第十六話 帰ってきた者を、置いていかない
月読盤の水面に浮かんだ黒い線は、ゆっくり、けれど確実に近づいていた。
銀の月隠れ航路を進む〈暁なき潮騒〉の正面。
黄昏島とは反対の方角。
深い霧の海から、何かが戻ってくる。
月読盤の底には、古い文字が残っている。
**帰還者を、船へ乗せるな。**
甲板の上には、波の音しかなかった。
普段なら、最初に口を開くアマンテルスも黙っている。
黒い杖を握る手が、少しだけ強い。
「意味を確認します」
フィルブランテが、ゆっくり言った。
怖くないわけではない。
帰還者という言葉が、兄弟にとってあまりにも重い。
元の世界へ帰る。
この世界から戻る。
それを願ったことがないと言えば、嘘になる。
だからこそ、願いを使った罠かもしれない言葉を、急いで信じない。
「イオさん。この文字は、誰が書いたものですか」
潮路補佐の青年は、月読盤へ近づいた。
水面に指を触れる寸前で、マレアが手首を掴む。
「無理をするな」
「触らなければ、読めません」
「昨日、黒水に捕まっていた」
「だからです」
イオは、船長を見た。
「俺が読まなければ、また誰かが一人で読もうとする」
マレアの手が、少しだけ強くなる。
それでも、イオは振りほどかない。
「船長。許可をください」
その言い方に、マレアは一瞬、目を閉じた。
十八年前の海。
弟を失った夜。
守れなかった者が、次に誰かを守ろうとして、抱え込みすぎる。
その顔を、アマンテルスやフィルブランテは何度も見てきた。
「……十分だけだ」
マレアは手を離す。
「少しでも黒水の反応が出たら、すぐにやめる」
「はい」
イオの指が、水面へ触れる。
月読盤の水が、淡い青に光った。
古い文字が、少しずつ今の言葉へ変わる。
帰還者。
船。
乗せるな。
そして、その下に新しい一文が浮かんだ。
**名を失った者は、ほかの名を帰路にする。**
「どういう意味ですか」
リゼットが尋ねる。
イオは、顔を青くしながら答えた。
「月隠れ航路で、帰る方角を忘れた者は、海へ残る。身体だけではない。名前、記憶、帰りたい場所も」
「航路を逆に進んでいる船は、そういう者を乗せている?」
ノエルが問う。
「分かりません。でも、帰潮の舵を持たない船が、逆から戻れるはずはない」
「それなら、帰還者は……人ではないのかもしれない」
カイラスが言った。
甲板の空気が、さらに冷える。
「人ではない、と決めるのは早いです」
フィルブランテは言った。
「月隠れ航路の仕組みを、僕たちはまだ全部知りません。戻る方向を忘れた人が、何らかの方法で戻ることもあるかもしれない」
「船へ乗せた瞬間、何かが起こる可能性もある」
レオンハルトが続ける。
「救助はする。ただし、警告を無視して同じ船へ乗せることはしない」
「二つを、どう両立させる」
シリルが問う。
フィルブランテは、海図へ視線を落とす。
救う。
船へ乗せない。
どちらかだけを選ぶ必要はない。
「救難索をつなぎます」
フィルブランテは言った。
「相手の船へ近づき、まず状態を確認する。人がいるなら、こちらの船へ渡らず、相手の船を曳航する。治療は影や花弁、水路を使って行う。記録は両方の船で分ける」
「船を並べて進むのか」
マレアが問う。
「月隠れ航路で、二隻を」
「難しい」
船長はすぐに答えた。
「片方が記憶を失えば、もう片方を巻き込む。救難索が帰路の糸ではなく、沈む鎖になるかもしれない」
「では、索を結ぶ前に、二隻の間に記録の境界を作りましょう」
ノエルが言った。
「潮記の貝を使う。こちらの九名と船員、向こうの船の乗員を、別々の記録群として固定する。混ざらないように」
「できるのですか」
リゼットが尋ねる。
「やったことはない」
「安心できません」
「でも、理屈は合っている」
「理屈と海は別物だよ」
マレアが言う。
ノエルは、少し考えた。
「そうですね」
あっさり認める。
「だから、船長の潮読みとイオの航路記憶も必要です」
マレアは、ノエルを見る。
少年は、自分の案を押し通そうとしていない。
