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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第十八話 雲は、ひとつの空を選ばない

黄昏島の砂地に生まれた中間の道は、最初はただの白い砂だった。


 光の花が咲く道でもない。


 黒い樹林へ沈む影の道でもない。


 誰かが先に正解として踏み固めた場所ではない。


 フィルブランテが一歩を踏み出すと、砂の下から青い結晶の欠片が現れた。


 アマンテルスが続くと、欠片の間に黒い影が細く伸びる。


 リゼットが歩けば、白い花弁が影の上へ落ちる。


 レオンハルトの光。


 シリルの風。


 ノエルの無属性術式。


 カイラスの淡紫の雷。


 マレアとイオが持つ、海の潮の記憶。


 皆が進むほど、砂地には細い道ができていく。


 道は一直線ではない。


 根を避け、岩を回り、時々、誰かが立ち止まった場所で少し広くなる。


 それでも、中心の白い塔へ近づいていた。


「道を作るのに、時間がかかる」


 ノエルが、後ろを振り返って言った。


 今まで通ってきた道は、風が吹くたびに少し形を変えている。


「最短ではありません」


 フィルブランテが答える。


「でも、皆で戻れる幅があります」


「効率は悪い」


「兄貴が言うなら分かりますが、ノエル様まで言わないでください」


「僕は、悪いとは言っていない」


 ノエルは少し考える。


「戻れる幅は、必要な変数です」


「それなら、最初からそう言ってください」


「今、言った」


 アマンテルスが、少し笑った。


「相変わらず、ノエルは面倒だな」


「アマンテルスに言われたくない」


「俺は分かりやすいだろ」


「勢いで全部決めようとする人が、一番分かりにくいです」


 フィルブランテが言う。


「フィルブランテ、島に来てまで」


「今はフィルブランテです」


「二人だけのときは、兄貴って呼んでいいと言っただろ」


「今、二人だけではありません」


「そういうところだぞ」


 兄弟の言い合いに、リゼットが小さく笑った。


 前なら、この口調の意味が分からなかっただろう。


 今は違う。


 唐傘透と唐傘輝。


 アマンテルスとフィルブランテ。


 二つの名前を持つ二人が、言い争いながらも同じ道を作っている。


 不思議で、まだ完全には理解できない。


 けれど、目の前にある関係は本物だと思えた。


「静かに」


 シリルが手を上げた。


 全員が止まる。


 樹林の奥から、かすかな音が聞こえていた。


 風の音ではない。


 雨が葉へ落ちる音。


 だが、黄昏島の空には雲がない。


 薄紫の空は、昼でも夜でもない色のまま、どこまでも乾いている。


「雨?」


 リゼットが空を見上げる。


 次の瞬間、彼女の掌へ冷たいものが一滴落ちた。


 透明な雫。


 けれど、水ではない。


 雫の中に、小さな景色が映っている。


 王立ルクシア学院の白薔薇庭園。


 リゼットが、初めてフィルブランテと向かい合った場所。


「これは」


 リゼットが息を呑む。


 雫は掌の上で揺れ、庭園の景色を映したまま、ふわりと空へ戻っていく。


 その周囲に、同じような雫が降り始めた。


 雫の中には、皆が失いたくない景色がある。


 シリルの雫には、幼い頃のフィルブランテが木剣を振っている。


 カイラスの雫には、まだ角が小さかったアマンテルスが、夜嶺の丘を走っている。


 レオンハルトの雫には、王宮の庭で笑う幼い弟妹たち。


 マレアの雫には、港の小舟で歌う父と母と弟。


 透と輝の雫には、元の世界の小さな部屋。


 机の上のゲーム機。


 朝の光。


 開きかけた扉。


 雫は落ちても、地面に弾けない。


 宙へ浮かび、少しずつ集まっていく。


 頭上に、白い雲が生まれた。


「戻って」


 アステリアの声が、後方の砂浜から届く。


 灯守は、島の境界に立ったまま、こちらを見ていた。


『雲へ触れてはならない。まだ、名を持たない記憶だ』


「誰が作っているのですか」


 フィルブランテが問う。


 答える代わりに、雲が一度だけ大きく膨らむ。


 雨の音が、急に近くなった。


 雲の中から、一人の少女がゆっくり降りてくる。


 落ちるのではない。


 雲が、少女をそっと地上へ下ろすように。


 淡い銀白の髪。


 毛先は朝霧のように透け、歩くたびに小さな雲の粒がこぼれる。


 灰青色の瞳。


 白い外套の内側には、細かな雲の刺繍が連なっていた。


 少女は、地面へ足をつけた。


 けれど、砂に足跡は残らない。


「ようこそ」


 少女は、丁寧に礼をした。


「光でも影でもない道を、皆さまで選んだ方々」


 声は、雨の前の空気のように静かだった。


「わたしは、アリス・クラウド・ドリアスアリド」


 彼女は胸元へ手を当てる。


「黄昏島に残された、二人目の灯守です」


