↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/46

第十六話 帰ってきた者を、置いていかない

月読盤の水面に浮かんだ黒い線は、ゆっくり、けれど確実に近づいていた。


 銀の月隠れ航路を進む〈暁なき潮騒〉の正面。


 黄昏島とは反対の方角。


 深い霧の海から、何かが戻ってくる。


 月読盤の底には、古い文字が残っている。


 **帰還者を、船へ乗せるな。**


 甲板の上には、波の音しかなかった。


 普段なら、最初に口を開くアマンテルスも黙っている。


 黒い杖を握る手が、少しだけ強い。


「意味を確認します」


 フィルブランテが、ゆっくり言った。


 怖くないわけではない。


 帰還者という言葉が、兄弟にとってあまりにも重い。


 元の世界へ帰る。


 この世界から戻る。


 それを願ったことがないと言えば、嘘になる。


 だからこそ、願いを使った罠かもしれない言葉を、急いで信じない。


「イオさん。この文字は、誰が書いたものですか」


 潮路補佐の青年は、月読盤へ近づいた。


 水面に指を触れる寸前で、マレアが手首を掴む。


「無理をするな」


「触らなければ、読めません」


「昨日、黒水に捕まっていた」


「だからです」


 イオは、船長を見た。


「俺が読まなければ、また誰かが一人で読もうとする」


 マレアの手が、少しだけ強くなる。


 それでも、イオは振りほどかない。


「船長。許可をください」


 その言い方に、マレアは一瞬、目を閉じた。


 十八年前の海。


 弟を失った夜。


 守れなかった者が、次に誰かを守ろうとして、抱え込みすぎる。


 その顔を、アマンテルスやフィルブランテは何度も見てきた。


「……十分だけだ」


 マレアは手を離す。


「少しでも黒水の反応が出たら、すぐにやめる」


「はい」


 イオの指が、水面へ触れる。


 月読盤の水が、淡い青に光った。


 古い文字が、少しずつ今の言葉へ変わる。


 帰還者。


 船。


 乗せるな。


 そして、その下に新しい一文が浮かんだ。


 **名を失った者は、ほかの名を帰路にする。**


「どういう意味ですか」


 リゼットが尋ねる。


 イオは、顔を青くしながら答えた。


「月隠れ航路で、帰る方角を忘れた者は、海へ残る。身体だけではない。名前、記憶、帰りたい場所も」


「航路を逆に進んでいる船は、そういう者を乗せている?」


 ノエルが問う。


「分かりません。でも、帰潮の舵を持たない船が、逆から戻れるはずはない」


「それなら、帰還者は……人ではないのかもしれない」


 カイラスが言った。


 甲板の空気が、さらに冷える。


「人ではない、と決めるのは早いです」


 フィルブランテは言った。


「月隠れ航路の仕組みを、僕たちはまだ全部知りません。戻る方向を忘れた人が、何らかの方法で戻ることもあるかもしれない」


「船へ乗せた瞬間、何かが起こる可能性もある」


 レオンハルトが続ける。


「救助はする。ただし、警告を無視して同じ船へ乗せることはしない」


「二つを、どう両立させる」


 シリルが問う。


 フィルブランテは、海図へ視線を落とす。


 救う。


 船へ乗せない。


 どちらかだけを選ぶ必要はない。


「救難索をつなぎます」


 フィルブランテは言った。


「相手の船へ近づき、まず状態を確認する。人がいるなら、こちらの船へ渡らず、相手の船を曳航する。治療は影や花弁、水路を使って行う。記録は両方の船で分ける」


「船を並べて進むのか」


 マレアが問う。


「月隠れ航路で、二隻を」


「難しい」


 船長はすぐに答えた。


「片方が記憶を失えば、もう片方を巻き込む。救難索が帰路の糸ではなく、沈む鎖になるかもしれない」


「では、索を結ぶ前に、二隻の間に記録の境界を作りましょう」


 ノエルが言った。


「潮記の貝を使う。こちらの九名と船員、向こうの船の乗員を、別々の記録群として固定する。混ざらないように」


「できるのですか」


 リゼットが尋ねる。


「やったことはない」


「安心できません」


「でも、理屈は合っている」


「理屈と海は別物だよ」


