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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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27/48

第二十七話 王冠は、答えを一つにしない

王立選定院の閉会鐘が鳴り終わってから、まだ一刻も経っていなかった。


 それなのに、王都セレディアの空は夕方のように暗い。


 昼の光を、雲が隠しているわけではない。


 王城の最も高い塔――星冠塔の上にだけ、黒い輪が浮かんでいた。


 月食の影を、小さく丸めたような輪。


 その中心から、糸のような黒水が垂れている。


 王城の石壁を伝い、選定院の地下へ向かって。


 フィルブランテは、選定院の前庭に立ったまま、その線を見上げていた。


 白い石畳の上には、さっきまで選定者たちを縛っていた黒水の跡が残っている。


 今は細い筋になり、地面の下へ逃げていく。


「地下の星冠継承記録と、塔がつながっています」


 ノエルが結晶板を持ち上げた。


 板の中では、黒い線が幾重にも重なっている。


「選定院だけの術式ではありません。王城の継承結界を使って、首都全体の“選ぶ”という行為を拾い始めています」


「首都全体」


 リゼットが、険しい顔をする。


「投票だけではないの?」


「店で何を買うか。学校で誰を代表にするか。今日、誰の意見を聞くか。そういう小さな選択も、黒水が履歴として集めている」


 ノエルの声は冷静だった。


 しかし、その指先は少しだけ強く結晶板を握っていた。


「選択肢を二つに絞り、一方へ不安を集めるための材料にしている」


「全部の人が、選ばされる」


 アマンテルスが言う。


「その結果を、レオンに集める気か」


 レオンハルトは、黒い輪を見ていた。


 王太子として、王城の塔を見慣れているはずだ。


 けれど今の彼の横顔には、見慣れた場所だからこその緊張があった。


「星冠塔は、王家の継承結界を保管している」


 彼は言った。


「王位継承の際、国王、王太子、選定院がそれぞれの記録を照合するための塔だ。普段は、誰かを選ぶために使う場所ではない」


「普段は」


 フィルブランテが、静かに繰り返す。


「今回のような非常時には?」


 レオンハルトは、少し答えを遅らせた。


「王が統治不能になったとき。あるいは継承順位に争いが生じ、王国が分裂する恐れがあるときだけ、星冠継承記録は“緊急選定”を始める」


「国王陛下は」


 シリルが問う。


「今朝までは、ご健在でした」


 レオンハルトは答えた。


「黒水の雨が広がってから、政務を軽くしてはいたが。統治不能という報告は受けていない」


「なら、誰かが報告そのものを書き換えています」


 フィルブランテの晶析眼が、塔から落ちる黒い線へ反応した。


 細い氷晶が、彼女の扇の縁に生まれる。


 その中に、黒水が集めた履歴が見えた。


 王都の新聞。


 黒水の雨への不安。


 避難者の名簿。


 帰岸記録の保管をめぐる議論。


 そして、今朝の王城内の文書。


 **国王陛下の容体悪化につき、王太子殿下へ非常統治権を委ねる。**


「偽造です」


 フィルブランテは、きっぱり言った。


「ですが、形式だけは正しい。王の印、王太子殿下の印、選定院の印を、黒水が過去の記録から拾って重ねています」


「王の印を」


 カイラスの金の瞳が細くなる。


「そんなものまで、記録にあれば使えるのか」


「本人の同意が記録されていないものなら、本来は使えません」


 アリスが言った。


 銀白の髪の先が、風もないのに揺れている。


「でも黒水は、“本来”と“いま急ぐべきこと”の間にある余白へ入ります。古い記録が、誰にも確かめられず残されていたなら、その言葉は誰のものでもないまま、命令の形になってしまう」


