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双傘の令嬢は破滅を覆す  作者: しょぼんスライム


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第十五話 最短経路は、帰り道ではない

出航の日の朝、アウローラ港はまだ薄青い霧に包まれていた。


 太陽は昇っていない。


 二つの月も、雲の向こうに隠れている。


 港の鐘が、低く三度鳴った。


 それは、戦争の出航鐘ではない。


 商人の船が荷を積み終えたことを告げる鐘でもない。


 旗なき救難船が、危険な海へ向かうことを、港の者たちへ知らせる鐘だった。


 〈暁なき潮騒〉の帆には、どの国の紋章もない。


 深い青灰色の帆布へ、二つの月と一本の波だけが縫われている。


 船首には、帰潮の舵の結晶が取り付けられていた。


 青白い結晶は、まだ眠っているように淡く光っている。


「帆、異常なし」


 翼魔族のフェルドが、帆柱の上から叫ぶ。


「船底の二重板、固定完了!」


 船大工のベンが、船渠から拳を上げる。


「月読盤の水路、清浄。黒水の残滓なし」


 潮術師ソアラが、船の舷側に浮かぶ水の輪を確認した。


 その一つ一つの報告が、港湾組合の新しい帳簿へ書き込まれていく。


 書いているのは、ネレア・カリオスだった。


 少女は船渠の端に置いた小机で、いつものように帳面を抱えている。


 ただし今は、一人で書いていない。


 彼女の左右には、港湾組合の書記と、魔侯領出身の見習いが座っている。


 三人が同じ作業記録を、別々の紙へ写していた。


「出航記録、三部目まで完了しました」


 ネレアが顔を上げた。


「船長、乗員九名。船員四名。救難協力者七名。積載物資、食料六日分、飲料水八日分、治療薬二十七箱、帰還用水晶十二個。緊急退避用の小舟二隻」


「海へ出る前に、帰るための物を数える」


 マレア・ヴェール船長は、甲板から言った。


「いい帳簿だよ」


 ネレアの表情が、少しだけ明るくなる。


「ありがとうございます」


「ただし、食料は十二人分だ。アマンテルスの分を二人と数えていないか」


「していません!」


 フィルブランテが甲板の階段から顔を出した。


「アマンテルス様の食事量は、適正値です」


「本当に?」


 アマンテルスが、荷箱の横から言う。


 黒い外套の下には、海風に備えた短い上着と、動きやすい長靴を履いていた。


 普段の令嬢らしい裾の広がる服ではない。


 それでも、首元には黒い宝石の飾りがあり、日傘代わりの黒い杖を手にしている。


「昨日、寝る前に干し肉を三枚食べました」


「三枚だけです」


「夜食だろ」


「夜食を前提にした食料計画ではありません」


「船長、俺の食料は普通でいいから」


「普通の定義を、港の料理人と相談しな」


 マレアは、容赦なく言った。


 アマンテルスが少しだけ肩を落とす。


 その様子を見て、ベンが笑った。


「船へ乗る前から、船酔いより怖いものがあるらしいな」


「弟です」


「兄貴です」


 二人の声が重なる。


 ネレアは、帳簿の端へ小さく何かを書いた。


 フィルブランテが気になって聞く。


「何を書いたのですか」


「出航前の状況です」


 ネレアは少し照れながら答えた。


「皆さん、緊張しているけれど、元気そうです」


 元気そう。


 その表現が、フィルブランテには少し嬉しかった。


 完全に平気な者は、ここにはいない。


 教団の船は、すでにいつでも出航できる。


 黄昏島で何が待つかも分からない。


 それでも、誰かが一人で怖がっているのではない。


 緊張していることを、誰かが記録している。


「ネレアさん」


 フィルブランテは、船渠へ下りた。


 少女の机の前に立ち、儀礼扇〈アルブム〉を閉じる。


「これを」


 差し出したのは、小さな氷晶札だった。


 表には、アウローラの波の印。


 裏には、出航した日付と、潮記の貝へつながる術式が刻まれている。


「わたくしが持っている札と同じ?」


 ネレアが尋ねる。


「少し違います。これは、船がどこにいるかではなく、船から届いた記録を保管する札です。わたくしたちが海で見たものを、ここにも写します」


「でも、船の記録は危険では」


「危険な部分もあります。ですから、港湾組合の監査官、ベンさん、ソアラさん、ネレアさん。四人で封を管理してください」


 フィルブランテは、事前に作った文書を机へ置く。


 開封条件。


 緊急時の連絡先。


 教団が奪おうとした場合の退避手順。


 そして、航海者が戻らない場合にも、記録を一人の家や国へ渡さないための規定。


「もし、わたしたちが戻れなかったら」


 ネレアの声が小さくなる。


「この記録は、ここに残ります」


 フィルブランテは答えた。


「誰がどこへ行き、何を選んだのか。都合よく消されないように」


「戻れなかったら、ではなく」


 アマンテルスが、横から言った。


「戻るけど、残す」


 フィルブランテは兄を見る。


 アマンテルスは、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「前に、船長が言っただろ。帰るための舵があっても、帰る意思がなければ戻れないって」


