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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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29/50

第二十九話 白薔薇は、誰の席でもない

二日後。


 王城・白薔薇大広間の扉が開くまで、フィルブランテは一度も扇を閉じなかった。


 白い薔薇を象った扇骨の間から、冷たい光が漏れている。


 晶析眼が、扉の向こうにある記録の歪みを見ていた。


 広間に集まった諸侯の名。


 会議への招集状。


 座席表。


 警備記録。


 そして、誰が何の権限でこの会議を呼んだのかという、最も大事な一行だけが、薄く滲んでいる。


「招集者の欄が、まだ読めません」


 フィルブランテが言った。


 隣に立つレオンハルトが、白い扉を見た。


「王城の会議記録には、王太子の印と選定院の仮印が使われている」


「どちらも、本物ではない?」


「私の印は、使っていない」


 レオンハルトの声は静かだった。


「選定院も、会議の開催を承認していない」


 その後ろで、オルディナ院長が頷く。


「会議を開くこと自体は止めません。諸侯が、王国の安定について話し合う権利はあります」


 院長は、白い記録板を抱えていた。


「ただし、誰かの婚約や人生を決める権限が、招集状一枚で生まれるわけではありません」


「黒水は、そこを曖昧にします」


 ノエルが言う。


「会議という形があること。人が大勢集まること。皆が不安を持っていること。その三つを重ねれば、誰かを選ぶ力があるように見せられる」


「見せられるだけなら、壊せる」


 アマンテルスが、黒い日傘の柄を握り直す。


 傘の内側には、小さな星空が揺れている。


「何を話す会議で、何を決められない会議なのか。最初に線を引く」


 アマンテルスの言葉に、フィルブランテは頷いた。


 線を引く。


 それは、誰かを排除するためだけの言葉ではない。


 大事なものを、勝手に踏み越えさせないための言葉だ。


「フィルブランテ様」


 ミレーヌが、白い紙束を差し出した。


「大広間の入口に、〈会議へ参加する方へ〉という記録板を置いております」


 紙束の表紙には、短い文が書かれていた。


 **この会議で、あなたが知っている事実。**


 **あなたが知らないこと。**


 **あなたが心配していること。**


 **あなたが、他者の代わりに決められないこと。**


「すでに、皆さまへ?」


「はい。入場前にお渡ししております」


 ミレーヌは、いつものように落ち着いている。


「書かない方もいらっしゃいます。ただ、紙を受け取って“他者の代わりに決められないこと”を読まれた方は、少し長く立ち止まられます」


 フィルブランテは、紙束を見つめた。


 婚約者を選ぶ会議ではない。


 不安がある者へ、不安を書かせる会議に変える。


 小さな違いに見える。


 けれど黒水は、その違いを嫌う。


 不安を一人へ集められなくなるからだ。


「入りましょう」


 フィルブランテが言った。


「今度は、誰の未来を誰が決められないのか、皆に見える場所で」


     ◇


 白薔薇大広間は、王城の中でもっとも明るい場所だった。


 天井には、白薔薇の蔓を模した金の彫刻。


 床には、星冠と白薔薇を組み合わせた大きな紋章。


 壁には歴代の王と王妃の肖像画が並んでいる。


 けれど、その日だけは、広間の白が少し青く見えた。


 床の紋章の溝を、薄い黒水が流れている。


 白薔薇の花弁の形をなぞり、中央の席へ集まろうとしていた。


 中央には、王太子の席。


 その右隣には、普段なら王太子妃候補のために空けられる席がある。


 白い薔薇を一輪だけ飾った、細い椅子。


 フィルブランテは、その椅子を見た。


 自分の席だと思われてきた場所。


 けれど、自分が望んだかどうかを、誰も尋ねなかった場所。


 黒水は、白い椅子の下へ特に濃く集まっている。