 彼女の手の中の小瓶で、灰青色の雲が渦を巻いた。


「急がなければ王国が崩れる。王太子なら受け入れる。皆がそう思えば、黒水はそれを同意のように見せられる」


 レオンハルトは、一度だけ目を閉じた。


 王太子として育った彼は、王国のために自分を差し出すことを、たぶん何度も教えられてきた。


 国が不安定なら。


 人々が恐れているなら。


 自分が前へ出るべきだ。


 その考えは、間違いではない。


 だからこそ、黒水はそれを利用する。


「王城へ行こう」


 レオンハルトが言った。


「父上の状態と、星冠塔の結界を確認する」


「一人で行かないでください」


 フィルブランテは、すぐに言った。


「僕は」


 彼は少し苦笑した。


「いいえ」


 フィルブランテの声は、いつもより少しだけ強い。


「王太子殿下は、今、黒水が一人にしたい人物です。婚約者としてではありません。選定院の記録を検証した者として、私は同行します」


 レオンハルトは、彼女を見た。


 以前なら、フィルブランテは「王太子殿下をお支えします」と言っただろう。


 それは間違いではなかった。


 でも今の言葉は違う。


 支えるために隣へ立つのではない。


 一人にしないために、同じ記録を見る。


「分かった」


 レオンハルトは頷いた。


「共に来てください、フィルブランテ」


     ◇


 王城の正門前には、すでに人が集まっていた。


 市民。


 商人。


 学院の生徒。


 救護院から来た者たち。


 黒水の雨で家を失いかけた人々。


 皆が王城を取り囲んでいるわけではない。


 ただ、星冠塔の黒い輪を見上げ、どうしてよいか分からず立っていた。


 人々の手には、小さな黒い紙片があった。


 選定票。


 誰が配ったのか、誰も知らない。


 紙片の表には、金色の文字が二つ。


 **王太子レオンハルトへ統治を委ねる。**


 **王太子レオンハルトの責任を問う。**


 その間に、何もない。


「同じだ」


 ルカが、アマンテルスの外套の裾を握った。


「選定院の石板と」


「うん」


 アマンテルスは答える。


「でも、紙があるからって、書かなきゃいけないわけじゃない」


 ルカは、黒い紙片を見る。


 紙片の端が、指へ黒い染みを残そうとする。


「書かなかったら」


「書かなくてもいい」


 アマンテルスは言った。


「怖いなら、怖いって書いてもいい。分からないなら、分からないって書けばいい」


 ルカは少し考え、紙片を裏返した。


 裏には、何も書かれていない。


 彼は白いチョークを借りて、そこへ小さく書いた。


 **ぼくは、レオンハルトさんが一人で決めるのは心配です。**


 黒い紙片が、一度だけ震える。


 しかし、その字を消すことはできない。


 アリスの雲が、ルカの周りに淡く広がった。


「よく書けました」


 アリスが言う。


「それは、賛成でも反対でもありません。あなたが、いま見たことです」


 その声に反応するように、近くにいた女性が紙片を裏返した。


 彼女は、救護院の外套を着ている。


 **私は、救援が止まるのが怖い。だから、王太子だけに全部を任せていいのかも分からない。**


 次に、荷車を引いていた商人が書く。


 **王都の倉庫を開ける役目は必要だ。だが、誰が何を決めるのか聞きたい。**


 黒い紙片が、次々に裏返る。


 選べ、という黒水の文字は、表だけに残っている。


 裏に書かれた人々の言葉までは、まだ一つの票にできない。


「帰岸記録を、王城の外にも」


 フィルブランテが、ミレーヌへ向けて言った。


 いつの間にか、侍女長は城門の近くへ来ていた。


 王城へ入る前から、使用人たちを集め、白い紙と筆を配っている。


「すでに準備しております」


 ミレーヌは、落ち着いた声で答えた。


「本日、王城へ出入りする全ての者に、何を見たか、何を知らないか、何を急いでほしいかを分けて書いていただきます」


「何を知らないかも?」


 リゼットが聞く。


「はい」


 ミレーヌは頷いた。


「知らないことを知っていると書ける方は、急かされても、知らないまま誰かを悪者にしにくくなります」


 フィルブランテは、少しだけ笑った。


 ミレーヌは、転生のことを知らない。


 それでも、いつも必要なことを見ている。


「ありがとうございます」


「お礼は、全員が無事に戻ってからにしてくださいませ」


 侍女長は、いつものように厳しく言った。


「フィルブランテ様。今日は、どうか一人で先へ進まれませんように」


「はい」


 フィルブランテは、すぐに答えた。


 そして、アマンテルスが隣で少し意外そうな顔をしたのを見て、付け加える。


「兄貴も」