「はい」


「俺たちは戻る。だから、帰った後に渡す記録も必要だ」


 ネレアは、二人の顔を見比べた。


 それから、氷晶札を両手で受け取る。


「待っています」


 少女は言った。


「皆さんが帰って、続きを帳簿へ書くのを」


     ◇


 出航前の甲板に、乗員と船員が集まった。


 マレアは、帆柱の前に立つ。


 船長外套の胸元には、旗なき救難航海契約の印。


 その隣に、潮路補佐のイオがいる。


 月読盤を持ち運べる大きさへ縮めた水盤を、両手で支えていた。


 まだ顔色は完全には戻っていない。


 だが、海を見つめる瞳は、地下水路で助け出されたときよりずっと強かった。


「聞きな」


 マレアが言う。


 港の風が、帆を小さく鳴らす。


「月隠れ航路は、普通の海じゃない。海図にある距離より、記憶にある距離を先に進む。過去を見せる。失ったものを見せる。手を伸ばせば届きそうな帰り道を見せる」


 アマンテルスの手が、黒い杖を握る。


 フィルブランテも、無意識に胸元の潮記の貝へ触れていた。


「見えたものが、全部嘘とは限らない」


 船長は続ける。


「でも、見えたものが、今の自分を決めるわけでもない。航路が何を見せても、舵を握るのは生きている者だ」


「もし、幻に引き込まれたら」


 リゼットが問う。


「名前を呼びな。自分の名でも、隣の者の名でもいい。潮記の貝へ残した声は、波の中でも届く」


「全員の名を覚える必要がある」


 ノエルが言う。


「名前と役割は違います」


 リゼットが、彼を見る。


「覚えるのは、役割ではなく、名前です」


「分かった」


 ノエルは、いつもの結晶板を取り出した。


 しかし、名前の隣に肩書きは書かない。


 フィルブランテ。


 アマンテルス。


 リゼット。


 レオンハルト。


 シリル。


 カイラス。


 マレア。


 イオ。


 ルーシェ。


 そして、自分の名。


「その順番では、僕が最後になる」


「どうでもいいでしょう」


 アマンテルスが言う。


「よくない」


「ノエル様は、真面目に考えています」


 フィルブランテが注意する。


「すみません」


「謝るところか?」


 アマンテルスは首を傾げる。


 緊張の中で、皆が少し笑った。


 それだけで、甲板の空気が一段やわらぐ。


「綱を解け」


 マレアが言った。


 ベンとフェルドが、最後の係留綱を外す。


 ソアラが、港の水路へ淡い水の輪を広げる。


 〈暁なき潮騒〉が、ゆっくり船渠を離れた。


 アウローラの石造りの建物が、少しずつ遠ざかる。


 港には、ネレアとカリオス、船大工たち、書記たちが立っていた。


 誰も国旗を振らない。


 代わりに、二つの月と波の印が描かれた小さな布を掲げている。


 アマンテルスは、甲板の端から手を振った。


 最初は大きく。


 途中で、フィルブランテの視線に気づくと少し控えめに。


 それでも、ネレアが振り返しているのを見て、もう一度大きく振った。


「兄貴」


「何だ」


「落ちないでください」


「落ちない」


「前にも」


「今回は船だぞ」


「それが、一番落ちそうです」


「お前、出航前から縁起でもないな」


 アウローラ港が霧へ隠れる。


 船は、開いた海へ出た。


     ◇


 午前中の海は、驚くほど穏やかだった。


 月隠れ航路へ入る前の外海は、普通の海と変わらない。


 青い波。


 白い泡。


 遠くを飛ぶ海鳥。


 船は、帰潮の舵の結晶が示す方角へ、西へ進む。


 マレアが舵輪を握り、イオが月読盤の水面を見つめる。


 ノエルは帆柱の結晶を調整し、海の魔力密度を記録する。


 レオンハルトとカイラスは、甲板の中央で外務官へ短い指示を出していた。


 王国と魔侯領から随行した外務官は、各二名。


 船の上では国の代表ではなく、救難航海の乗員として行動する。


 それでも、長く染みついた作法まで消えるわけではない。


「王太子殿下、日誌への記載は、王国語で」


