9. 禁忌の輪郭
遠征訓練から戻った翌朝、九条奏真はいつもより早く目が覚めた。
目覚めがいいわけではない。むしろ逆だった。浅い眠りの中で何度も同じ場面を見た。牙獣がレティシアに飛びかかり、消えかけていた結界が一瞬だけ戻る場面。あの時、たしかに自分は“何かを使った”。
だが、使ったという感覚すら曖昧だった。
ただそこにあるべきものが、あるべき形に“戻った”だけ。
自分は、そのきっかけになっただけのようにも思える。
「《奪還の王》……」
小さく呟く。
王国も教会も、その名を隠したがる。
神官長は露骨に警戒し、霧島は理屈で危険性を見抜こうとしている。
でも、当の自分だけが一番わかっていない。
それが、ひどく気持ち悪かった。
朝食前の廊下は静かで、王城の空気はまだ半分眠っているようだった。奏真は用意された上着を羽織ると、部屋を出た。食堂へ向かうつもりだったが、足は自然と昨日の訓練で使われた西棟のほうへ向いていた。
昨日、訓練場から戻るときに、使われなかった補助札や消耗品はそのまま別室へ運ばれていた。あそこなら、昨日の余韻が少し残っているかもしれない。そんな直感があった。
石造りの通路を抜け、倉庫の前に立つ。
まだ鍵は開いていた。使用人が出入りした直後なのか、扉がほんの少しだけ開いている。
「……失礼します」
誰に言うでもなくそう呟いて中へ入る。
中には木箱、棚、束ねられた札、予備魔石、測定器具、槍の穂先だけを包んだ布袋まで雑多に並んでいた。訓練後の慌ただしさが残っていて、昨日整えたはずの棚ももう少し乱れている。
奏真はその中から、昨日気になっていた一枚の護符を取り出した。
結界札ではなく、もっと古いものだ。紙質も違うし、紋様も今使われている王国式のものよりずっと複雑だった。昨日の片づけの中で、予備箱の底に混ざっていた。
「なんでこんなのが……」
指先でなぞる。
黒ずんだ線。擦れて薄くなった角。失われた魔力の痕。
その瞬間、ぶわり、と頭の奥に感覚が広がった。
今の護符ではない。
壊れる前の護符の形。
線と線が正しくつながっていた時の流れ。
本来ここへ満ちていたはずの、小さく澄んだ魔力。
「……っ」
思わず息を呑む。
見えた、と思った。
いや、思い出したに近い。自分の知らないはずの“元の形”が、なぜかはっきりと頭に浮かぶ。
そして次の瞬間、指先からほんのわずかに熱が走った。
護符の中央に走っていたひびが、一瞬だけ淡く光る。
消えはしない。完全には戻らない。
けれど、砕けかけていた紋様の一部だけが、確かに元の線へ寄った。
「……戻った?」
ほんの少し。
でも、確かに。
奏真は慌てて護符を置いた。
心臓が早い。
いま、自分は何をした?
修復ではない。創造でもない。
“戻した”のだ。
本来の形に。
「やっぱり、そういうことか……」
声にしてみても、実感は薄い。
そのとき、背後で静かに扉が鳴った。
「何をしている」
低い声に振り向くと、霧島悠人が立っていた。
最悪のタイミングだ、と奏真は一瞬だけ思った。
だがすぐに、その考えは消える。霧島に見られたくないものは多いが、今この状況を誤魔化しきる自信もなかった。
「……散歩」
「倉庫でか?」
「説得力ないのはわかってる」
霧島は目を細めたまま、奏真の手元を見た。
「その護符、触ったな」
「見たら気になったから」
「反応は?」
あまりにも直球で、奏真は逆に笑いそうになった。
「お前、ほんとに遠慮ないな」
「無駄な前置きが嫌いなんだ」
「知ってる」
霧島は中へ入ってくると、護符を手に取った。
少しだけ黙り込み、それから珍しく、わずかに眉を動かした。
「……線が寄っている」
「お前にもわかるのか」
「元がわかっていればな。昨日まではここまで戻っていなかった」
やはり、見間違いではない。
奏真は棚にもたれ、息を吐いた。
「戻したんだと思う」
「何を」
「本来の形を」
霧島は数秒考え込み、それから静かに言った。
「《奪還の王》」
「たぶん」
「ますます厄介だな」
「第一声がそれなのかよ」
「むしろ他に何と言えばいい」
霧島は護符を元の位置へ戻した。
「壊れたものの修復ならまだいい。だが、お前の力は“本来あるべき状態”を引きずり出しているように見える」
「何が違うんだ」
「修復は今を直す。だが“本来”は、時に今の所有者や状態を否定する」
その説明は、妙にわかりやすかった。
たしかに、護符だったらまだいい。
でも、それが結界や加護や契約に及ぶなら。
今そこにある状態そのものを、“違う”と断じる力にもなり得る。
「王国が嫌がるわけだ」
「教会もな」
霧島は静かに頷いた。
「勇者の加護が王国に都合よく働くのに対し、お前の力は王国や教会の都合そのものをひっくり返しかねない」
「その言い方だと、俺が今にも国家転覆しそうだけど」
「理屈の上では可能性がある、という話だ」
「理屈の上で危険だから消すべき、ってなるのか?」
聞いてみると、霧島は少しだけ視線を逸らした。
「……王国側は、そう考えるだろうな」
それは霧島の意見というより、もう結論の確認だった。
倉庫の空気が少し冷える。
奏真は無意識に指先を握った。
知らないうちに、また一歩“人間扱いされない側”へ近づいている気がした。
「九条」
「何」
「お前、自分で試すなよ」
「今さら?」
「今さらだ。何が戻るか、お前自身が把握していないうちは特に」
「……忠告?」
「処分されるのが早まるのは困る」
「お前、それ心配の仕方がいちいち嫌なんだよ」
「仕方ないだろう。俺はそういう人間だ」
霧島は本当に悪びれずそう言った。
だから余計に、どこまで敵でどこまで中立なのかがわからない。
食堂へ向かう途中、奏真の頭の中には護符の感覚がずっと残っていた。
壊れたものを直すんじゃない。
奪われた形を、あるべき場所へ戻す。
《奪還の王》。
その名はやはり、ただの飾りではないらしい。
そしてその日の昼、神殿の奥にある文書室では。
「九条奏真が旧護符に接触。微弱ながら“戻し”を確認」
神官見習いの報告に、神官長は眉ひとつ動かさなかった。
「やはり発現が早いか」
「監視を強めますか」
「当然だ。だが表立って囲うな。勇者の近くに置き、自然に使わせろ」
「……利用する、と」
「使えるうちはな」
老いた指が、卓上の羊皮紙を静かに叩く。
「《奪還の王》は危険だ。だが同時に、価値がある」
その結論は、あまりにも冷たかった。
知らないところで、自分の扱いが決まっていく。
その現実を、奏真はまだ半分も知らなかった。