 マレアが言う。


 ノエルは、少し考えた。


「そうですね」


 あっさり認める。


「だから、船長の潮読みとイオの航路記憶も必要です」


 マレアは、ノエルを見る。


 少年は、自分の案を押し通そうとしていない。


 足りないものを、正しく言っている。


「……やるなら、私が索を扱う」


 船長は言った。


「片方でも舵を間違えたら、すぐに切る」


「切る前に、皆で判断を」


 アマンテルスが言う。


 マレアは、少し眉を寄せた。


「海では、一息遅れれば船が沈む」


「分かってる」


 アマンテルスは、黒い海の向こうを見たまま答える。


「でも、切るのが最初の答えじゃない。切る前に、何を切るか皆で言え」


「お前は、そう言える立場か」


 マレアの言葉は鋭い。


 アマンテルスは、少しだけ笑った。


「言えない。俺はたぶん、一番先に勝手に飛び込む」


「兄貴」


「だから、言ってる」


 アマンテルスは、フィルブランテを見る。


「俺が飛び込みそうなら、止めろ」


「止めます」


「海の中でも」


「止めます」


 フィルブランテの返事には、迷いがなかった。


 その返事を聞いて、マレアは小さく息を吐く。


「よし」


 船長は舵へ向かった。


「帰還者を、船へ乗せない。だが、海へも置いていかない。救難索を用意しな」


     ◇


 黒い線が近づくにつれて、海の霧が薄くなった。


 そして、ようやく船影が見えた。


 小さな木造船。


 帆は半ば裂け、船体には海藻と白い塩の跡がこびりついている。


 けれど、沈んでいない。


 船首には、かすれた文字が残っていた。


 **暁の帆。**


 マレアの呼吸が止まる。


 フィルブランテは、その横顔を見た。


 船長が灯台で語った、十八年前の船。


 王国の矢と魔侯領の火に挟まれ、沈んだ船。


 父ユリウス。


 母サディア。


 弟エルド。


 海図の上で、黒い線を引かれていた名前。


「あり得ない」


 マレアの声が、ほとんど聞こえない。


「〈暁の帆〉は、沈んだ」


「船は、いつ沈んだのですか」


 ノエルが問う。


「十八年前」


「船の状態は」


「沈んだ」


 マレアは、同じ言葉を繰り返す。


 自分へ言い聞かせるように。


「父が倒れた。母が海へ落ちた。船体に穴が開いた。弟は」


 声が途切れる。


 船の甲板に、小さな人影が見えた。


 濡れた茶色の髪。


 古びた上着。


 船の舷側へしがみついている、十歳ほどの少年。


 彼がこちらへ顔を上げる。


 琥珀色の右目。


 薄灰色の左目。


 マレアと同じ、ヴェール家の目だった。


「姉ちゃん」


 少年が言った。


 その声は、風に消えそうなほど小さい。


 それでも、マレアへ届いた。


「姉ちゃん。遅かったな」


 マレアが、船首へ走る。


「待ってください!」


 フィルブランテが止める。


 船長は止まらない。


 帰潮の舵の近くまで行き、海へ飛び込もうとする。


 アマンテルスの影が、足元をそっと止めた。


「離せ!」


 マレアの声が、初めて荒くなる。


「弟だ!」


「分かってる」


 アマンテルスは答える。


「でも、俺たちだって、帰りたいものを見せられた」


 マレアは振り返る。


 その目には、怒りと、どうしようもない願いが混じっていた。


「お前たちに、分かるものか」


「分からない」


 アマンテルスは、すぐに言った。


「俺の弟が、十八年前に沈んだことはない。でも、目の前にいたら、俺も飛び込む」


 だから、と続ける。


「飛び込む前に、皆で助ける方法を探そう」


 マレアは、何も言えない。


 小舟の少年が、もう一度叫ぶ。


「姉ちゃん! 水が、入ってくる!」


 船体の横に、黒い水が滲み始めていた。


 小舟を、海がゆっくり飲み込もうとしている。


「救難索を!」


 マレアが叫ぶ。


 今度は、飛び込まない。


 けれど声は震えていた。


「右舷へ寄せる。距離、十尋を保て。アマンテルス、影で船底を支えられるか」


「やる」


「一人で支えるな」


 フィルブランテが言う。