「アステリア以外にも、灯守がいたのですね」


 リゼットが言う。


 アリスは、少しだけ目を細めた。


「アステリアは、失われた名前を灯として残します。わたしは、まだ選ばれていない未来を雲として預かります」


 彼女は、頭上の雲を見上げる。


 雲の中には、皆が見た雫の景色が揺れている。


「今、皆さまの帰りたい場所が、ここにあります」


 アマンテルスの肩が、わずかに強張った。


 フィルブランテも、雲の一部を見てしまう。


 元の部屋。


 開きかけた扉。


 母の声。


 もしあの扉の向こうへ行けるなら。


 手を伸ばせば、元の世界へ戻れるなら。


 アリスは、二人の視線に気づいているようだった。


「雲は、願いを否定しません」


 少女は言った。


「帰りたいと思うことも。失ったものを取り戻したいと思うことも。ここに残りたいと思うことも。どれも、間違いではありません」


「では、なぜ雲へ触れてはならないのですか」


 レオンハルトが問う。


「願いは、まだ選んだ答えではないからです」


 アリスは、灰青の瞳を細めた。


「誰かの願いを見て、『その人はこれを選ぶべきだ』と決める者が現れれば、雲は檻になります。ザハルは、その檻を作ろうとしています」


 白い雲の中で、黒い影が一筋だけ揺れた。


 教団の黒水。


 まだ遠くにいるはずなのに。


 アリスは、その影を見て少しだけ顔を曇らせる。


「時間がありません。わたしの雲鍵も、島の中枢にある水鏡も、既に探されています」


「雲鍵とは何ですか」


 ノエルが尋ねる。


 アリスは、外套の内側から透明な小瓶を取り出した。


 中には、小さな白い雲が一つ浮かんでいる。


 雲は絶えず形を変え、時々、窓や鳥や、誰かの横顔のように見えた。


「水鏡は、過去を正しく映すだけでは不十分です。過去だけを固定すれば、未来は一つに決められます」


 アリスは小瓶をそっと包む。


「だから、わたしは、まだ誰も選んでいない可能性を雲として残します。水鏡は、アステリアの灯鍵と、わたしの雲鍵が揃って初めて、二つの世界を並べて映せるのです」


「どちらかを沈めずに」


 フィルブランテが言う。


「はい」


 アリスは、少し驚いたようにフィルブランテを見る。


「あなたは、既にその言葉を知っているのですね」


「何度も、その二択を迫られましたから」


「二択を拒むことは、簡単ではありません」


「簡単ではありません」


 フィルブランテは頷く。


「でも、二択以外を探すのは、一人ではできないと分かりました」


 アリスの瞳に、わずかに雲が映る。


 寂しさのような色。


「一人では、できない」


 少女は小さく繰り返した。


「それを、わたしは忘れていました」


     ◇


 アリスは一行を、樹林の奥へ案内した。


 光でも影でもない道は、やがて空中へ続く石段になっていく。


 石段の周囲には、黒い木々が枝を伸ばしていた。


 幹には無数の名が刻まれている。


 古い王国語。


 月影文字。


 見たことのない文字。


 そして、文字ではない、音の形のような線。


「ここは、記憶の樹海です」


 アリスが言う。


「帰る場所を失った者たちの記録が、木として残っています。灯守は、名前を消さないために。雲守は、名前が一つの結末へ閉じ込められないために」


「この木に刻まれた人は、皆、亡くなったのですか」


 リゼットが尋ねる。


「いいえ」


 アリスは首を振る。


「生きて帰った者もいます。けれど、元の世界へ戻ったことで、この世界では名前を失った者も。こちらに残り、元の世界で帰りを待つ人の記憶だけになった者も」


 アマンテルスとフィルブランテは、足を止めた。


 自分たちにも、そんな未来があるのかもしれない。


 どちらかの世界では、帰った者。


 もう一方では、いなくなった者。


「怖がらせるために言ったのではありません」


 アリスが、二人を見る。


「戻ることも、残ることも。片方を裏切ることではありません。ただ、選ぶなら、誰かに決められてはならない」


 少女の声には、自分自身へ向けるような痛みがあった。


 アリスもまた、誰かに選ばれたのだろう。


 残る者。


 記録になる者。


 灯守になる者。


「アリスさんは」


 リゼットが、そっと聞いた。


「ご自分の帰る場所を、選べなかったのですか」


 アリスは、歩みを止める。


 頭上の雲が、少し低く垂れた。


「わたしは、ドリアスアリド家の娘でした」


 少女は、樹海の一角にある小さな石碑を見た。


 そこには、雲を思わせる紋章が彫られている。


「家は、海の向こうにありました。空が広く、雨が多く、雲の形で季節を読む土地です。父は天候術師。母は、水鏡の記録官でした」


 アリスの指先へ、小さな雲が集まる。


「百年以上前、水鏡が一度だけ暴走しました。異なる世界から来た人々が、帰りたいと願った。帰れない者も、帰りたいと願った。願いが重なり、鏡はどちらを映せばいいか分からなくなった」


