第十五話 最短経路は、帰り道ではない
出航の日の朝、アウローラ港はまだ薄青い霧に包まれていた。
太陽は昇っていない。
二つの月も、雲の向こうに隠れている。
港の鐘が、低く三度鳴った。
それは、戦争の出航鐘ではない。
商人の船が荷を積み終えたことを告げる鐘でもない。
旗なき救難船が、危険な海へ向かうことを、港の者たちへ知らせる鐘だった。
〈暁なき潮騒〉の帆には、どの国の紋章もない。
深い青灰色の帆布へ、二つの月と一本の波だけが縫われている。
船首には、帰潮の舵の結晶が取り付けられていた。
青白い結晶は、まだ眠っているように淡く光っている。
「帆、異常なし」
翼魔族のフェルドが、帆柱の上から叫ぶ。
「船底の二重板、固定完了!」
船大工のベンが、船渠から拳を上げる。
「月読盤の水路、清浄。黒水の残滓なし」
潮術師ソアラが、船の舷側に浮かぶ水の輪を確認した。
その一つ一つの報告が、港湾組合の新しい帳簿へ書き込まれていく。
書いているのは、ネレア・カリオスだった。
少女は船渠の端に置いた小机で、いつものように帳面を抱えている。
ただし今は、一人で書いていない。
彼女の左右には、港湾組合の書記と、魔侯領出身の見習いが座っている。
三人が同じ作業記録を、別々の紙へ写していた。
「出航記録、三部目まで完了しました」
ネレアが顔を上げた。
「船長、乗員九名。船員四名。救難協力者七名。積載物資、食料六日分、飲料水八日分、治療薬二十七箱、帰還用水晶十二個。緊急退避用の小舟二隻」
「海へ出る前に、帰るための物を数える」
マレア・ヴェール船長は、甲板から言った。
「いい帳簿だよ」
ネレアの表情が、少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、食料は十二人分だ。アマンテルスの分を二人と数えていないか」
「していません!」
フィルブランテが甲板の階段から顔を出した。
「アマンテルス様の食事量は、適正値です」
「本当に?」
アマンテルスが、荷箱の横から言う。
黒い外套の下には、海風に備えた短い上着と、動きやすい長靴を履いていた。
普段の令嬢らしい裾の広がる服ではない。
それでも、首元には黒い宝石の飾りがあり、日傘代わりの黒い杖を手にしている。
「昨日、寝る前に干し肉を三枚食べました」
「三枚だけです」
「夜食だろ」
「夜食を前提にした食料計画ではありません」
「船長、俺の食料は普通でいいから」
「普通の定義を、港の料理人と相談しな」
マレアは、容赦なく言った。
アマンテルスが少しだけ肩を落とす。
その様子を見て、ベンが笑った。
「船へ乗る前から、船酔いより怖いものがあるらしいな」
「弟です」
「兄貴です」
二人の声が重なる。
ネレアは、帳簿の端へ小さく何かを書いた。
フィルブランテが気になって聞く。
「何を書いたのですか」
「出航前の状況です」
ネレアは少し照れながら答えた。
「皆さん、緊張しているけれど、元気そうです」
元気そう。
その表現が、フィルブランテには少し嬉しかった。
完全に平気な者は、ここにはいない。
教団の船は、すでにいつでも出航できる。
黄昏島で何が待つかも分からない。
それでも、誰かが一人で怖がっているのではない。
緊張していることを、誰かが記録している。
「ネレアさん」
フィルブランテは、船渠へ下りた。
少女の机の前に立ち、儀礼扇〈アルブム〉を閉じる。
「これを」
差し出したのは、小さな氷晶札だった。
表には、アウローラの波の印。
裏には、出航した日付と、潮記の貝へつながる術式が刻まれている。
「わたくしが持っている札と同じ?」
ネレアが尋ねる。
「少し違います。これは、船がどこにいるかではなく、船から届いた記録を保管する札です。わたくしたちが海で見たものを、ここにも写します」
「でも、船の記録は危険では」
