第十四章 穴
――グォォォォォオオオオオ!!!!
怪物の咆哮で、山の木々が震えた。
杉の葉が一斉に揺れ、霧が吹き飛ぶ。
相沢蓮は耳を塞いだ。
鼓膜が裂けそうだった。
目の前の“それ”は、もはや熊ではなかった。
山そのものだった。
巨大な肉塊。
その全身に、人間の顔が埋まっている。
泣いている顔。
笑っている顔。
助けを求める顔。
そして中央。
胸の奥で、相沢源蔵の顔が苦しそうに歪んでいた。
「逃げろォォ!!」
祖父の声。
だが次の瞬間、肉の波に飲み込まれる。
代わりに、無数の顔が一斉に笑った。
ニタァァ……。
真由が腰を抜かす。
「化け物……」
黒木静が銃を構えた。
「下がってろ!!」
発砲。
――パン!!
弾丸は怪物の顔を一つ吹き飛ばす。
だが。
吹き飛んだ顔の下から、また別の顔が生えてきた。
女の顔。
子供の顔。
老人の顔。
「無駄だ……」
御堂源兵衛が震える声で呟く。
「もう、山になっておる……」
怪物が動いた。
ズズ……。
それだけで地面が沈む。
木々が押し潰される。
そして。
胸の中央が裂けた。
ブチィィ……。
中から、白い着物の女たちが這い出してくる。
十人。
二十人。
いや、もっと。
全員目がない。
口だけが裂けるように笑っている。
「カエセ」
「カエセ」
「カエセ」
声が重なる。
蓮の頭痛が激しくなる。
すると。
怪物の奥。
霧のさらに向こうに、“穴”が見えた。
山肌に開いた巨大な裂け目。
黒い。
底が見えない。
その周囲だけ、空気が歪んでいる。
源兵衛が震える指で指した。
「あれだ……」
「……何だよ」
「あれが、山の口だ」
風が吹く。
だがその穴だけは、風を吸い込んでいた。
ゴォォォ……。
まるで呼吸みたいに。
蓮は見てしまう。
穴の内側。
無数の手が蠢いている。
人間の腕。
指。
顔。
全部が壁に埋まっていた。
「うっ……!」
吐き気が込み上げる。
源兵衛が言う。
「昔、飢饉で村人が大量に死んだ」
「……」
「その死体を山へ捨てた」
蓮の顔が強張る。
「まさか……」
「山は喰った」
老人の声が掠れる。
「死体も、生きた人間も」
怪物が再び咆哮する。
山が震える。
すると。
穴の奥から、巨大な“目”が開いた。
蓮の全身が凍る。
目だった。
山の中に。
巨大な生き物の目がある。
ギョロリ、と動く。
こちらを見た。
その瞬間。
蓮の脳内へ、知らない記憶が流れ込んだ。
雪。
飢え。
人肉。
泣き叫ぶ子供。
熊。
暗闇。
喰う。
喰う。
喰う。
「がぁぁぁぁ!!」
蓮は頭を抱えて倒れた。
真由が叫ぶ。
「蓮!!」
視界が赤く染まる。
耳鳴り。
その中で、誰かの声が聞こえた。
祖父だった。
「穴を閉じろ」
蓮は震える。
「どうやって……」
すると。
白い女――相沢志乃が、いつの間にか目の前に立っていた。
今度は笑っていない。
泣いていた。
「血を返して」
「……え?」
志乃は、自分の胸へ手を当てた。
そこには大きな裂け目があった。
まるで、何かを抜き取られたみたいに。
「お兄ちゃんは、半分だけ閉じたの」
蓮の呼吸が止まる。
「半分……?」
「だから、山はまだ飢えてる」
背後で怪物が動く。
無数の顔が蓮を見ていた。
ニタァ……。
志乃が静かに言った。
「蓮」
彼女の目から黒い涙が流れる。
「あなたが最後なの」
その瞬間。
怪物が突進してきた。
山そのものみたいな巨体が。