「兄貴の影へ、僕の氷晶を重ねます。黒水の履歴を固定して、船体へ入らないように」


「わたしが、少年と水を分けます」


 リゼットが言った。


「でも、船へは乗せない」


「乗せない」


 マレアは、深く息を吸う。


「エルド。聞こえるか!」


 小舟の少年が、こちらを見る。


「姉ちゃん」


「今から索を投げる。船を離れるな。こちらへ飛び移ろうとするな」


「でも、怖い」


「私も怖い」


 マレアは、正直に言った。


「でも、今は互いの船にいよう。必ず、置いていかない」


 少年は、少し迷ってから頷いた。


 シリルが風を操る。


 太い救難索が、黒い海の上をまっすぐ飛んだ。


 少年の手元へ落ちる。


 エルドは何度か滑らせながらも、船首の輪へ索を通した。


 マレアが、こちら側の索を結ぶ。


 同時に、ノエルが潮記の貝を九つ、甲板へ並べた。


「境界を作る」


 彼は言う。


「こちらの名は、こちらへ。向こうの名は、向こうへ。記録が混ざらないように」


「何をすれば」


 レオンハルトが問う。


「順番に、自分の名と今いる場所を言う」


 月隠れ航路で、名前を忘れないためにしたこと。


 だが今度は、二つの船が互いの帰路を奪わないために。


「レオンハルト・セレディア。旗なき救難船〈暁なき潮騒〉の甲板にいる」


「カイラス・ノクサル。同じ船にいる」


「リゼット・セレニア。救難のため、ここにいる」


「シリル・グラウス。右舷の索を守る」


「ノエル・アストラ。記録の境界を組む」


「イオ・セルリアン。月読盤の潮を読む」


「マレア・ヴェール。暁なき潮騒の船長」


 マレアの声が、少し震える。


 けれど、少年へ向けて続けた。


「そして、〈暁の帆〉を曳航する」


「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。黒水を船へ入れない」


「フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。記録を、どちらの船にも残す」


 フィルブランテが、扇を開く。


 二つの船の間に、青い氷晶の線が浮かんだ。


 索を通して情報は届く。


 けれど、名と記憶は混ざらない。


「向こうの船でも、名を呼んでください」


 リゼットが言う。


 エルドは、船首の索を掴んだまま、こちらを見た。


「エルド・ヴェール。〈暁の帆〉にいる」


 その言葉を聞いた瞬間、小舟の周囲に黒い波が立った。


 海が、少年の名を引きずり込もうとする。


 アマンテルスの影が伸びる。


 だが、影は船へ触れない。


 海面だけを包み、黒い波を止める。


 リゼットの花弁が、船の周りに白く咲く。


 フィルブランテの氷晶が、少年の声を二つの船へ同時に記録する。


 エルドの小舟は大きく揺れたが、沈まなかった。


「つながった」


 ノエルが言う。


「索は物理的なもの。記録の境界は保てている」


「では、曳航しますか」


 シリルが問う。


 マレアは、すぐには答えない。


 小舟の上には、十八年前の弟がいる。


 今すぐ自分の船へ引き上げたいはずだ。


 温かい毛布をかけ、食事を渡し、二度と見失わないよう抱きしめたいはずだ。


 それでも、船長は舵から離れない。


「先に、確かめる」


 マレアは言った。


「エルド。お前が知っていることを、一つずつ聞く。答えられないことがあっても、責めない。だが、海が作った偽物かどうか、確かめる必要がある」


 少年の顔が、不安に歪む。


「姉ちゃん、俺だよ」


「知っている」


 マレアの声は、今度は柔らかかった。


「だから、確かめたい」


「何を」


「父が、嵐の日に歌っていた歌を」


 エルドは、しばらく黙った。


 海の上で、風が止まる。


「『朝の帆は、東へ』」


 少年が、小さく歌い始める。


「『夜の帆は、西へ。帰る灯は、名を呼ぶ岸に』」


 マレアの瞳から、涙が落ちた。


 歌は、正しかった。


 けれど、正しい記憶があるからといって、全てが安全とは限らない。


「母が、最後に言ったことは」


 少年の歌が止まる。


 小舟の周りの黒水が、少し揺れた。


「……覚えてない」