足りないものを、正しく言っている。
「……やるなら、私が索を扱う」
船長は言った。
「片方でも舵を間違えたら、すぐに切る」
「切る前に、皆で判断を」
アマンテルスが言う。
マレアは、少し眉を寄せた。
「海では、一息遅れれば船が沈む」
「分かってる」
アマンテルスは、黒い海の向こうを見たまま答える。
「でも、切るのが最初の答えじゃない。切る前に、何を切るか皆で言え」
「お前は、そう言える立場か」
マレアの言葉は鋭い。
アマンテルスは、少しだけ笑った。
「言えない。俺はたぶん、一番先に勝手に飛び込む」
「兄貴」
「だから、言ってる」
アマンテルスは、フィルブランテを見る。
「俺が飛び込みそうなら、止めろ」
「止めます」
「海の中でも」
「止めます」
フィルブランテの返事には、迷いがなかった。
その返事を聞いて、マレアは小さく息を吐く。
「よし」
船長は舵へ向かった。
「帰還者を、船へ乗せない。だが、海へも置いていかない。救難索を用意しな」
◇
黒い線が近づくにつれて、海の霧が薄くなった。
そして、ようやく船影が見えた。
小さな木造船。
帆は半ば裂け、船体には海藻と白い塩の跡がこびりついている。
けれど、沈んでいない。
船首には、かすれた文字が残っていた。
**暁の帆。**
マレアの呼吸が止まる。
フィルブランテは、その横顔を見た。
船長が灯台で語った、十八年前の船。
王国の矢と魔侯領の火に挟まれ、沈んだ船。
父ユリウス。
母サディア。
弟エルド。
海図の上で、黒い線を引かれていた名前。
「あり得ない」
マレアの声が、ほとんど聞こえない。
「〈暁の帆〉は、沈んだ」
「船は、いつ沈んだのですか」
ノエルが問う。
「十八年前」
「船の状態は」
「沈んだ」
マレアは、同じ言葉を繰り返す。
自分へ言い聞かせるように。
「父が倒れた。母が海へ落ちた。船体に穴が開いた。弟は」
声が途切れる。
船の甲板に、小さな人影が見えた。
濡れた茶色の髪。
古びた上着。
船の舷側へしがみついている、十歳ほどの少年。
彼がこちらへ顔を上げる。
琥珀色の右目。
薄灰色の左目。
マレアと同じ、ヴェール家の目だった。
「姉ちゃん」
少年が言った。
その声は、風に消えそうなほど小さい。
それでも、マレアへ届いた。
「姉ちゃん。遅かったな」
マレアが、船首へ走る。
「待ってください!」
フィルブランテが止める。
船長は止まらない。
帰潮の舵の近くまで行き、海へ飛び込もうとする。
アマンテルスの影が、足元をそっと止めた。
「離せ!」
マレアの声が、初めて荒くなる。
「弟だ!」
「分かってる」
アマンテルスは答える。
「でも、俺たちだって、帰りたいものを見せられた」
マレアは振り返る。
その目には、怒りと、どうしようもない願いが混じっていた。
「お前たちに、分かるものか」
「分からない」
アマンテルスは、すぐに言った。
「俺の弟が、十八年前に沈んだことはない。でも、目の前にいたら、俺も飛び込む」
だから、と続ける。
「飛び込む前に、皆で助ける方法を探そう」
マレアは、何も言えない。
小舟の少年が、もう一度叫ぶ。
「姉ちゃん! 水が、入ってくる!」
船体の横に、黒い水が滲み始めていた。
小舟を、海がゆっくり飲み込もうとしている。
「救難索を!」
マレアが叫ぶ。
今度は、飛び込まない。
けれど声は震えていた。
「右舷へ寄せる。距離、十尋を保て。アマンテルス、影で船底を支えられるか」
「やる」
「一人で支えるな」
フィルブランテが言う。
「兄貴の影へ、僕の氷晶を重ねます。黒水の履歴を固定して、船体へ入らないように」
「わたしが、少年と水を分けます」
リゼットが言った。
「でも、船へは乗せない」
「乗せない」
マレアは、深く息を吸う。
「エルド。聞こえるか!」
小舟の少年が、こちらを見る。
「姉ちゃん」
「今から索を投げる。船を離れるな。こちらへ飛び移ろうとするな」
「でも、怖い」
「私も怖い」
マレアは、正直に言った。
「でも、今は互いの船にいよう。必ず、置いていかない」
少年は、少し迷ってから頷いた。