 雲が、少女の手の上で二つに割れる。


「誰かが、選べと言いました。二つの世界のうち、一方を消せば、もう一方は安定すると」


 運命式と同じ言葉。


 片方を沈めれば。


 片方は救える。


「父と母は、選びませんでした。水鏡を割らず、願いを雲へ逃がす術を作った。わたしは、その術の器にされました」


 リゼットが息を呑む。


「器に」


「両親は、悪い人ではありませんでした」


 アリスは、すぐに言った。


「誰かを救いたかった。世界を消したくなかった。だから、まだ幼かったわたしへ、選ばれていない未来を預けた」


 少女の声は、責めているようで、責めきれない。


「わたしは雲になりました。自分の家へ帰りたいという願いも、ほかの人の帰還の願いと一緒に、雲へ預けました」


「では、アリスさんの故郷は」


 フィルブランテが問う。


「もう、どの世界にあるのか分かりません」


 アリスは答えた。


「水鏡の向こうかもしれない。この世界のどこかかもしれない。あるいは、わたしが覚えていないだけかもしれない」


 雲へ預けた願いは、誰かを傷つけないようにした。


 その代わり、アリス自身が何を願っていたのか、分からなくなった。


 フィルブランテは、自分の手帳を思い出す。


 記録が多すぎれば、誰かの顔を数字へ変えてしまう。


 責任を抱えすぎれば、自分の願いがどこにあるか分からなくなる。


「アリスさん」


 フィルブランテは言った。


「雲へ預けた願いは、取り戻せますか」


 少女は、驚いたようにこちらを見た。


「分かりません」


「分からないなら、探せます」


「わたしの願いを?」


「はい」


 フィルブランテは、少し困ったように笑う。


「僕は、書かないと不安になるのです。分からないことも、分からないと記録します。アリスさんの願いも、まだ分からないなら、空白のまま残しましょう。消さずに」


 アリスの瞳が、揺れた。


「空白のまま」


「いつか、あなたが自分で書けるようになるまで」


 少女は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、雲を閉じ込めた小瓶を胸へ抱く。


「あなたは、不思議な記録者ですね」


「よく言われます」


「誰に」


「主に、兄に」


「褒めてるぞ」


 アマンテルスが、すぐに言う。


「兄貴の褒め言葉は、時々分かりにくいです」


「お前の褒め言葉も、だいたい注意から始まる」


 アリスは、初めて小さく笑った。


 雲の上に、朝の光のような色が一瞬だけ混じる。


     ◇


 石段の先には、雲上庭園があった。


 樹海の最も高い場所。


 黒い木々の枝が絡まり合い、その上へ白い雲が薄く積もっている。


 庭園の中央には、丸い水盤があった。


 月読盤より大きい。


 けれど、水は入っていない。


 空の雲が、逆さに水盤の中へ映っている。


「ここが、雲鍵の庭です」


 アリスが言った。


「そして、セラフィナ・アソート・イデルバルディが最後に来た場所でもあります」


 フィルブランテの息が止まる。


「母が」


「十年前、彼女は黄昏島の異変を知りました」


 アリスは水盤の縁へ手を置く。


「四十八家の救護院へ流れる薬草。古代結界の支点。海路を通る黒水の種。彼女は、それぞれが一つの術式につながっていると気づいた」


 水盤の中に、青い結晶のような雲が浮かぶ。


 次に、女性の姿が映った。


 淡い金髪。


 青紫の瞳。