「分かってる」


「返事が早い時ほど怪しい」


「お前、今そういう時じゃないだろ」


 短い言い合いに、リゼットが小さく笑った。


 張り詰めた空気の中で、その笑いは、黒水の作る「正しい者」と「間違った者」の線を少しだけぼかした。


     ◇


 星冠塔へ向かう階段は、王城の中心ではなく、旧記録庫の奥にあった。


 石段は螺旋を描きながら、地下へ下りていく。


 塔へ上るための階段なのに、最初に行くのは地下。


 王家の結界は、空にある王冠だけでは支えられない。


 地面の下に残された、過去の記録によって支えられている。


 ノエルが、壁に刻まれた古い文字を読んだ。


「“星冠は、選ばれた者の頭に置くためのものではない。選ばれなかった言葉を、闇へ落とさないための灯である”」


 フィルブランテは、足を止めた。


「選ばれなかった言葉を」


「本来の継承記録の理念でしょう」


 ノエルは答えた。


「王位を継ぐ者だけではなく、継がなかった者、継げなかった者、別の制度を望んだ者の理由も残す。後の王が、前の選択を絶対の正解だと誤解しないために」


「それを黒水が、逆にしてる」


 アマンテルスが言った。


「選ばれなかった言葉を、全部消して。最後に一人だけ残す」


 石段の下から、黒い水が這い上がってくる。


 水面に、古い投票紙の文字が浮かんだ。


 王太子。


 王弟。


 摂政。


 そして、その全てが黒く塗りつぶされる。


 残るのは一つ。


 **王太子レオンハルトを、選定せよ。**


 レオンハルトの足元へ、黒水が伸びた。


 彼の影を、王冠の形へ変えようとする。


「触るな」


 アマンテルスの影が、すぐに黒水を押し返した。


 しかし黒水は、アマンテルスへ攻撃を返さない。


 ただ、レオンハルトに向かって囁く。


 王国が怖い。


 民が待っている。


 王太子ならば、責任を負え。


 レオンハルトの表情が、わずかに硬くなる。


 フィルブランテは、彼の前へ出なかった。


 代わりに、すぐ横へ並ぶ。


「殿下」


「分かっている」


 レオンハルトは、黒水を見たまま言う。


「これは、私が聞きたい言葉だけを言っている」


 でも、その声には、少しだけ迷いがある。


 黒水の言葉は嘘だ。


 しかし、王太子として責任を負うべきだという考えまで、嘘ではない。


「責任を負うことと、唯一の答えになることは違います」


 フィルブランテが言った。


 彼は、ようやく彼女を見る。


「私は、王太子妃候補として、何度もそう教えられました。殿下が決めれば、皆が従う。殿下が揺れなければ、国は安定する、と」


 白い扇を、胸の前で閉じる。


「でも、それは殿下の迷いを、誰にも見せないようにする教えでもありました。殿下が迷うことを許さない国は、殿下に全てを背負わせる国です」


「フィルブランテ」


「今、私が隣にいるのは、殿下へ“正しい答え”を言わせるためではありません」


 フィルブランテは、はっきり言った。


「殿下が、何を望み、何を望まないのかを、殿下自身の言葉で残していただくためです」


 黒水が、石段の壁を叩く。


 **王太子に望みなど不要。王国が望むことを望め。**


 その文字を、レオンハルトは見た。


 そして、ゆっくり首を振った。


「不要ではない」


 声はまだ小さい。


 けれど、黒水の文字よりはっきりしていた。


「王国のために働きたい。それは私の望みでもある」


 彼は、少し息を吸う。


「だが、誰かが私を選び、私は選ばれるだけなら。それは王国を守ることではない。私が、皆の選択を奪うことになる」


 黒水の影が、少し後ろへ下がる。


 石段の先に、扉が見えた。


 白い石でできた、三つの鍵穴を持つ扉。


 国王。


 王太子。


 選定院。


 三者の同意がなければ開かない、星冠継承記録の扉。


 しかし今、国王の鍵穴には黒水が絡みついている。


「陛下の同意を、黒水が偽装している」


 ノエルが言う。


「王太子殿下と選定院の鍵穴も、時間の問題です」


「選定院の同意は、私が持っています」


 背後から、オルディナ院長の声がした。


 彼女は数名の選定院書記と共に、石段を下りてきた。


 その隣には、ユーディットがいる。


 紺色の書記官服の袖には、まだ黒水の染みが残っている。


 しかし手には、白い記録板を抱えていた。


「選定院は、同意を出していません」


 オルディナ院長は、扉の前で言った。


「だから、黒水が私たちの過去の印を利用しても、今この時点の選定院を代表することはできません」


「院長」


 レオンハルトが言う。


「ここへ来ることは危険です」


「王太子殿下だけに危険を引き受けさせる方が、選定院として危険です」