 エルドは、頭を抱える。


「思い出そうとすると、海が、声を大きくする」


「どんな声」


 アマンテルスが問う。


 少年が、こちらを見る。


 琥珀色と薄灰色の目。


 その奥に、黒い海が映っている。


「知らない女の人」


 エルドは言った。


「でも、ずっと誰かを呼んでる」


 アマンテルスとフィルブランテの身体が、同時に固まった。


「何て」


 アマンテルスの声が、少し掠れる。


「トオル。ヒカル。朝よ。起きなさいって」


 甲板から、音が消えた。


 フィルブランテの胸が、痛いほど強く脈打つ。


 あの幻の中で聞いた声。


 元の世界の母の声。


 それが、十八年前に沈んだ小舟の少年から出てくる。


 あり得ない。


 あり得ないはずだ。


「どうして、その名前を」


 フィルブランテは、一歩前へ出る。


 黒い海が、彼の足元へ寄る。


 アマンテルスの影が、すぐに支える。


「分からない」


 エルドは、泣きそうな顔で言った。


「海の底に、窓がある。窓の向こうに、知らない部屋が見える。そこにいる女の人が、ずっと言ってる。二人を起こさないとって」


 母は、今も自分たちを呼んでいるのか。


 自分たちは、眠ったままなのか。


 それとも、海が二人の記憶から声を盗んで、エルドへ見せているだけなのか。


「フィルブランテ」


 アマンテルスが、弟の名を呼ぶ。


 今の名前ではない。


 フィルブランテではなく。


 唐傘輝でもなく。


 ただ、弟を呼ぶ声。


「近づくな」


「でも」


「今は、近づくな」


 アマンテルスも、声を震わせている。


 自分だって聞きたいはずだ。


 今すぐ小舟へ飛び移り、海の底の窓を見せろと叫びたいはずだ。


 それでも、止める。


「俺たちが見た幻と、同じかもしれない」


 アマンテルスは言った。


「帰りたい気持ちを、海が使ってるかもしれない」


「それでも、母さんの声だったら」


「だったら、余計に一人で行くな」


 アマンテルスの言葉が、フィルブランテの胸へ刺さる。


 一人で行かない。


 一人で決めない。


 それは、何度も確認した約束だ。


 元の世界のことになると、簡単に忘れそうになる。


 フィルブランテは、強く目を閉じた。


 再び開いたとき、エルドを見る。


「エルドさん」


「うん」


「海の底の窓は、いつから見えましたか」


「分からない。母さんの声を探していたら、見えた」


「お母様の声を」


「姉ちゃんの声も、聞こえた。皆の声が聞こえた。でも、届かない」


 エルドは小舟の床を見下ろす。


「海が、帰りたい声を集めてる。帰りたい人の声が多いほど、道が太くなる」


 ノエルの結晶板が、青く明滅した。


「帰還者は、単独の人間ではない」


 彼は言う。


「この航路で帰路を失った人の記憶が、エルドへ集まっている。だから、彼は元の声を聞く」


「なら、エルドは偽物なの」


 リゼットが問う。


 ノエルは、すぐに答えられない。


「違う」


 マレアが言った。


 船長の声は、強かった。


「エルドは、私の弟だ。記憶が混ざっていても、海に十八年捕まっていても。本人が、ここにいる」


 小舟の少年が顔を上げる。


「姉ちゃん」


「ただし、海が弟を使っていることも、否定しない」


 マレアは、涙を袖で拭った。


「だから救う。海へ置いていかない。でも、海の望むままに船へ乗せない」


 アマンテルスとフィルブランテが、互いを見る。


 救う。


 置いていかない。


 願いを否定しない。


 でも、願いだけで選ばない。


 それは、先ほど二人が月隠れ航路で選んだことと同じだった。


「エルドさん」


 フィルブランテが言う。


「僕たちは、あなたの船を曳航して進みます。黄昏島の外縁まで。そこで、海の底の窓と、あなたが帰れなかった理由を調べます」


「船へ乗せてくれないの」


 少年の声が、小さくなる。


「今は、乗せられません」


 正直に言う。


「あなたを疑っているからだけではありません。僕たちは、あなたの中に混じった声も守りたい。無理にこちらの船へ移れば、あなたの名前も、ほかの人の記憶も、誰かのものになってしまうかもしれない」