 フィルブランテに似ている。


 けれど、表情はもっとやわらかく、何かを決めた者の強さがあった。


 セラフィナ。


 フィルブランテが、知らないはずの母。


 けれど、魂の重なりの夢で何度も見た、フィルブランテの母。


『もし、この記録をフィルブランテが見ているなら』


 水盤の中のセラフィナが、静かに語り始める。


『あなたがどのような子に育ったか、わたしには分かりません』


 その声を聞いた瞬間、フィルブランテの胸が痛くなる。


 フィルブランテの記憶が、涙のように流れ込む。


 まだ幼い少女が、母の手を握っている。


 難しい帳簿を前に、できないと泣いている。


 セラフィナが、急がなくていいと髪を撫でる。


『完璧にならなくていいのよ。分からないことを、分からないまま誰かと考えられるなら、それでいい』


 フィルブランテの目から、涙が落ちた。


 自分が聞いているのか。


 フィルブランテが聞いているのか。


 もう、その区別は大きな意味を持たない。


 この言葉を、二人分の心が聞いている。


『黄昏島の水鏡は、世界と世界をつなぐ傷を映す装置です。教団はこれを「選別の鏡」に変えようとしている』


 水盤に、中心のない円が現れる。


『彼らが水鏡を割るために必要とするものは、軍でも、王権でも、聖花紋でもありません』


 セラフィナの表情が、厳しくなる。


『二つの世界へまたがる名を持つ者が、互いを手放すと同意する言葉です』


 空が、低く鳴った。


 アマンテルスとフィルブランテが、同時に顔を上げる。


『世界をまたぐ名は、二つの帰路を結ぶ結び目です。結び目を切るには、二人が「片方を生かすため、もう片方を手放す」と自ら言わなければならない』


 思い出す。


 黒水の井戸。


 兄を救いたければ、お前が沈め。


 元の世界へ帰りたければ、この世界を沈め。


 島の境界。


 二つの世界へ、同時には帰れない。


 すべては、この言葉を引き出すための試みだった。


「俺たちが、互いを手放すと言えば」


 アマンテルスの声が低い。


「水鏡が割れる」


「はい」


 アリスが答えた。


 セラフィナの記録は続く。


『ですが、同意を拒むだけでは、鏡を永遠に守れません。二つの帰路を一つへ固定しないためには、灯鍵と雲鍵を、誰か一人の所有物にしてはならない』


 水盤に、二つの鍵の形が現れる。


 白い灯。


 白い雲。


『灯守は過去を守る。雲守は未来を守る。けれど、二人の守り手だけでは、世界を渡る願いの重さに耐えられない。水鏡には、今を生きる者たちの、共同の記録が必要です』


「分散記録術」


 ノエルが呟いた。


「セラフィナ様は、十年前に」


「そうです」


 アリスが答える。


「彼女は、この島であなた方が後に行う術の原型を見ました。アステリアの灯、わたしの雲、海の潮記、氷晶の履歴。どれも、誰か一人へ記録を預けないための手段です」


 セラフィナの映像が、少し揺れる。


『フィルブランテ。もしあなたがここへ来たなら、あなたはきっと、誰かのために全てを記録しようとしているでしょう』


 母の声が、まっすぐ輝へ届く。


『でも、記録は一人で抱えるものではありません。渡しなさい。あなたの不安も、失敗も、空白も』


 フィルブランテは、手帳を強く握った。


 帳簿。


 証拠。


 作業表。


 航海記録。


 すべてを残さなければと思っていた。


 残さなければ、誰かが都合よく消してしまう。


 それは間違いではない。