シリルが風を操る。
太い救難索が、黒い海の上をまっすぐ飛んだ。
少年の手元へ落ちる。
エルドは何度か滑らせながらも、船首の輪へ索を通した。
マレアが、こちら側の索を結ぶ。
同時に、ノエルが潮記の貝を九つ、甲板へ並べた。
「境界を作る」
彼は言う。
「こちらの名は、こちらへ。向こうの名は、向こうへ。記録が混ざらないように」
「何をすれば」
レオンハルトが問う。
「順番に、自分の名と今いる場所を言う」
月隠れ航路で、名前を忘れないためにしたこと。
だが今度は、二つの船が互いの帰路を奪わないために。
「レオンハルト・セレディア。旗なき救難船〈暁なき潮騒〉の甲板にいる」
「カイラス・ノクサル。同じ船にいる」
「リゼット・セレニア。救難のため、ここにいる」
「シリル・グラウス。右舷の索を守る」
「ノエル・アストラ。記録の境界を組む」
「イオ・セルリアン。月読盤の潮を読む」
「マレア・ヴェール。暁なき潮騒の船長」
マレアの声が、少し震える。
けれど、少年へ向けて続けた。
「そして、〈暁の帆〉を曳航する」
「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴル。黒水を船へ入れない」
「フィルブランテ・アソート・イデルバルディ。記録を、どちらの船にも残す」
フィルブランテが、扇を開く。
二つの船の間に、青い氷晶の線が浮かんだ。
索を通して情報は届く。
けれど、名と記憶は混ざらない。
「向こうの船でも、名を呼んでください」
リゼットが言う。
エルドは、船首の索を掴んだまま、こちらを見た。
「エルド・ヴェール。〈暁の帆〉にいる」
その言葉を聞いた瞬間、小舟の周囲に黒い波が立った。
海が、少年の名を引きずり込もうとする。
アマンテルスの影が伸びる。
だが、影は船へ触れない。
海面だけを包み、黒い波を止める。
リゼットの花弁が、船の周りに白く咲く。
フィルブランテの氷晶が、少年の声を二つの船へ同時に記録する。
エルドの小舟は大きく揺れたが、沈まなかった。
「つながった」
ノエルが言う。
「索は物理的なもの。記録の境界は保てている」
「では、曳航しますか」
シリルが問う。
マレアは、すぐには答えない。
小舟の上には、十八年前の弟がいる。
今すぐ自分の船へ引き上げたいはずだ。
温かい毛布をかけ、食事を渡し、二度と見失わないよう抱きしめたいはずだ。
それでも、船長は舵から離れない。
「先に、確かめる」
マレアは言った。
「エルド。お前が知っていることを、一つずつ聞く。答えられないことがあっても、責めない。だが、海が作った偽物かどうか、確かめる必要がある」
少年の顔が、不安に歪む。
「姉ちゃん、俺だよ」
「知っている」
マレアの声は、今度は柔らかかった。
「だから、確かめたい」
「何を」
「父が、嵐の日に歌っていた歌を」
エルドは、しばらく黙った。
海の上で、風が止まる。
「『朝の帆は、東へ』」
少年が、小さく歌い始める。
「『夜の帆は、西へ。帰る灯は、名を呼ぶ岸に』」
マレアの瞳から、涙が落ちた。
歌は、正しかった。
けれど、正しい記憶があるからといって、全てが安全とは限らない。
「母が、最後に言ったことは」
少年の歌が止まる。
小舟の周りの黒水が、少し揺れた。
「……覚えてない」
エルドは、頭を抱える。
「思い出そうとすると、海が、声を大きくする」
「どんな声」
アマンテルスが問う。
少年が、こちらを見る。
琥珀色と薄灰色の目。
その奥に、黒い海が映っている。
「知らない女の人」
エルドは言った。
「でも、ずっと誰かを呼んでる」
アマンテルスとフィルブランテの身体が、同時に固まった。
「何て」
アマンテルスの声が、少し掠れる。
「トオル。ヒカル。朝よ。起きなさいって」
甲板から、音が消えた。
フィルブランテの胸が、痛いほど強く脈打つ。
あの幻の中で聞いた声。
元の世界の母の声。
それが、十八年前に沈んだ小舟の少年から出てくる。
あり得ない。
あり得ないはずだ。
「どうして、その名前を」
