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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第三十一話 雲の避難所は、帰る場所を減らさない

黄昏島へ戻る航路は、来た時より短かった。


 帰潮の舵が、二つの月の間に残る細い潮目を選んだからだ。


 けれど、早く着くことが安心につながるわけではない。


 旗なき救難船〈暁なき潮騒〉の甲板から見えた黄昏島は、前に来た時とはまるで違っていた。


 島の上空に、雲が幾重にも重なっている。


 灰青色。


 白。


 薄い金。


 そして、その隙間を縫う、黒い雲。


 雲の一つ一つに、小さな灯りが映っていた。


 王都の家々。


 魔侯領の夜嶺。


 アウローラの港。


 学院の寄宿舎。


 イデルバルディ公爵領の薬園。


 アルバの帰岸庫。


 そして、透と輝が眠り落ちた、元の世界の部屋。


 帰る場所の記録が、全部、空の中へ吊り下げられている。


 それらを、黒い雲が一つずつ細い縄で引いていた。


「雲鍵が、選別棚に変えられています」


 ノエルが結晶板を見ながら言った。


 声は低い。


「本来、雲鍵は“まだ決まっていない未来”を一時的に保管する場所です。けれど今は、記録を世界ごと、地域ごとに分け、優先順位を付け始めている」


 船首に立つアリスの手が、強く握られた。


 銀白の髪の周りで、灰青色の雲が落ち着かない。


 彼女が雲の名を呼ぶたび、遠くの雲が苦しそうに揺れる。


「全部、私が預かっていた雲です」


 アリスが、小さく言った。


「誰かが“ここへ帰りたい”と思った時、未来にその場所が残っているように。私は、雲に灯りを集めてきました」


「アリスのせいじゃない」


 リゼットが、すぐに言った。


「雲を守っていたから、黒水がそこへ入ったのです」


「でも、入らせない方法を知らなかった」


 アリスは、島の上空を見つめる。


「雲は、風を拒めません。鍵なのに、閉じることしかできない鍵だった」


 黒い雲の一つが、大きく膨らんだ。


 その中に、文字が浮かぶ。


 **保持可能な帰岸記録:一。**


 次の文字。


 **保存する世界を選定せよ。**


 アマンテルスが、舌打ちした。


「また一つだけ残せってか」


「一つだけではありません」


 ノエルが首を振る。


「術式は、最初に一つの世界を“基準の帰還先”として選びます。選ばれた世界とつながる記録だけを安定させ、他は徐々に“寄り道”として扱う」


「寄り道」


 フィルブランテの声が冷たくなる。


「人が暮らしている場所を」


「はい。元の世界へ帰りたいと願う透さんと輝さんには、この世界を寄り道にする。現在の世界の人々には、元の世界を不要な余白にする。そうやって、どちらかの帰り道を消します」


