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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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19/48

第十九話 名を呼ぶ船は、沈めない

エルドの潮記の貝から、途切れ途切れの悲鳴が響いていた。


『黒い船が、いっぱい……! 海の下から、帆が出てくる!』


 雲上庭園の空は、黒い雨に染まり始めている。


 水鏡の外縁に浮かぶ雲鍵の光が、弱く脈打った。


 教団の船は、予定より早く黄昏島へ着いた。


 あるいは、船ではない。


 帰還を願い、帰路を失い、名を忘れかけた者たちの声が、黒水の航路によって一つの船団の形を取っている。


「アステリア」


 フィルブランテが呼ぶ。


「黒い船団は、島のどこを狙いますか」


 白銀の灯守は、雲上庭園から見える海の方角へ顔を向けた。


 人の形をしているが、瞳の中には二つの月が浮かんでいる。


『二つに分かれる』


「二つ」


『海上の黒水は、帰還者を集める。島の黒い雨は、雲鍵を濡らし、まだ選ばれていない未来を一つに固める』


 アリスが、透明な小瓶を両手で包む。


 中の白い雲は、黒い雨粒が落ちるたび、少しずつ灰色へ染まっていた。


「わたしを奪う必要はありません」


 アリスは言う。


「雲鍵を黒水へ濡らせば、わたしが持っている未来は、教団が望む一つの結末だけになります」


「水鏡と雲鍵を、同時に守らなければならない」


 ノエルが結晶板を見た。


「海上の船団を放置すれば、外縁の水が黒水に変わる。水鏡を守っても、島へ戻る航路が消える」


「島と船を、別々に狙っている」


 カイラスが言う。


「俺たちを分けるために」


 いつものように、敵は二択を作る。


 島の中枢を守るか。


 海に残る仲間を救うか。


 一方を選べば、もう一方が沈む。


「全員で、海へ行きますか」


 リゼットが問う。


「そうすれば、アリスさんと水鏡が危ない」


「全員でここに残れば、マレアさんとエルドさんが危ない」


 シリルの言葉は短い。


 だが、答えを急がない。


 アマンテルスは黒い日傘を閉じ、遠くの海を見た。


 今すぐ走りたい。


 海へ飛び込みたい。


 弟が止めなければ、一人で外縁へ向かっていたかもしれない。


 だから、アマンテルスは先に言った。


「俺、海へ行きたい」


 皆がこちらを見る。


「マレアとエルドがいる。あいつらを置いて、水鏡だけ守るのは嫌だ」


「分かります」


 フィルブランテが答えた。


「僕も、島だけ守るのは嫌です」


 アマンテルスは、少し驚いたように弟を見る。


「でも、全員で行くことも違います」


 フィルブランテは続ける。


「だから、どちらかを優先するのではなく、島と海で同じ術式を動かしましょう。これまで、離れた場所でも潮記の貝と分散記録でつながりました」


「黒い船団は、実体を持っている」


 ノエルが言う。


「声だけでは防げない」


「声だけにしません」


 フィルブランテは、アリスを見る。


「アリスさん。雲記は、同意を得た記憶と言葉を、複数の場所へ映せるのでしょう」


「はい。でも、黒い雨が近い。雲鍵を広げれば、もっと狙われます」


「広げるのではありません」


 フィルブランテは、ゆっくり言った。


「今、雲鍵を一つの小瓶に閉じ込めているから、敵はそこだけを狙えます。アリスさんがよければ、雲記を海と島の間に広げ、皆の『今ここにいる』という記録を結びましょう」


 アリスの灰青の瞳が揺れた。


「わたしの雲を、海の上に」


「雲鍵は、皆で守ると決めました。見ることと、決めることは違います。雲を広げても、アリスさんの未来を誰かが選ぶことにはなりません」


「でも、教団にも見える」


「見せます」


 アマンテルスが言った。


「誰がどこにいて、誰が一人じゃないかを」


 アマンテルスの声は、戦う前の強さを持っていた。


「敵に隠すために、仲間の声まで閉じるのは嫌だ」


 アリスは、小瓶を見る。


