第二十八話 隣に立つことを、今は決めない
聖冠礼拝堂は、王城の北にある。
王族の子どもが生まれたとき、最初の祝福を受ける場所。
成人した王族が、初めて公の場で自分の名を名乗る場所。
そして、王位を継ぐ者が、星冠塔の前で「国を守る」と誓う前に、ひそかに祈る場所でもあった。
白い壁。
高い尖塔。
色硝子の窓には、初代国王と、その傍らに立つ名もない人々が描かれている。
けれど、礼拝堂の前へ着いたフィルブランテは、建物の白が少しも清らかには見えなかった。
石段の隙間から、黒水が流れている。
水面には、白い小さな花びらが浮かんでいた。
幼い子どもの手で折られたような、歪な紙の花。
「ここで、幼い頃の記録が保管されているのですか」
リゼットが、小さく尋ねた。
レオンハルトは、礼拝堂の扉を見上げた。
「生誕祝福、洗礼、初めての誓約。それらは王家の記録として残る」
彼の声は落ち着いている。
しかし、扉を開ける手は、ほんの少しだけ固かった。
「私とフィルブランテの婚約も、ここで最初に記録された」
フィルブランテの胸の奥に、知らないはずの感覚が浮かぶ。
甘い香の匂い。
重い白いドレス。
小さな靴が、石床の上で鳴る音。
そして、誰かの声。
将来、王太子妃になってください。
その言葉を聞いた幼いフィルブランテの指は、冷たかった。
フィルブランテの記憶ではない。
けれど、今の彼女の手が震えるほど確かな、フィルブランテの記憶だった。
「フィル」
アマンテルスが、低く呼ぶ。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
反射で答えてから、フィルブランテは少しだけ目を伏せた。
「……いえ。少し、怖いです」
アマンテルスが、驚いたように瞬く。
フィルブランテが「怖い」と言葉にするのは、珍しい。
昔から、危ない時ほど数字と手順を並べる弟だった。
怖いから、準備する。
怖いから、計算する。
怖いという言葉だけを、先に出すことはあまりなかった。
「そっか」
アマンテルスは、すぐに頷いた。
「じゃあ、怖いまま行こう。置いていかない」
「それは、ずいぶん雑な励ましですね」
「効くだろ」
「……少しだけ」
フィルブランテは、小さく笑った。
その笑いが消える前に、礼拝堂の扉が内側から軋んだ。
誰も触れていない。
白い扉が、ゆっくり開く。
中から流れてきたのは、香の匂いではなかった。
雨上がりの土と、濡れた紙の匂い。
黒水の匂いだった。
◇
礼拝堂の内部には、誰もいなかった。
祭壇の前に並ぶ長椅子。
高い天井。
色硝子を透る朝の光。
それらはいつもと同じはずなのに、空気だけが異様に静かだった。
外の王都の音が、届かない。
鐘の音も。
馬車の車輪も。
人々の声も。
全てが、厚い水の下へ沈んだように遠い。
祭壇の中央には、小さな白い箱が置かれていた。
子どもの手箱ほどの大きさ。
蓋には、王家の星冠とイデルバルディ家の白薔薇が並んで刻まれている。
その周りを、黒水が円を描いていた。
「婚約初記録箱」
レオンハルトが言った。
「私たちの最初の誓約文と、祝福の記録が入っている」
「開けないでください」
ノエルが、すぐに言う。
結晶板を祭壇へ向ける。
「箱そのものに黒水が入っているわけではありません。箱を囲む記録の余白に、術式が展開されています」
「余白」
フィルブランテは、黒水の輪を見た。
誓約文に書かれた言葉ではない。
誰かが言わなかったこと。
子どもたちが理解していなかったこと。
未来の二人へ確認されなかったこと。
そうした余白に、黒水は入る。
「何を選ばせるつもりですか」
フィルブランテが問う。
返事は、黒水からではなく、礼拝堂の奥から届いた。
子どもの笑い声。
次の瞬間、祭壇の前の空間が、水面のように揺れた。
白い光。
花の香り。
大人たちの拍手。
礼拝堂は、十数年前の姿へ変わった。
長椅子には貴族たちが座っている。
祭壇の前には、小さなレオンハルトと、小さなフィルブランテ。
少年は、今よりずっと短い金髪を整え、白い礼装を着ていた。
