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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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17/45

第十七話 帰る場所は、二つある

黄昏島の外縁に見えた白い灯りは、夜が明けても消えなかった。


 海の上に立つ、細い一本の火。


 島の輪郭は、まだ霧の向こうにある。


 けれど白い灯りだけが、霧の中からこちらを見ているように浮かんでいる。


 月隠れ航路を進む〈暁なき潮騒〉と、小舟〈暁の帆〉は、並んで速度を落とした。


 黄昏島の外縁まで、あと半刻。


 教団の船〈月影の羅針盤〉がアウローラを出るまで、あと一日半。


 先に着ける。


 そのはずだった。


 しかし、見知らぬ灯りがある。


 誰かが先に岸へいる。


「海図にはない」


 イオが、月読盤の水面を確かめながら言った。


「島の外縁に灯台は記されていません。礁も、この位置には」


「あるなら、船乗りが残しているはずだ」


 マレアは、舵を握ったまま答える。


「灯台は、船を呼ぶために立つ。呼ばれた船が帰れば、海図に書かれる」


「帰った者がいないなら?」


 ノエルが問う。


 マレアは、白い灯りを見た。


「それなら、あれは灯台じゃない」


 船の上に、緊張が広がる。


 白い灯りは、波に揺れない。


 風にも消えない。


 どれだけ近づいても、大きさが変わらない。


 灯りの足元には、島影さえ見えない。


「止まりますか」


 シリルが尋ねる。


「止まれば、航路の外へ流される」


 イオが答えた。


「月隠れ航路は、一度外れると、同じ場所へ戻れない。帰潮の舵があっても、島の外縁へ向かう線は一つだけです」


「なら、近づくしかない」


 アマンテルスが言う。


「でも、全員であれに触れない」


「どう分けますか」


 フィルブランテが問う。


 アマンテルスは、白い灯りを見たまま少し考える。


「船は進める。船長とイオは舵。ノエルは航路の観測。シリルとカイラスは、船の外から何か来たときに備える」


「アマンテルス様とわたくしたちは」


「近づいたとき、あれが何かを確かめる」


「それは、全員の役割です」


 フィルブランテはすぐに言った。


「兄貴だけが近づくのではありません」


「俺だけって言ってない」


「今、顔がそう言っていました」


「フィルブランテ」


 アマンテルスが不満そうに言う。


「前から思っていたが、お前、俺の顔で決めすぎだろ」


「実績があります」


「俺にも、顔だけで決めるなと言っただろ」


「それは、兄貴が潜入を考えていたからです」


「今回も、たぶんそうだ」


 ノエルが真顔で言った。


「ノエル様まで」


 リゼットが、小さく笑う。


 張りつめた空気の中で、その笑いが少しだけ皆を戻した。


 怖くても、いつもの会話ができる。


 それは、航路の幻へ呑まれないための、小さな錨だった。


「灯りへ近づきます」


 マレアが言った。


「誰か、名を忘れそうになったら、すぐに言いな」


 〈暁なき潮騒〉が、白い灯りへ進む。


 小舟〈暁の帆〉は、右舷を少し離れて並走する。


 エルドは、古い潮記の貝を両手で握り、こちらを見ていた。


『姉ちゃん。あれ、海の底の窓と似てる』


 彼の声が貝から届く。


「どう似ている」


 マレアが問う。


『光っていて、向こう側に誰かがいる。入ると、帰れなくなる気がする』


 白い灯りが、一度だけ大きく脈打った。


 その瞬間、船の甲板へ白い波が広がる。


 水ではない。


 光でできた波。


 誰も濡れない。


 けれど、全員の足元に、淡い文字が現れた。


 古い文字。


 月読盤に浮かんだ警告と同じ系統の文字。


 **上陸者の名を、示せ。**


 イオが息を呑む。


「島の境界文です」


「答えなければ」


 レオンハルトが問う。


「航路が、船を受け入れない」


 マレアが答えた。


「海の上にいる間に、名を問うのは普通じゃない。でも、黄昏島は普通の場所じゃない」


「名前を言えばいいのか」


 アマンテルスが言う。


「簡単なら、何も起きません」


 フィルブランテは、足元の文字を見る。


 示せ。


 名を。


 フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。


 唐傘輝。


 どちらを言えばよいのか。


 その迷いを、足元の白い光が知っているようだった。


 甲板の中央に、新しい文字が浮かぶ。


 **一つを選べ。**


 アマンテルスの影が、揺れた。


 リゼットの花弁が、一枚、しおれる。


 レオンハルトの光が、わずかに弱くなる。


 島は、名前を問うだけではない。