 雲は、白と灰の間で揺れている。


 雲は一つの空を選ばない。


 自分でそう言った。


 でも、広がることは怖い。


 雲は散れば、戻らないかもしれない。


「アリスさん」


 リゼットが、そっと少女の隣へ立つ。


「怖いなら、怖いままでいいです。急いで決めなくていい」


「でも、急がなければ」


 黒い雨が、もう一滴、庭園へ落ちた。


 雲鍵の庭に咲く白い花が、灰色に染まる。


 アリスは、息を吸った。


「わたしは」


 少女は、透明な小瓶を胸の前へ掲げる。


「アリス・クラウド・ドリアスアリドです。雲鍵の管理者で、まだ自分の帰る場所を探している者です」


 小瓶の雲が、白く光る。


「わたしの雲を、皆さんと共有します。ただし、わたしの未来を、誰も決めないでください」


「決めません」


 全員が答えた。


 アリスは小瓶の蓋を開ける。


 白い雲が、空へほどけた。


 雲は庭園の上へ広がり、樹海を越え、島の外縁の海へ伸びる。


 そこにいる者の声を、一つずつ映し出す。


 雲の中に、アマンテルスの黒い日傘。


 フィルブランテの青い氷晶。


 リゼットの白い花。


 レオンハルトの光。


 シリルの風。


 ノエルの結晶板。


 カイラスの雷。


 アステリアの灯。


 アリスの雲。


 島の外縁には、マレアの潮と、エルドの小舟。


 すべてが、一本の雲の線でつながる。


 誰がどこにいるか。


 誰が一人ではないか。


 黒い雨が、白い雲へ落ちる。


 しかし雲は、黒を一箇所に留めない。


 灰色の雫は、海上の白い泡へ分かれて散る。


「今です」


 フィルブランテが言った。


「島内班と海上班に分かれます。分かれても、記録は切りません」


 アマンテルスが頷く。


「俺とシリルとカイラスは海へ」


「マレア船長とエルドさんを守り、黒い船団を止める役目です」


 フィルブランテは、次に島の仲間を見る。


「僕とリゼットさん、ノエル様、レオンハルト殿下、アステリアさん、アリスさんは水鏡へ。黒い雨を中枢へ入れません」


「私も海へ行く」


 マレアの声が潮記の貝から聞こえた。


『船長が船を離れるわけにはいかない。だが、外縁の船をここまで引きつける。アマンテルス、シリル、カイラス。水の道を開くから来な』


「行く」


 アマンテルスが答えた。


「でも、勝手に突っ込むな」


『それは、こちらの台詞だよ』


 船長の声に、ほんの少しだけ笑いが混じる。


     ◇


 島の外縁へ下りる道は、雲記によって白く浮かんでいた。


 アマンテルス、シリル、カイラスの三人が走る。


 黒い樹林の枝から、雨が降る。


 普通の雨ではない。


 一滴ごとに、誰かの声が閉じ込められている。


 帰りたい。


 助けて。


 俺の名を。


 名前を失いかけた者たちの声が、雨になって落ちてくる。


「触るな」


 シリルが槍で雨粒を弾く。


 雨粒は地面へ落ちる前に、黒い根へ変わった。


 根は三人の足へ絡みつこうとする。


 カイラスの雷が、根を細く断つ。


 アマンテルスの影が、断たれた根を器へ受け止める。


「数が多い」


 カイラスが言う。


「黒水は、島の外からだけ来ていない。樹海の記録を使って、内側からも」


「アステリアとアリスを狙うために、島の名前を利用してる」


 アマンテルスの声が低くなる。


「記録を守る場所で、記録を武器にしてる」


 雲記の中に、フィルブランテの声が届く。


『兄貴。海上の船団は、何隻ですか』


 アマンテルスは、樹海の切れ目から海を見た。


 外縁の透明な水は、既に半分が黒く染まっている。


 その上に、黒い帆がいくつも立っていた。


 帆船。


 漁船。


 小舟。


 沈んだはずの船の影。


 どれも、船体の輪郭があいまいだ。


 海藻と黒水と、誰かの記憶だけで作られた船。


 中央には、一番大きな黒い船がある。


 〈月影の羅針盤〉。


 甲板には、白い法衣の男が立っていた。


 大司教ザハル。


 彼は、まだ島へ上がっていない。


 それでも、こちらを見ている。


「十二隻……いや、数えられない」


 アマンテルスが答える。