少女は、白薔薇の刺繍が多すぎるほど縫い付けられたドレスを着ている。
二人の手には、小さな銀の輪が握られていた。
「……あれは」
レオンハルトの声が、少し掠れる。
「初めて会った日の、記録です」
幼いフィルブランテは、輪を見ていた。
不安そうだった。
でも、泣いてはいない。
泣かないように、唇を強く結んでいる。
フィルブランテの胸が痛んだ。
彼女は、何も知らなかったわけではない。
王太子妃になることが、ただのお姫様遊びではないと、幼いなりに知っていた。
父が、いつもより言葉を選んでいたこと。
侍女たちが、失敗してはいけないと囁いていたこと。
この場所で答えを間違えれば、誰かが困るのだと。
そんなことを、六歳の少女が知る必要はなかった。
「フィルブランテ様」
幻の中の老司祭が、穏やかに言う。
「王太子殿下をお支えし、将来、王太子妃となることを誓えますか」
幼い少女は、一度だけ、客席の父を見た。
オーギュストは、真っすぐ立っている。
表情は厳しい。
その目の奥に、心配があったことを、今のフィルブランテは知っている。
でも、あの頃の少女には見えなかった。
見えたのは、期待だけだった。
「……はい」
小さな声。
「誓います」
拍手。
幼いレオンハルトは、少女の手を取る。
彼も、少し緊張していた。
けれど、きちんと笑おうとしていた。
「ぼくが王になるから」
少年は言う。
「フィルは、ぼくのそばにいてください」
その言葉に、幼いフィルブランテは少しだけ安心したように笑った。
「はい。わたくし、がんばります」
その瞬間、幻の礼拝堂の大人たちが、いっせいに立ち上がった。
拍手が、大きくなる。
けれど拍手の音は、いつの間にか黒い雨の音へ変わっていた。
幻の大人たちの顔から、目と口が消える。
白い衣服が、黒水に濡れていく。
祭壇の上の星冠と白薔薇が、細い鎖で結ばれた。
そして、幼い二人の声だけが、繰り返される。
**ぼくが王になるから。**
**わたくし、がんばります。**
**そばにいてください。**
**誓います。**
言葉が、鎖になっていく。
幻の少女の手首。
幻の少年の手首。
そして、現在のフィルブランテとレオンハルトの手首へ、黒い鎖が絡みついた。
「っ」
フィルブランテが息を呑む。
鎖は痛みを与えない。
ただ、ひどく重い。
王太子の婚約者として。
公爵家の娘として。
王国の安定のために。
隣に立て。
黒水の文字が、礼拝堂の壁を覆う。
**婚約を継続せよ。王太子の隣に立て。**
別の文字。
**婚約を破棄せよ。王太子を自由にせよ。**
また二択。
留まるか。
離れるか。
どちらを選んでも、黒水は二人の関係を一つの役割へ固定する。
「手を離せ」
アマンテルスの影が、鎖へ伸びる。
しかし、黒い鎖は影を吸い込んだ。
アマンテルスの顔が、僅かに歪む。
「兄貴、無理に切らないで」
フィルブランテが言う。
「この鎖は、過去の誓約とつながっています。壊せば、記録ごと消えるかもしれない」
「消せばいいだろ」
「だめです」
フィルブランテは、即座に答えた。
自分でも、少し驚くほど強い声だった。
「これは、私が確かに言った言葉です」
フィルブランテが言った、だけではない。
フィルブランテが、六歳のときに言った。
理解できていなかったことも多い。
選べる状況ではなかった。
それでも、あの少女が不安の中で「がんばります」と言ったことまで、なかったことにしたくない。
「消すのではなく、分けます」
フィルブランテは、鎖を見る。
「当時の私が、何を知っていて、何を知らなかったか。今の私が、何を望み、何を保留するか。全部を同じ誓約として扱わせない」
ノエルが、すぐに頷いた。
「可能です。鎖は、過去の言葉と現在の同意を同じ履歴へ圧縮している。晶析眼で層を分けられれば」
「僕の術式で、余白の境目を出せます」
アリスが、小瓶を両手で持った。
「でも、過去の記憶を無理に開くことになる。二人が、見たくないことまで見るかもしれません」
レオンハルトは、黒い鎖を見下ろした。
彼の手首にも、同じ鎖がある。
「見ます」
王太子は答えた。