 オルディナ院長は、短く答えた。


「前の会議で、我々はそれを学びました」


 ユーディットが、扉の前に白い記録板を置く。


「選定院の現在の記録です」


 板には、多くの文字がある。


 選定院は、星冠継承記録の緊急選定へ同意していない。


 緊急選定を始めるためには、国王の意思、王太子の意思、複数の継承候補と代替案、公開された理由が必要である。


 まだ確認できないことは、保留と記す。


 それぞれの文に、書記の名がある。


 そして、空欄もある。


 これから確認することを、勝手に埋めないための余白。


「選定院の鍵穴は、あなたたちのものになりません」


 ユーディットは、黒水へ向けて言った。


 黒水は、返事をしない。


 ただ、国王の鍵穴から濃く染み出す。


 扉の上に、王の筆跡によく似た文字が浮かんだ。


 **我が子レオンハルトへ、全権を委ねる。**


 レオンハルトの顔から、色が少し失われた。


 父の筆跡だ。


 幼いころから見てきた、王の文字。


 黒水は、記録から作った偽の声だけではない。


 相手が信じたいものへ似せて、心の中の迷いを掴む。


「殿下」


 フィルブランテが、彼の名を呼ぶ。


「父上の字です」


「はい」


「父上は、病が重い時に。何度も、私へ王国を頼むと言った」


 声が揺れる。


「それを、私は嫌だと思ったことがある。まだ足りない。まだ父上のそばにいたい。そう言えば、王太子にふさわしくないと思われる気がして」


 黒水の文字が、さらに濃くなる。


 **なら、いま受け取れ。父の願いを叶えろ。**


 フィルブランテは、すぐに答えなかった。


 彼の気持ちを「黒水の嘘です」と切り捨てることはできない。


 父を心配すること。


 王国を守りたいこと。


 王位を継ぐことが怖いこと。


 全部、本当の言葉だ。


「殿下」


 彼女は、少しだけ顔を上げる。


「その言葉が本当に国王陛下のものか、確かめましょう」


「確かめる時間が」


 黒水が、壁に文字を走らせる。


 今すぐ。


 いま、父は苦しんでいる。


「時間を作ります」


 フィルブランテは言った。


「確かめずに受け取ることは、父上の願いを大切にすることではありません」


 レオンハルトは、目を閉じた。


 そして、ゆっくり息を吐く。


「そうだ」


 彼の右手が、国王の鍵穴へ伸びる。


 黒水は喜ぶように揺れた。


 だがレオンハルトは、鍵穴へ触れなかった。


 その少し手前で、掌を止める。


「父上の印を、私が代わりに押すことはできない」


 黒水が、一瞬、音を失った。


「王太子として、父上の意志を勝手に解釈しない」


 レオンハルトは続ける。


「確かめられないなら、保留する。保留したまま、必要な救援は皆で動かす」


 国王の鍵穴から出た黒水が、激しく逆巻いた。


 扉の三つの鍵穴が、黒く光る。


 国王。


 王太子。


 選定院。


 その下に、四つ目の鍵穴が浮かび上がった。


 誰も知らなかった、細い鍵穴。


 黒水の文字が、石扉に刻まれる。


 **国民。**


     ◇


 扉が、内側から開いた。


 誰も鍵を回していない。


 それでも、星冠継承記録は緊急選定を始めた。


 扉の向こうには、塔の内部へ続く空間がある。


 上も下も見えない。


 夜空のように深い空間へ、無数の紙片が浮かんでいた。


 王都の人々が手にした、黒い選定票。


 その表に書かれた賛否。


 裏に書かれた不安と、問いと、知らないという言葉。


 黒水は、表の二択だけを星冠へ集めようとしている。


 裏の言葉は、紙片からこぼれ、暗闇へ落ちかけていた。


「ここが、星冠継承記録の内部ですか」


 リゼットが、周囲を見回した。


「正確には、記録が作る判断の場です」


 ノエルが言う。


「実際の空間ではありません。けれど、ここで確定した記録は王城の結界と、王国の制度に作用する」


 中央には、一つの光がある。


 星のような白い光。


 その下に、黒水でできた王冠が浮かんでいた。


 王冠は、レオンハルトの頭上へ降りようとしている。


 彼が避けても、影に沿って追ってくる。


「これは戴冠ではない」


 アマンテルスが言った。


 黒い日傘を開き、王冠の影を切る。


「首輪だ」


「戴けば、何が起きますか」


 シリルが問う。


 ノエルの結晶板に、数えきれない術式が浮かぶ。


「レオンハルト殿下が、黒水の雨、帰岸記録、王国の避難と統治に関する最終決定者として固定されます」


「固定される?」


「今後、殿下が保留を選んでも、誰かへ相談しても、結界は“王太子が全てを決めた”と記録する。失敗すれば全責任は殿下へ。成功しても、他者の働きは王太子の命令へ書き換えられる」