「危険な部分もあります。ですから、港湾組合の監査官、ベンさん、ソアラさん、ネレアさん。四人で封を管理してください」
フィルブランテは、事前に作った文書を机へ置く。
開封条件。
緊急時の連絡先。
教団が奪おうとした場合の退避手順。
そして、航海者が戻らない場合にも、記録を一人の家や国へ渡さないための規定。
「もし、わたしたちが戻れなかったら」
ネレアの声が小さくなる。
「この記録は、ここに残ります」
フィルブランテは答えた。
「誰がどこへ行き、何を選んだのか。都合よく消されないように」
「戻れなかったら、ではなく」
アマンテルスが、横から言った。
「戻るけど、残す」
フィルブランテは兄を見る。
アマンテルスは、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「前に、船長が言っただろ。帰るための舵があっても、帰る意思がなければ戻れないって」
「はい」
「俺たちは戻る。だから、帰った後に渡す記録も必要だ」
ネレアは、二人の顔を見比べた。
それから、氷晶札を両手で受け取る。
「待っています」
少女は言った。
「皆さんが帰って、続きを帳簿へ書くのを」
◇
出航前の甲板に、乗員と船員が集まった。
マレアは、帆柱の前に立つ。
船長外套の胸元には、旗なき救難航海契約の印。
その隣に、潮路補佐のイオがいる。
月読盤を持ち運べる大きさへ縮めた水盤を、両手で支えていた。
まだ顔色は完全には戻っていない。
だが、海を見つめる瞳は、地下水路で助け出されたときよりずっと強かった。
「聞きな」
マレアが言う。
港の風が、帆を小さく鳴らす。
「月隠れ航路は、普通の海じゃない。海図にある距離より、記憶にある距離を先に進む。過去を見せる。失ったものを見せる。手を伸ばせば届きそうな帰り道を見せる」
アマンテルスの手が、黒い杖を握る。
フィルブランテも、無意識に胸元の潮記の貝へ触れていた。
「見えたものが、全部嘘とは限らない」
船長は続ける。
「でも、見えたものが、今の自分を決めるわけでもない。航路が何を見せても、舵を握るのは生きている者だ」
「もし、幻に引き込まれたら」
リゼットが問う。
「名前を呼びな。自分の名でも、隣の者の名でもいい。潮記の貝へ残した声は、波の中でも届く」
「全員の名を覚える必要がある」
ノエルが言う。
「名前と役割は違います」
リゼットが、彼を見る。
「覚えるのは、役割ではなく、名前です」
「分かった」
ノエルは、いつもの結晶板を取り出した。
しかし、名前の隣に肩書きは書かない。
フィルブランテ。
アマンテルス。
リゼット。
レオンハルト。
シリル。
カイラス。
マレア。
イオ。
ルーシェ。
そして、自分の名。
「その順番では、僕が最後になる」
「どうでもいいでしょう」
アマンテルスが言う。
「よくない」
「ノエル様は、真面目に考えています」
フィルブランテが注意する。
「すみません」
「謝るところか?」
アマンテルスは首を傾げる。
緊張の中で、皆が少し笑った。
それだけで、甲板の空気が一段やわらぐ。
「綱を解け」
マレアが言った。
ベンとフェルドが、最後の係留綱を外す。
ソアラが、港の水路へ淡い水の輪を広げる。
〈暁なき潮騒〉が、ゆっくり船渠を離れた。
アウローラの石造りの建物が、少しずつ遠ざかる。
港には、ネレアとカリオス、船大工たち、書記たちが立っていた。
誰も国旗を振らない。
代わりに、二つの月と波の印が描かれた小さな布を掲げている。
アマンテルスは、甲板の端から手を振った。
最初は大きく。
途中で、フィルブランテの視線に気づくと少し控えめに。
それでも、ネレアが振り返しているのを見て、もう一度大きく振った。
「兄貴」
「何だ」
「落ちないでください」
「落ちない」
「前にも」
「今回は船だぞ」
「それが、一番落ちそうです」