 アマンテルスとフィルブランテは、同時に雲の中の部屋を見る。


 小さな机。


 並んだ椅子。


 画面の消えたゲーム機。


 母・真琴の声。


 帰りたいと、思わないわけではない。


 その思いを黒水は知っている。


 だから、最初に見せる。


 この世界の人々が見たら、同じように自分たちの家を見るのだろう。


 どの家も、捨てるためにはあまりに大切だった。


「船を、島の東岸へ」


 マレアが言った。


 海の魔女と呼ばれる船長は、月読盤を確かめる。


「雲の真下へ入れば、上陸用の小舟が出せる。だが、黒水は島の周りの潮まで選別している。帰る潮と、流される潮を二つに分けようとしている」


「小舟は二艘にしない」


 アマンテルスが言った。


「分かれたら、それを使われる」


「分かってる」


 マレアは、短く答えた。


「だから、船は沖に残す。全員、救難索でつながって上がる。誰かが雲に引かれても、切れないように」


 救難索。


 帰還者エルドを船へ乗せずに救った時、二隻の間をつないだ索。


 混ざらないための境界であり、置いていかないための線。


 今度は、島と船をつなぐ。


 アリスが、甲板の中央に立つ。


「雲鍵へ近づくほど、皆さんは自分の帰る場所を見ます」


 彼女は言った。


「その声が本物か、黒水の真似か、すぐには分からないかもしれません」


「本物でも、急いで決めない」


 フィルブランテが答える。


「誰かの声を聞くことと、命令に従うことを分けます」


「帰りたいと思うことも、消さない」


 アマンテルスが続けた。


「でも、帰りたいからって、今いる誰かを置いていく答えにはしない」


 アリスは、二人を見た。


 雲の中で、元の世界の部屋が揺れる。


 黒水は、そこへ細い線を伸ばした。


 だが、その線はまだ二人の手元まで届かない。


「分かりました」


 アリスは、小さく頷いた。


「雲は、閉じないで守ってみます」


     ◇


 島の雲上庭園は、以前より低い場所に沈んでいた。


 白い樹海の上にあったはずの庭園が、今は雲の重みに押され、地面すれすれまで下りている。


 石畳の道には、薄い霧が流れていた。


 霧の中を歩くたび、誰かの帰る場所が見える。


 リゼットの前には、学院の温室が現れた。


 毒花事件の後、皆で植え替えた白い花。


 フィルブランテの前には、慈善薬園の机。


 父・オーギュストが帳簿を開き、亡母セラフィナの記録を隣に置いている。


 アマンテルスの前には、夜嶺の門。


 魔侯領の黒い石壁と、ルーシェが干した洗濯物。


 カイラスの前には、七氏族会議の円卓。


 誰かが怒鳴り、誰かが笑い、誰かが雷を避けている。


 どの景色も、懐かしい。


 どの景色も、守りたい。


 だから、黒水が景色の端へ文字を置く。


 **ここを残すなら、他を失え。**


 リゼットの足が、一瞬だけ止まった。


 温室の中に、学院の生徒たちがいる。


 まだ幼い下級生。


 黒水の雨に怯えながら、花に水をやっている。


「リゼット」


 フィルブランテが呼ぶ。


「分かっています」


 リゼットは、温室を見つめたまま答えた。


「皆を守りたい。でも、この景色を選ぶために、他の景色を燃やすことはできない」


 彼女は、温室へ向かって手を振る。


「待っていてください。帰る場所を、あなたたちだけにしないから」


 温室の景色が、白い花弁になって消える。


 消えたのではない。


 アリスの小瓶の中に、小さな灯りとして入った。


「それは、何ですか」


 リゼットが尋ねる。


「帰還記録の写しです」


 アリスは答えた。


「本物の場所へ勝手に扉を開くことはできません。でも、そこに誰がいて、何を守りたいと願っているかは、雲に残せます」


「写しを残すだけでは、場所は守れません」


 ノエルが言う。


「でも、誰がどこにいるかを、黒水にだけ知らせないためには使えます」


 フィルブランテは、アリスの小瓶を見る。


 雲鍵は、これまで帰る場所を一つずつ預かっていた。


 そのため、黒水は一つを選び、一つ以外を消そうとした。


 ならば。


「雲鍵を、保管庫のままにしてはいけません」


 フィルブランテが言った。


「各地の帰る場所を、ここへ集めるのではなく。危険な時にだけ、互いの存在を知らせ合う場所に変えましょう」


「避難所にする」


 アマンテルスが言う。


「家をここに移すんじゃない。家に帰れない時、誰がどこにいるかを確かめて、助けを呼べる場所にする」


 アリスの目が、少し大きくなる。


「雲を、避難所に」


「できるか?」


 アマンテルスが尋ねる。


 アリスは、すぐには答えなかった。


 庭園の中央には、雲鍵の樹がある。


 白い幹。


 空に伸びる銀色の枝。


