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人喰い熊  作者: 斑鳩あおい


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第一章 帰郷

山の空気には、死んだ土の匂いが混じっている。


そんなことを、相沢蓮は東京にいる頃には考えたこともなかった。


午後五時。


古びた路線バスが、山道を軋ませながら止まる。


「御神沢終点でーす」


運転手の声だけが妙に明るい。


蓮はリュックを背負い、バスを降りた。


冷たい風が頬を撫でる。


四月の終わりだというのに、この村の空気は冬の名残を引きずっていた。


目の前には、十年前と変わらない景色が広がっている。


古びた民家。


ひび割れたガードレール。


山、山、山。


空が異様に近い。


「……帰ってきちまったか」


祖父が死んだ。


電話を受けたのは三日前だった。


村役場の人間は淡々と言った。


「山で倒れているところを発見されました」


死因は“事故”。


だが、蓮には妙な引っかかりがあった。


祖父の相沢源蔵は、山で迷うような人間ではない。


村で一番山を知っていた男だった。


蓮は舗装の剥がれた坂道を歩き始めた。


人影はない。


妙な静けさだけが耳につく。


鳥の鳴き声すら少ない。


その時。


ガサッ。


左手の杉林が揺れた。


蓮は足を止める。


風ではない。


何か大きなものが動いた音だった。


「……鹿か?」


返事はない。


だが視線だけを感じる。


暗い森の奥から、じっと見られている気配。


蓮は無意識に歩く速度を上げた。


村へ入ると、さらに異様だった。


家の戸がほとんど閉まっている。


窓には板が打ち付けられ、人気がない。


道端で野菜を洗っていた老婆が、蓮を見るなり顔色を変えた。


「あんた……相沢の孫かい」


「ええ」


老婆――八代トメは、怯えたように周囲を見回した。


「夜は出歩くんじゃないよ」


「……何かあるんですか?」


トメは答えない。


代わりに、山の方へ目を向けた。


杉林の奥。


夕闇が溜まり始めた山肌。


「……帰ってきたんだ」


小さく呟く。


「え?」


「今年は早ぇ……」


その瞬間だった。


――ドォン。


遠くの山から、低い音が響いた。


まるで太鼓みたいな音。


蓮は思わず振り返る。


「何ですか、今の」


トメの顔から血の気が引いていた。


「山鳴りだ」


「山鳴り?」


「違う」


老婆は首を振る。


皺だらけの口元が震えている。


「あれは腹の音だ」


蓮は意味が分からず苦笑した。


だが、トメは笑っていなかった。


「山が腹を空かせてる」


そう言い残し、老婆は逃げるように家へ入っていった。


バタン、と強く戸が閉まる。


村全体が何かを恐れている。


蓮は嫌な汗を感じながら祖父の家へ向かった。


坂を上り、石垣を越えた先。


古い木造家屋。


玄関にはまだ祖父の長靴が揃えて置いてある。


胸の奥が少しだけ痛んだ。


鍵は開いていた。


ギィ……。


引き戸を開けた瞬間、湿った空気が流れ出る。


長く人がいなかった家特有の匂い。


だが、それに混じって別の臭いがした。


獣臭。


生臭い。


まるで血のような臭い。


「……何だ?」


蓮は眉をしかめた。


居間へ入る。


仏壇には祖父の写真。


相変わらず不機嫌そうな顔だった。


「じいちゃん、帰ったぞ」


返事はない。


当然だ。


だが、その沈黙が妙に重かった。


日が落ちるのは早かった。


午後六時を過ぎる頃には、外は完全に暗くなっていた。


山の夜は深い。


東京の夜とは違う。


闇が“生きている”。


蓮は懐中電灯を片手に、家の整理を始めた。


押し入れ。


古新聞。


古い猟銃のケース。


熊避けの鈴。


そして、一冊の黒い大学ノート。


表紙には、掠れた文字。



『見た者は喰われる』



蓮の背筋に冷たいものが走った。


ノートを開く。


中には祖父の字で、日付ごとの記録が並んでいた。



四月十二日

また牛が消えた


四月十三日

山で人の腕を見つける


四月十五日

熊ではない


四月十七日

夜に女の声を真似していた


四月十八日

戸を叩く


四月十九日

開けた家の者が消えた



蓮は息を呑む。


冗談とは思えなかった。


祖父の文字が途中から激しく乱れている。


ページの端には、黒い染みがあった。


血のようにも見えた。


その時だった。


――ドン。


家の外で音がした。


蓮の身体が硬直する。


玄関だ。


――ドン。


また。


ゆっくり。


重く。


誰かが戸を叩いている。


「……誰ですか?」


返事はない。


代わりに。


……フー……


低い呼吸音。


獣のような。


蓮は懐中電灯を握り締め、玄関へ近づいた。


鼓動が速い。


戸の向こうに、何かいる。


本能が警告していた。


開けるな。


だが、蓮は隙間から外を覗いてしまった。


月明かりの下。


そこに立っていたのは。


巨大な熊だった。


二本足で。


人間のように。


全身の毛は泥と血で濡れている。


片目が潰れ、もう片方だけが異様に光っていた。


そして熊は――


笑っていた。


ニタァ、と。


まるで人間みたいに。

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