フィルブランテは、一歩前へ出る。
黒い海が、彼の足元へ寄る。
アマンテルスの影が、すぐに支える。
「分からない」
エルドは、泣きそうな顔で言った。
「海の底に、窓がある。窓の向こうに、知らない部屋が見える。そこにいる女の人が、ずっと言ってる。二人を起こさないとって」
母は、今も自分たちを呼んでいるのか。
自分たちは、眠ったままなのか。
それとも、海が二人の記憶から声を盗んで、エルドへ見せているだけなのか。
「フィルブランテ」
アマンテルスが、弟の名を呼ぶ。
今の名前ではない。
フィルブランテではなく。
唐傘輝でもなく。
ただ、弟を呼ぶ声。
「近づくな」
「でも」
「今は、近づくな」
アマンテルスも、声を震わせている。
自分だって聞きたいはずだ。
今すぐ小舟へ飛び移り、海の底の窓を見せろと叫びたいはずだ。
それでも、止める。
「俺たちが見た幻と、同じかもしれない」
アマンテルスは言った。
「帰りたい気持ちを、海が使ってるかもしれない」
「それでも、母さんの声だったら」
「だったら、余計に一人で行くな」
アマンテルスの言葉が、フィルブランテの胸へ刺さる。
一人で行かない。
一人で決めない。
それは、何度も確認した約束だ。
元の世界のことになると、簡単に忘れそうになる。
フィルブランテは、強く目を閉じた。
再び開いたとき、エルドを見る。
「エルドさん」
「うん」
「海の底の窓は、いつから見えましたか」
「分からない。母さんの声を探していたら、見えた」
「お母様の声を」
「姉ちゃんの声も、聞こえた。皆の声が聞こえた。でも、届かない」
エルドは小舟の床を見下ろす。
「海が、帰りたい声を集めてる。帰りたい人の声が多いほど、道が太くなる」
ノエルの結晶板が、青く明滅した。
「帰還者は、単独の人間ではない」
彼は言う。
「この航路で帰路を失った人の記憶が、エルドへ集まっている。だから、彼は元の声を聞く」
「なら、エルドは偽物なの」
リゼットが問う。
ノエルは、すぐに答えられない。
「違う」
マレアが言った。
船長の声は、強かった。
「エルドは、私の弟だ。記憶が混ざっていても、海に十八年捕まっていても。本人が、ここにいる」
小舟の少年が顔を上げる。
「姉ちゃん」
「ただし、海が弟を使っていることも、否定しない」
マレアは、涙を袖で拭った。
「だから救う。海へ置いていかない。でも、海の望むままに船へ乗せない」
アマンテルスとフィルブランテが、互いを見る。
救う。
置いていかない。
願いを否定しない。
でも、願いだけで選ばない。
それは、先ほど二人が月隠れ航路で選んだことと同じだった。
「エルドさん」
フィルブランテが言う。
「僕たちは、あなたの船を曳航して進みます。黄昏島の外縁まで。そこで、海の底の窓と、あなたが帰れなかった理由を調べます」
「船へ乗せてくれないの」
少年の声が、小さくなる。
「今は、乗せられません」
正直に言う。
「あなたを疑っているからだけではありません。僕たちは、あなたの中に混じった声も守りたい。無理にこちらの船へ移れば、あなたの名前も、ほかの人の記憶も、誰かのものになってしまうかもしれない」
「俺、また一人なの」
「違います」
フィルブランテは、胸元の潮記の貝を外した。
同じものを、アマンテルスも。
リゼットも。
レオンハルトも。
皆が、一つずつ自分の貝を手に取る。
「船は別です。でも、声は届きます」
フィルブランテは貝を掲げる。
「あなたが怖くなったら、呼んでください。僕たちも、呼びます」
エルドは、しばらく黙っていた。
それから、かすかに頷いた。
「俺の分は」
マレアが、船長室から小さな貝殻を持ってくる。
ほかの潮記の貝より古い。
銀の螺旋は薄いが、月の形が刻まれている。
「これは、父が作ったものだ」
船長は、救難索に小さな網袋を結ぶ。
貝殻をその中へ入れ、索を伝わせて小舟へ送った。
エルドは、震える手で貝を受け取った。
耳へ近づける。
海の音がする。
そして、その中に、マレアの声が届く。
『エルド・ヴェール。私はここにいる』