 その枝の先には、無数の雲がつながれている。


 今は、黒い縄で一つずつ締められている。


「避難所なら」


 アリスは、ゆっくり言った。


「誰かを入れるだけの場所ではなく、出る場所も必要です。雲へ入った人が、自分の家へ戻れると分からなければ、避難所は別の牢になります」


「なら、戻る手順も書く」


 フィルブランテは、すぐに答えた。


「誰が入るか。誰が開けるか。何を記録しないか。いつ、どこへ戻るか。全部を」


「ただし、今は時間がない」


 ノエルが言う。


 結晶板の上で、黒水の術式が進んでいる。


 雲の縄は、すでに二本、切れかけていた。


 魔侯領の夜嶺。


 そして、透と輝の元の世界の部屋。


「あとどれくらい」


 カイラスが問う。


「一刻もありません」


 ノエルが答えた。


 その言葉と同時に、庭園の空が割れた。


 黒い雲から、巨大な帳簿が落ちてくる。


 帳簿には、世界の名が並んでいた。


 セレディア王国。


 ルヴィンイヴル魔侯領。


 アウローラ。


 黄昏島。


 対岸世界。


 そして、最下段に小さな文字。


 **雲鍵管理者:アリス・クラウド・ドリアスアリド。帰岸地なし。**


 アリスの体が、凍りついたように止まる。


「帰岸地、なし」


 黒水の声が、雲の全てから響く。


 **管理者は、帰る者ではない。**


 **鍵は、家を持たない。**


 **だから、鍵が選べ。どの家を残すか。**


 雲鍵の樹の枝が、アリスの腕へ絡みついた。


 銀の枝が、黒く染まっていく。


「アリス!」


 リゼットが駆け寄る。


 しかし、枝の周りに透明な壁が立ち上がった。


 アリスだけを、庭園の中心へ閉じ込める壁。


 黒水は、彼女だけに見せる。


 王都の灯り。


 魔侯領の灯り。


 アウローラの灯り。


 元の世界の部屋。


 どの灯りも、黒い縄に引かれている。


 どれか一つを選べば、ほかは助かる。


 そう見える。


「選んで」


 黒水が、アリスへ囁く。


 **あなたは、誰の家にも帰れない。**


 **だから、帰れる人のために決めればいい。**


 アリスの唇が、少し震える。


「私は……」


 彼女は、雲鍵の樹を見上げる。


 アリスは、長いあいだ、灯守として雲を管理してきた。


 雲に映る家を見ても、自分がその中へ入ることはなかった。


 誰かの帰る場所を守る。


 それが自分の役目だった。


 役目だけを知っていた。


「私は、帰る場所を持たないから」


 声が、かすかに掠れる。


「だから、選ばなければ」


「違う」


 フィルブランテの声が、透明な壁の向こうから届いた。


 壁は触れられない。


 でも、声は止められない。


「アリスは、誰の家にも帰れないから選ぶのではありません」


 フィルブランテは、壁の前に立つ。


「アリスが、自分で選びたいなら、その選択は聞きます。でも、帰岸地がないと記録されたから、皆の帰る場所を決めさせることはできません」


 黒水が、壁に文字を走らせる。


 **管理者に、帰還の権利はない。**


「なら、その記録を見せてください」


 フィルブランテが答えた。


 晶析眼が、雲鍵の帳簿を読む。


 黒い文字の下に、古い白い文字が見える。


 アリスが雲鍵の管理者になった日。


 彼女は、誰かの家を持たないと記されている。


 しかし、その直後に、別の一行がある。


 **灯守は、雲を預ける者と、雲の下で共に眠る者を選ぶ。**


 そこだけが、黒水で塗りつぶされていた。


「帰岸地なしではありません」


 フィルブランテは言った。


「アリスには、まだ帰る場所が定められていなかっただけです。誰にも帰る場所がないと決められたわけではない」


 アリスが、顔を上げる。


「でも、私は。黄昏島を守るために作られたから」


「島を守るために生きてきた人が、島へ帰れないなんておかしい」


 アマンテルスが言った。


 いつものように、少し乱暴な言い方だった。


 でも、声は真剣だった。


「ここは、アリスの家じゃないのか」


「ここは、鍵の場所です」


「鍵の場所でもいい」


 アマンテルスは言う。


「アリスが帰りたいと思うなら、ここは帰る場所にできる」


 アリスは、言葉を失う。


 誰かが、帰る場所をくれると言ったわけではない。


 自分が、帰りたいと思ってよいと言われた。


 それは、彼女にとって初めてのことだった。


「アリス」


 リゼットが、壁へ両手を当てた。


「あなたが雲の中に残してくれたから、私は温室に帰りたいと思えました」


「わたしも」


 ルカが、リゼットの横へ来る。


 彼は、胸の前で小さな手帳を抱いていた。


「帰岸庫に、父さんの記録があった。アリスさんの雲が、そこへつながってた」