 名前と、役目と、帰る場所を一つへ絞らせようとしている。


 運命式が、いつもしてきたことだ。


 聖女。


 英雄。


 悪役。


 怪物。


 記録者。


 誰か一つの名前だけを、その人の全てにする。


「答えないで」


 リゼットが言った。


「でも、船が止まる」


 カイラスが、白い波を見る。


「止まるだけなら、まだいい。航路が崩れれば」


 銀の海が、船の周囲でゆっくり渦を巻き始めた。


 遠くにあった白い灯りが、急に近づく。


 距離の感覚が、なくなっていく。


「答えないなら、引き返すべきですか」


 シリルが問う。


「引き返せない」


 イオが言う。


「進むか、ここで名を失うか」


 アマンテルスが、黒い杖を握る。


「だったら、俺が答える」


「兄貴」


「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル」


 アマンテルスは、白い光へ言った。


 甲板が震える。


 白い文字が、アマンテルスの足元から首元へ這い上がる。


 黒い影が、一瞬だけ薄くなった。


「待ってください!」


 フィルブランテが叫ぶ。


 しかし白い光は、アマンテルスの言葉をさらに求める。


 **それだけか。**


 アマンテルスの顔が歪む。


 アマンテルスだけではない。


 自分は、唐傘透でもある。


 兄である。


 前の世界で、ゲームをしていた者でもある。


 どれかを捨てなければ、島は受け入れない。


「違います」


 フィルブランテは、白い文字の前へ歩いた。


 足元が、光の波へ沈みそうになる。


 それでも、止まらない。


「兄は、アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルです」


 青い氷晶が、白い波の上へ広がる。


「そして、唐傘透です。どちらか一つではありません」


 白い光が、フィルブランテへ向く。


 **汝の名を示せ。**


 今度は、自分の番だ。


 フィルブランテ。


 唐傘輝。


 どちらが本当か。


 どちらが、この世界へ落ちたときに残した名前か。


 どちらが、兄に呼ばれたい名前か。


 フィルブランテは、喉が震えるのを感じた。


「僕は」


 言葉が詰まる。


 フィルブランテとして、父と母の記録を受け取った。


 リゼットへ謝った。


 港でネレアと帳簿を守った。


 この手は、フィルブランテの手だ。


 この世界で選んだことは、本物だ。


 同時に、ゲームを攻略していた弟も自分だ。


 兄と競争し、眠って、目を覚ました。


 あの世界の家族を、忘れていない。


「僕は、フィルブランテ・アソート・イデルバルディです」


 フィルブランテは言った。


 白い光が、足元へ集まる。


「唐傘輝でもあります」


 氷晶が、さらに強く光る。


「どちらも、僕が生きた名前です」


 甲板の上の文字が、一瞬、消える。


 しかし次に浮かんだ文字は、さらに冷たかった。


 **二つの世界へ、同時には帰れない。**


 船の誰も、すぐに声を出せない。


 二つの世界。


 元の世界と、今いる世界。


 島は、兄弟が避けてきた問いを、言葉にした。


 戻るなら、この世界を去る。


 ここに残るなら、元の世界の家族を諦める。


 そういう二択を、白い光は突きつける。


「その問いがおかしい」


 最初に答えたのは、リゼットだった。


 彼女は甲板の中央へ進む。


 白い花弁が、足元の文字の上へ咲いた。


「帰る場所は、一つしか持てないのですか」


 **持てない。**


「どうして」


 **世界は、互いの外側にある。**


「外側にあるから、どちらかを失わなければならない理由にはなりません」


 リゼットの声は、静かだった。


 けれど、白い光をまっすぐ見ている。


「わたしは、この世界しか知りません。だから、フィルブランテ様とアマンテルス様が元の世界を恋しく思うことを、全部は分かりません」


 彼女は、アマンテルスとフィルブランテを見る。


「でも、分からないことを、無いことにはしません。二人が帰りたい場所を持っていることと、わたしたちとここで生きていることは、同時に本当です」


 白い光が、花弁を消そうとする。


 しかし、リゼットは手を引かない。


「わたしは、リゼット・セレニアです。聖女でも、誰かのために消える役でもありません。仲間として、二人が二つの帰る場所を探すことを、手伝います」


 白い花弁が、光の波を分ける。


 次に、レオンハルトが前へ出た。


「私は、レオンハルト・セレディア」


 彼は、王太子としてではなく、一人の青年として名を告げた。


「王国の王太子であることを、捨てるつもりはない。だが、その地位だけが私の全てでもない。フィルブランテが帰りたい世界を持つなら、王太子として命じて留めることはしない」