「私が、何を約束したつもりでいたのか。フィルブランテが、何を引き受けさせられたのか。知るべきです」
「殿下」
「そして、今のあなたが何を望むのかを聞く」
レオンハルトは、フィルブランテを見る。
「それが怖くても」
フィルブランテは、一度、目を閉じた。
怖い。
婚約を続けたいと言えば、義務のためだと見られるかもしれない。
続けたくないと言えば、今までの気持ちまで否定することになるかもしれない。
どちらでもない、と言えば、逃げていると思われるかもしれない。
黒水は、そう思わせたがっている。
けれど、今まで学んできた。
分からないことを、分からないままにしてよい。
急いで答えないことは、逃げではない。
「見ましょう」
フィルブランテは言った。
「そして、今、答えられないことまで答えにしないようにしましょう」
◇
アリスの雲が、礼拝堂の天井へ広がった。
雲は、過去を白く隠すためのものではない。
記憶を、一つの結論へ固めないための余白だった。
ノエルが、無属性の術式を鎖の根元へ刻む。
フィルブランテの晶析眼が、黒い鎖の中に残る言葉を氷晶へ映した。
レオンハルト。
フィルブランテ。
六歳と七歳。
初めての面会。
婚約の祝福。
その記録の周りに、別の記録がいくつも重なっている。
王家と公爵家の合意。
選定院の政治判断。
教会の祝福文。
そして、二人の子どもには渡されなかった説明書。
なぜ婚約が必要なのか。
将来、断ることはできるのか。
どんな時に見直すのか。
誰も、書いていない。
「これが、余白です」
ノエルが低く言った。
結晶板には、誓約文のすぐ横に、大きな空白がある。
空白の奥で、黒水が蠢いている。
**二人は同意した。**
その文字が、何度も繰り返されている。
「違います」
フィルブランテは、鎖を見て言った。
「二人は、何も知らないまま、期待に答えようとしただけです」
黒水が、強く締まる。
彼女の手首に痛みが走った。
大人たちの拍手が、耳元で響く。
王太子妃になれば、皆が安心する。
良い子なら、期待を裏切らない。
公爵家の娘なら、泣かない。
フィルブランテは、幼い自分を見る。
小さな少女は、輪を握りしめている。
今にも泣きそうなのに、必死に笑っている。
「あなたは、悪くありません」
フィルブランテは、幻の少女へ言った。
声が震える。
「あなたは、がんばろうとした。怖いと言えなかっただけです」
幻の少女が、こちらを見る。
青紫の瞳。
今のフィルブランテと同じ瞳。
「でも、わたくし、王太子妃になれますって言いました」
小さな声。
「レオンハルト様のそばにいるって」
「言いました」
フィルブランテは、頷く。
「だから、その言葉を嘘にする必要はありません」
幼い少女の顔が、少しだけ変わる。
「でも、その言葉が、あなたの未来の全部を決めるわけではないのです」
黒水の拍手が、止まる。
フィルブランテは続ける。
「あなたは、王太子妃になるためだけに生まれたのではない。あなたには好きな花があって、苦手な食べ物があって、父上へ聞きたいことがあって、泣きたい時もあった」
小さなフィルブランテの唇が、震える。
「だから、がんばると言ったあなたを、私は覚えています。だけど、あなたの代わりに、今の私の人生を決めることはしません」
鎖の一部が、白く砕けた。
黒水が、低く唸る。
今度は、幼いレオンハルトの姿が、黒い影へ変わる。
少年は、小さな拳を握っていた。
「ぼくが王になるから」
彼は、繰り返す。
「フィルは、ぼくのそばにいてください」
その声は、優しい。
けれど、黒水が重ねると、命令のように聞こえる。
そばにいろ。
王太子を支えろ。
王太子の不安を受け取れ。
王太子が王になるための、正しい隣であれ。
レオンハルトの手首の鎖が、黒く光った。
彼は、苦しそうに眉を寄せる。
「私は」
幼い少年を見つめたまま、彼は言った。
「私は、あのとき、フィルブランテを安心させたかった」
黒水の影が、笑う。
**なら、今も安心させろ。王になれ。彼女を隣に置け。**
「違う」
レオンハルトは、ゆっくり首を振った。
「私は、あのとき、自分が怖かった」