「だから」


 ルカは、真っすぐアリスを見る。


「アリスさんが帰りたい場所も、書いていいと思う」


 カイラスが、銀の枝へ手をかざした。


 雷は、壁を壊さない。


 ただ、枝に絡みつく黒水の流れを照らす。


「黒水は、アリスを鍵としてしか見ない」


 彼は言う。


「だから、アリスが何を望むかを記録していない。なら、そこがこいつの穴だ」


「書けばいいんだな」


 アマンテルスが言った。


「今から」


 アリスの手には、黒水の帳簿がある。


 黒い頁。


 世界を一つだけ選ぶための頁。


 そこへ、アリスは白い指を伸ばした。


 けれど、筆がない。


 雲の中から、細い銀の枝が一本、彼女の掌へ落ちてきた。


 雲鍵の樹の枝。


 アリスは、それを筆のように持つ。


「私は、アリス・クラウド・ドリアスアリド」


 声は、最初は小さかった。


 でも、次第に庭園全体へ広がる。


「私は、黄昏島の第二の灯守です」


 黒水が、すぐに文字を重ねる。


 **管理者。**


 アリスは首を振る。


「管理者である前に、ここで雲を見て、誰かの声を聞いてきた者です」


 黒い帳簿へ、白い文字を書く。


 **私は、黄昏島を帰る場所の一つとして望む。**


 黒水が、激しく帳簿を揺らす。


 **一つとして、では足りない。どれか一つを選べ。**


「一つだけではないから、書くのです」


 アリスは答えた。


 次の文字。


 **私は、雲鍵を、帰る場所を一つに選ぶための棚にしない。**


 枝が、少し白く戻る。


 黒水が、さらに締め付ける。


 雲の縄が一本、切れた。


 元の世界の部屋の雲が、大きく揺れる。


 透と輝の耳に、母の声が届いた。


『透。輝。聞こえる?』


 真琴の声。


 本物かどうか、分からない。


 でも、二人は反射的にその雲へ顔を向けた。


『部屋の外に、知らない人がいるの。どうすればいい?』


 アマンテルスの指が、震える。


 あの世界で、母は一人かもしれない。


 観測者は、まだ完全に消えていない。


 助けに行きたい。


 今すぐ。


 黒水が、二人の足元に文字を出す。


 **対岸世界を基準の帰還先とせよ。今なら、母へ届く。**


「兄貴」


 フィルブランテの声がする。


 彼女も、元の世界の部屋を見ている。


 フィルブランテも、帰りたい。


 母の声を聞きたい。


 でも、今この場で対岸世界だけを選べば。


 アリスの雲も。


 リゼットの温室も。


 魔侯領も。


 全部が、寄り道にされる。


「母さん」


 アマンテルスは、雲へ向かって呼んだ。


 雲が、わずかに明るくなる。


「聞こえる。今、そっちへ帰れない」


 言うのは苦しい。


 でも、嘘は言わない。


「でも、俺らは、帰る方法を探してる。俺らだけが帰る方法じゃなくて」


 雲の向こうで、真琴の声が少し震えた。


『うん』


 小さな返事。


『急がなくていい。二人が、二人で決めるなら』


 黒水の文字が、少し薄くなる。


 母の声は、帰れと命令しない。


 選べと急かさない。


 だから、黒水はその声を完全には使えない。


「フィルブランテ」


 アマンテルスが、弟を見る。


 フィルブランテは、白い扇を握っている。


「分かってます」


 彼は言う。


「元の世界を助けるために、今いる世界を捨てるのは、帰ることじゃない」


 兄弟の言葉が、救難索を伝わる。


 船上のマレア。


 帰岸庫のルカ。


 王都にいるミレーヌ。


 夜嶺の門にいるルーシェ。


 各地の帰岸記録が、雲の中で応答する。


 **ここにいる。**


 **帰りたい。**


 **でも、ほかを消さない。**


 雲の灯りが、一つずつ強くなる。


     ◇


 雲鍵の樹の周りに、白い紙が現れた。


 王国の選定院で使われた記録紙。


 アウローラの港でネレアが配った帳簿の余白。


 灰銀峡谷の共同監視団が使った避難図。


 帰岸庫でルカが書いた父への手紙。


 真琴が対岸で書いた手書きの記録。


 それらが、雲の中から少しずつ集まってくる。


 互いの世界へ持ち込まれたわけではない。


 同意を得た写しだけが、避難所の中に現れた。


「これなら」


 フィルブランテが、紙を見回す。


「それぞれの場所をここへ移さなくても、危機の時に、誰がどこで助けを求めているかだけを確認できます」


「見たくない記録は?」


 アリスが尋ねる。


 声には、まだ迷いがある。


「見せません」


 フィルブランテは答えた。


「避難所だからといって、誰かの家の中まで開ける必要はありません。場所の名。今いる人の名。助けてほしいこと。返事を受け取りたい相手。それだけを、本人が選んで出します」