 白い文字が、彼の足元へ伸びる。


 **帰還すれば、王国は失う。**


「失うかもしれない」


 レオンハルトは訂正した。


「だが、失うかもしれないから、彼女の選択を先に奪うことはしない。私は、答えが出るまで一緒に考えると決めた」


 光が、王太子の足元から退く。


「俺もだ」


 シリルが、短く言った。


「シリル・グラウス。守ると決めた者を、役目に閉じ込めない」


「カイラス・ノクサル」


 淡紫の雷が、白い波を切る。


「魔侯領の和平派として、アマンテルスが魔侯家へ残ることを望む。だが、望むことと、彼女の帰る場所を決めることは違う」


「ノエル・アストラ」


 無属性の結晶が、古い文字を分解し始める。


「二つの世界が同時に存在するなら、解は一つではない。未知だから切り捨てるのは、観測ではない」


「マレア・ヴェール」


 船長が、舵から手を離さずに言った。


「海は、出た者を皆同じ岸へ返さない。だからといって、戻る岸を一つだけにしろとは言わない。帰る場所を増やすために、船はある」


「イオ・セルリアン」


 潮路補佐は、月読盤を抱えて続けた。


「潮は一つの海から、いくつもの岸へ届く。帰る道も、きっと一つではない」


 皆の声が、白い光へ重なる。


 世界を渡ることを、今すぐ理解できる者はいない。


 それでも、理解できないものを、無いものとして扱わない。


 誰かの帰る場所を、最初から一つに決めない。


 その言葉が、船の上の白い文字を少しずつ削っていく。


 最後に残ったのは、一行だけだった。


 **では、汝らは何を選ぶ。**


 フィルブランテは、アマンテルスを見る。


 アマンテルスは、弟を見る。


 前の世界へ戻りたい。


 この世界で生きたい。


 どちらかを消さなければ進めない、と光は言う。


 でも、今まで何度も、二択の外に道を作ってきた。


「僕たちは」


 フィルブランテが言った。


「二つの世界を、同じように大事にします」


「今すぐ、どちらかを選ばない」


 アマンテルスが続ける。


「どちらかを救うために、もう一方を沈めるやり方は、選ばない」


 白い灯りが、さらに強く光った。


 船が大きく揺れる。


 まるで、島そのものが怒っているように。


 **選べ。**


「選ばない」


 アマンテルスは、はっきり言った。


「今、選べないなら、選べるまで生きる」


「僕もです」


 フィルブランテは、扇を胸へ抱く。


「帰る場所を二つ持ったまま、両方を失わない方法を探します」


 その言葉と同時に、白い灯りが砕けた。


 爆発ではない。


 無数の小さな光の粒になり、船の周囲へ降る。


 光の粒が海面へ触れるたび、黒い霧が消えていく。


 そして、霧の向こうから島の輪郭が現れた。


 岩の岸。


 黒い樹林。


 中央にそびえる、崩れた白い塔。


 先ほどまで海の上にあった白い灯りは、その塔の頂に戻っている。


「灯台」


 マレアが呟く。


「島の中に、あった」


 白い塔の前に、一人の人影が立っていた。


 長い白銀の髪。


 古びた灯守の外套。


 年齢も性別も、すぐには分からない。


 その人物の足元には、黒い海水ではなく、透明な水が浅く広がっていた。


『上陸資格を、確認した』


 声は、空からではない。


 潮記の貝。


 月読盤。


 帰潮の舵。


 船にある全ての記録媒体から、同時に聞こえる。


「誰だ」


 アマンテルスが問う。


 白銀の人影が、ゆっくり頭を下げた。


『私は、島の灯守。名は、アステリア』


「人ですか」


 リゼットが尋ねる。


 灯守は少しだけ考えるように、首を傾げた。


『かつては。今は、黄昏島が失わないために残した記録です』


 失わないために残した記録。


 セラフィナの帳簿。


 ネレアの写し。


 分散記録術。


 自分たちが守ろうとしてきたものと、似た言葉。


 だが、アステリアの声には、あまりにも長い孤独がある。


「あなたが、海の底の窓を作ったのですか」


 フィルブランテは尋ねた。


 灯守の瞳が、初めてこちらを向く。


 瞳の中には、白い月と藍の月が浮かんでいた。


『窓を作ったのは、私ではない。島が、世界と世界の間にできた傷を、閉じずに記録した』


「傷」


 アマンテルスが繰り返す。


『百年前の戦争より前。この島には、光と闇の巫女がいた。二人は、異なる世界から流れ着いた者たちを、帰す方法を探した』


 島の岸へ、白い光の道が伸びる。