 **座れ。**


 **降りろ。**


 まだ声にはならない。


 それでも、二つの命令が床の下で待っている。


「フィル」


 レオンハルトが、少し低い声で言った。


「座る場所は、あなたが決めてください」


 フィルブランテは、彼を見た。


 以前なら、王太子の隣へ座らなければならないと思っただろう。


 今は、違う。


「今日は、記録席に座ります」


 彼女は答えた。


「この会議で、誰が何を決めようとしたのかを残すために」


「分かりました」


 レオンハルトは、すぐに頷いた。


 彼は中央の王太子席へ。


 フィルブランテは、選定院書記と並ぶ記録席へ。


 白薔薇の椅子は、空けたままにする。


 それだけで、黒水が床の下でざわめいた。


 諸侯たちの視線が集まる。


 驚き。


 好奇心。


 不満。


 心配。


 そして、何人かの安堵。


 フィルブランテは、全ての視線を敵だとは思わなかった。


 この会議へ来た人の中には、王国の混乱を本当に心配している者もいる。


 黒水は、その心配へ「あなたが彼女を選べ」と言葉を足す。


 だからこそ、心配そのものまで切り捨ててはいけない。


「これより、婚約条項再確認会議を始める」


 司会役を務める年配の侯爵が、壇上で言った。


 ウェルデン侯爵。


 王都の法務を長く担ってきた人物だ。


 彼の手には、会議の議事録がある。


「本日は、王太子レオンハルト殿下とイデルバルディ公爵令嬢フィルブランテ嬢の婚約条項について、王国の安定に与える影響を確認する」


 侯爵が、そこで一度言葉を止めた。


 黒い紙が、議事録の中で揺れている。


 フィルブランテの晶析眼には見えた。


 次に書かれるはずだった文。


 **王太子の隣に立つ者を、諸侯の同意により選定する。**


「異議があります」


 オルディナ院長が、すぐに立った。


 大広間の視線が、彼女へ集まる。


「会議の目的と権限を、分けて記録してください。王国の安定に関わる婚約条項を議論することと、王太子殿下の隣に立つ者を選定することは、同じではありません」


 ウェルデン侯爵が、眉を寄せた。


「しかし、婚約とは王家の公的な関係であり」


「公的な影響があることと、当事者以外が当事者を選べることは別です」


 院長の声は、きっぱりしていた。


「選定院は、本会議が婚約の継続、破棄、あるいは代替者の選定を決定できるという前提に同意しておりません」


 黒水が、床の溝で波打つ。


 そのとき、広間の左端から別の声がした。


「では、我々は何のために集められたのです」


 立ち上がったのは、北部領のアラディア伯爵だった。


 白髪の多い男性。


 黒水の雨で輸送路が止まり、領民の避難を続けていると聞いている。


「王太子殿下の婚約に不確定な部分があるなら、他国は王国の後継体制が揺らいでいると受け取る。娘を誰かの代わりに差し出せと申したいのではない」


 伯爵は、フィルブランテを見た。


「だが、民が明日を知るための説明は必要でしょう」


 広間が静かになる。


 それは、黒水の囁きではない。


 正当な問いだった。


 フィルブランテは、立ち上がった。


「必要です」


 彼女は答えた。


「王国の皆さまへ、今何が決まっていて、何が決まっていないかを説明する必要があります」


 伯爵の目が、少しだけ驚いたように揺れた。


「ですが、その説明のために、私の人生を多数決へかけることは必要ありません」


 フィルブランテは、手帳を開く。


「今、私と王太子殿下の婚約は、継続とも破棄とも定めていません。両者が自由に確認し、変更し、保留できるという記録を、聖冠礼拝堂と選定院に残しています」


 大広間に、小さなざわめきが起きた。


 それを知らなかった者も多い。


 招集状には、婚約が不安定である、としか書かれていなかったからだ。


「私たちが決めていないことを、王国の皆さまが決めることはできません」


 フィルブランテは続ける。


「ですが、私たちが保留を選んだことで、どの行政手続きに影響が出るのか。国境の協定、各領の予算、王太子府の人員、儀礼上の扱い。そのことを皆さまと確認し、必要な手順を作ることなら、私は話し合います」