 でも、一人で残す必要はない。


 母は、十年前から同じことを言っていたのかもしれない。


『わたしは、この記録をアリスへ預けます。彼女の雲は、まだ選ばれていない未来を失わせない。どうか、彼女を鍵として使わないで』


 アリスの肩が、小さく震えた。


 セラフィナの映像が、彼女の方を向く。


『アリス。あなたは、道具ではない。わたしが戻れなかったときも、あなたが一人で空を支える必要はない』


 少女の手から、雲の小瓶が落ちそうになる。


 リゼットが、そっとその手を支えた。


 アリスは、驚いたようにリゼットを見る。


「わたしも、よく自分を道具にしてしまいます」


 リゼットが言った。


「誰かを助けられるなら、自分が我慢すればいいと思って。でも、それでは、助けた人が一人で悲しくなることもありました」


 リゼットの声は、やさしい。


 でも、迷いのない声だった。


「アリスさんも、わたしたちの仲間です。鍵ではありません」


「仲間」


 アリスが、かすかに繰り返す。


「わたしは、島の記録で」


「記録でも」


 アマンテルスが言った。


「俺たちの前で話して、笑って、怒ってるなら、仲間だろ」


「単純ですね」


 フィルブランテが言う。


「でも、間違っていません」


 アリスの目から、雫が落ちた。


 雲の涙。


 雫は地面へ落ちず、白い花へ変わる。


 水盤の中のセラフィナは、最後に微笑んだ。


『二つの世界を守る鍵は、誰か一人が正しい答えを出すことではない。皆が、自分の帰る場所を失わないこと』


 映像が、ゆっくり消えていく。


 水盤に残ったのは、白い灯の形と、白い雲の形。


 その間に、小さな空白がある。


 誰かが埋めるべき空白ではない。


 皆で残す、今の記録を待つ場所。


     ◇


「最後の鍵は、どうすれば守れますか」


 レオンハルトが尋ねた。


 セラフィナの記録が消えた後も、水盤には中心のない円が薄く残っている。


 教団は、アマンテルスとフィルブランテに互いを手放すと言わせようとしている。


 アリスの雲鍵を奪えば、未来の可能性を閉じ込められる。


 灯鍵と雲鍵を、誰か一人の所有物にすれば、水鏡は偏る。


「雲鍵を、島の外へ移しますか」


 カイラスが問う。


「教団が来る前に、アウローラの港へ戻せば」


「いいえ」


 アリスは首を振った。


「雲鍵は水鏡の近くから離れると、ただの記憶の器になります。守るために外へ出せば、鏡を守る力そのものがなくなります」


「ここに残れば、敵が奪いに来る」


 シリルが言う。


「はい」


「なら、誰かが持つしか」


「誰か一人が持てば、また鍵になります」


 答えは、堂々巡りに見える。


 持つ者がいれば狙われる。


 持たなければ守れない。


 複数へ分ければ、弱くなる。


 分けなければ、奪われる。


 だが、フィルブランテは水盤の空白を見る。


 灯。


 雲。


 そして、共同の記録。


「雲鍵を、皆で持ちます」


 フィルブランテが言った。


 アリスが顔を上げる。


「そんなことは」


「雲そのものを、皆へ分けるのではありません。アリスさんの選んでいない未来を、皆で決めることもしません」


 フィルブランテは、言葉を選ぶ。


「ただ、雲鍵が奪われたとき、アリスさん一人の中にしかない状態をやめる。アステリアの灯。月読盤。潮記の貝。僕の氷晶。ノエル様の結晶板。皆が、それぞれ雲鍵の存在と状態を記録するのです」