 王国の外務官が言う。


「月影文字も併記する」


 レオンハルトは答えた。


「ですが、公式の記録としては」


「公式の記録にするためだ。片方しか読めないものは、片方の記録にしかならない」


 外務官は一瞬、言葉を失った。


 カイラスが、小さく息を吐く。


「魔侯領側の記録にも、王国語を併記する」


「当然です」


 レオンハルトが言う。


 二人の会話は、以前よりずっと短くなった。


 相手が何を気にするかを、少しずつ知っているからだ。


 フィルブランテは船室の机で、航海帳簿を整理していた。


 海の上では、紙が風で飛ぶ。


 魔力結晶は水に弱いものもある。


 だから、船ごとに記録の方法を変える必要がある。


 紙の写し。


 氷晶の履歴。


 潮記の貝の音声。


 ノエルの結晶板。


 イオが読む潮路。


 そして、乗員全員の日誌。


「フィルブランテ」


 リゼットが、温かい茶を持ってきた。


「少し休憩しませんか」


「今、書式を」


「茶が冷めます」


 フィルブランテは、すぐにペンを置いた。


 前なら、書式を優先していたかもしれない。


 でも、皆が休むための記録を、自分だけが守らないのはおかしい。


「いただきます」


 茶には、アウローラで仕入れた柑橘の香りがした。


「おいしい」


 フィルブランテが言うと、リゼットが笑う。


「マレアさんに、海では温かいものを飲むといいと教わりました」


「船酔いには?」


「まだ大丈夫ですか」


「ええ。意外と」


「兄は」


 二人が同時に甲板の端を見る。


 アマンテルスは、海を見ていた。


 顔色は悪くない。


 むしろ、妙に静かだ。


「アマンテルス様、船酔いですか」


 リゼットが聞く。


「違う」


 アマンテルスは答える。


「海、広いなと思って」


 いつもなら、もっと早く何かを言う。


 次の作戦。


 敵の船の位置。


 島での戦い方。


 兄は、止まっている時間を苦手としている。


 けれど今は、波の向こうを見ている。


「海、初めてですか」


 リゼットが尋ねる。


「この身体では、初めて」


 アマンテルスは、少し迷ってから言った。


「……前の世界でも、見たことはあった。でも、こんなふうに船に乗ったのは初めてだ」


 フィルブランテは、すぐに兄の横へ行った。


 前の世界。


 二人がいた世界。


 話せるようになった今でも、あまり口にしない。


 思い出すと、何かが遠くなる気がするからだ。


 あの部屋。


 机の上のゲーム機。


 散らかった菓子袋。


 夜更かしを注意する母の声。


 翌朝、寝ている二人を起こそうとしたかもしれない家族。


 その後、どうなったのか。


 自分たちは戻れるのか。


 分からないことが、多すぎる。


「ゲームでは、海は背景だった」


 フィルブランテが言った。


「航路選択の画面に、青い絵が出るだけでした」


「そうだな」


 アマンテルスは笑わない。


「最短ルートなら、港のイベントを飛ばして、島へ着くまで一枚絵だった」


「最短ルート」


 フィルブランテは、その言葉を繰り返した。


 二人は、あの夜、同時にゲームをクリアした。


 誰が早く終えるか。


 どの分岐を選べば最短か。


 どの台詞を飛ばせば好感度を落とさずに済むか。


 計算して、競争して、同じ瞬間にエンディングへ辿り着いた。


 その後で、眠った。


 そして目を覚ましたときには、物語の中にいた。


「兄貴」


「何だ」


「今、最短経路を選びたいですか」


 アマンテルスは、波を見たまま黙った。


 少ししてから、首を振る。


「選びたくないって言ったら、嘘になる」


 フィルブランテは驚かなかった。


「早く島へ着けば、敵より先に動ける。皆を危ない場所へ連れていく時間も短くなる。さっさと結界を壊して、ザハルを止めて、帰ればいい」


「帰る、というのは」


「この世界での帰る場所も。前の世界のことも」


 アマンテルスの声が、少しだけ低くなる。