 黒水の波が、一度だけ弱くなる。


 不安を聞く。


 でも、自分の人生を渡さない。


 二つを同時に言葉にされた時、黒水は簡単に一つの責任を作れない。


「言葉は立派です」


 今度は、中央に近い席から若い男が立った。


 薄い金髪。


 白い司祭服。


 大司教ザハルの代理として会議に出席した、教会評議官ルタールだった。


 彼の顔には、穏やかな笑みがある。


 しかし、その足元だけ、黒水が濃い。


「ですが、王太子殿下の婚約は私的な恋情だけの話ではありません。王家と公爵家の協力を象徴する、祝福された契約です」


 ルタールは、白い羊皮紙を掲げた。


 聖冠礼拝堂でノエルが見つけたものと同じ紋章。


 星冠。


 白薔薇。


 二つの署名欄。


「教会には、未使用の〈白薔薇連誓式〉の記録があります。王太子の隣に立つ者が、国民と諸侯の同意を得て、王国を支える意思を確認する儀式です」


 その言葉に、広間の何人かが頷いた。


 儀式。


 祝福。


 国民の同意。


 聞こえは美しい。


「確認させてください」


 フィルブランテが言った。


 ルタールが、微笑む。


「何でしょう」


「白薔薇連誓式は、いつ制定されましたか」


「初代国王の時代に、その理念が」


「理念ではなく、記録の制定年月日を」


 フィルブランテの声は、静かだった。


 晶析眼が、羊皮紙の繊維を読む。


 古い紙。


 古い印。


 けれど、署名欄の周りの墨だけが新しい。


 そして、欄外には黒水の履歴がある。


 過去の儀式文を切り取り、最近の会議用紙へ繋ぎ直した跡。


「この文書は、初代国王の時代のものではありません」


 フィルブランテは言った。


「古い儀式の断片を、後の時代に複数回書き写し、その都度、署名欄だけが変更されています。最後に書き換えられたのは――二日前です」


 広間に、ざわめきが広がる。


 ルタールの笑みが、少しだけ薄くなった。


「それは、記録の保存過程で」


「保存のためなら、誰が、何を写したのかが記録されます」


 フィルブランテは、羊皮紙を指した。


「この欄外には、写した者の名がありません。承認した者の名もありません。必要なはずの当事者の同意欄も、空白です」


 黒水が、ルタールの足元から大きく跳ねた。


 床の白薔薇の溝を走り、中央の空席へ向かう。


 白い椅子の上で、黒水が人影を作る。


 長い金髪。


 白いドレス。


 リゼットによく似た姿。


 しかし、顔はない。


 ただ、白い席へ座るための形だけがある。


 **王太子にふさわしい者を、選定せよ。**


 声が、大広間の壁から響く。


 その声は、諸侯たちの心配を混ぜたものだった。


 王国の安定。


 民への説明。


 外交上の信頼。


 王太子の孤立。


 公爵令嬢の資質。


 全てを、フィルブランテか、まだ名のない代替者かという二つの札へ変えようとする。


「フィル様」


 リゼットが、記録席の隣で息を呑む。


 黒水の人影の髪が、彼女の髪色へ変わろうとしている。


 原作の物語なら、ここで聖女が王太子の隣へ選ばれる。


 フィルブランテが悪役となり、リゼットが救われるはずの場所。


 黒水は、皆が一度見た物語の形を使おうとしていた。


 人影の胸元へ、金色の文字が浮かぶ。


 **候補者:リゼット・アウレリア。**


「待ってください」


 リゼットが立ち上がった。


 声は震えていた。


 でも、言葉ははっきりしている。


「私は、候補者になることを許可していません」


 黒水の人影が、彼女の方を向く。


 **聖女なら、王太子を支えられる。**


「聖女だから、誰かの代わりにならなければならないのですか」


 リゼットの白い花が、足元に咲いた。


 花弁は、黒水の人影へ触れない。


 その前に、一枚の紙を差し出す。


 **リゼット・アウレリア。私は、王太子の婚約者候補として名を使うことを望まない。**


「私は、フィル様の代わりではありません」


 彼女は続ける。


「フィル様も、誰かの代わりではありません。殿下の隣に誰が立つかを決める前に、その人自身がそこに立ちたいかを聞いてください」


 白い花弁が、人影の胸元の文字を包む。


 金色の候補者名が、薄く消えた。


 黒水が、別の方向へ伸びる。


 今度は、広間にいる若い令嬢たちの影をなぞり始めた。


 誰かの娘。


 誰かの姉妹。


 誰かの領地を守るために、王家へ近づけられる人々。


 名前をつける前に、白い薔薇の席へ座らせようとする。


「止めてください」


 フィルブランテが言う。


「候補者の名を、本人の書面による同意なく記録してはいけません」


「しかし」


 ウェルデン侯爵が言いかける。


 彼も、黒水の言葉に従っているわけではない。


 それでも、会議を進める役目として、問いを置く。


「王太子の婚約条項が空白のままでは、各家は将来の協力体制をどう考えればよいのか」


「空白ではありません」


 フィルブランテは答えた。


「今の婚約が保留であること。二人の同意なく変更されないこと。王太子府とイデルバルディ公爵家の行政協力は、婚約と切り離して継続すること。そこまでは、決まっています」