『数えられない?』


「帆が増えたり消えたりしてる。黒水が、帰りたい声の数だけ船を作ってる」


『なら、船を壊しても増えます』


 フィルブランテの声が、すぐに返る。


『乗っている者を、船団の一部として扱わないでください』


「分かってる」


 アマンテルスは、海を見る。


 黒い帆の下に、いくつもの人影がいた。


 白い法衣の教団員だけではない。


 漁師の服を着た老人。


 水鱗族の女性。


 王国兵の鎧を着た少年。


 魔侯領の古い外套を羽織った者。


 皆、何かを忘れたような顔で、海を見ている。


 彼らは敵なのか。


 それとも、帰還を願ったまま、黒水に使われている者なのか。


 黒い船を沈めれば、皆も沈むかもしれない。


「壊さない」


 アマンテルスは言った。


「船団そのものを、帰りたい声から切り離す」


「方法は」


 カイラスが問う。


 アマンテルスは、雲記の白い線を見る。


「名前を呼ぶ」


「全員の?」


「分からない」


 アマンテルスは歯を食いしばる。


「でも、名前を思い出させれば、黒水は船の形を保てない」


「根拠は」


 シリルが言う。


「ない」


「それで行くのか」


「他に、乗ってる奴らを傷つけずに止める案がない」


 カイラスが、すぐに反論しなかった。


 アマンテルスは、いつもなら先に動く。


 今回は、理由を言った。


 足りない部分を、仲間へ渡した。


「雲記を使いましょう」


 カイラスが言う。


「俺が雷で、船団へ声を流す。シリルの風で広げる。アマンテルスは、黒水の船影だけを影へ引き込む。人影へは触れない」


「名を知らない者には、どう呼びかける」


 アマンテルスが問う。


 雲記の中で、アリスの声がした。


『名が分からないなら、名を聞いてください』


 彼女の雲が、外縁の海まで広がる。


『雲は、誰かの願いを勝手に決めません。船団の人々にも、聞きます。あなたは、誰ですか。どこへ帰りたいのですか、と』


「アリスさん」


 アマンテルスが言う。


『わたしは、ここにいます』


 少女の声は震えている。


 黒い雨の中で雲を広げるのは、怖いだろう。


 それでも、彼女は雲鍵を一人で閉じない。


『わたしも、皆さんと一緒に守ります』


     ◇


 外縁の水上では、マレアが〈暁なき潮騒〉の舵を握っていた。


 右舷には小舟〈暁の帆〉。


 左舷には、黒水に半ば沈んだ船影が迫っている。


 帰還者の小舟を守る透明な水は、黒い波に押され、少しずつ狭くなっていた。


『姉ちゃん』


 エルドの声が、潮記の貝から聞こえる。


「聞こえてる」


『あの船の人たち、知ってる声がする』


「誰の」


『分からない。俺の中にいる人たちが、あっちへ行くなって言ってる。でも、あっちの人たちは、帰りたいって言ってる』


 小舟の周囲で、黒い波が高くなる。


 エルドの中に混じった、帰路を失った者たちの記憶が、船団へ呼ばれている。


 教団は、彼を連れ去ろうとしているのではない。


 エルドの中の多くの声を、黒水の航路へ戻そうとしている。


 帰還者を一人の器にし、名前を燃料にするために。


「エルド」


 マレアは、舵を握ったまま言った。


「聞きな。お前は、誰かの帰り道を奪うために戻ってきたんじゃない」


『でも、皆、苦しいって』


「だから、皆の声を消さない。だが、お前一人が引き受ける必要はない」


 船長は、潮記の貝を強く握る。


「私は、ここにいる」


 雲記が、海の上へ広がった。


 白い雲が黒い船団の上空を覆う。


 雲の中から、アリスの声が静かに響く。


『あなたは、誰ですか』


 黒い船団が、一瞬止まる。


『あなたは、どこへ帰りたいのですか』


 最初に答えたのは、黒い漁船の上に立つ老人だった。


「……名前を、忘れた」


 老人の声は、乾いている。


「港があった。娘がいた。だが、どこの港だったか」


 次に、水鱗族の女性が呟く。


「わたしは、海へ落ちた。夫が、岸にいる。たぶん、もういない」


 王国兵の鎧を着た少年が、剣を下ろす。


「俺は、戦場へ行きたくなかった」


 黒い船団の帆が、少しずつ揺れる。