「入った人を、いつ帰すかは?」


「本人と、現地の記録者が決めます」


 ノエルが答える。


「避難所の管理者が、一人で“安全になった”と決めない。現地側の証人と、避難した本人の確認が要る」


「避難できない人が出たら」


 リゼットが尋ねた。


「できないと記録する」


 ノエルは、少しだけ息を吐く。


「救えると偽るより、必要な救援を出しやすい」


 リゼットは頷いた。


 彼女の白い花が、紙の端に小さく咲く。


「じゃあ、救護院は。誰かを入れる前に、傷のことを勝手に書かない」


「港は、船の正確な座標を出さない」


 マレアの声が、救難索から届く。


「でも、救難の潮だけは出す。助けに行ける船が、行けるように」


「魔侯領は、氏族の居場所を一つの地図にはしない」


 カイラスが続ける。


「ただ、襲撃や避難があれば、共同監視団へ知らせる」


「王国は、帰岸記録を王太子府のものにしない」


 レオンハルトが言う。


「民が書いた記録は、民が必要とする救援へ使う。王城が、誰の帰る場所が正しいかを決めない」


 それぞれの言葉が、紙へ書き込まれる。


 雲鍵の樹の枝が、白く光り始めた。


 アリスの黒い帳簿の中で、保持可能な帰岸記録:一、という文字が揺れる。


 黒水が、最後の抵抗をする。


 **容量を超えている。どれかを捨てなければ、全てが崩れる。**


「容量という言葉を、確認しましょう」


 フィルブランテが言った。


 晶析眼が、帳簿の奥を読む。


 黒水が示した「一」という数字。


 それは、本当に雲鍵が保管できる数ではない。


 黒水が作った、選別のための上限だった。


「この術式は、世界を一つしか保てないのではありません」


 フィルブランテは言う。


「黒水が、全ての記録を一つの“基準の帰還先”へ集めようとしている。その形なら、確かに一つしか残りません」


「なら、集めない」


 アマンテルスが言った。


「ここは、保管庫じゃなくて避難所だ。どこかの世界を基準にしない」


「でも、黒水の術式はどうやって止める?」


 カイラスが問う。


 ノエルが、結晶板を見た。


「術式の中心にあるのは、基準帰還先を選ぶための選定表です。それを壊せば、黒水は雲鍵を崩すかもしれない」


「壊さない」


 アリスが、初めて強く言った。


 皆が彼女を見る。


 黒い枝に絡まれていた腕を、アリスは自分で引き抜いた。


 肌には黒い痕が残る。


 でも、瞳は揺れていない。


「選定表も、消しません」


 アリスは、黒い帳簿を持ち上げる。


「これまで、誰かの帰る場所を一つにしようとした記録です。消せば、また同じ形で戻ってくるかもしれない」


「なら、何にするんだ」


 アマンテルスが尋ねる。


「問いの記録にします」


 アリスは答えた。


 黒い帳簿を、雲鍵の樹の根元へ置く。


「この帳簿には、どの世界を残すかという問いだけが書かれている。だから、帰る場所を選ぶ帳簿になった」


 彼女は銀の枝で、帳簿の表紙を塗り替え始める。


 **誰かが、一つだけ選べと言った時。**


 **何を失わせようとしているのか。**


 **誰の同意がないのか。**


 **ほかに帰れる道はないのか。**


 **今、決めないことはできるのか。**


 黒水が、激しく帳簿を拒む。


 頁がめくれ、各地の雲を引く縄がさらに強くなる。


 庭園全体が、崩れ始めた。


「アリス!」


 リゼットが叫ぶ。


「最後の一行を」


 アリスは言う。


 しかし、銀の枝が途中で折れた。


 雲鍵の管理者であるアリス一人の記録では、帳簿を書き換え切れない。


 黒水は、また彼女を一人にする。


 その時、フィルブランテが壁を越えてきた。


 透明な壁は、いつの間にか薄くなっていた。


 アマンテルスが作った影の道。


 カイラスが走らせた雷の線。


 リゼットの花が、壁のひびへ根を張った。


 誰か一人の術ではない。


 皆の選択が、壁を越える道になっている。


 フィルブランテは、アリスの隣へ立つ。


「最後の一行は、一人で書かないでください」


 白い扇を、折れた銀の枝へ添える。


 晶析眼が、残った文字を守る。


「皆で書きましょう」


 アマンテルスが、その反対側へ立つ。


 アマンテルスの影が、黒水を留める。


 レオンハルトの光が、帳簿の頁を照らす。


 カイラスの雷が、世界の名の間に黒水が引いた境界線を切る。


 ノエルの無属性術式が、同意のない文字を薄くする。