「もし、最短ルートの先に、あの部屋があるなら」


 海風が、二人の間を吹いた。


 フィルブランテは返事ができない。


 自分も、同じことを考えたことがある。


 もし、目を閉じて開ければ、元の身体に戻っているなら。


 ゲームを終えた画面が、まだ光っているなら。


 それを望むことは、今のフィルブランテを捨てることになるのか。


 アマンテルスを。


 リゼットを。


 皆を。


「分かりません」


 フィルブランテは、正直に言った。


「僕も、戻れるなら戻りたいと思うことがあります」


 アマンテルスが、初めてこちらを見る。


「でも」


 フィルブランテは続ける。


「戻りたいからといって、ここで誰かを置いていく理由にはならないと思います」


「分かってる」


「兄貴は、分かっていても走るから」


「お前は、分かっていても一人で残るから」


 二人は、同時に眉を寄せた。


「似てるな」


 アマンテルスが言う。


「嫌なところが」


「今さらです」


 フィルブランテは、少し笑った。


 その瞬間だった。


 帰潮の舵の結晶が、甲板の前方で強く光った。


 青白い光が、船の舷側を走る。


 海の色が変わった。


 青から、銀へ。


 銀から、鏡のような黒へ。


「全員、持ち場へ!」


 マレアの声が響く。


「月隠れ航路へ入る!」


 空から、海鳥の姿が消えた。


 風が止まる。


 波だけが、船の外側から逆向きに流れ始めた。


 船は前へ進んでいるのに、海だけが後ろではなく、横へ滑っていく。


 月読盤の水面に、二つの月が現れた。


 実際の空に月はない。


 それでも水盤の中では、白い月と藍の月が、ゆっくり重なろうとしている。


「名前を忘れるな!」


 マレアが叫ぶ。


「見えるものへ、先に触るな! 帰潮の舵から離れるな!」


 〈暁なき潮騒〉は、静かな黒い海へ入った。


     ◇


 最初に聞こえたのは、電子音だった。


 短く、軽い。


 何度も聞いたことのある、ゲーム機の起動音。


 アマンテルスの身体が固まる。


 フィルブランテも、動けなくなる。


 黒い海の上に、四角い光が浮かんでいた。


 船の甲板でもない。


 月読盤の水面でもない。


 白い壁。


 低い机。


 床に置かれたクッション。


 飲みかけの炭酸飲料。


 ゲームの攻略本。


 そして、二人の少年。


 唐傘透と、唐傘輝。


 転生前の姿だった。


 透は床へあぐらをかき、ゲーム機を握っている。


 フィルブランテは机の横で、タイマーを見つめている。


 あの夜だ。


 同時にクリアした夜。


「見ないで」


 フィルブランテの声がした。


 しかし、口を開いたのはフィルブランテの身体だ。


 目の前の少年の自分は、画面を見たまま笑っている。


『兄貴、そこ、イベント飛ばすと隠し条件が』


『分かってる。俺を誰だと思ってんだ』


『雑に強行突破する人』


『褒めてる?』


『褒めてません』


 記憶の中の兄弟の声が、あまりにも鮮明だった。


 今のアマンテルスとフィルブランテの声ではない。


 もっと高く。


 もっと幼く。


 何も知らなかったころの声。


 ゲーム画面に、選択肢が表示される。


 **最短経路を選択しますか?**


 はい。


 いいえ。


 その下に、小さな文字が続いた。


 **最短経路では、不要な同行者を除外します。**


 アマンテルスの顔色が変わる。


「触るな」


 フィルブランテは言った。


 だがアマンテルスの手は、すでに黒い海の中の光へ伸びかけていた。


 選択肢の横に、別の映像が浮かぶ。


 明るい朝の部屋。


 自分たちの元の部屋だ。


 カーテンの隙間から、日差しが入っている。


 机の上のゲーム機。


 床に寝転ぶ、転生前の二人の身体。


 そして、部屋の外から聞こえる声。


『透、輝。朝よ。起きなさい』


 母の声。


 忘れたわけではない。


 忘れられるはずがない。