「鍵を分けるのではなく、鍵が誰のものかを、皆で知る」


 ノエルが言う。


「そうすれば、誰かがアリスから奪っても、雲鍵そのものを自分のものにはできない」


「名前を、皆で呼ぶように」


 リゼットが言った。


「アリスさんの願いも、誰か一人に決めさせない」


 アリスは、小瓶を見つめた。


 今まで、この雲は自分の中にしかなかった。


 誰にも渡せないと思っていた。


 渡せば、また誰かの願いに利用されると思っていた。


「でも、記録を分ければ」


 アリスが言う。


「皆が、わたしの雲を見てしまう」


「見ることと、決めることは違います」


 フィルブランテが答える。


「ネレアさんの帳簿も、皆が写しを持ちました。でも、帳簿の中身を好きに書き換えてよいことにはなりませんでした」


 アリスの雲が、小さく揺れる。


「わたしが、嫌だと言ったら」


「やめます」


 フィルブランテは、すぐに答えた。


「あなたの同意がなければ、雲鍵には触れません」


 沈黙がある。


 アリスは、水盤の雲を見た。


 セラフィナの記録を見た。


 そして、自分の手を支えているリゼットの手を見た。


「……やってください」


 少女は、ゆっくり言った。


「わたしの雲を、わたしだけが抱えないように」


 その言葉を聞いた瞬間、頭上の雲が大きく開いた。


 白い雲の中から、いくつもの小さな光が落ちてくる。


 皆の掌へ、一つずつ。


 アマンテルスの掌には、黒い日傘の下で星を見上げる幼い頃の記憶。


 フィルブランテの掌には、母が髪を撫でる幼い頃の記憶。


 リゼットには、救護院の庭で花を植えた幼い日の記憶。


 レオンハルトには、弟妹と走った王宮の朝。


 シリルには、初めてフィルブランテを護衛した日の木剣。


 ノエルには、星読塔で初めて空を怖いと思った夜。


 カイラスには、アマンテルスが夜嶺で笑った小さな背中。


 マレアには、父と母とエルドが歌った船上の夕方。


 イオには、月読盤を初めて託された日の潮の香り。


 それぞれの大切な記憶。


 しかし、奪われたものではない。


 アリスが「見せてもよい」と選んだ、皆の帰る場所の一部だ。


「これが、雲記です」


 アリスが言う。


「記憶を誰かへ渡す術ではありません。誰かが、ここに帰りたいと思っていることを、皆で忘れないための術です」


 雲の光が、それぞれの掌から水盤へ飛ぶ。


 灯鍵と雲鍵の間にある空白へ、細い線が幾重にも重なる。


 共同の記録。


 誰か一人の所有物ではない、今を生きる者たちの証。


 水盤が、初めて水を満たした。


 透明な水面に、二つの月が並ぶ。


 白い月。


 藍の月。


 そして、二つの月の間には、雲の形をした小さな第三の光が浮かんだ。


「安定した」


 ノエルが、結晶板を見ながら言う。


「水鏡の外縁が、雲鍵の位置を記録している。アリス一人を奪っても、鍵の同意は再現できない」


「再現できないなら、敵は別の方法を探す」


 アマンテルスが言った。


「そうです」


 アリスの表情は、まだ明るくはない。


「ザハルは、二人に互いを手放す言葉を言わせようとするでしょう。雲鍵が守られても、その言葉を使われれば、水鏡は切られます」


「言いません」


 アマンテルスとフィルブランテは、同時に答えた。


「言わないように、皆で守ります」


 リゼットが続ける。


 そのときだった。


 雲上庭園の空気が、急に冷えた。


 白い雲の端から、一滴の黒い雨が落ちる。


 雨粒は、水盤へ触れる前に、氷晶のように固まった。


 中心のない円。


 教団の印。


「もう来たのですか」


 シリルが、樹海の奥を見る。


 遠くから、海鳴りが聞こえる。


 島の外縁。


 小舟〈暁の帆〉がつながれている方角。


 エルドの潮記の貝が、急に強く鳴り始めた。


『姉ちゃん! 黒い船が、海の中から出てきた!』


 マレアの顔から、血の気が引く。


『月影の羅針盤じゃない。帆が、いっぱいある。名前を呼んでる!』


 潮記の貝の向こうで、無数の声が重なる。


 帰りたい。


 帰して。


 誰かを選んで。


 黒水の航路が、教団の船を予定より早く島へ運んだ。


 あるいは、船だけではない。


 帰還を願う声を集めた、海そのものが島へ押し寄せている。


 アリスは、小瓶を強く握った。


「水鏡の中枢へ急ぎましょう」


 白い雲が、黒い雨に染まり始める。


「今度は、道を作る時間がありません」


 アマンテルスが、黒い日傘を開く。


 フィルブランテが、儀礼扇を構える。


 仲間たちは、水盤を背にして、樹海の奥へ続く白い塔を見た。


 最後の鍵は、守れた。


 だが、鍵を守る戦いは、今から始まる。

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