 リゼットの白い花が、各地の灯りを傷つけないよう包む。


 ルカの小さな手が、手帳を開く。


 マレアの救難索が、海上から庭園まで伸びる。


 そして、対岸の雲から、真琴の手書きの文字が浮かんだ。


 **二人とも、帰れる道を探して。**


 誰も、一人だけ帰れとは書かない。


 アリスが、皆の手の間にある銀の枝を持つ。


「書きます」


 彼女は言った。


 **雲鍵は、帰る場所を一つに選ぶための鍵ではない。**


 **帰れない時、互いに助けを求め、帰る道を保つための共同避難所である。**


 **誰も、自分の帰る場所を一つだけに定められない。**


 **誰も、他者の帰る場所を、本人の同意なく消せない。**


 **避難所は、入る者と帰る者の両方の意思を記録し、助けを求める声を閉じ込めない。**


 **ここに記されない未来も、未来である。**


 最後の文字が書かれた瞬間。


 雲鍵の樹が、大きく息をしたように揺れた。


 黒水の帳簿が、白い霧へほどける。


 雲を引いていた縄が、一本ずつ切れる。


 王都の灯りが、元の場所へ戻る。


 魔侯領の夜嶺が、黒い雲から離れる。


 アウローラの港が、風を取り戻す。


 元の世界の部屋の雲も、静かに明るくなる。


 どの雲も、雲鍵の樹へつながっている。


 しかし今は、棚に並べられていない。


 互いへ細い救難索を伸ばし、助けを求める時だけ声を届ける。


 雲の避難所。


 それは、誰かの家を預かるための場所ではない。


 帰る場所を失いそうな人が、ひとりで選ばされないための場所だった。


     ◇


 庭園の崩れが止まると、アリスはその場へ座り込んだ。


 銀の枝を持つ手が、少し震えている。


 リゼットが、そっと隣に座る。


「疲れましたか」


「はい」


 アリスは、正直に答えた。


「帰る場所を持たないと思っていたので。帰りたいって書くのが、こんなに怖いとは思いませんでした」


「帰りたいと思ったのですか」


 リゼットが尋ねる。


 アリスは、雲鍵の樹を見上げた。


 白い枝の間に、黄昏島の灯りがある。


 雲上庭園。


 灯守アステリアがいる白い灯台。


 島の樹海。


 ここで初めて、誰かが自分へ「帰ってよい」と言った場所。


「はい」


 アリスは、少し笑った。


「黄昏島へ帰りたいです」


 その言葉を聞いて、雲鍵の樹の一番低い枝に、小さな灯りが一つ生まれた。


 王国でもない。


 魔侯領でもない。


 対岸世界でもない。


 アリスの帰る場所。


 誰かの代わりではない、彼女自身の灯りだった。


 アマンテルスが、その灯りを見て頷く。


「いいじゃん」


「雑ですが、今回は褒め言葉として受け取ります」


 アリスが言う。


「お前、フィルに似てきたな」


「兄貴。今、それを言いますか」


 フィルブランテが呆れた声を出す。


 でも、少しだけ笑っている。


 黒水の雲が消えた庭園に、久しぶりに軽い声が響いた。


 しかし、ノエルだけは結晶板から目を離していなかった。


「まだ終わっていません」


 その一言で、皆の空気が変わる。


 結晶板には、雲鍵共同避難所の新しい記録が映っている。


 王都。


 魔侯領。


 アウローラ。


 黄昏島。


 対岸世界。


 全ての灯りが、細い線でつながっている。


 黒水は、もう一つを基準にできない。


 だが、雲鍵の外側に、新しい黒い円が浮かんでいた。


「何ですか」


 フィルブランテが尋ねる。


「術式の残滓です」


 ノエルは答える。


「黒水は、帰る場所を一つに定めることに失敗した。だから、今度は“帰る人”を一人に定めようとしている」


 黒い円の中に、二つの名前が浮かんだ。


 唐傘透。


 唐傘輝。


 その下に、二つの欄。


 **対岸世界へ帰還を許可する者。**


 **現世界の記録として残す者。**


 そして、黒水の文字が、ゆっくり増えていく。


 **兄弟が二人で帰る道を望むなら、どちらが“先に失われる者”かを選定せよ。**


 アマンテルスとフィルブランテは、同時にその文字を見た。


 世界を一つに選ばせる罠は、止めた。


 けれど、ザハルは次に、兄弟そのものを二つに分けようとしている。


 雲鍵の白い枝が、二人の名の間に細い光を伸ばした。


 それは、まだ切れていない。


 でも、黒水の円は、双月まであと五日と告げていた。

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