 帰還を願う声は、敵の命令だけではない。


 失った人々の、終わらない願い。


 そこへ、ザハルの声が海を渡った。


「哀れな方々でしょう」


 大司教は〈月影の羅針盤〉の甲板で、微笑んでいる。


「帰りたいと願っただけで、帰る場所を失った。あなた方は彼らを救えますか」


 アマンテルスたちが、外縁の岩場へ出る。


 ザハルは、こちらを見る。


「救えないでしょう。ならばせめて、彼らの願いを一つの世界へ帰して差し上げるべきです」


「誰か一方を沈めて」


 アマンテルスが言う。


「沈める、とは不穏な言葉です」


 ザハルは、柔らかく笑う。


「選ぶのです。世界にも、人にも、容量があります。すべてを抱える者は、何も守れない」


「抱えるのと、切り捨てるのしか知らないんですね」


 フィルブランテの声が、雲記を通して届く。


 ザハルの微笑みが、一瞬だけ止まる。


『記録を分ければいい。願いを聞けばいい。今すぐ帰せなくても、消さなければいい』


「公爵令嬢」


 大司教が、島の奥を見た。


「あなたの母も、そう言いました。だから彼女は、誰も救えぬまま死んだ」


 フィルブランテの手が、島の水鏡の前で止まる。


 セラフィナ。


 母は、誰も救えなかったのか。


 十年前、島を去り、教団の術式を追い、命を落とした。


 残したのは帳簿と記録だけ。


 今、ザハルはその痛みを使おうとしている。


『母は、誰も救えなかったかもしれません』


 フィルブランテの声は、少し震えた。


 それでも、続く。


『でも、記録を残したから、僕たちは教団の手口を知れました。アリスさんが一人ではないと知れました。今、船団の人たちの声も聞けています』


 雲記の白い雲が、さらに広がる。


『救えなかったことと、無意味だったことは同じではありません』


 ザハルの瞳が、冷たくなる。


「美しい言葉です」


 大司教が手を上げた。


 黒い船団の帆が、一斉に風を受ける。


 船の上にいた人影が、まるで糸で引かれるように船首へ歩き出した。


 皆、外縁の透明な水へ飛び込もうとしている。


 黒水は、人々が自ら海へ沈む姿を作ろうとしている。


「止める!」


 アマンテルスが、日傘を開いた。


 黒い影が、船影だけを包む。


 船の帆。


 黒水でできた舷側。


 錨のない船底。


 人の足には触れない。


 影は、黒水だけを自分の中へ引き寄せる。


 だが、船影は十二隻。


 黒水は多すぎる。


 アマンテルスの腕に、黒い文字が浮かぶ。


 呪いの残りが、また疼く。


「アマンテルス!」


 カイラスの雷が、影の周囲へ走る。


「一人で受けるな」


「受けてない」


 アマンテルスは歯を食いしばる。


「少し、止めてるだけだ」


「その少しで、顔が青い」


「細かいな」


「フィルブランテの弟だから」


「それ、悪口か」


 言いながら、カイラスは雷文を影へ重ねる。


 シリルの風が、船団の帆を逆向きに打つ。


 黒水の帆だけが揺れ、人影の足元には風が届かない。


「名を呼べ!」


 シリルが叫ぶ。


 雲記を通して、海上の人々の声が、少しずつ名前を取り戻していく。


「俺は、ガルド・メイン!」


 老人が叫ぶ。


「港は、アウローラの南! 娘の名はミナだ!」


 黒い漁船の帆が、一枚、白い泡へほどけた。


「わたしは、セラ・リオネ!」


 水鱗族の女性が、涙を流す。


「夫の名はドール。帰れなくても、忘れたくない!」


 彼女の足元の黒水が、透明な水へ変わる。


「俺は、ユース・ハレル!」


 王国兵の少年が、剣を投げ捨てる。


「戦場じゃなくて、畑へ帰りたかった!」


 黒い鎧が、海藻のように崩れる。


 一人。


 また一人。


 黒水へ自分の名を渡していた者たちが、声を取り戻す。


 アマンテルスの影が抱える船影が、少しずつ軽くなる。


 それでも、〈月影の羅針盤〉だけは消えない。


 中央の船には、ザハルが立っている。


 彼の足元の黒水は、名前を失った人々の願いだけでできているのではない。


 誰かが意図して、術式を組んでいる。


「大司教!」


 カイラスの雷が船へ走る。