 彼女は、記録板を示す。


「不確定なのは、将来、私が王太子妃になるかどうかです。だから、皆さまの領地の予算や救援計画に影響する項目と、私個人の関係を分けてください」


 オーギュストが、ゆっくり立ち上がった。


 フィルブランテの父。


 厳しい表情のまま、娘を見ている。


「イデルバルディ公爵家は、王太子府への薬草、救護、財務協力を、婚約の有無と関係なく継続する」


 広間へ通る声で言った。


「その協力は、我が娘が将来どの席に座るかの対価ではない。王国の民を救うために、我が家が担うべき責務として行う」


 フィルブランテは、父を見た。


 以前の父なら、婚約が国のために必要だとだけ言ったかもしれない。


 今は、娘の人生を協力の対価にしないと言っている。


「そして」


 オーギュストは、一度だけ娘へ視線を向ける。


「フィルブランテが何を選ぶかは、フィルブランテが決める。公爵家の利益のために、私が代わりに決めることはない」


 その言葉は短い。


 でも、父が言うには、長い時間が必要だった言葉だった。


 フィルブランテは、扇を少し下ろす。


「ありがとうございます、父上」


 黒水が、広間の中央で大きく膨らんだ。


 誰かの代わりに決める者が減っていく。


 それを、黒水は嫌う。


 人影は、白薔薇の席から立ち上がる。


 顔のない頭が、諸侯へ向く。


 **ならば、王国のために、誰が最もふさわしいかを問え。**


 大広間の窓が、いっせいに黒く染まった。


 窓の外に、黒水の雨で不安を抱えた王都の人々の姿が映る。


 救護院の前に並ぶ人。


 避難所で子どもを抱く人。


 輸送路が途絶え、荷車を止めた商人。


 皆の声が、広間へ流れ込む。


 早く決めてほしい。


 誰かに決めてほしい。


 明日が分からない。


 黒水は、その声を使って、諸侯の手元に白い投票札を作った。


 札には、二つの欄がある。


 **フィルブランテ・アソート・イデルバルディを、王太子の隣に立つ者として再確認する。**


 **別の者を、王太子の隣に立つ者として選定する。**


 どちらにも、署名欄がある。


 どちらにも、フィルブランテ自身の意思を書く欄はない。


「投票札を置いてください」


 レオンハルトが言った。


 広間へ響く、強い声だった。


 彼は、王太子の席から立ち上がる。


 誰かを命令で止めるためにではない。


 自分に向けられた権力を、まず自分で拒むために。


「私は、この投票の対象となる関係に、同意していない」


 白い札を、一枚手に取る。


 そして、全員へ見せた。


「フィルブランテの名を、私の隣に置くための札にも。誰か別の名を、私の隣に置くための札にも。私は署名を求めていない」


 黒水の人影が、レオンハルトの方を向く。


 **王太子は、王国の安定を拒むのか。**


「拒まない」


 レオンハルトは答えた。


「私は、王国の安定のために、今日必要な決定を行う。だが、今日必要でない誰かの人生を、安定の名で先に決めることは拒む」


 彼は、札を裏返す。


 白い裏面に、何も書かれていない。


 レオンハルトは、そこへ自分の手で書く。


 **王太子府は、婚約の保留を理由に救援、行政、外交の協力を縮小しない。各家が必要とする実務上の確認事項は、七日以内に公開の記録会議で扱う。**


「王国へ必要なのは、この決定です」


 彼は、諸侯を見る。


「私の隣へ誰が立つかではない。黒水の雨の中で、どの物資をどこへ送るか。誰が避難所の記録を守るか。国境の共同監視をどう維持するか。決めるべきことは、他にあります」


 アラディア伯爵が、静かに頷いた。


「北部領が聞きたかったのは、まさにそれです」


 伯爵は、手元の投票札を裏返す。


