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人喰い熊  作者: 斑鳩あおい


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第五章 熊送り

ドスン。


ドスン。


背後から響く足音は、地面そのものが歩いているみたいだった。


相沢蓮は必死に杉林を駆ける。


枝が顔を叩く。


肺が焼けるように痛い。


だが止まった瞬間、喰われる。


それだけは分かった。


「こっちだ!」


黒木静が斜面を下る。


二人は泥だらけになりながら山道を転げ落ちた。


その直後。


――バキィィ!!


背後の杉がへし折れる。


巨大な黒い影が、わずか数メートル後ろを通り過ぎた。


熊だ。


異様な速さ。


しかも。


追ってくる気配を楽しんでいる。


蓮はそれを感じていた。


狩りではない。


遊ばれている。


黒木が叫ぶ。


「川へ飛べ!!」


前方には雪解け水の激流。


蓮は躊躇した。


だが後ろでは熊の唸り声が近づいている。


飛ぶしかない。


二人は同時に川へ飛び込んだ。


――ザバァン!!


刺すような冷水。


息が止まる。


流れが強い。


身体が一気に下流へ持っていかれる。


その時。


岸辺に熊が現れた。


巨大な黒い影。


片目だけが光る。


熊は川へ入ってこない。


ただ、じっと見下ろしていた。


そして。


ニタァ……。


笑った。


「……ッ!!」


蓮の背筋が凍る。


次の瞬間。


熊が口を開く。


「……ニゲルナ」


祖父の声だった。


蓮は悲鳴を上げそうになる。


だが激流が二人を流し去った。


しばらくして。


二人は下流の浅瀬へ這い上がった。


全身ずぶ濡れ。


息も絶え絶えだった。


黒木はすぐ山の方を確認する。


「……追ってきてねえな」


蓮は震える手で顔を覆った。


「何なんだよあれ……!」


黒木は答えない。


代わりに村の方向を見た。


空が暗い。


夕方でもないのに、嫌な雲が広がっている。


「時間がねえ」


「え?」


「あいつが本格的に動き始める前に、村の連中を集める」


黒木は立ち上がった。


「来い」


二人が村へ戻ると、集会所にはすでに人が集まっていた。


十数人ほど。


老人ばかりだ。


誰もが暗い顔をしている。


中央には、御堂源兵衛が座っていた。


蓮が入った瞬間、空気が変わる。


全員の視線が集まる。


まるで何かを確かめるように。


源兵衛がゆっくり口を開いた。


「相沢の孫よ」


「……何ですか」


「お前は、“熊送り”を知っているか」


蓮は首を振る。


すると老人たちの顔がさらに曇った。


源兵衛は囲炉裏の火を見つめながら語り始めた。


「昔、この村では山の神へ捧げ物をしていた」


「捧げ物?」


「人だ」


蓮は言葉を失う。


静まり返る集会所。


外では風が唸っている。


源兵衛は続ける。


「冬の終わり、村から一人を山へ送る」


「……そんな馬鹿な」


「そうせねば、村が喰われた」


老人の一人が震える声で言った。


「熊は腹を空かせると降りてくる」


別の老婆が呟く。


「家ごと壊して、人を持っていく」


「だから昔の人間は、山へ返したんだ」


蓮は怒鳴った。


「人殺しじゃないか!!」


誰も反論しない。


その沈黙が、逆に恐ろしかった。


黒木が低い声で言う。


「五十年前、その儀式をやめた」


「……」


「若い連中が反対したんだ。当然だ」


囲炉裏の火が揺れる。


「だが、その年から始まった」


源兵衛が顔を上げる。


皺だらけの目。


その奥に、深い恐怖があった。


「人喰いが」


風が強くなる。


家が軋む。


蓮は乾いた喉を鳴らした。


「……じゃあ、あの熊は」


源兵衛がゆっくり頷く。


「あれは山の神に喰われた者たちの塊だ」


意味が分からなかった。


だが。


誰一人、冗談を言っている顔ではない。


その時。


――コン。


集会所の戸が鳴った。


全員が凍りつく。


静寂。


誰も動かない。


――コン。


もう一度。


軽い音。


まるで。


“開けて”


と言うみたいに。


老人たちの顔色が変わる。


一人の老婆が泣き始めた。


「来た……」


黒木が銃を構える。


蓮の心臓が激しく脈打つ。


外から声がした。


若い女の声。


「……寒いよぉ……」


蓮は息を呑む。


その声は。


さっき山で見た、西野真由の声だった。


「開けてぇ……」


だが真由は、今ここにいる。


集会所の隅で震えている。


つまり外の声は――。


次の瞬間。


真由が絶叫した。


「違う!! それ、私じゃない!!」


直後。


――ドゴォン!!


戸が内側へ大きく歪んだ。

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