 しかし雷は、船の手前で黒い壁に吸い込まれた。


「残念です」


 ザハルは、静かに言う。


「皆に名を思い出させることはできても、誰が帰るべきかは決められない」


 大司教が、片手を握る。


 その瞬間、船団から切り離された黒水が、一斉に島の上空へ跳ね上がる。


 標的は海上ではない。


 雲上庭園。


 アリスの雲鍵。


「アリスさん!」


 フィルブランテの声が、雲記の向こうから聞こえる。


 同時に、島内の白い雲が黒く染まる。


     ◇


 雲上庭園では、黒い雨が滝のように降っていた。


 アリスの雲記は、海上まで広がっている。


 だから、黒水は雲を伝って中枢へ逆流してきた。


 これも、敵の狙いだった。


 誰かを救おうと広げた雲を、侵入路に変える。


「雲を閉じますか」


 アリスの声が震える。


 透明な小瓶の雲は、半分が黒く染まっていた。


「閉じたら、海の人たちの声が消えます」


 リゼットが言う。


「でも、開いたままなら、雲鍵が」


 アリスの言葉が途切れる。


 また二択。


 雲を閉じれば、船団の人々は黒水へ戻る。


 雲を開けば、雲鍵が奪われる。


 レオンハルトの光が、水盤の周囲へ広がった。


 ノエルは、結晶板を何度も確認している。


「黒水は雲を伝っている。でも、雲記の全てへ入っているわけじゃない」


「どういうことですか」


 フィルブランテが問う。


「アリスが同意して共有した記憶だけを辿っている。まだ誰にも見せていない雲には入れない」


 アリスが、小瓶を見る。


 その中に残る白い雲。


 自分の願い。


 誰にも言っていない、帰る場所。


「閉じ込めたくはない」


 アリスが、小さく言う。


「でも、これだけは、皆に見せるのが怖い」


「見せなくていいです」


 フィルブランテは、すぐに答えた。


「雲鍵を守るために、アリスさんの全てを公開する必要はありません」


「でも、それでは黒水を止められない」


「止められます」


 ノエルが言った。


「黒水が辿れる雲と、辿れない雲の間に、新しい境界を作る。共有された記憶は残す。共有されていない願いは、アリス自身のものとして守る」


「そんな都合よく」


 アリスが言いかける。


「都合よくない。手間がかかる」


 ノエルは真顔で答えた。


「でも、できる」


「ノエル様の言うことは、時々すごく格好いいのに、言い方で少し減点されます」


 フィルブランテが言う。


「減点された」


「今はそこではありません」


 それでも、アリスは少し笑った。


 黒い雨が降る中で、その笑いは小さい。


 だが、雲鍵の白い部分を少しだけ明るくした。


「アリスさん」


 リゼットが、少女の手を取る。


「あなたが皆へ見せたいと思った雲だけ、わたしたちで守りましょう」


「見せたくない雲は」


「あなたが持っていてください」


「でも、わたしが」


「一人で持つことと、一人で守ることは違います」


 リゼットの言葉に、アリスは目を見開いた。


 雲鍵を一人で抱える必要はない。


 でも、自分の願いまで、誰かへ渡さなければならないわけではない。


 境界を持つことは、孤立ではない。


「分かりました」


 アリスは、小瓶を水盤の上へかざした。


「雲記を二つにします」


 白い雲が、庭園の上で分かれる。


 一つは、海上の人々の名前と、皆が共有した帰る場所。


 もう一つは、アリスだけがまだ言葉にできない雲。


 黒水は、前者へ流れ込もうとする。


 だが、ノエルの無属性術式が、二つの雲の間に細い透明な壁を作った。


 レオンハルトの光が、その壁へ意味を与える。


 **同意なく越えてはならない。**


 フィルブランテの氷晶が、黒水の侵入履歴を固定する。


 リゼットの花弁が、黒く染まった雲と白い雲を分ける。


 〈黄昏晶花陣〉が、雲鍵の庭で新しい形を取った。


 花弁。


 影。


 氷晶。


 そして、雲。


「黒水が止まりました」


 ノエルが言った。


 だが、その直後、水盤の奥で何かが割れる音がした。


 白い塔の方角。


 水鏡の中枢へ続く扉が、黒い雨に打たれてひび割れている。