 上陸を許す道。


 しかし灯守の話は続く。


『世界を渡る窓は、本来、誰かを奪うためのものではない。行き場を失った魂と、帰り道を失った記憶を、互いに残すための水面だった』


 アマンテルスとフィルブランテの胸元の潮記の貝が、同時に淡く光る。


『だが、窓は願いを映す。帰りたい者が、帰りたいと強く願うほど、窓は近い世界の形を映し出す。そこへ、誰かが「片方を沈めれば、もう片方へ帰れる」と術式を刻んだ』


「運命式」


 ノエルが言う。


『その名を、今の時代ではそう呼ぶのか』


 灯守は答えた。


「教団が、島の術式を利用している」


 レオンハルトが言った。


『利用しているだけではない。島の灯を、二つの世界を切り分ける刃へ変えようとしている』


 白い塔の灯りが、一度だけ弱くなる。


『異なる世界から来た名を持つ者は、切り分けの要となる。二人の少年。唐傘透。唐傘輝』


 仲間たちの視線が、アマンテルスとフィルブランテへ集まった。


 隠していた名前。


 前の世界の名前。


 いつか話さなければならないと思っていた。


 でも、こんなふうに、島の記録から呼ばれるとは思わなかった。


「……そうです」


 アマンテルスが先に答えた。


 アマンテルスの姿で、黒い杖を持ったまま。


「俺は唐傘透。こいつは唐傘輝」


 フィルブランテは、息を吸う。


「僕たちは、別の世界で兄弟でした。乙女ゲームを遊んで、同時にクリアして。寝て、目を覚ましたら、この世界のフィルブランテとアマンテルスになっていました」


 言い終えると、甲板の上に静けさが落ちる。


 説明としては、あまりにも荒唐無稽だ。


 ゲーム。


 転生。


 別の世界。


 誰がすぐに信じられるだろう。


「なるほど」


 最初に答えたのは、ノエルだった。


 彼は結晶板を見ている。


「だから、二人は未来の事件を知っていた」


「そこを、なるほどで終わらせるのですか」


 フィルブランテが思わず言う。


「追加で確認したいことは多い。でも、今は島へ上陸する方が先」


 ノエルは、いつもの調子で答えた。


 アマンテルスが少し笑う。


「お前、そういうとこ助かる」


「僕も、全部は分かりません」


 リゼットが言った。


 彼女は、二人の前へ歩いた。


「でも、二人がここでフィルブランテ様とアマンテルス様として生きて、わたしたちを助けてくれたことは知っています」


 リゼットの声は、少しだけ震えていた。


 驚いている。


 戸惑っている。


 それでも、目を逸らさない。


「今すぐ、何もかも以前と同じには思えないかもしれません。でも、わたしは二人と一緒に、答えを探したいです」


「私もだ」


 レオンハルトが言う。


「フィルブランテが別の世界の名を持っていたとしても、今までの選択が変わるわけではない」


 カイラスが、アマンテルスを見る。


「アマンテルスが、俺の知る幼なじみだけではなかったとしても。お前が七氏族会議で何を選んだかは、俺が見た」


「……怒らないのか」


 アマンテルスが聞く。


「怒る理由はあるのか」


「隠してた」


「隠すしかなかったのだろう」


 カイラスは、少しだけ眉を寄せた。


「ただし、今後は一人で抱え込むな」


「それ、俺が言われるのか」


「一番言われるべきだ」


 シリルが短く言った。


 アマンテルスは、反論しようとしてやめた。


 全員の表情を見て、少しだけ困ったように笑う。


 助かった。


 そういう顔だった。


「上陸を許可する」


 アステリアの声が、再び響く。


『ただし、島の内側へ進めるのは、名を一つにしない者だけだ』


 白い光の道が、島の岸から船まで伸びる。


「エルドは」


 マレアが問う。


 小舟の少年は、潮記の貝を握ったまま、島を見ていた。


『帰還者は、境界を越えられない』


 灯守が答える。


『彼の中には、多くの帰路を失った記憶がある。島へ上がれば、記憶の海が彼を通って開く』


「じゃあ、また小舟に一人で」


 マレアの声が固くなる。


『一人ではない』


 アステリアは、透明な水の上へ手をかざした。


 島の岸から、小さな浮桟橋が伸びる。


 小舟〈暁の帆〉が、島の外縁へゆっくり曳かれていく。


『外縁の水は、帰還者を守る。潮記の貝は、声をつなぐ。彼は島へ上がれないが、置いていかれるわけではない』


 エルドは、少し不安そうに姉を見る。


 マレアは、潮記の貝を耳へ当てた。


『エルド。聞こえるか』


『聞こえる』


『私は島へ行く。でも、必ず戻る』