 フィルブランテの手が、冷たくなる。


 それはレオンハルトを王にする術ではない。


 王国の全てを、一人の名前へ押しつける術だ。


 黒水が、また囁く。


 王太子なら、民を守れる。


 一人なら、速い。


 相談すれば、遅れる。


 他人へ委ねれば、責任を逃れることになる。


「うるさい」


 アマンテルスが言った。


 だが、黒水はアマンテルスへ向かって笑うように波打つ。


 **お前も知っている。最短経路の速さを。**


 瞬間、空間の一部が変わった。


 王城の星空が消え、明るい画面の光が浮かぶ。


 見慣れた部屋。


 二つの椅子。


 机の上の菓子袋。


 ゲーム機の画面。


 透と輝が、転生前にいた部屋。


 画面には、タイムアタックの数字が表示されている。


 残り一分。


 選択肢は二つ。


 **危険な近道を使う。**


 **仲間を待つ。**


 アマンテルスの胸が、少し痛くなる。


 あの頃なら、迷わず近道を選んだ。


 成功すれば最速。


 失敗しても、やり直せばいい。


 ゲームの中なら。


「兄貴」


 フィルブランテの声がする。


 振り返ると、フィルブランテは白い儀礼扇を持っている。


 ゲーム画面の中の弟ではない。


 フィルブランテとして、ここにいる。


「これは、最短経路じゃない」


 フィルブランテは言った。


「誰か一人に、全てを背負わせるための最短経路だ」


 アマンテルスは、短く笑った。


「分かってる」


「なら、そっちを止めてください。レオンが、また一人で何とかしようとする顔をしてる」


 アマンテルスは、王冠の下に立つレオンハルトを見る。


 レオンハルトの光が、黒い王冠とせめぎ合っている。


 彼は、王冠を受け入れようとはしていない。


 でも、押し返す力も迷っている。


 皆が困っている。


 自分が引き受ければ、少しは早い。


 その考えが、彼の光を内側から縛っている。


「レオン!」


 アマンテルスが叫んだ。


「最短で決めても、皆が帰れなきゃ意味ない!」


 レオンハルトが、顔を上げる。


 アマンテルスは続ける。


「お前が王太子として決めたいなら、決めればいい。でも、一人で選ばされるな。俺らを使え。皆の意見を聞け。遅くなっても、全員で帰る方を選べ」


 黒い王冠が、揺れた。


 白い星の光が、少し強くなる。


「私は」


 レオンハルトが、王冠を見上げる。


「私は、王太子として王国を守りたい」


 言葉を、黒水が喜ぶ。


 王冠が、さらに下りる。


 しかし、レオンハルトは次に言った。


「だが、王国を守るために、王国の人々から考える権利を奪いたくはない」


 王冠が止まる。


「私が統治を担う日が来るなら。それは、皆が私を唯一の答えにしたからではなく、私と皆が、何を共に担うかを決めた後でなければならない」


 レオンハルトは、手を伸ばす。


 王冠を受け取るためではない。


 黒水で塗りつぶされた紙片を、一枚拾うために。


 紙の裏には、子どもの字で書かれている。


 **王太子さまが、ねむれなくなったらいやです。**


 彼は、その文字を見た。


 そして、少し目を細める。


「これも、王国の言葉だ」


 黒水が、紙片を奪おうとする。


 フィルブランテの氷晶が、紙片の周りを包んだ。


「記録します」


 フィルブランテは言う。


「賛成、反対、保留。三つだけでは足りません。怖い。分からない。急いでほしい。一緒に決めたい。全てを、理由として残します」


「記録が多すぎれば、統治は止まる」


 黒水が、初めて声の形を取った。


 星冠の下に、白い法衣の人影が現れる。


 大司教ザハルではない。


 けれど、その影は、ザハルの柔らかな声で話した。


「秩序とは、迷いを減らすことです。人々は選ぶことに疲れています。だから、王を選ぶ。だから、英雄を求める。あなた方は皆へ重荷を戻そうとしている」


「違う」


 リゼットが言った。


 白い花が、暗い空間の中で咲く。