 そして、そこへ書く。


 **北部領は、冬の備蓄輸送路の維持を求める。王太子府と公爵家の担当窓口を知りたい。**


「我が領は、王太子の婚約者を選ぶために、ここへ来たわけではない」


 その言葉に、別の諸侯も札を裏返し始めた。


 南部の女伯爵は、港の警備について書く。


 西部の子爵は、黒水に触れた兵士を敵扱いしない基準を尋ねる。


 東部の侯爵夫人は、避難所にいる子どもたちの身元記録をどう守るかを書いた。


 それぞれの不安は、同じではない。


 だから、一人の女性を王太子の隣へ置くことでは、解決しない。


 黒水が、札を黒く塗りつぶそうとする。


 しかし、アリスの雲が大広間の天井へ広がった。


「書いた言葉は、書いた人のものです」


 アリスが言う。


「王太子を選べという声に、勝手に翻訳しないで」


 雲が、裏返された札の上に小さく降りる。


 文字を隠すためではない。


 他人の手が、勝手に書き換えないように守るために。


 ザハルの影が、白薔薇の椅子の上で歪んだ。


 今度は、ルタールの顔を借りて笑う。


「皆さまは、あまりにも複雑なことを望まれる」


 評議官の声が、広間へ響く。


「王太子の婚約を定めれば、民は安心する。王国の顔が決まれば、他国も迷わない。古来より、婚姻は秩序の柱でした」


「婚姻そのものを否定しているわけではありません」


 フィルブランテは言った。


「結婚したい二人が、共に生きるために契約を結ぶことは、尊重されるべきです」


 彼女は、黒水の人影を見る。


「でも、秩序の柱が必要だからといって、人を柱に縛りつけてはいけません」


 広間の空気が、変わる。


 フィルブランテは、白薔薇の空席を見た。


 あの椅子は、誰かが座るためだけに作られている。


 座る者自身が、席から立ち去ることを想定していない。


「私が王太子妃になるかどうかを、今、誰かへ約束することはできません」


 彼女は言った。


「でも、私が王国のために働くことをやめるわけではありません。私がレオンハルト殿下と話し、助け合うことをやめるわけでもありません」


 レオンハルトが、彼女を見る。


 フィルブランテは、視線を逸らさなかった。


「私は、殿下の隣へ立つことを、今は決めません。ですが、今日この会議で、殿下を一人にしないことは、自分で選びます」


 レオンハルトの青い瞳が、わずかに和らいだ。


「私も同じです」


 彼は言った。


「フィルブランテを、王太子妃として扱うために守るのではない。フィルブランテが、自分の人生を選ぶ人だから、彼女の選ぶ権利を守る」


 黒水が、激しく爆ぜた。


 白薔薇の椅子が、黒く染まる。


 椅子の背から、数え切れない白い手が伸びた。


 諸侯の手。


 市民の手。


 過去の王たちの手。


 誰かを正しい席へ置こうとした、名のない手。


 手は、フィルブランテへ伸びる。


 座れ。


 降りろ。


 支えろ。


 去れ。


 どの言葉も、彼女の名を呼ばない。


 役目だけを呼ぶ。


「フィルブランテ!」


 アマンテルスが、影を広げる。


 だが、フィルブランテは一歩前へ出た。


「私の名は、フィルブランテ・アソート・イデルバルディです」


 彼女は、白い扇を掲げる。


「王太子の隣の席ではありません」


 晶析眼が、白い手の一つ一つを見る。


 手に残る履歴。


 不安。


 期待。


 伝統。


 誰かを守りたいという願い。


 そして、誰かが傷つくことを見ないために、席へ押し込めようとした弱さ。


「皆さまが心配していることを、私は聞きます」


 フィルブランテの声が、広間に響く。


「ですが、皆さまが心配だからという理由で、私がここへ座ることも。別の誰かをここへ座らせることも。私たちが決めない限り、決まりません」