 でも、聞こえないようにしていた声。


「兄貴」


 フィルブランテの声が震えた。


 アマンテルスは、光から目を離せない。


「もし、あれが本当に」


「分かりません」


「戻れるかもしれない」


「分かりません」


「でも」


 アマンテルスの言葉が途切れる。


 ゲーム画面の選択肢が、白く光った。


 はい。


 最短経路。


 不要な同行者を除外。


 黒い海の向こうで、何かが消えていく。


 リゼットの花弁。


 シリルの風。


 ノエルの結晶板。


 カイラスの雷。


 マレアの船。


 レオンハルトの光。


 それぞれの姿が、画面の外へ押し出されるように薄くなる。


「やめろ!」


 アマンテルスが叫んだ。


 その声は、選択肢へ向けたものか、自分自身へ向けたものか分からない。


 黒い海が、船の甲板へせり上がる。


 フィルブランテの足元に水が触れる。


 冷たい。


 黒水の井戸と同じ冷たさ。


 ――兄を救いたければ、お前が沈め。


 以前の声が、海の底から響く。


 今度は、少しだけ言葉が違う。


 ――元の世界へ帰りたければ、この世界を沈め。


「違う」


 フィルブランテは言った。


 声が出ないほど怖い。


 それでも、言う。


「これは、僕たちが選びたいことだけを見せている」


「戻りたいと思うのが、悪いのか」


 アマンテルスが言う。


 怒っているのではない。


 泣きそうな声だった。


「悪くない」


 フィルブランテは、すぐに答えた。


「僕も戻りたい。でも、戻るために皆を不要だと決めるのは違う」


「元の世界の家族は、どうなる」


「分かりません」


 フィルブランテの目から、涙が落ちる。


「分からないから、怖いです。今の世界で皆と生きることも。元の世界へ帰れないことも。全部、怖い」


 海の幻が、二人の間で揺れる。


 元の部屋の扉が、少し開いた。


 母の声が、もう一度呼ぶ。


『アマンテルス。輝』


 アマンテルスは、目を閉じた。


 それから、伸ばしかけていた手を下ろした。


「俺、あのとき、ゲームを早く終わらせたいと思った」


 彼は言った。


「先にクリアして、お前に勝ちたかった」


「同着でしたけど」


「そうだな」


 アマンテルスは、少し笑う。


「最短ルートを知ってることが、すごいと思ってた。どこで誰が死ぬかも、何を選べばエンディングになるかも」


 海の向こうで、ゲーム画面が明滅する。


「でも、この世界で会った奴らは、攻略対象でも、悪役でも、イベントの駒でもなかった」


 アマンテルスは、黒い杖を握り直した。


「リゼットは、リゼットだ。ノエルは、ノエルだ。カイラスは面倒くさいけど、カイラスだ」


「最後の一言が余計です」


 背後から、カイラスの声がした。


 アマンテルスとフィルブランテが振り返る。


 甲板が戻っている。


 ただし、海はまだ黒い。


 カイラスは、片手で帆柱を掴み、もう片方の手で淡紫の雷を灯していた。


 顔は青い。


 彼も、何かを見ているのだろう。


「でも、聞こえました」


「聞こえてたのか」


「潮記の貝を通して」


 カイラスは胸元の貝を示す。


 貝殻が、青く光っている。


「俺にも、選択肢が見えた」


 彼の声は、少しかすれていた。


「アマンテルスを処分すれば、七氏族が一つになる。人族と戦う準備ができる。誰も迷わずに済む、と」


 アマンテルスの顔が、強張る。


「選んだのか」


「選ばない」


 カイラスは、はっきり言った。


「一つになるために、友を一人消すなら、そんな氏族は一つにならなくていい」


 雷が、黒い海へ走る。


 海面に、亀裂のような光が入った。


「俺は、カイラス・ノクサルだ。和平派の使者でも、監視役でもある。だが、それだけではない。アマンテルスを一人で決めないと、選んだ者だ」


 黒い海が、少し後退する。


 潮記の貝から、次々に声が聞こえ始めた。


『わたしには、皆がいない平和が見えました』


 リゼットの声。