「皆が全部を一人で背負う必要はない。でも、一人が皆の恐れを背負う必要もない」


 花弁が、落ちかけた紙片を一枚ずつ受け止める。


 怖い。


 知らない。


 助けてほしい。


 待ってほしい。


 それらは、黒水の中で王太子を選べという一つの文字にされていた。


 花弁が、その文字をほどいていく。


「私は、聖女になりたくないと思ったことがあります」


 リゼットは、黒水の影を見る。


「皆を救うためなら、私が我慢すればいいと言われるのが怖かった。でも、皆に何も考えないで、と言うことも違う」


 彼女は、花弁の上に浮かぶ紙片を見る。


「助けてほしいと言う人の声を聞く。助ける人も、できることとできないことを言う。そうやって、少しずつ分け合うことは、重荷を増やすことじゃない」


 ザハルの影が、静かに首を傾げる。


「美しい理想です。しかし、国は会議だけで守れない」


「だから、動く人が必要です」


 シリルが前へ出た。


 槍の穂先を、黒水の影へ向ける。


「指揮官も、騎士も、書記も、救護院も必要だ。だが、役目があることと、役目以外の人間でなくなることは別だ」


 カイラスが、彼の隣へ立つ。


「和平も同じだ。皆の意見を聞くから、何も決められないわけではない。誰がどの決定を担い、誰に確認を返すかを決める。それが、合意だ」


「合意は遅い」


 影が言う。


「ええ」


 フィルブランテは答えた。


「ですが、速い選別の後に残る傷を、私たちは見てきました」


 公開断罪されるフィルブランテ。


 怪物として討伐されるアマンテルス。


 誰かの善意に使われ、名前を忘れるルカ。


 帰還を急かされる母・真琴。


 その全てが、一つの早すぎる答えから始まっていた。


「だから、ここで止めます」


 フィルブランテは、白い扇を広げた。


 氷晶が、空間全体へ細い線を伸ばす。


 黒い紙片の表と裏。


 選定院の古い投票紙。


 国王の偽造文書。


 王都の人々が書いた帰岸記録。


 全ての履歴が、一つの大きな氷晶板へ浮かび上がった。


「誰が、何を選んだのか」


「誰が、何を知らなかったのか」


「誰が、何を急がされたのか」


「全て、分けて残します」


 黒水が、氷晶板へぶつかる。


 しかし、これまでのように一つの文字へ変えられない。


 記録は、同意のある声と、未確認の声と、偽造された声を分けている。


 ザハルの影は、初めて少し眉を寄せた。


「記録を増やせば、決断の責任は薄まる」


「薄まりません」


 フィルブランテは言う。


「どの責任を、誰が引き受けたかが、はっきりします。一人に全てを押しつけるより、ずっと重く、正確に」


 レオンハルトが、星冠の下へ進んだ。


 黒い王冠は、まだ彼の頭上にある。


 しかし今は、落ちてこない。


「星冠継承記録へ、私自身の意思を記す」


 レオンハルトは言った。


 王太子の光が、白い線となって彼の前に伸びる。


 そこに、彼は文字を書き始める。


 **レオンハルト・ヴァン・セレディア。私は王太子として、黒水の雨と帰岸記録に関わる危機対応を担う意思がある。**


 黒水が、かすかに喜ぶ。


 だが、彼は止めない。


 **ただし、私は、王国の唯一の答えとして選定されることに同意しない。**


 黒い王冠が、ひび割れた。


 **私は、国王陛下の意思を本人の確認なく代行しない。**


 国王の偽造文書が、氷晶板の中で薄くなる。


 **私は、選定院と各地の記録担当、王国と魔侯領の立会人、救護院と市民の代表が、公開された理由と相互確認のもとで危機対応を分担することを提案する。**


 白い星が、強く光った。


「王太子殿下」


 オルディナ院長が、言った。


 彼女は、選定院の記録板を胸に抱えている。


「これは、継承を拒む宣言ではありませんね」


「拒みません」


 レオンハルトは答えた。


「未来の王位を、今ここで黒水の術式に決めさせることを拒みます。王位継承が必要になったとき、私が望み、国王が意思を示し、選定院と民が理由を知った上で、改めて選定されるなら。その時は逃げません」