「お前、出航前から縁起でもないな」
アウローラ港が霧へ隠れる。
船は、開いた海へ出た。
◇
午前中の海は、驚くほど穏やかだった。
月隠れ航路へ入る前の外海は、普通の海と変わらない。
青い波。
白い泡。
遠くを飛ぶ海鳥。
船は、帰潮の舵の結晶が示す方角へ、西へ進む。
マレアが舵輪を握り、イオが月読盤の水面を見つめる。
ノエルは帆柱の結晶を調整し、海の魔力密度を記録する。
レオンハルトとカイラスは、甲板の中央で外務官へ短い指示を出していた。
王国と魔侯領から随行した外務官は、各二名。
船の上では国の代表ではなく、救難航海の乗員として行動する。
それでも、長く染みついた作法まで消えるわけではない。
「王太子殿下、日誌への記載は、王国語で」
王国の外務官が言う。
「月影文字も併記する」
レオンハルトは答えた。
「ですが、公式の記録としては」
「公式の記録にするためだ。片方しか読めないものは、片方の記録にしかならない」
外務官は一瞬、言葉を失った。
カイラスが、小さく息を吐く。
「魔侯領側の記録にも、王国語を併記する」
「当然です」
レオンハルトが言う。
二人の会話は、以前よりずっと短くなった。
相手が何を気にするかを、少しずつ知っているからだ。
フィルブランテは船室の机で、航海帳簿を整理していた。
海の上では、紙が風で飛ぶ。
魔力結晶は水に弱いものもある。
だから、船ごとに記録の方法を変える必要がある。
紙の写し。
氷晶の履歴。
潮記の貝の音声。
ノエルの結晶板。
イオが読む潮路。
そして、乗員全員の日誌。
「フィルブランテ」
リゼットが、温かい茶を持ってきた。
「少し休憩しませんか」
「今、書式を」
「茶が冷めます」
フィルブランテは、すぐにペンを置いた。
前なら、書式を優先していたかもしれない。
でも、皆が休むための記録を、自分だけが守らないのはおかしい。
「いただきます」
茶には、アウローラで仕入れた柑橘の香りがした。
「おいしい」
フィルブランテが言うと、リゼットが笑う。
「マレアさんに、海では温かいものを飲むといいと教わりました」
「船酔いには?」
「まだ大丈夫ですか」
「ええ。意外と」
「兄は」
二人が同時に甲板の端を見る。
アマンテルスは、海を見ていた。
顔色は悪くない。
むしろ、妙に静かだ。
「アマンテルス様、船酔いですか」
リゼットが聞く。
「違う」
アマンテルスは答える。
「海、広いなと思って」
いつもなら、もっと早く何かを言う。
次の作戦。
敵の船の位置。
島での戦い方。
兄は、止まっている時間を苦手としている。
けれど今は、波の向こうを見ている。
「海、初めてですか」
リゼットが尋ねる。
「この身体では、初めて」
アマンテルスは、少し迷ってから言った。
「……前の世界でも、見たことはあった。でも、こんなふうに船に乗ったのは初めてだ」
フィルブランテは、すぐに兄の横へ行った。
前の世界。
二人がいた世界。
話せるようになった今でも、あまり口にしない。
思い出すと、何かが遠くなる気がするからだ。
あの部屋。
机の上のゲーム機。
散らかった菓子袋。
夜更かしを注意する母の声。
翌朝、寝ている二人を起こそうとしたかもしれない家族。
その後、どうなったのか。
自分たちは戻れるのか。
分からないことが、多すぎる。
「ゲームでは、海は背景だった」
フィルブランテが言った。
「航路選択の画面に、青い絵が出るだけでした」
「そうだな」
アマンテルスは笑わない。
「最短ルートなら、港のイベントを飛ばして、島へ着くまで一枚絵だった」
「最短ルート」
フィルブランテは、その言葉を繰り返した。
二人は、あの夜、同時にゲームをクリアした。
誰が早く終えるか。
どの分岐を選べば最短か。
どの台詞を飛ばせば好感度を落とさずに済むか。
計算して、競争して、同じ瞬間にエンディングへ辿り着いた。