 彼女の周囲には、誰も傷つかず、誰も呪われない美しい庭園が映っている。


 だがそこには、名前を持つ者がいない。


『痛みがないことと、皆が生きていることは、同じではありません。わたしは、リゼット・セレニアです。皆と帰ります』


 白い花弁が、黒い海の上へ咲く。


『僕には、矛盾のない式が見えた』


 ノエルの声が続く。


 彼の前には、全ての変数が消えた、完璧な数式の海がある。


『でも、矛盾を消すために人を消す式は、正しい答えではない。僕はノエル・アストラ。観測者ではなく、選ぶ者として記録する』


 無属性の結晶が、海の表面へ細い線を描く。


『私には、王太子として正しい判断を下す未来が見えた』


 レオンハルトの声。


『フィルブランテを切り捨て、王家を守り、王国の不安を鎮める未来だ。だが、それは正しさではない。ただ、責任から逃げるために、誰かを一人へ戻す行為だ』


 光が、黒い海を照らす。


『私は、レオンハルト・セレディア。彼女と共に考えると決めた』


『俺には、誰も守らない道が見えた』


 シリルの声は短い。


 だが、強い。


『誰とも近づかなければ、失う痛みはない。だが、守らないことは、生きることではない。俺はシリル・グラウス。守ると決めた者の隣にいる』


 風が吹く。


 止まっていた帆が、少しだけ鳴った。


『私には、灯台から一歩も出ない未来が見えた』


 マレアの声。


『誰も船へ乗せなければ、誰もあの夜のようには死なない。だけど、それは海を見捨てることだ。私はマレア・ヴェール。旗を持たない船長として、帰る道を作る』


 月読盤の水が、甲板の上へ浮かび、二つの月を映す。


『俺には、枷を受け入れる未来が見えた』


 イオの声が、最後に続いた。


『航路だけ読めば、誰かが使ってくれる。自分で選ばなくていい。けれど、俺はイオ・セルリアン。潮路補佐として、帰るための航路を読む』


 船の全員が、名前を呼んだ。


 肩書きだけではない。


 役目だけではない。


 今、この船へ乗っている、自分の名を。


 潮記の貝が、一斉に強く光る。


 青い光は、帰潮の舵の結晶へ集まった。


 結晶が、船首で大きく脈打つ。


 黒い海の中に、二つの航路が現れた。


 一つは、まっすぐ西へ沈む、細く黒い線。


 最短経路。


 もう一つは、遠回りに見える銀の線。


 全員の声を乗せ、海の上を緩やかに進む道。


 月隠れ航路。


「舵を取る」


 マレアが叫んだ。


「イオ、潮を読む!」


「はい!」


 イオが月読盤の水面へ手を入れる。


 青白い結晶が、彼の声へ応えた。


「右舷、三度! 黒い線へ入るな。あれは、行き着くための道ではない。帰ることを忘れる道です!」


 マレアが、帰潮の舵を回す。


 船が大きく傾く。


 甲板を黒い波が越える。


 アマンテルスが影で、リゼットとフィルブランテの足元を支える。


 シリルが風で帆を張り、カイラスの雷が帆柱に流れる黒水を切る。


 ノエルが無属性結晶を船の周囲へ広げ、海の記憶と船の記録を分ける。


 レオンハルトの光が、皆の視界から幻を遠ざける。


 フィルブランテは、儀礼扇を強く握った。


 目の前の元の部屋が、まだ消えない。


 ゲーム画面が、最後にもう一度選択肢を出す。


 **はい。**


 **いいえ。**


 フィルブランテは、光へ向かって言った。


「僕は、唐傘輝です」


 その名を口にすると、胸が痛む。


 フィルブランテとして生きてきた時間が、嘘になるわけではない。


 唐傘輝だったことが、消えるわけでもない。


「そして、フィルブランテ・アソート・イデルバルディです」


 青い氷晶が、扇から広がる。


「どちらかを捨てて、最短になる道は選びません」


 選択肢の光が、砕けた。


 アマンテルスも、隣で言う。


「俺は、唐傘透だ」


 黒い影が、元の部屋の扉を包む。


「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルでもある。帰りたい。でも、今いる奴らを不要って言う道では帰らない」