 彼の言葉は、王冠を外すための言い訳ではない。


 責任を引き受ける形を、自分の意思で選び直す言葉だった。


「フィルブランテ」


 彼は、彼女を見る。


 黒水のない青い瞳。


「あなたにも、記してほしい」


 フィルブランテは、少し驚いた。


「私に?」


「あなたは、私の婚約者としてではなく、イデルバルディ家の代表として、そして一人の人間として、ここにいる」


 レオンハルトは言った。


「私は、あなたが私を支持することを、婚約の義務にしたくない。あなたが、私の提案へ反対したいなら、反対と記してほしい」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 嬉しい痛みだった。


 婚約者として隣に立つことを望まれているのではない。


 フィルブランテ自身の言葉を、求められている。


「承知しました」


 フィルブランテは、氷晶板の前へ進む。


 扇の先で、白い文字を書く。


 **フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。私は、王太子殿下が唯一の答えとされることに反対する。**


 黒水が、また大きく揺れる。


 **私は、危機対応を共同で担う提案に賛成する。ただし、共同の名で責任の所在を曖昧にすることには反対する。誰が何を決め、どの記録を確認し、誰へ説明するかを公開することを求める。**


 書き終えて、フィルブランテはレオンハルトを見る。


「殿下が王になる日が来るなら」


 声は、静かだった。


「私は、殿下が王太子だから隣に立つのではなく、殿下と話し合った上で、隣に立つかを選びます」


 レオンハルトは、少しだけ笑った。


「それでいい」


「いいのですか」


「いいえ」


 彼は、正直に言った。


「怖いです。あなたが、私の隣を選ばないかもしれないから」


 フィルブランテの呼吸が止まりそうになる。


 レオンハルトは続ける。


「でも、選ばない自由のない隣に、信頼はない」


 黒水の王冠が、大きく崩れた。


 黒い欠片が、星の空間を落ちていく。


     ◇


 星冠継承記録は、すぐには消えなかった。


 白い星の周りに、まだ数えきれない選定票が浮かんでいる。


 王都の人々の不安も、黒水の雨も、消えたわけではない。


 だから、ここで何もしなければ、別の誰かへまた責任が集まる。


「制度を戻すだけでは足りません」


 ユーディットが言った。


 彼女は、選定院の記録板を開く。


「王太子殿下の提案を、記録として実行に移す必要があります。誰が何をするか。いつ見直すか。異議があれば、どこへ届けるか」


「選定院の臨時規則として残しましょう」


 オルディナ院長が言う。


「〈星冠危機記録会議〉を設置します。王太子は危機対応の代表を務める。ただし、単独で帰岸記録の移管、公開、破棄を決定できない」


「王国側の同意確認は、選定院と公爵家で」


 フィルブランテが続ける。


「公爵領の帳簿と物流記録を、救援物資の照合へ回します」


「魔侯領側の記録は、私とカイラスが持ち帰る」


 アマンテルスが言う。


「勝手に王国の保管庫へ入れられないよう、氏族会議の立会人も置く」


「救護院の声は、私が集めます」


 リゼットが言う。


「でも、私一人が“救われる人の代表”にはなりません。救護院ごとに、書ける人と話せる人を決めてもらいます」


「術式履歴と改ざんの検証は、僕が」


 ノエルが言う。


「ただし、検証対象となる人へ、何を調べるかと、何を記録しないかを先に説明する」


 以前のノエルなら、そんな言葉は言わなかったかもしれない。


 知るためなら、勝手に調べる。


 でも今は、記録される側の拒否を、最初に言葉にする。


「雲記は、話したいことだけを運びます」


 アリスが言う。


「選定票の裏に書かれた言葉も、本人が公開してよいと言ったものだけ、会議へ届けます。書かなかった人を、意見がない人とは数えません」


「現場の安全は、近衛と共同監視団で」


 シリルが言う。


「ただし、黒水の雨に触れた人を敵として拘束しない。保護と確認を分ける」


「海から来る黒水の流れは、私が追う」


 マレアが言った。


「海図にするには、皆の同意がいる。だから、黒水が盗める座標と、船が助けに行ける潮を分けて記録する」