「俺、また一人なの」


「違います」


 フィルブランテは、胸元の潮記の貝を外した。


 同じものを、アマンテルスも。


 リゼットも。


 レオンハルトも。


 皆が、一つずつ自分の貝を手に取る。


「船は別です。でも、声は届きます」


 フィルブランテは貝を掲げる。


「あなたが怖くなったら、呼んでください。僕たちも、呼びます」


 エルドは、しばらく黙っていた。


 それから、かすかに頷いた。


「俺の分は」


 マレアが、船長室から小さな貝殻を持ってくる。


 ほかの潮記の貝より古い。


 銀の螺旋は薄いが、月の形が刻まれている。


「これは、父が作ったものだ」


 船長は、救難索に小さな網袋を結ぶ。


 貝殻をその中へ入れ、索を伝わせて小舟へ送った。


 エルドは、震える手で貝を受け取った。


 耳へ近づける。


 海の音がする。


 そして、その中に、マレアの声が届く。


『エルド・ヴェール。私はここにいる』


 少年の目から、涙が落ちる。


『姉ちゃん』


『置いていかない』


 その言葉を聞いたとき、黒い海が大きく揺れた。


 月隠れ航路の銀線が、二隻の周囲で乱れる。


 海の底から、無数の囁きが聞こえた。


 帰りたい。


 帰れない。


 名を呼んで。


 船へ乗せて。


 誰かの名をください。


「来る!」


 イオが叫ぶ。


 小舟の後方から、黒い手のような波が伸びる。


 エルドを船へ移せと、海が迫っている。


 救難索を切れば、小舟は沈む。


 切らなければ、黒水が索を伝い〈暁なき潮騒〉へ来る。


 また、二択のように見える。


「索は切らない!」


 マレアが叫ぶ。


「でも、黒水を船へ入れない!」


「どうする」


 シリルが、風で索を持ち上げる。


「境界を、強くする」


 ノエルが言う。


「索を伝うのは、船ではなく声だけに変える。黒水は物として渡ろうとしている。物を断って、記録だけをつなぐ」


「救難索そのものを切るのではなく、索の役割を変える」


 フィルブランテが理解する。


 ロープは、二つの船を引く。


 同時に、黒水も運んでいる。


 なら、曳航の力と記録の力を分ければいい。


「マレア船長、物理的な索を一本に減らしてください。残りは、潮の流れと影で支えます」


「影で船を曳くのか」


 アマンテルスが言う。


「兄貴一人の影ではありません」


 フィルブランテは、海へ氷晶を広げた。


 氷晶が、小舟の下へ細い流れを作る。


 マレアの水術が、その流れを押す。


 シリルの風が帆を受ける。


 カイラスの雷が、黒水の手を切る。


 リゼットの花弁が、エルドと囁きの海を分ける。


 レオンハルトの光が、二つの船の間へ境界を張る。


 ノエルが、救難索へ無属性術式を刻む。


「索は、声だけを通せ!」


 黒い手が、索へ触れる。


 しかし索は、黒水を弾いた。


 代わりに、エルドの声だけが潮記の貝へ届く。


『怖い!』


「聞こえてる!」


 アマンテルスが叫ぶ。


「怖くても、船へ飛ぶな。俺たちが、お前の船を進ませる!」


 黒い影が、今度は一人で小舟を支えない。


 影は、全員の魔力を細い線に変える。


 白い花弁。


 青い氷晶。


 淡紫の雷。


 王太子の光。


 騎士の風。


 無属性の術式。