その後で、眠った。
そして目を覚ましたときには、物語の中にいた。
「兄貴」
「何だ」
「今、最短経路を選びたいですか」
アマンテルスは、波を見たまま黙った。
少ししてから、首を振る。
「選びたくないって言ったら、嘘になる」
フィルブランテは驚かなかった。
「早く島へ着けば、敵より先に動ける。皆を危ない場所へ連れていく時間も短くなる。さっさと結界を壊して、ザハルを止めて、帰ればいい」
「帰る、というのは」
「この世界での帰る場所も。前の世界のことも」
アマンテルスの声が、少しだけ低くなる。
「もし、最短ルートの先に、あの部屋があるなら」
海風が、二人の間を吹いた。
フィルブランテは返事ができない。
自分も、同じことを考えたことがある。
もし、目を閉じて開ければ、元の身体に戻っているなら。
ゲームを終えた画面が、まだ光っているなら。
それを望むことは、今のフィルブランテを捨てることになるのか。
アマンテルスを。
リゼットを。
皆を。
「分かりません」
フィルブランテは、正直に言った。
「僕も、戻れるなら戻りたいと思うことがあります」
アマンテルスが、初めてこちらを見る。
「でも」
フィルブランテは続ける。
「戻りたいからといって、ここで誰かを置いていく理由にはならないと思います」
「分かってる」
「兄貴は、分かっていても走るから」
「お前は、分かっていても一人で残るから」
二人は、同時に眉を寄せた。
「似てるな」
アマンテルスが言う。
「嫌なところが」
「今さらです」
フィルブランテは、少し笑った。
その瞬間だった。
帰潮の舵の結晶が、甲板の前方で強く光った。
青白い光が、船の舷側を走る。
海の色が変わった。
青から、銀へ。
銀から、鏡のような黒へ。
「全員、持ち場へ!」
マレアの声が響く。
「月隠れ航路へ入る!」
空から、海鳥の姿が消えた。
風が止まる。
波だけが、船の外側から逆向きに流れ始めた。
船は前へ進んでいるのに、海だけが後ろではなく、横へ滑っていく。
月読盤の水面に、二つの月が現れた。
実際の空に月はない。
それでも水盤の中では、白い月と藍の月が、ゆっくり重なろうとしている。
「名前を忘れるな!」
マレアが叫ぶ。
「見えるものへ、先に触るな! 帰潮の舵から離れるな!」
〈暁なき潮騒〉は、静かな黒い海へ入った。
◇
最初に聞こえたのは、電子音だった。
短く、軽い。
何度も聞いたことのある、ゲーム機の起動音。
アマンテルスの身体が固まる。
フィルブランテも、動けなくなる。
黒い海の上に、四角い光が浮かんでいた。
船の甲板でもない。
月読盤の水面でもない。
白い壁。
低い机。
床に置かれたクッション。
飲みかけの炭酸飲料。
ゲームの攻略本。
そして、二人の少年。
唐傘透と、唐傘輝。
転生前の姿だった。
透は床へあぐらをかき、ゲーム機を握っている。
フィルブランテは机の横で、タイマーを見つめている。
あの夜だ。
同時にクリアした夜。
「見ないで」
フィルブランテの声がした。
しかし、口を開いたのはフィルブランテの身体だ。
目の前の少年の自分は、画面を見たまま笑っている。
『兄貴、そこ、イベント飛ばすと隠し条件が』
『分かってる。俺を誰だと思ってんだ』
『雑に強行突破する人』
『褒めてる?』
『褒めてません』
記憶の中の兄弟の声が、あまりにも鮮明だった。
今のアマンテルスとフィルブランテの声ではない。
もっと高く。
もっと幼く。
何も知らなかったころの声。
ゲーム画面に、選択肢が表示される。
**最短経路を選択しますか?**
はい。
いいえ。
その下に、小さな文字が続いた。
**最短経路では、不要な同行者を除外します。**
アマンテルスの顔色が変わる。
「触るな」
フィルブランテは言った。
だがアマンテルスの手は、すでに黒い海の中の光へ伸びかけていた。
選択肢の横に、別の映像が浮かぶ。