少年の目から、涙が落ちる。
『姉ちゃん』
『置いていかない』
その言葉を聞いたとき、黒い海が大きく揺れた。
月隠れ航路の銀線が、二隻の周囲で乱れる。
海の底から、無数の囁きが聞こえた。
帰りたい。
帰れない。
名を呼んで。
船へ乗せて。
誰かの名をください。
「来る!」
イオが叫ぶ。
小舟の後方から、黒い手のような波が伸びる。
エルドを船へ移せと、海が迫っている。
救難索を切れば、小舟は沈む。
切らなければ、黒水が索を伝い〈暁なき潮騒〉へ来る。
また、二択のように見える。
「索は切らない!」
マレアが叫ぶ。
「でも、黒水を船へ入れない!」
「どうする」
シリルが、風で索を持ち上げる。
「境界を、強くする」
ノエルが言う。
「索を伝うのは、船ではなく声だけに変える。黒水は物として渡ろうとしている。物を断って、記録だけをつなぐ」
「救難索そのものを切るのではなく、索の役割を変える」
フィルブランテが理解する。
ロープは、二つの船を引く。
同時に、黒水も運んでいる。
なら、曳航の力と記録の力を分ければいい。
「マレア船長、物理的な索を一本に減らしてください。残りは、潮の流れと影で支えます」
「影で船を曳くのか」
アマンテルスが言う。
「兄貴一人の影ではありません」
フィルブランテは、海へ氷晶を広げた。
氷晶が、小舟の下へ細い流れを作る。
マレアの水術が、その流れを押す。
シリルの風が帆を受ける。
カイラスの雷が、黒水の手を切る。
リゼットの花弁が、エルドと囁きの海を分ける。
レオンハルトの光が、二つの船の間へ境界を張る。
ノエルが、救難索へ無属性術式を刻む。
「索は、声だけを通せ!」
黒い手が、索へ触れる。
しかし索は、黒水を弾いた。
代わりに、エルドの声だけが潮記の貝へ届く。
『怖い!』
「聞こえてる!」
アマンテルスが叫ぶ。
「怖くても、船へ飛ぶな。俺たちが、お前の船を進ませる!」
黒い影が、今度は一人で小舟を支えない。
影は、全員の魔力を細い線に変える。
白い花弁。
青い氷晶。
淡紫の雷。
王太子の光。
騎士の風。
無属性の術式。
船長の潮。
潮路補佐の声。
それらが、小舟の周囲に輪を作る。
黒水の手が、何度も船へ伸びる。
だが、二隻の間を越えられない。
名を失った者が、ほかの名を帰路にしようとする。
けれど今、皆が自分の名を持っている。
誰か一人の名を、奪う必要がない。
「エルドさん!」
フィルブランテが、潮記の貝へ呼びかける。
「あなたも、自分の名前を言ってください!」
『エルド・ヴェール!』
少年の声が、黒い海へ響く。
『俺は、姉ちゃんの弟だ。でも、海だけのものじゃない!』
黒水が、大きく揺れる。
『俺は、帰りたい。でも、誰かの場所を取って帰りたくない!』
その言葉と同時に、小舟の船首に残っていた〈暁の帆〉の文字が、青く光った。
船体を覆っていた海藻が、ほどける。
裂けた帆が、わずかに風を受ける。
小舟は、自分の力で少しだけ前へ進んだ。
黒い手が、海の底へ引き戻される。
月隠れ航路の銀線が、再び二隻の前に伸びた。
◇
戦いが終わった後、船は速度を落とした。
小舟〈暁の帆〉は、〈暁なき潮騒〉の右舷を、少し離れて並走している。
物理的な救難索は一本だけ。
その周りを、魔力で作られた潮流が支える。
エルドは、毛布代わりにリゼットの花弁を受け取った。
花弁は船を渡れない。
だが、風と影を経由して、柔らかな光だけが小舟へ届く。
「暖かい」
少年が、潮記の貝へ言った。
『よかった』
リゼットの声が返る。
「姉ちゃんも、そっちにいる?」
『いるよ』
マレアは、船長室へ入らず、甲板の舵を握っている。
視線は前に向けたまま。
けれど、片手では古い潮記の貝を離さない。
『海の上では、声が届けば、そばにいる』
「本当に?」
『本当だ』
エルドは、少し安心したように目を閉じた。
眠るわけではない。
眠るのが、少し怖いのだろう。
十八年の海は、眠りと目覚めの区別まで奪ったかもしれない。
フィルブランテは、甲板の机で二隻分の航海記録を書いていた。