 元の部屋の幻が、少しずつ遠ざかる。


 母の声が、最後に二人の名を呼ぶ。


 その声は、優しく聞こえた。


 責める声ではない。


 急かす声でもない。


 ただ、忘れられていないことを知らせる声。


 アマンテルスは目を閉じた。


「ごめん」


 小さく呟く。


「でも、まだ帰れない」


 フィルブランテも、目を閉じる。


「必ず、答えを探します」


 黒い海が大きくうねる。


 そして、船を飲み込む代わりに、銀の波へ変わった。


 〈暁なき潮騒〉は、月隠れ航路の銀線へ乗る。


 帆が風を受ける。


 水面の二つの月が、船の下で静かに並んだ。


     ◇


 しばらくの間、誰も話せなかった。


 幻は消えた。


 しかし、見たものまで消えるわけではない。


 失った家族。


 切り捨てたくなる責任。


 痛みのない庭園。


 矛盾のない式。


 守らない未来。


 灯台へ閉じこもる未来。


 枷を受け入れる未来。


 そして、元の世界へ戻る未来。


 皆が、それぞれの「最短」を見た。


 それを選ばなかったからといって、欲しくなかったわけではない。


 欲しかった。


 だからこそ、選ばなかったことには意味がある。


 リゼットが、アマンテルスとフィルブランテの近くへ来た。


「二人とも、大丈夫ですか」


 フィルブランテは、すぐに頷けなかった。


 アマンテルスが先に答える。


「大丈夫じゃない」


 リゼットは驚かない。


「うん」


「でも、船を降りるほどじゃない」


「うん」


「聞かないのか。何を見たか」


 アマンテルスが尋ねる。


 リゼットは、少し考えた。


「話したくなったら、聞きます」


「今は?」


「今は、お茶を淹れます」


 その答えに、アマンテルスが少し笑った。


「お前、たまにすごいな」


「たまに、ではありません」


 フィルブランテが言う。


「リゼットさんは、いつもすごいです」


 リゼットの頬が、少し赤くなった。


「ありがとう」


 船室から、ルーシェが顔を出す。


「温かい飲み物なら、わたくしもお手伝いいたします」


「兄貴の分は、薄めで」


「何で」


「船酔いではないと仰っていましたが、顔色が」


「海の幻で疲れただけだ」


「なおさら、薄めです」


 船の上に、少しだけ笑いが戻る。


 その笑いを聞きながら、ノエルは結晶板を確認していた。


 眉間の皺が、いつもより深い。


「何かありましたか」


 レオンハルトが尋ねる。


「航路の記録です」


 ノエルは、結晶板を皆へ見せた。


 月隠れ航路へ入った時点から、船の位置を示す線がある。


 そのすぐ隣に、もう一本の線が出ていた。


 黒い線。


 月影の羅針盤のものではない。


 教団の船は、まだアウローラにいるはずだ。


「何の航路ですか」


 イオが問う。


 ノエルは、首を振った。


「分からない。僕たちが月隠れ航路へ入ったとき、反対側から現れた」


「反対側?」


 マレアが水盤を見る。


 銀の航路の先。


 黄昏島があるはずの方向ではない。


 さらに西。


 海図の端。


 帰る者がいないとされる、深い霧の海から、細い黒線がこちらへ近づいている。


「船影は」


 シリルが聞く。


「見えない」


 イオの顔が、青ざめた。


「そんなはずは。月隠れ航路を、外側から逆に進める船はない」


「ない、はず?」


 カイラスが問う。


「帰潮の舵を持つ船だけが、帰る方角を覚えていられる。ほかの船は、航路に入った時点で、戻ることを忘れる」


 帰る方角を忘れる。


 最短経路へ誘う黒い海。


 ザハルが言っていた。


 先に待つ者は、最初に沈む者を選ばなければならない、と。


 黒い線は、彼らを追っているのではない。


 最初から、反対側にいた。


 黄昏島の向こう側から。


 まるで、誰かが島からこちらへ帰ろうとしているように。


 月読盤の水面に、文字が浮かんだ。


 母の記録でも、教団の命令でもない。


 見覚えのない、古い文字。


 イオが、震える声で読み上げる。


「――帰還者を、船へ乗せるな」


 銀の海の先で、見えない何かが、こちらへ近づいていた。

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