彼の声が、礼拝堂に落ちる。
「父上や周りの大人たちが、皆、私を見ていた。王太子なのだから泣かない。王になるのだから迷わない。そう言われていた」
幼いレオンハルトの幻が、こちらを見る。
その瞳にも、無理に笑う色があった。
「フィルブランテが隣にいれば、私は一人ではなくなると思った」
レオンハルトは言う。
「でも、それを、彼女に頼んでよい形で言えなかった。私は、そばにいてくださいと言ったけれど。フィルブランテが嫌ならどうするのか、聞かなかった」
幻の少年が、輪を握る手を少し下げる。
「ぼく、聞いてない」
小さな声。
「聞いていません」
レオンハルトは、幼い自分へ答えた。
「だから、今、聞きます」
黒水が、急に大きく膨らんだ。
婚約を継続せよ。
婚約を破棄せよ。
どちらかを選べ。
今すぐ。
白い鎖と黒い鎖が、二人の間に走る。
一方は、幼い誓約を守る鎖。
もう一方は、それを切って自由になる鎖。
どちらも、同じように二人の手首を引く。
「フィルブランテ」
レオンハルトは、彼女の名前を呼んだ。
呼び方は、王太子が婚約者へ向けるものではなかった。
答えを求める者が、相手へ向ける声だった。
「今、あなたは。私の婚約者でいたいですか」
礼拝堂が、静かになる。
アマンテルスが、何かを言いかける。
けれど、フィルブランテは小さく首を振った。
止めないでほしい。
この問いは、怖い。
でも、黒水が聞いている問いを、レオンハルト自身の声で聞き直す必要がある。
「分かりません」
フィルブランテは答えた。
黒水が、一斉にざわめく。
答えにならない。
逃げるな。
白か黒かを選べ。
「分かりません」
フィルブランテは、もう一度言った。
「婚約者であることを、嫌だと思ったことがあります。王太子妃にならなければ、誰も私を必要としないのではないかと、怖かったことがあります」
鎖が、少し締まる。
しかし、彼女は続ける。
「でも、今の殿下と話すことは、嫌ではありません。殿下が私の言葉を聞いてくださることを、嬉しいと思います」
レオンハルトの瞳が、僅かに揺れる。
「ただ、それを今すぐ婚約の継続か破棄かにしなければならない理由は、私には分かりません」
黒水の文字が、欠ける。
**分からない**という言葉は、黒水が最も扱いにくい。
それは、決定を放棄する言葉ではない。
分からないものを、分かったふりで誰かの人生へ押しつけない言葉だからだ。
「殿下は、どうですか」
フィルブランテが問う。
「今、私が婚約者でいることを望みますか」
レオンハルトは、答えるまでに時間をかけた。
王太子としてなら、すぐに答えられるかもしれない。
婚約は王家と公爵家の安定に必要。
そう言えばいい。
でも、今は違う。
「望みます」
彼は言った。
フィルブランテの呼吸が、わずかに止まる。
「ただし、それは私が王太子だから、あなたを必要とするという意味ではない」
レオンハルトは続ける。
「あなたが、私の言葉に賛成しなくても、私の隣で別の意見を言う人だから。あなたが、私の恐れを見て、都合のよい答えを言わない人だから。私は、あなたと話していたい」
黒水が、二人の間で渦を巻く。
「でも」
レオンハルトは、息を吐いた。
「それを、あなたが婚約を続ける理由にしてはいけない。あなたが望まないなら、私は婚約を白紙にする。あなたが考える時間を望むなら、待つ」
「待つことは」
フィルブランテが、かすかに笑う。
「王太子殿下には、難しいことではありませんか」
「とても難しいです」
レオンハルトは、正直に答えた。
「でも、今まで私は、待つことを何もしないことだと思っていた。違いますね」
「違います」
フィルブランテは言う。
「待つためにも、守るべき手順があります」
フィルブランテらしい答えだった。
しかし、その声はもう少し柔らかい。
「では、手順を作りましょう」
レオンハルトが言う。
「この場で、婚約を継続とも破棄とも決めない。黒水の術式下では、重大な関係の変更へ同意しない」
「そして」
フィルブランテが続ける。