明るい朝の部屋。
自分たちの元の部屋だ。
カーテンの隙間から、日差しが入っている。
机の上のゲーム機。
床に寝転ぶ、転生前の二人の身体。
そして、部屋の外から聞こえる声。
『透、輝。朝よ。起きなさい』
母の声。
忘れたわけではない。
忘れられるはずがない。
でも、聞こえないようにしていた声。
「兄貴」
フィルブランテの声が震えた。
アマンテルスは、光から目を離せない。
「もし、あれが本当に」
「分かりません」
「戻れるかもしれない」
「分かりません」
「でも」
アマンテルスの言葉が途切れる。
ゲーム画面の選択肢が、白く光った。
はい。
最短経路。
不要な同行者を除外。
黒い海の向こうで、何かが消えていく。
リゼットの花弁。
シリルの風。
ノエルの結晶板。
カイラスの雷。
マレアの船。
レオンハルトの光。
それぞれの姿が、画面の外へ押し出されるように薄くなる。
「やめろ!」
アマンテルスが叫んだ。
その声は、選択肢へ向けたものか、自分自身へ向けたものか分からない。
黒い海が、船の甲板へせり上がる。
フィルブランテの足元に水が触れる。
冷たい。
黒水の井戸と同じ冷たさ。
――兄を救いたければ、お前が沈め。
以前の声が、海の底から響く。
今度は、少しだけ言葉が違う。
――元の世界へ帰りたければ、この世界を沈め。
「違う」
フィルブランテは言った。
声が出ないほど怖い。
それでも、言う。
「これは、僕たちが選びたいことだけを見せている」
「戻りたいと思うのが、悪いのか」
アマンテルスが言う。
怒っているのではない。
泣きそうな声だった。
「悪くない」
フィルブランテは、すぐに答えた。
「僕も戻りたい。でも、戻るために皆を不要だと決めるのは違う」
「元の世界の家族は、どうなる」
「分かりません」
フィルブランテの目から、涙が落ちる。
「分からないから、怖いです。今の世界で皆と生きることも。元の世界へ帰れないことも。全部、怖い」
海の幻が、二人の間で揺れる。
元の部屋の扉が、少し開いた。
母の声が、もう一度呼ぶ。
『アマンテルス。輝』
アマンテルスは、目を閉じた。
それから、伸ばしかけていた手を下ろした。
「俺、あのとき、ゲームを早く終わらせたいと思った」
彼は言った。
「先にクリアして、お前に勝ちたかった」
「同着でしたけど」
「そうだな」
アマンテルスは、少し笑う。
「最短ルートを知ってることが、すごいと思ってた。どこで誰が死ぬかも、何を選べばエンディングになるかも」
海の向こうで、ゲーム画面が明滅する。
「でも、この世界で会った奴らは、攻略対象でも、悪役でも、イベントの駒でもなかった」
アマンテルスは、黒い杖を握り直した。
「リゼットは、リゼットだ。ノエルは、ノエルだ。カイラスは面倒くさいけど、カイラスだ」
「最後の一言が余計です」
背後から、カイラスの声がした。
アマンテルスとフィルブランテが振り返る。
甲板が戻っている。
ただし、海はまだ黒い。
カイラスは、片手で帆柱を掴み、もう片方の手で淡紫の雷を灯していた。
顔は青い。
彼も、何かを見ているのだろう。
「でも、聞こえました」
「聞こえてたのか」
「潮記の貝を通して」
カイラスは胸元の貝を示す。
貝殻が、青く光っている。
「俺にも、選択肢が見えた」
彼の声は、少しかすれていた。
「アマンテルスを処分すれば、七氏族が一つになる。人族と戦う準備ができる。誰も迷わずに済む、と」
アマンテルスの顔が、強張る。
「選んだのか」
「選ばない」
カイラスは、はっきり言った。
「一つになるために、友を一人消すなら、そんな氏族は一つにならなくていい」
雷が、黒い海へ走る。
海面に、亀裂のような光が入った。
「俺は、カイラス・ノクサルだ。和平派の使者でも、監視役でもある。だが、それだけではない。アマンテルスを一人で決めないと、選んだ者だ」
