ・アソート・イデルバルディとして、この世界で生きている」
白い扇から、氷晶が広がる。
断罪台の影を、記録の外へ押し出す。
「俺も、ここへ来ることを選んでいなかった」
「それでも、ここで助けを求め、助けを受け、ここで生きることを選んできた」
兄弟は、少しだけ顔を見合わせる。
そして、同時に書いた。
「俺たちは、元の世界へ帰りたいと願っている」
「俺たちは、現在の世界で生きたことを消したくない」
「俺たちは、帰る時刻を今は決めない」
「俺たちは、帰還を理由に、どちらかの世界と誰かの人生を無効にさせない」
最後の一行。
フィルブランテの手が、少し止まる。
アマンテルスの手も。
黒水は待っている。
最初の夜を、正しいと言え。
または、間違いだったと認めろ。
二択を出せ。
だが、二人は同時に、別の言葉を書く。
「最初の夜は、誤りではない」
「最初の夜は、俺たちが選ばなかった出来事だった」
そして。
「だから、これからの選択で、意味を作る」
水鏡が、強く光った。
黒水の糸が、一斉に切れる。
断罪台が、霧になって消える。
怪物の鎖が、床へ落ちる。
雲の中で、元の世界の部屋が、はっきり映る。
机の上のゲーム画面には、二つの記録が並んでいる。
CLEAR。
CLEAR。
01:12:07.000。
01:12:07.000。
その下に、新しい文字が出た。
二名の到着記録:確認済み。
二名の帰還時刻:本人の意思により未定。
現世界での生存記録:有効。
黒水の円が、ひび割れる。
同着記録を無効とする。
という文字が、消えた。
転生開始時刻を訂正する。
という文字も、消えた。
四十八時間の数字は、そこで止まる。
四十七時間十三分。
残り時間は、黒い粉になって雲へ溶けた。
水鏡の中の透と輝。
眠る二人の姿は、消えない。
現在のアマンテルスとフィルブランテも、消えない。
過去と現在は、どちらかを上書きせずに並んでいた。
◇
長い光が収まった後、水鏡の前には、誰もしばらく声を出せなかった。
助かった。
そう言うには、まだ早いかもしれない。
でも、最初の夜が無かったことにはならなかった。
それだけで、透は胸の奥にあった冷たいものが少しほどけるのを感じた。
「母さん」
アマンテルスが、雲へ呼びかける。
真琴は、まだ机の前にいる。
ノートを閉じずに、両手で抱えていた。
『聞こえてるよ』
「ごめん」
透の口から、先に出た。
何に対しての謝罪か、自分でも全部は分からない。
勝手に消えたこと。
心配させていること。
帰りたいのに、今すぐ帰れないこと。
『謝らなくていい』
真琴は言った。
『透も、輝も。行きたい場所が増えただけでしょう』
透は、少し笑いそうになる。
行きたい場所が増えた。
それを、母は責めない。
『帰る場所も、増えたんだと思う』
真琴の言葉が、雲へ白く残る。
フィルブランテは、手帳へその言葉を書いた。
帰る場所は、増えていい。
それは、今日できた記録の最後に置く言葉として、あまりにぴったりだった。
「これで、黒水の転生訂正は止まりました」
ノエルが、結晶板を見て言う。
いつもより、少しだけ疲れた顔をしている。
「ただし、術式の根は残っています」
「どういうことですか」
リゼットが問う。
ノエルは、水鏡の表面を指した。
黒水は消えた。
だが、水鏡の奥に、細い黒い線が一本だけ残っている。
その線は、元の世界の部屋でも、黄昏島でもない場所へ伸びている。
星冠塔。
七鍵聖庫。
雲鍵。
帰岸庫。
四つの記録を通り抜け、その先にある、まだ誰も見たことのない黒い祭壇へ。
「ザハルは、転生記録を消して兄弟を消すことに失敗した」
ノエルが言う。
「ですが、二つの世界がつながったこと自体を、次の術式の材料にしようとしている」
「具体的には」
レオンハルトが尋ねる。
結晶板に、黒い文字が浮かぶ。
双月境界選定式。
その下に、二つの世界を表す円。
片方には、元の世界。
片方には、現在の世界。
黒水は、二つの円の間に線を引いている。
「双月の夜、水鏡の前で“どちらの世界を現実として残すか”を選定する術式です」
アステリアの顔が、険しくなる。
「水鏡を、窓ではなく裁定の鏡へ変えるつもりです」
「さっき、それを止めたんじゃないのか」
アマンテルスが言う。
「雲鍵の選別と、兄弟の選別は止めました」
ノエルは答える。
「しかし、ザハルはまだ選定に必要な記録を集めています。星冠の継承記録。白薔薇の婚約記録。双月停戦連誓。そして、二人の転生記録」
フィルブランテが、眉を寄せる。
「転生記録は、守りました」
「守ったからです」
ノエルの声が、少し低くなる。
「ザハルにとって、記録を消すことだけが目的ではなかった。二つの世界を確かにつないだ入口が存在すると、今、証明されました」
皆が、黙る。
転生が無効ではないと示した。
それは、兄弟が生きてきた時間を守った。
同時に、二つの世界をつなぐ道が実在することも、ザハルに利用される危険がある。
「なら、俺たちがしたことは」
アマンテルスが言いかける。
「正しかったです」
フィルブランテが、すぐに遮った。
兄を見る。
「俺たちが来たことを無かったことにさせないのは、正しかった。正しかったから、次に守る方法を考えればいい」
透は、弟の顔を見た。
昔なら、輝はもっと冷たく答えたかもしれない。
効率を数えて。
でも今は、正しさと危険を両方書いている。
それは、二人がこの世界で覚えたことだった。
「そのとおりです」
アリスが言った。
雲鍵の小さな灯りを、そっと包む。
「入口があるなら、閉じるだけではなく、誰がどう通るかを決められます」
「また“決める”って言葉を使うと、黒水が喜びますよ」
フィルブランテが言う。
アリスは、少し微笑んだ。
「では、誰か一人が決めないように、皆で確かめられます」
水鏡の奥の黒い祭壇が、ゆっくり近づく。
そして、文字が浮かんだ。
双月境界選定式まで、四日。
その直後、雲の中の対岸世界で、真琴の机のゲーム画面が一度だけ明るくなった。
黒い選択画面。
二つのボタン。
CONTINUE。
NEW GAME。
その下に、小さな文字。
二つの世界を続けますか。
真琴は、画面に手を伸ばさなかった。
代わりに、ノートを開く。
そして、新しい頁の一番上に書いた。
誰が、何を続けるのかを、先に聞く。
その文字が雲を通り、水鏡の前へ届く。
黒い画面は、すぐには消えない。
でも、どちらのボタンも押されない。
四日後の双月まで。
兄弟と仲間たちは、二つの世界を続けるための答えを、まだ誰にも選ばせない。