 船長の潮。


 潮路補佐の声。


 それらが、小舟の周囲に輪を作る。


 黒水の手が、何度も船へ伸びる。


 だが、二隻の間を越えられない。


 名を失った者が、ほかの名を帰路にしようとする。


 けれど今、皆が自分の名を持っている。


 誰か一人の名を、奪う必要がない。


「エルドさん!」


 フィルブランテが、潮記の貝へ呼びかける。


「あなたも、自分の名前を言ってください!」


『エルド・ヴェール!』


 少年の声が、黒い海へ響く。


『俺は、姉ちゃんの弟だ。でも、海だけのものじゃない!』


 黒水が、大きく揺れる。


『俺は、帰りたい。でも、誰かの場所を取って帰りたくない!』


 その言葉と同時に、小舟の船首に残っていた〈暁の帆〉の文字が、青く光った。


 船体を覆っていた海藻が、ほどける。


 裂けた帆が、わずかに風を受ける。


 小舟は、自分の力で少しだけ前へ進んだ。


 黒い手が、海の底へ引き戻される。


 月隠れ航路の銀線が、再び二隻の前に伸びた。


     ◇


 戦いが終わった後、船は速度を落とした。


 小舟〈暁の帆〉は、〈暁なき潮騒〉の右舷を、少し離れて並走している。


 物理的な救難索は一本だけ。


 その周りを、魔力で作られた潮流が支える。


 エルドは、毛布代わりにリゼットの花弁を受け取った。


 花弁は船を渡れない。


 だが、風と影を経由して、柔らかな光だけが小舟へ届く。


「暖かい」


 少年が、潮記の貝へ言った。


『よかった』


 リゼットの声が返る。


「姉ちゃんも、そっちにいる?」


『いるよ』


 マレアは、船長室へ入らず、甲板の舵を握っている。


 視線は前に向けたまま。


 けれど、片手では古い潮記の貝を離さない。


『海の上では、声が届けば、そばにいる』


「本当に?」


『本当だ』


 エルドは、少し安心したように目を閉じた。


 眠るわけではない。


 眠るのが、少し怖いのだろう。


 十八年の海は、眠りと目覚めの区別まで奪ったかもしれない。


 フィルブランテは、甲板の机で二隻分の航海記録を書いていた。


 救助開始時刻。


 月読盤の警告。


 小舟の状態。


 エルドの言葉。


 黒水の反応。


 そして、透と自分が聞いた元の世界の母の声。


 そこまで書こうとして、手が止まる。


 自分たちの転生。


 唐傘透と唐傘輝という名。


 これまで仲間へ、完全には話していない秘密。


 黒水の幻として扱うべきか。


 事実として書くべきか。


 書かなければ、記録から都合よく消える。


 書けば、皆を巻き込む。


 フィルブランテのペン先が、紙の上で止まった。


「迷ってる」


 レオンハルトが、静かに言った。


「はい」


「書くかどうか」


 フィルブランテは頷く。


「僕とアマンテルス様は、この世界の者ではないかもしれません」


 言葉にすると、海より広い距離ができた気がする。


 王太子の表情が、わずかに動く。


 驚き。


 しかし、嫌悪ではない。


「エルドの言葉が、本当だと」


「分かりません。幻かもしれません。海が、僕たちの願いを使っただけかもしれない」


「だとしても、君たちがそれを聞いたことは本当だ」


 レオンハルトは、紙の横へ手を置いた。