 ルカも、小さく手を上げた。


「僕は、帰岸庫で。帰る途中の人の声を聞く」


 皆が、彼を見る。


 ルカは、少し緊張している。


「できないこともある。でも、父さんの記録を読んだから。帰る途中の人を、いないことにしないって、書ける」


「十分です」


 フィルブランテが言った。


「できることを、自分で選んでください」


 それぞれの言葉が、白い星の周りに記録される。


 役目。


 範囲。


 拒否できること。


 確認を返す相手。


 一人の王冠に集められかけた責任が、消えるのではなく、見える形で分かれていく。


 黒水は、分かれた責任を嫌う。


 誰か一人を悪役にしにくくなるからだ。


 ザハルの影が、薄く笑った。


「面倒なことです」


 その声は、少し遠くなっている。


「多くの人が話し、多くの人が迷い、多くの人が責任を分け合う。争いのない秩序には、ほど遠い」


「争いがないことと、誰も声を出せないことは違います」


 レオンハルトが答えた。


「私たちは、迷いをなくすために国を作るのではない。迷っても、誰かを捨てずに進めるように国を作る」


 白い星の光が、黒水の影を押し返す。


 影は完全には消えない。


 消える前に、最後の言葉を残す。


 **王冠を一つにできないなら、王冠の下にいる者を二つに分ければよい。**


 黒水が、星の空間の奥へ逃げていく。


 その先には、王都の地図がある。


 王城。


 選定院。


 学院。


 救護院。


 そして、王城の北にある古い聖堂。


 黒水の線は、そこへ向かった。


「聖冠礼拝堂」


 レオンハルトが、低く言った。


「王家の子どもが、生まれた時に最初の祝福を受ける場所です」


「王冠の下にいる者を、二つに分ける」


 フィルブランテは、ザハルの言葉を繰り返す。


 王太子を選ぶことに失敗した。


 ならば、王太子の周りにいる誰かを、分ける。


 王家と公爵家。


 王太子と婚約者。


 あるいは。


「フィル」


 アマンテルスが、兄としてではなく、ひどく真剣な声で呼んだ。


「次は、お前を王太子から切り離そうとするかもしれない」


 フィルブランテは、少しだけ目を伏せる。


 黒水が、自分を悪役にするのは初めてではない。


 でも今度は、レオンハルトを唯一の王にするために、彼の隣から自分を追い出すかもしれない。


 婚約者として。


 公爵令嬢として。


 あるいは、王太子が自分を選ばない証として。


「分かっています」


 フィルブランテは、答えた。


 怖くないわけではない。


 それでも、今の彼女には一人ではない記録がある。


「だから、先に書きます」


 彼女は、手帳を取り出した。


 白い頁へ、新しい一行を書く。


 **私は、誰かの隣に立つかどうかを、自分で選ぶ。誰にも、選ばせない。**


 レオンハルトは、その文字を見た。


 そして、自分の手帳にも書く。


 **私は、誰かを隣に置くために、相手の選択を奪わない。**


 二つの手帳は、同じではない。


 同じ言葉でもない。


 でも、同じ頁の上に置かれた。


 星冠の白い光が、その二つの記録を照らす。


 王冠は、誰か一人の頭上には降りなかった。


 代わりに、星の光は、選定院の外で紙の裏側へ言葉を書いた人々の方へ、細く伸びていった。


 王都の空に浮かんでいた黒い輪が、少しだけ欠ける。


 黒水の雨は、まだ止まらない。


 けれど、次に誰かが「今すぐ選べ」と言われたとき。


 選ぶ前に、聞く権利があることを。


 王都の人々は、記録として持ち始めていた。


 そして、聖冠礼拝堂の地下では。


 黒水が、幼い頃のレオンハルトと、白いドレスを着た幼いフィルブランテの記録へ静かに触れていた。


 まだ二人が婚約の意味も知らなかった頃。


 「将来、王太子妃になってください」と言われた少女の、震える手。


 「必ず王になる」と答えた少年の、小さな手。


 黒水は、その間に残された、誰にも記されなかった沈黙へ入り込む。


 次の選別は、王冠を誰へ渡すかではない。


 **誰が、誰の隣に立つべきか。**


 その問いを、二人の過去から作ろうとしていた。

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