黒い海が、少し後退する。
潮記の貝から、次々に声が聞こえ始めた。
『わたしには、皆がいない平和が見えました』
リゼットの声。
彼女の周囲には、誰も傷つかず、誰も呪われない美しい庭園が映っている。
だがそこには、名前を持つ者がいない。
『痛みがないことと、皆が生きていることは、同じではありません。わたしは、リゼット・セレニアです。皆と帰ります』
白い花弁が、黒い海の上へ咲く。
『僕には、矛盾のない式が見えた』
ノエルの声が続く。
彼の前には、全ての変数が消えた、完璧な数式の海がある。
『でも、矛盾を消すために人を消す式は、正しい答えではない。僕はノエル・アストラ。観測者ではなく、選ぶ者として記録する』
無属性の結晶が、海の表面へ細い線を描く。
『私には、王太子として正しい判断を下す未来が見えた』
レオンハルトの声。
『フィルブランテを切り捨て、王家を守り、王国の不安を鎮める未来だ。だが、それは正しさではない。ただ、責任から逃げるために、誰かを一人へ戻す行為だ』
光が、黒い海を照らす。
『私は、レオンハルト・セレディア。彼女と共に考えると決めた』
『俺には、誰も守らない道が見えた』
シリルの声は短い。
だが、強い。
『誰とも近づかなければ、失う痛みはない。だが、守らないことは、生きることではない。俺はシリル・グラウス。守ると決めた者の隣にいる』
風が吹く。
止まっていた帆が、少しだけ鳴った。
『私には、灯台から一歩も出ない未来が見えた』
マレアの声。
『誰も船へ乗せなければ、誰もあの夜のようには死なない。だけど、それは海を見捨てることだ。私はマレア・ヴェール。旗を持たない船長として、帰る道を作る』
月読盤の水が、甲板の上へ浮かび、二つの月を映す。
『俺には、枷を受け入れる未来が見えた』
イオの声が、最後に続いた。
『航路だけ読めば、誰かが使ってくれる。自分で選ばなくていい。けれど、俺はイオ・セルリアン。潮路補佐として、帰るための航路を読む』
船の全員が、名前を呼んだ。
肩書きだけではない。
役目だけではない。
今、この船へ乗っている、自分の名を。
潮記の貝が、一斉に強く光る。
青い光は、帰潮の舵の結晶へ集まった。
結晶が、船首で大きく脈打つ。
黒い海の中に、二つの航路が現れた。
一つは、まっすぐ西へ沈む、細く黒い線。
最短経路。
もう一つは、遠回りに見える銀の線。
全員の声を乗せ、海の上を緩やかに進む道。
月隠れ航路。
「舵を取る」
マレアが叫んだ。
「イオ、潮を読む!」
「はい!」
イオが月読盤の水面へ手を入れる。
青白い結晶が、彼の声へ応えた。
「右舷、三度! 黒い線へ入るな。あれは、行き着くための道ではない。帰ることを忘れる道です!」
マレアが、帰潮の舵を回す。
船が大きく傾く。
甲板を黒い波が越える。
アマンテルスが影で、リゼットとフィルブランテの足元を支える。
シリルが風で帆を張り、カイラスの雷が帆柱に流れる黒水を切る。
ノエルが無属性結晶を船の周囲へ広げ、海の記憶と船の記録を分ける。
レオンハルトの光が、皆の視界から幻を遠ざける。
フィルブランテは、儀礼扇を強く握った。
目の前の元の部屋が、まだ消えない。
ゲーム画面が、最後にもう一度選択肢を出す。
**はい。**
**いいえ。**
フィルブランテは、光へ向かって言った。
「僕は、唐傘輝です」
その名を口にすると、胸が痛む。
フィルブランテとして生きてきた時間が、嘘になるわけではない。
唐傘輝だったことが、消えるわけでもない。
「そして、フィルブランテ・アソート・イデルバルディです」
青い氷晶が、扇から広がる。
「どちらかを捨てて、最短になる道は選びません」
選択肢の光が、砕けた。
アマンテルスも、隣で言う。
「俺は、唐傘透だ」
黒い影が、元の部屋の扉を包む。