「書くかどうかは、君とアマンテルスが決めていい。ただし、書かないなら、書かない理由まで一人で抱える必要はない」


 フィルブランテは、紙を見る。


 言えないことがある。


 今すぐ皆へ全てを話せるわけではない。


 けれど、誰にも言わず、兄と二人だけで抱えるしかないわけでもない。


「少し、時間をください」


 フィルブランテは言った。


「兄と話します」


「分かった」


 レオンハルトは、無理に続きを聞かなかった。


 フィルブランテは、空白の行を残す。


 消したわけではない。


 まだ書けないと、記録した。


     ◇


 その夜、月隠れ航路の海は静かだった。


 銀の波は、船の左右へ長く伸びている。


 黄昏島までは、あと一日半。


 教団の船が出航するまで、あと三日。


 予定どおりなら、彼らは先に外縁へ着く。


 それでも、誰を帰すか選ばせる場所だというザハルの言葉が、アマンテルスの頭から離れない。


 甲板の端で、アマンテルスは潮記の貝を耳へ当てていた。


 小舟のエルドは、まだ眠っていない。


『ねえ、アマンテルス』


「アマンテルスでいい」


『アマンテルス。海の底の窓のこと、もっと聞きたい?』


 アマンテルスは、すぐに答えられなかった。


 聞きたい。


 何度でも聞きたい。


 母はどうしているのか。


 自分たちの身体はどうなっているのか。


 あの夜は、まだ続いているのか。


 でも、聞けば、エルドの中に混じった声をさらに引き出すことになる。


 それが少年を苦しめるかもしれない。


「今は、いい」


 アマンテルスは答えた。


『でも、知りたいんだろ』


「知りたい」


『じゃあ、どうして』


「お前の中にある声を、俺のために無理に探させたくない」


 小舟の向こうで、エルドが黙る。


 少しして、声がした。


『姉ちゃんにも、同じことを言われた』


「何を」


『怖いなら、今すぐ話さなくていいって』


 アマンテルスは、船長の背中を見る。


 マレアは、夜の海を見ながら舵を握っている。


 弟へ聞きたいことは、きっと山ほどある。


 なぜ帰れなかった。


 母はどこにいる。


 自分はどこまで覚えている。


 それでも、今すぐ全てを聞かない。


 帰ってきた弟を、答えを出す道具にしないために。


「いい姉ちゃんだな」


 アマンテルスが言う。


『うん』


 エルドの声が、少し誇らしげだった。


『アマンテルスも、いい兄ちゃんだ』


「何で」


『弟を止めるから』


 アマンテルスは、少し笑った。


「止められてばっかりだよ」


『じゃあ、二人ともいい兄弟だ』


 潮記の貝から、波の音がした。


 その音の奥で、別の声が一瞬だけ混じる。


 ――トオル。ヒカル。


 アマンテルスは、貝を握りしめた。


 でも、すぐに問い返さない。


 今は、目の前の海で帰る道を守る。


 元の世界の答えを探すなら、皆と一緒に探す。


 小舟と救難船は、銀の航路を並んで進む。


 別々の船。


 別々の記録。


 それでも、声は届く。


 そして黄昏島の方角には、夜の中に小さな灯りが見え始めていた。


 島の外縁にあるはずのない、白い灯り。


 誰かが、彼らより先に、岸で待っているように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。