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人喰い熊  作者: 斑鳩あおい


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2/15

第二章 戸を叩くもの

戸の隙間から覗いた瞬間、相沢蓮の呼吸は止まった。


巨大だった。


普通の熊ではない。


玄関の軒に頭が届きそうなほど大きい。


毛並みは黒というより、濡れた泥の色をしている。


片目は潰れ、赤黒く抉れていた。


なのに、残ったもう片方の目だけが異様に生々しい。


まるで人間の目だった。


そして熊は、戸の向こうで静かに立っている。


ニタァ……。


口元が吊り上がる。


笑っている。


その瞬間。


――コン。


今度は軽く戸が鳴った。


まるで、


「開けて」


と言っているみたいに。


蓮は思わず後ずさる。


床板がギシッと軋んだ。


すると外の熊が反応した。


ピクリ、と首が動く。


鼻先が戸に近づく。


……ズズッ……


臭いを嗅いでいる。


蓮は咄嗟に口を押さえた。


呼吸の音すら聞かれそうだった。


静寂。


長い。


異様な沈黙。


やがて。


――ドン。


突然、熊が戸を叩いた。


家全体が震える。


「っ……!」


蓮は悲鳴を飲み込む。


――ドン。


――ドン。


重い。


ゆっくり。


だが確実に戸板が歪んでいく。


祖父の日記の文字が脳裏に蘇った。



夜に戸を叩く

開けたら終わりだ



蓮は震える足で後退した。


逃げなければ。


だがどこへ?


裏口?


窓?


考えがまとまらない。


その時だった。


外から声が聞こえた。


「……れん……」


女の声。


若い女の声だった。


蓮の全身から血の気が引く。


「……れん……開けてぇ……」


知らない声じゃない。


聞き覚えがある。


頭の奥に沈んでいた記憶が浮かび上がる。


母だ。


死んだはずの母の声。


「な……」


蓮の喉が震える。


あり得ない。


母は十年前、病気で死んだ。


なのに。


「寒いよぉ……」


声が近い。


戸のすぐ向こうから聞こえる。


「蓮ぉ……」


蓮は涙が出そうになった。


理性が崩れる。


開けたい。


でも何かがおかしい。


母は、自分を“蓮”とは呼ばなかった。


必ず、


“レンくん”


と呼んでいた。


次の瞬間。


外の声が止まった。


沈黙。


そして。


ボソリ、と低い声。


「……チガウ」


蓮の背筋が凍る。


直後。


――ドゴン!!


猛烈な衝撃。


戸板が大きく割れた。


木片が飛び散る。


隙間から巨大な爪が入り込む。


「うわぁっ!」


蓮は転げるように廊下を走った。


後ろで木が裂ける音。


ドゴン!!


ドゴン!!


熊が家を壊している。


尋常じゃない力だった。


蓮は台所へ飛び込む。


窓を開けようとする。


だが古い木枠が固く、動かない。


後ろから。


ミシ……。


何か巨大なものが家へ入ってくる音。


蓮は振り返った。


暗い廊下の奥。


そこに“立っていた”。


熊が。


四つ足ではない。


二本足で。


天井すれすれの巨体。


口から糸を引く唾液。


獣臭。


腐臭。


血の臭い。


熊は静かに首を傾けた。


まるで人間みたいに。


そして。


「……レンクン」


喋った。


蓮の思考が止まる。


次の瞬間。


熊が突進してきた。


床が爆発したように揺れる。


蓮は咄嗟に横へ飛んだ。


ドォン!!


熊の腕が壁をぶち抜く。


木材が砕け、仏壇が吹き飛んだ。


「っ……!」


蓮は転がりながら猟銃ケースへ手を伸ばした。


祖父の猟銃。


震える手で開ける。


中には古い散弾銃が入っていた。


装填済み。


蓮は夢中で構える。


熊が振り返る。


片目だけが月光を反射した。


引き金を引いた。


――バァン!!


轟音。


火花。


狭い室内に硝煙が広がる。


熊の肩が弾け飛ぶ。


だが。


倒れない。


熊はゆっくり自分の肩を見る。


血が流れている。


それでも。


笑った。


ニタァ……。


「……ミツケタ」


蓮は絶望した。


その瞬間。


外から別の銃声が響いた。


――パン!!


熊の顔が横へ弾かれる。


「走れぇ!!」


怒鳴り声。


玄関の向こうに立っていたのは、猟銃を構えた男――黒木静だった。


熊は低く唸る。


そして。


窓を突き破り、夜の森へ消えた。


静寂が戻る。


蓮はその場に崩れ落ちた。


心臓が狂ったように脈打っている。


黒木は険しい顔で穴の開いた壁を見つめていた。


「……見たんだな」


蓮は震えながら頷く。


「……あれ、何なんですか」


黒木は答えなかった。


代わりに、暗い山を睨みながら呟いた。


「あいつは、一度人を喰った熊だ」


風が吹く。


遠い山の奥から。


低く、笑うような唸り声が聞こえた。

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