 扇の先から、氷晶が伸びる。


 椅子の背を覆う黒水の手を、一つずつ、記録へ戻していく。


 手は、消えない。


 不安は、なかったことにならない。


 けれど、誰かを座らせる命令ではなくなる。


 北部領の備蓄。


 港の警備。


 避難所の子どもたち。


 国境の共同監視。


 それぞれの問いへ戻っていく。


「白薔薇の席は」


 フィルブランテは言った。


「今は、誰の席でもありません」


 黒い手が、氷晶の中で砕けた。


 白薔薇の椅子は、空のまま残る。


     ◇


 黒水の人影が消えた後も、会議は続いた。


 それが、今回の一番大事なところだった。


 黒水を退けたから、話し合いを終えるのではない。


 本当に必要な話を、ここから始める。


 オルディナ院長は、選定院の白い記録板を広間の中央へ置いた。


「会議の議題を改めます」


 彼女は言った。


「第一に、王太子殿下とフィルブランテ嬢の個人的な婚約関係について。本会議は、継続、破棄、代替者の選定を決定しない」


 その言葉を、書記が記録する。


「第二に、婚約関係の保留が、王国の行政、救援、外交、儀礼に与える影響を確認する。必要な実務は、当事者の私的関係と切り離して決定する」


 諸侯が、静かに聞いている。


「第三に、成人前の婚約初記録および教会儀式記録について。当事者の現在の同意を代行するものとして扱わない。未使用の白薔薇連誓式は、検証が終わるまで凍結する」


 ルタール評議官の表情が、初めて動いた。


「教会の儀式を、王城の会議だけで凍結することは」


「凍結するのは信仰ではありません」


 フィルブランテが言った。


「本人の同意がないまま、他者の人生を選ぶために使われる記録です」


 オルディナ院長が続ける。


「教会が検証へ協力するなら、原本、写本、改写の履歴、承認者、当事者の同意欄を、全て提出していただきます」


 ルタールの足元から、黒水が少しだけ後退した。


「それは、教会への不信では」


「不信を消すための記録です」


 レオンハルトが言った。


「私たちは、皆が教会を信じるべきだとも、信じるべきではないとも、ここで決めない。ただ、他者の人生を決める儀式を使うなら、その根拠と同意を確認する」


 評議官は、何も言えなかった。


 彼の手にあった羊皮紙の端から、黒水がこぼれ落ちる。


 それを、ノエルの無属性の光が封じた。


「改写履歴を固定しました」


 ノエルが言う。


「この儀式文書は、教会の中央記録庫で六日前に閲覧され、二日前に複写されている。閲覧者の名は、黒水で塗りつぶされています」


「大司教ザハルでは?」


 シリルが尋ねた。


「断定はできません」


 ノエルは答えた。


「でも、閲覧者は大司教の認証印を使用している。少なくとも、中央記録庫へ自由に出入りできる人物です」


 広間にいた諸侯たちは、その言葉を聞いても、すぐに誰かを罪人と決めなかった。


 さっきまでなら、教会の名を聞くだけで怒りや恐れが一つに集まったかもしれない。


 しかし、今は白い記録板に「確認できたこと」と「確認できないこと」が分けて書かれている。


 黒水の経路が教会文書にある。


 誰が改写したかは未確認。


 教会全体が関与したかは未確認。


 だから、検証を求める。


 その手順は遅い。


 でも、誰かを先に沈めない。


「一つ、提案があります」


 南部領の女伯爵が、立ち上がった。


 彼女は、先ほど港の警備について札の裏に書いた人だった。


「王太子殿下とフィルブランテ嬢の関係を、今日決めないことには賛成です。ただ、各領の若い者たちが、政略の名で同じことを繰り返されないために、今回の記録を王都だけに置かないでいただきたい」