「アマンテルス・デビ・ルヴィンイヴルでもある。帰りたい。でも、今いる奴らを不要って言う道では帰らない」
元の部屋の幻が、少しずつ遠ざかる。
母の声が、最後に二人の名を呼ぶ。
その声は、優しく聞こえた。
責める声ではない。
急かす声でもない。
ただ、忘れられていないことを知らせる声。
アマンテルスは目を閉じた。
「ごめん」
小さく呟く。
「でも、まだ帰れない」
フィルブランテも、目を閉じる。
「必ず、答えを探します」
黒い海が大きくうねる。
そして、船を飲み込む代わりに、銀の波へ変わった。
〈暁なき潮騒〉は、月隠れ航路の銀線へ乗る。
帆が風を受ける。
水面の二つの月が、船の下で静かに並んだ。
◇
しばらくの間、誰も話せなかった。
幻は消えた。
しかし、見たものまで消えるわけではない。
失った家族。
切り捨てたくなる責任。
痛みのない庭園。
矛盾のない式。
守らない未来。
灯台へ閉じこもる未来。
枷を受け入れる未来。
そして、元の世界へ戻る未来。
皆が、それぞれの「最短」を見た。
それを選ばなかったからといって、欲しくなかったわけではない。
欲しかった。
だからこそ、選ばなかったことには意味がある。
リゼットが、アマンテルスとフィルブランテの近くへ来た。
「二人とも、大丈夫ですか」
フィルブランテは、すぐに頷けなかった。
アマンテルスが先に答える。
「大丈夫じゃない」
リゼットは驚かない。
「うん」
「でも、船を降りるほどじゃない」
「うん」
「聞かないのか。何を見たか」
アマンテルスが尋ねる。
リゼットは、少し考えた。
「話したくなったら、聞きます」
「今は?」
「今は、お茶を淹れます」
その答えに、アマンテルスが少し笑った。
「お前、たまにすごいな」
「たまに、ではありません」
フィルブランテが言う。
「リゼットさんは、いつもすごいです」
リゼットの頬が、少し赤くなった。
「ありがとう」
船室から、ルーシェが顔を出す。
「温かい飲み物なら、わたくしもお手伝いいたします」
「兄貴の分は、薄めで」
「何で」
「船酔いではないと仰っていましたが、顔色が」
「海の幻で疲れただけだ」
「なおさら、薄めです」
船の上に、少しだけ笑いが戻る。
その笑いを聞きながら、ノエルは結晶板を確認していた。
眉間の皺が、いつもより深い。
「何かありましたか」
レオンハルトが尋ねる。
「航路の記録です」
ノエルは、結晶板を皆へ見せた。
月隠れ航路へ入った時点から、船の位置を示す線がある。
そのすぐ隣に、もう一本の線が出ていた。
黒い線。
月影の羅針盤のものではない。
教団の船は、まだアウローラにいるはずだ。
「何の航路ですか」
イオが問う。
ノエルは、首を振った。
「分からない。僕たちが月隠れ航路へ入ったとき、反対側から現れた」
「反対側?」
マレアが水盤を見る。
銀の航路の先。
黄昏島があるはずの方向ではない。
さらに西。
海図の端。
帰る者がいないとされる、深い霧の海から、細い黒線がこちらへ近づいている。
「船影は」
シリルが聞く。
「見えない」
イオの顔が、青ざめた。
「そんなはずは。月隠れ航路を、外側から逆に進める船はない」
「ない、はず?」
カイラスが問う。
「帰潮の舵を持つ船だけが、帰る方角を覚えていられる。ほかの船は、航路に入った時点で、戻ることを忘れる」
帰る方角を忘れる。
最短経路へ誘う黒い海。
ザハルが言っていた。
先に待つ者は、最初に沈む者を選ばなければならない、と。
黒い線は、彼らを追っているのではない。
最初から、反対側にいた。
黄昏島の向こう側から。
まるで、誰かが島からこちらへ帰ろうとしているように。
月読盤の水面に、文字が浮かんだ。
母の記録でも、教団の命令でもない。
見覚えのない、古い文字。
イオが、震える声で読み上げる。
「――帰還者を、船へ乗せるな」
銀の海の先で、見えない何かが、こちらへ近づいていた。