「現在の婚約には、互いの拒否権があることを記録します。どちらかが白紙化を望んだ場合、理由を公にする義務はありません」
「定期的に、今後の関係を確認する」
「はい。危機のためではなく、私たち自身のために」
「その間、婚約の名を使って互いへ命令しない」
「その通りです」
黒水の鎖が、激しく震えた。
継続か破棄か。
王太子か婚約者か。
守る者か守られる者か。
二つだけだったはずの言葉の間に、いくつもの条件が生まれていく。
話す。
待つ。
拒む。
確認する。
理由を強要しない。
役目を使って命令しない。
黒水は、それを一つの命令へまとめられない。
「記録します」
フィルブランテは言った。
晶析眼が、白い光を放つ。
黒い鎖の中から、幼い二人の言葉だけをすくい上げる。
ぼくが王になる。
がんばります。
そばにいてください。
誓います。
その言葉を、消さない。
しかし、その周りに新しい文字を記す。
**当時の二人は、将来を十分に理解できる年齢ではなかった。**
**この記録は、現在の二人の意思を代行しない。**
**現在の婚約関係は、二人が自由に確認し、変更し、保留できる。**
**婚約は、一方が他方の隣に立つことを強制する理由にならない。**
**互いが望むなら、隣に立つ。望まないなら、理由を問わず離れる権利を持つ。**
レオンハルトが、最後の一行へ光の署名を重ねる。
**今は、未来を決めない。今は、話し続けることを選ぶ。**
黒い鎖が、音を立てて砕けた。
砕けた欠片は、黒水になって床へ落ちる。
しかし今度は、黒水は文字になれない。
アリスの雲が、その上へ広がる。
「これは、まだ決められていない未来です」
アリスが、静かに言った。
「誰か一人が、勝手に結末にしないよう預かります」
雲が黒水を包む。
黒い水は、白い霧へほどけた。
幼いフィルブランテと幼いレオンハルトの幻が、最後にもう一度こちらを見る。
少女は、もう泣くのを我慢していない。
少年も、王になると大声で言わない。
二人は、互いの手を離している。
でも、少しだけ笑っている。
そして、幻は光の中へ消えた。
◇
礼拝堂の空気が、戻った。
外の鐘の音が聞こえる。
遠くを走る馬車の音。
鳥の羽音。
祭壇の前にあった白い箱は、元の大きさのまま残っている。
ただし蓋には、星冠と白薔薇の印の間に、小さな空白が刻まれていた。
何もない空白ではない。
これから二人が、何を選ぶかを書き込むための余白。
オルディナ院長が、慎重に箱を開けた。
中には、幼い二人の誓約文が入っている。
古い羊皮紙。
その横に、新しい一枚の白い紙が置かれていた。
フィルブランテとレオンハルトが記した、現在の合意。
「礼拝堂の記録として、受理します」
オルディナ院長は言った。
「ただし、これは婚約の継続でも、破棄でもありません。両者の確認なき強制を認めない、関係の保留記録です」
「そんな記録は、前例がないでしょう」
カイラスが言う。
院長は、少しだけ笑った。
「前例がないからといって、記録してはいけないわけではありません」
「制度上の扱いは」
フィルブランテが聞く。
「王家と公爵家へ、正しく説明する必要があるでしょう」
「父上は、驚くでしょうね」
レオンハルトが言う。
「私の父も」
フィルブランテは答える。
少しだけ不安がある。
けれど、父に何も言わずに決めることと、父の望みだけで決めることは違う。
話す必要がある。
急がず。
隠さず。
それが、今二人で選んだ手順だった。
「フィル」
アマンテルスが、少し離れたところから呼ぶ。
「兄貴として言うけど」
アマンテルスは、言いにくそうに頭を掻いた。
「もしあいつが嫌なことしたら、すぐ言えよ。王太子だろうが何だろうが、俺が」
「兄貴」
フィルブランテは、呆れたように言った。
「一人で何とかしようとしない約束でしょう」
「……そうだった」
「次は皆で話します」
「分かった」
アマンテルスは、素直に頷いた。
その様子を見て、レオンハルトが小さく笑う。
「私も、同じことを言われる立場になったようです」
「殿下は、以前からそうでしょう」
フィルブランテが言う。
「そうでした」
