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人喰い熊  作者: 斑鳩あおい


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第八章 雪女

「……寒いよぉ……」


小屋の外から聞こえる女の声は、雨音に混じって妙に近かった。


まるで、戸に顔を寄せて囁いているみたいに。


相沢蓮は全身を硬直させた。


会ったこともない。


顔も知らない。


なのに分かる。


“あれ”は祖父の妹だ。


血がそう告げていた。


黒木が低く囁く。


「返事するな」


囲炉裏の火が揺れる。


外では、何かがゆっくり歩いていた。


ギシ……。


ギシ……。


木の床を踏む音。


巨大な重み。


だが、妙だった。


熊の気配なのに、足音は人間みたいに静かだった。


「お兄ちゃん……」


声がまた近づく。


「なんで置いてったのぉ……」


真由が耳を塞いで震えている。


黒木は銃口を戸へ向けたまま動かない。


蓮の喉が乾く。


その時だった。


窓の外を、白い影が横切った。


一瞬だった。


長い黒髪。


白い着物。


裸足。


女だった。


蓮は思わず立ち上がる。


「今……!」


黒木が怒鳴る。


「見るな!!」


直後。


――ドン!!


戸板へ猛烈な衝撃。


小屋全体が揺れた。


真由が悲鳴を上げる。


再び。


――ドン!!


今度は壁。


木板が軋み、隙間から泥水が垂れる。


外の“何か”が、小屋を壊そうとしていた。


だが。


奇妙なことに、完全には踏み込んでこない。


まるで中の様子を窺っているみたいだった。


黒木が小さく呟く。


「……誘ってやがる」


「誘う?」


「ああ」


黒木の額には汗が浮かんでいた。


「あいつ、わざと隙を見せるんだ」


外からまた女の声。


今度は、泣いていた。


「寒いよぉ……助けてぇ……」


蓮の胸が妙に痛む。


頭の奥で、誰かが囁く。


“開けろ”


“助けてやれ”


だが理性が叫んでいた。


違う。


あれは人間じゃない。


その時。


真由がフラリと立ち上がった。


「お母さん……?」


蓮の顔色が変わる。


真由の目は虚ろだった。


操られたみたいに戸へ向かう。


黒木が叫ぶ。


「止めろ!!」


蓮は飛びつき、真由を押さえ込んだ。


「離してぇ!!」


真由が泣き叫ぶ。


「お母さんなの!! 外にいるの!!」


戸の向こうから、優しい女の声。


「真由ぉ……」


真由が絶叫する。


「お母さぁん!!」


その瞬間。


黒木が発砲した。


――パン!!


弾丸が戸板を貫く。


外で何かが跳ねた。


直後。


獣の咆哮。


――グォォォォオオオ!!


空気が震える。


小屋の壁へ巨大な影が映った。


熊だ。


二本足で立っている。


だがその背後に。


もう一つ影があった。


細い女の影。


長い髪。


白い着物。


蓮の呼吸が止まる。


「……いる」


黒木もそれを見ていた。


珍しく顔が引きつっている。


「まさか……」


女の影が、ゆっくり首を傾ける。


その動きは、人間じゃなかった。


カクン。


カクン。


壊れた人形みたいに。


そして。


女の声が笑った。


クスクスクス……。


同時に熊も笑う。


ニタァ……。


二つの笑い声が重なる。


その瞬間。


黒木が叫んだ。


「裏から逃げるぞ!!」


蓮は真由を抱え、小屋の裏口へ走った。


外は豪雨だった。


冷たい雨が顔を叩く。


山道は泥だらけ。


だが後ろでは。


――バキィ!!


小屋が壊される音。


熊が入った。


黒木が蓮を押す。


「神社へ行け!!」


「神社!?」


「山神社だ!! あそこしかねえ!!」


背後で咆哮。


振り返る。


壊れた小屋の入口に、巨大な熊が立っていた。


その肩に。


白い着物の女が乗っていた。


長い髪が雨に濡れている。


顔は見えない。


だが。


ゆっくり。


ゆっくり。


こちらへ首を向けた。


そして。


髪の隙間から覗いた顔は。


目がなかった。

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