救助開始時刻。
月読盤の警告。
小舟の状態。
エルドの言葉。
黒水の反応。
そして、透と自分が聞いた元の世界の母の声。
そこまで書こうとして、手が止まる。
自分たちの転生。
唐傘透と唐傘輝という名。
これまで仲間へ、完全には話していない秘密。
黒水の幻として扱うべきか。
事実として書くべきか。
書かなければ、記録から都合よく消える。
書けば、皆を巻き込む。
フィルブランテのペン先が、紙の上で止まった。
「迷ってる」
レオンハルトが、静かに言った。
「はい」
「書くかどうか」
フィルブランテは頷く。
「僕とアマンテルス様は、この世界の者ではないかもしれません」
言葉にすると、海より広い距離ができた気がする。
王太子の表情が、わずかに動く。
驚き。
しかし、嫌悪ではない。
「エルドの言葉が、本当だと」
「分かりません。幻かもしれません。海が、僕たちの願いを使っただけかもしれない」
「だとしても、君たちがそれを聞いたことは本当だ」
レオンハルトは、紙の横へ手を置いた。
「書くかどうかは、君とアマンテルスが決めていい。ただし、書かないなら、書かない理由まで一人で抱える必要はない」
フィルブランテは、紙を見る。
言えないことがある。
今すぐ皆へ全てを話せるわけではない。
けれど、誰にも言わず、兄と二人だけで抱えるしかないわけでもない。
「少し、時間をください」
フィルブランテは言った。
「兄と話します」
「分かった」
レオンハルトは、無理に続きを聞かなかった。
フィルブランテは、空白の行を残す。
消したわけではない。
まだ書けないと、記録した。
◇
その夜、月隠れ航路の海は静かだった。
銀の波は、船の左右へ長く伸びている。
黄昏島までは、あと一日半。
教団の船が出航するまで、あと三日。
予定どおりなら、彼らは先に外縁へ着く。
それでも、誰を帰すか選ばせる場所だというザハルの言葉が、アマンテルスの頭から離れない。
甲板の端で、アマンテルスは潮記の貝を耳へ当てていた。
小舟のエルドは、まだ眠っていない。
『ねえ、アマンテルス』
「アマンテルスでいい」
『アマンテルス。海の底の窓のこと、もっと聞きたい?』
アマンテルスは、すぐに答えられなかった。
聞きたい。
何度でも聞きたい。
母はどうしているのか。
自分たちの身体はどうなっているのか。
あの夜は、まだ続いているのか。
でも、聞けば、エルドの中に混じった声をさらに引き出すことになる。
それが少年を苦しめるかもしれない。
「今は、いい」
アマンテルスは答えた。
『でも、知りたいんだろ』
「知りたい」
『じゃあ、どうして』
「お前の中にある声を、俺のために無理に探させたくない」
小舟の向こうで、エルドが黙る。
少しして、声がした。
『姉ちゃんにも、同じことを言われた』
「何を」
『怖いなら、今すぐ話さなくていいって』
アマンテルスは、船長の背中を見る。
マレアは、夜の海を見ながら舵を握っている。
弟へ聞きたいことは、きっと山ほどある。
なぜ帰れなかった。
母はどこにいる。
自分はどこまで覚えている。
それでも、今すぐ全てを聞かない。
帰ってきた弟を、答えを出す道具にしないために。
「いい姉ちゃんだな」
アマンテルスが言う。
『うん』
エルドの声が、少し誇らしげだった。
『アマンテルスも、いい兄ちゃんだ』
「何で」
『弟を止めるから』
アマンテルスは、少し笑った。
「止められてばっかりだよ」
『じゃあ、二人ともいい兄弟だ』
潮記の貝から、波の音がした。
その音の奥で、別の声が一瞬だけ混じる。
――トオル。ヒカル。
アマンテルスは、貝を握りしめた。
でも、すぐに問い返さない。
今は、目の前の海で帰る道を守る。
元の世界の答えを探すなら、皆と一緒に探す。
小舟と救難船は、銀の航路を並んで進む。
別々の船。
別々の記録。
それでも、声は届く。
そして黄昏島の方角には、夜の中に小さな灯りが見え始めていた。
島の外縁にあるはずのない、白い灯り。
誰かが、彼らより先に、岸で待っているように。