「ザハルは、雲鍵を奪う必要がなかった」


 アステリアが、低い声で言った。


『雲鍵を開かせ、黒水の一滴を中枢へ届ければよかったのだ』


「水鏡へ!」


 フィルブランテが叫ぶ。


     ◇


 島の外縁では、黒い船団の大半が、白い泡へ戻り始めていた。


 名を取り戻した人々は、雲記の中で、それぞれの帰りたい場所を口にしている。


 今すぐ戻れなくても。


 少なくとも、黒水が勝手に彼らの願いを使うことはできない。


 しかし〈月影の羅針盤〉だけが、黒い海の上に残っていた。


 ザハルは、船首で白い法衣を揺らしている。


 その背後で、黒い帆がゆっくり折れ始めた。


 船を捨てるつもりだ。


「逃がすか!」


 アマンテルスが影を伸ばす。


 だがザハルは、こちらを見て笑った。


「追わなくてよろしいのですか」


 大司教の指先が、島の白い塔を指す。


「あなた方の弟君は、また一人で記録を守ろうとしている」


 アマンテルスの影が止まる。


 海の敵を追うか。


 島の弟へ戻るか。


 また、二択。


 だが、アマンテルスは黒い船へ向けた影を、完全には消さなかった。


「シリル、カイラス」


「分かっている」


 カイラスの雷が、船の前方へ網のように広がる。


 船を沈めない。


 逃げ道だけを、海上に記録する。


 シリルの風が、白い泡へ戻った船影の人々を、外縁の透明な水へ運ぶ。


「アマンテルスは」


 シリルが問う。


「島へ戻る」


 アマンテルスは答えた。


「でも、船は追わせない。お前らで止めろ」


「二人で?」


「マレアとエルドがいる。雲記もつながってる」


 アマンテルスは、潮記の貝を握る。


「俺だけで戻るんじゃない。皆で、別の場所にいる」


 カイラスが、少しだけ笑った。


「少しは学んだな」


「少しな」


 アマンテルスの影が、雲記の白い線に沿って島の内側へ伸びる。


 身体ごと飛び込むのではない。


 仲間へ自分の位置を知らせたまま、影の道を走る。


     ◇


 水鏡の中枢に着いたとき、フィルブランテたちは既に扉の前へいた。


 白い塔の地下。


 大きな水鏡が、円形の部屋の中央に浮かんでいる。


 鏡の表面には、白い月と藍の月。


 その間に、黒いひびが一本走っていた。


 ひびの中から、黒水が細く滴っている。


「まだ割れていません」


 ノエルが言う。


「でも、ひびが水鏡の裏側まで届いている。黒水が向こうの世界の記録へ触れれば」


「どうなる」


 レオンハルトが問う。


「分からない」


 ノエルの声が、珍しく硬い。


「でも、戻すのは難しい」


 水鏡の前に、アステリアが立つ。


 灯守の白銀の髪が、黒い滴に触れて少しずつ曇っていく。


『中枢へ、誰かが入った』


「ザハルですか」


『違う』


 アステリアは、鏡の中を見る。


『黒水の船を捨てた者ではない。名を忘れ、帰還を願った者の一人が、ひびを通って島へ上がった』


「さっきの船団の人ですか」


 リゼットが言う。


『分からない。だが、水鏡の内側にいる』


 鏡の表面が揺れる。


 そこに、白い法衣の影が映った。


 ザハルではない。


 もっと小さな影。


 子どもほどの背丈。


 濡れた髪。


 鏡の中から、こちらを見ている。


 その子は、唇を動かした。


 声は聞こえない。


 けれど、読めた。


 **帰りたい。**


 フィルブランテの手が、氷晶を握る。


 この子を、黒水の一部として閉じるか。


 水鏡のひびを急いで塞ぐか。


 また、選ばせようとしている。


 しかし、今度はアマンテルスの声が、雲記を通して届いた。


『フィルブランテ。海の船団、まだ全員は救えてない。でも、名を呼んでる』


 フィルブランテは、鏡の中の子を見る。


「僕たちも、名を聞きます」


 水鏡のひびが、ゆっくり広がった。


 黒水の滴が、次の一滴を落とそうとしている。


 島の外では、沈まなかった船が、まだ声をつないでいる。


 誰かの名を呼びながら。

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