 フィルブランテは、彼女を見る。


「どの記録を、ですか」


「成人前の約束が、成人後の意思を代行しないこと。婚約に、双方の確認と拒否が必要なこと。候補者として名を出すなら、本人の書面による同意が要ること」


 女伯爵は、少しだけ苦い顔で笑った。


「私は若い頃、そのどれも知らなかった。知っていたとしても、言える場所はなかったかもしれない」


 大広間は、静かだった。


 彼女の言葉は、黒水が作る一つの正しさではない。


 彼女が自分で選び、今ここへ置いた記録だった。


「賛成します」


 リゼットが言った。


「学院にも、相談できる記録席が必要です。恋愛や婚約だけではありません。家族の期待や、進路や、役目のことも」


「魔侯領にも持ち帰る」


 カイラスが言う。


「氏族の盟約は、若い者を守るためのものだ。若い者が声を失うなら、盟約の方を見直す」


 アマンテルスが、カイラスを見て笑った。


「いいこと言うじゃん」


「会議中です」


 フィルブランテが、すぐに言う。


「今のは、褒めてるんだよ」


「分かっています」


 少しだけ軽くなった空気の中で、白い記録板に新しい見出しが書かれる。


 **白薔薇の保留記録。**


 それは、王太子と婚約者だけのものではない。


 誰かの人生を、急いで一つの役目へ固定しないための記録。


 問いを置くこと。


 保留すること。


 当事者の同意を待つこと。


 必要な実務と、個人の人生を分けること。


 それらを、王国の各地へ持ち帰るための記録だった。


     ◇


 会議が終わる頃には、外はすっかり夕方になっていた。


 白薔薇大広間の窓に、橙色の光が差し込んでいる。


 黒水は、床の溝からほとんど消えていた。


 完全に消えたわけではない。


 けれど、白薔薇の椅子の下に集まっていた黒い染みは、空の席を埋められないまま薄くなっている。


 フィルブランテは、記録席の紙を整えていた。


 婚約の継続なし。


 婚約の破棄なし。


 代替者の選定なし。


 実務の確認あり。


 教会文書の検証あり。


 各地へ保留記録を広げる計画あり。


 決まったことと、決めなかったことが並んでいる。


 以前の自分なら、決めなかったことがこんなに多い記録は、不安だったかもしれない。


 でも、今は違う。


 空欄は、誰かに勝手に書かせないための場所だ。


「疲れましたか」


 レオンハルトが、記録席の向こうから尋ねた。


 彼も、王太子の席ではなく、書記たちの机を手伝っている。


 フィルブランテは、少し考えた。


「疲れました」


「そうでしょうね」


「でも、後悔はしていません」


 レオンハルトは、小さく笑った。


「私もです」


 少しの沈黙。


 大広間には、もう諸侯はほとんど残っていない。


 窓の外で、ミレーヌが市民の記録をまとめている姿が見える。


 リゼットは、救護院から届いた伝言を読んでいる。


 アマンテルスは、シリルと何か揉めている。


 たぶん、黒水の残滓を追う際の無茶な動きを叱られているのだろう。


 いつもの風景。


 けれど、少しずつ違う。


「フィルブランテ」


 レオンハルトが、静かに言った。


「今日、あなたが私の隣に立つと選んだと言ってくれたこと。嬉しかったです」


 フィルブランテは、紙を整える手を止める。