 少年は、少し黙った。


『前も、そう言った?』


 マレアの目が揺れる。


 十八年前。


 父も母も、きっと同じようなことを言ったのかもしれない。


 帰る。


 すぐに戻る。


 置いていかない。


 でも、帰れなかった。


「前は、言ったかもしれない」


 マレアは、正直に言った。


『でも、今度は一人で行かない。船にも、島にも、皆がいる。帰る方法も、皆で探す』


『うん』


 エルドの声は、小さい。


 けれど、先ほどより落ち着いていた。


『待ってる』


「待たせる」


 マレアは言った。


『でも、置いていかない』


 小舟は外縁の浮桟橋へつながれた。


 透明な水が、船を包む。


 黒水は近づけない。


 エルドの名を、海が奪えないように。


     ◇


 〈暁なき潮騒〉は、白い光の道に沿って島の小さな入り江へ入った。


 錨を下ろすと、黒い砂浜が近い。


 黄昏島の空には、太陽も月もはっきり見えない。


 昼でも夜でもない、薄紫の光が島全体を包んでいる。


 岸の奥には、黒い樹林。


 樹木の幹には、誰かの名前のような細い線が無数に刻まれていた。


 島は、失われた名を木に残しているのかもしれない。


 アステリアは砂浜の上で、彼らを待っていた。


 近くで見ると、白銀の髪の間に、細かな結晶片が混じっている。


 人の形を取っているが、足跡は残らない。


「教団は、いつ来ますか」


 レオンハルトが問う。


『月影の羅針盤は、月のない夜に海へ出る。だが、島への到達は定められていない』


「どういう意味ですか」


『黒水の航路は、急ぐ者を早く運ぶ。だが、急ぐ者ほど、何を急いでいたかを忘れる。船が五日後に着くのか、五十年後に着くのか。海が、彼らの名をどれだけ欲しがるかで変わる』


「教団は、黄昏島へ到着することさえ確実ではない?」


 ノエルが言う。


『島へ着くことだけが、目的ではない。彼らは航路そのものへ、帰りたい者の名を集めている』


 アマンテルスとフィルブランテの表情が、硬くなる。


 元の世界へ帰りたい。


 この世界で失いたくない。


 その願いを、黒水は航路の燃料にする。


「ザハルは、何をしようとしている」


 アマンテルスが問う。


 アステリアは、崩れた白い塔を見上げた。


『島の中心には、二つの世界を映す水鏡がある。かつて巫女たちは、そこへ帰還を願う者の記録を映した』


 灯守の声が、少しだけ低くなる。


『ザハルは、水鏡を割りたいのだろう。一方の世界を救い、一方の世界を沈めるために』


「そんなことをすれば」


 リゼットが言う。


『願いを持つ者の名は、帰路ではなく代価になる』


 黒い樹林の奥で、何かが鳴いた。


 鳥でも獣でもない。


 失われた名前が、風に触れたような音。


「それを止めるには」


 フィルブランテが問う。


『島の中心へ行く必要がある』


「道は」


『二つある』


 アステリアは、白い塔の左右に伸びる細い道を示した。


 一つは、光の花が咲く明るい道。


 もう一つは、黒い樹林へ沈む影の道。


 どちらも、中心の塔へ続いているように見える。


『光の道は、帰りたい者の記憶を呼ぶ。影の道は、ここに残りたい者の恐れを呼ぶ』


「また二択ですか」


 フィルブランテが言った。


『二つの道は、別々に進めば、別々の答えへ着く』


 灯守は、二つの道の間にある、何もない砂地を見た。


『だが、道は二つだけではない』


 フィルブランテも、同じ砂地を見る。


 何もないように見える。


 でも、海から続く白い光の粒が、そこへ落ちている。


 光と影の間。


 誰も踏んでいない場所。


「真ん中に、道があります」


 リゼットが言った。


 アステリアは、初めて少し笑ったように見えた。


『上陸者は、最初の問いを越えた。進みなさい』


 アマンテルスが、黒い日傘を開く。


 フィルブランテが、儀礼扇を握る。


 兄弟は、光の道でも影の道でもない、まだ形になっていない砂地へ一歩を踏み出した。


 後ろから、仲間たちが続く。


 その足元に、青い氷晶と白い花弁、黒い影と淡紫の雷が、少しずつ新しい道を作っていく。


 黄昏島の中心。


 二つの世界を映す水鏡。


 そして、誰を帰すか選ばせようとする者が待つ場所へ。


 海の向こうでは、まだ見えない黒い船が、月のない夜を待っていた。

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