レオンハルトは、少し困ったように笑った。
でも、以前のように、その笑いの後で一人になろうとはしない。
彼は、フィルブランテへ向けて手を差し出した。
婚約者を導くための手ではない。
礼拝堂の石段を下りるとき、隣を歩く相手へ向ける、ただの手だった。
「手を」
彼は言いかけて、止まる。
「……必要ですか」
フィルブランテは、その言い直しを見た。
少し考える。
そして、首を横に振った。
「今は、自分で歩けます」
レオンハルトは、すぐに手を下ろす。
「分かりました」
それだけ。
不機嫌にもならない。
寂しそうに責めることもしない。
フィルブランテは、そのことに少し驚きながら、祭壇を振り返った。
「でも」
彼女は付け加えた。
「石段の外までなら、一緒に歩いてください」
レオンハルトの表情が、わずかに和らぐ。
「はい」
二人は、手をつながない。
ただ同じ速さで、礼拝堂の出口へ向かう。
黒水が決めようとした「隣」は、今はまだ一つの形にならない。
でも、同じ方向へ歩くことはできる。
◇
礼拝堂を出ると、王都の空に残っていた黒い輪が、また少し欠けていた。
市民たちは、城門の外で紙の裏側へ記録を続けている。
何が怖いか。
何が分からないか。
何を急いでほしいか。
何を、今は決めたくないか。
その中には、王太子と公爵令嬢の婚約について書いたものもあった。
婚約が王国を安定させると考える者。
二人が自分で決めるべきだと考える者。
何が正しいか、まだ分からない者。
フィルブランテは、それらを見た。
以前なら、噂が自分をどう裁くかだけを考えただろう。
今は違う。
人々が意見を持つことと、人々が自分の人生を決めることは別だ。
聞くことはできる。
でも、決定を譲り渡さなくていい。
「少し、安心しましたか」
リゼットが隣へ来て尋ねた。
フィルブランテは、すぐには答えない。
「……少しだけ」
「少しだけでも、よかったです」
リゼットは笑う。
その笑顔を見て、フィルブランテも笑った。
誰かの隣に立つかどうかを、今は決めない。
でも、今、この友人の隣にいることは自分で選んでいる。
それで十分だった。
そのとき、ノエルが急に立ち止まった。
結晶板が、淡い青ではなく、赤く点滅している。
「どうしました」
フィルブランテが問う。
「聖冠礼拝堂の地下から、別の履歴が出ました」
ノエルは、画面を見つめている。
「黒水は婚約初記録だけを使っていたわけではない。もっと古い層に、教会が王家と公爵家の婚約を扱うために作った、未使用の儀式記録があります」
「未使用の儀式?」
レオンハルトの顔が、険しくなる。
ノエルの結晶板に、古い羊皮紙の図が浮かぶ。
王冠。
白薔薇。
そして、その下に、二つの署名欄。
**王太子の隣に立つ者を、国民の同意により選定する。**
フィルブランテの心臓が、冷たくなる。
黒水は、二人に婚約を継続か破棄か選ばせることに失敗した。
だから次は、二人以外の者に、フィルブランテの隣の席を決めさせようとする。
「場所は」
アマンテルスが、低く問う。
「王城・白薔薇大広間」
ノエルが答える。
「二日後。王国の諸侯と選定院の一部が集まり、王太子の婚約条項を“再確認”する会議が召集されています」
レオンハルトは、黒水の残る礼拝堂を振り返った。
フィルブランテも、同じ方向を見る。
自分たちが今は決めないと記した未来を。
誰かが、多数決で決めようとしている。
「行きましょう」
フィルブランテは言った。
怖くないわけではない。
でも、今度は一人で白薔薇の大広間へ立つわけではない。
「今度は、誰が誰の隣に立つかを、皆で決める会議にしないために」
アマンテルスが、黒い日傘を開く。
曇った王都の空の下で、傘の内側の星空が静かに光った。
「いいね」
アマンテルスは言った。
「選ぶなら、本人に聞いてからだ」
王都の風が、白い紙を揺らしていく。
紙の裏には、まだたくさんの余白が残っていた。
その余白へ、誰が何を書くのか。
そして、誰の未来を、誰が決めないと記すのか。
二日後、白薔薇大広間で、新しい選別が始まろうとしていた。