「誤解しないでください。婚約者として、という意味では」


「分かっています」


 レオンハルトは、すぐに答えた。


「だから嬉しかったのです」


 彼の言葉は、少しだけ照れくさそうだった。


「義務ではなく、今日のあなたが選んだことだから」


 フィルブランテの頬が、少し熱くなる。


 フィルブランテとしてなら、こういう場面は迅速に話題を変えたい。


 でも、フィルブランテは、ただ逃げるために言葉を消したくなかった。


「私も」


 彼女は、少しだけ声を整える。


「殿下が、私の答えを急がせなかったことを嬉しく思います」


 レオンハルトは、頷いた。


「では、今日の記録としては、それで十分ですね」


「はい」


 二人は、少しだけ笑った。


 未来を決めない。


 でも、今日の気持ちまで、なかったことにしない。


 それもまた、今までの二人にはなかった選び方だった。


 そのとき。


 ノエルの結晶板が、低く鳴った。


 全員の視線が、彼へ集まる。


「どうした」


 アマンテルスが、すぐに警戒する。


「白薔薇連誓式の改写履歴を追跡していました」


 ノエルの顔が、少し青い。


「二日前に文書を複写した者が、さらに別の記録を閲覧しています」


 結晶板に、教会中央記録庫の地図が浮かぶ。


 その奥。


 普通の司祭でも、評議官でも入れない区画。


 **七鍵聖庫。**


「何の記録ですか」


 フィルブランテが尋ねる。


 ノエルは、答えるまでに一瞬ためらった。


「王国と魔侯領の休戦成立時、両国の代表が交わした古い誓約記録です」


 カイラスの顔が、険しくなる。


「灰銀峡谷の前の戦争を終わらせた、あれか」


「はい」


 ノエルは続ける。


「記録名は、〈双月停戦連誓〉。人族と魔族が互いを敵として固定しないため、二つの世界の境界へ共同で署名した記録です」


 フィルブランテの背筋が冷たくなる。


 黒水は、王太子を一人の答えにしようとした。


 フィルブランテを、王太子の隣の席に固定しようとした。


 次に狙うのは。


「二つの国を、また二つに分ける気ですね」


 アマンテルスが、低く言った。


 黒い日傘の内側の星空が、揺れる。


「王国と魔侯領を。人族と魔族を。互いに、どちらが正しいか選ばせる」


 ノエルの結晶板に、最後の文字が浮かぶ。


 それは、改写履歴の中に隠されていた、ザハルの黒い筆跡だった。


 **白薔薇が席を拒むなら、双月へ敵を選ばせよ。**


 夕方の光が、白薔薇大広間から消えていく。


 空いた椅子は、まだ誰のものでもない。


 けれど、王国の外には、黒水が再び「こちらか、あちらか」と線を引こうとしている。


 フィルブランテは、手帳を閉じた。


 今日の記録を、誰にも書き換えさせないために。


「次は、停戦の記録を守りましょう」


 彼女は言った。


「どちらの国にも、帰る人がいるのですから」


 アマンテルスが、頷く。


 レオンハルトも。


 リゼットも。


 カイラスも。


 白薔薇大広間を出る仲間たちの足音は、一つではない。


 誰か一人の王冠へ集まるためではなく。


 誰も選ばせる側にも、選ばれるだけの側にも置かないために。


 彼らは、次の記録へ向かって歩き出した。

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