8.勇者が称賛されるたび、俺の何かが奪われていく
王城へ戻った頃には、空はもう群青に沈みかけていた。
高い城壁の上に灯った明かりがひとつ、またひとつと増えていき、門をくぐる兵士たちの鎧が橙色に揺れる。外から帰ってきた者を迎える城の空気は、朝とは少し違っていた。張りつめた緊張のあとにある、緩みきらない安堵。訓練とはいえ城外へ出た以上、全員が少なからず疲れているのだろう。
奏真も例外じゃなかった。
荷車の横に張りついていたせいで脚は重いし、肩もじわじわ痛む。レティシアに腕の傷は治してもらったが、疲労そのものまでは消えない。なのに周囲の空気は、自分の疲れを気にしてくれる方向には動いていなかった。
「勇者殿、お見事でした」
「初の実地であれほど落ち着いておられるとは」
「さすが神託の勇者……!」
門をくぐった瞬間から、そんな声が神崎のほうへ飛んでいた。
神崎は困ったように笑いながらも、一つ一つに頭を下げている。まったく嫌な顔はしていない。いや、できないのかもしれない。期待される勇者として、そう振る舞うことがもう求められている。
奏真は荷車から最後の木箱を降ろしながら、その光景を横目で見ていた。
別に、神崎が悪いわけじゃない。
実際、前に立っていたのは神崎だ。牙獣を受け止め、隊列の中心にいたのも神崎だ。
ただ——それだけじゃなかったのに、と思う。
旧罠を止めたこと。
残りかけていた結界を戻したこと。
荷車の転倒を防いだこと。
補給の順番を調整して、隊列の崩れを抑えていたこと。
そういうものは全部、報告の中で“勇者戦闘団の連携”とか“勇者殿の統率”みたいな大きな枠に飲み込まれていく。
飲み込まれたあとには、もう誰が何をしたのかなんて残らない。
「九条、そっち終わるか?」
神崎の声で我に返る。
「もう少し」
「じゃああとで食堂来いよ。騎士たちが初遠征の労いだとかで、少し豪華にするらしい」
「それって訓練でも豪華にしてくれるのか」
「勇者候補への顔つなぎも兼ねてるんじゃないか」
神崎はそう言って苦笑した。
その笑い方に嫌味はない。ただ、どこか疲れてもいた。
「お前も来いよ」
「俺、ほぼ裏方だったのに?」
「だから来いって。つーか今日一番働いてたの、お前だろ」
その言葉はありがたかった。
でも、そのありがたさが余計に胸に刺さる。
神崎はわかっている。少なくとも、少しは。
それなのに空気は変わらない。
「……あとで行く」
「待ってる」
神崎が去ったあと、奏真は木箱の留め金を閉めた。
遠くで聞こえる歓声。
訓練場の片づけを終えた騎士たちの笑い声。
それら全部が、自分のいる場所と少しだけずれている気がした。
片づけを終え、ようやく食堂へ向かう頃には、すでに大半の席が埋まっていた。
長い食卓には、普段より明らかに品数が多い。焼いた肉、香草の入ったスープ、豆の煮込み、甘い果実酒らしきものまで並んでいる。実際には訓練の一日でしかないのに、この国は“勇者の初出陣”として扱いたいのだろう。
席の中心には、やはり神崎がいた。
朱音、霧島、レティシア。
そして神崎の近くには、紘川芽衣の姿もある。
芽衣はいつものように大きな声を出すタイプではないが、神崎の周りにいると自然と輪の中へ引き寄せられて見える。幼馴染だから、というだけではない。元のクラスでもそうだった。中心にいる誰かの隣に、違和感なく立てるやつだった。
奏真が少し遅れて席に着くと、芽衣が最初に気づいた。
「奏真くん、こっち空いてるよ」
示されたのは、神崎の斜め向かいの席だった。
完全な中心ではないが、遠すぎもしない位置。
「ありがと」
腰を下ろすと、すぐに神崎が肉皿をこちらへ寄せた。
「遅い。絶対そのまま部屋戻るかと思った」
「一瞬考えた」
「だと思った」
神崎が笑う。
その横で朱音がスープをかき混ぜながら言った。
「でも今日の九条、確かに役立ってたよね」
意外な一言に、奏真は一瞬だけ目を上げた。
朱音はいつも通りの不機嫌そうな顔のまま続ける。
「罠も結界も、あんたが気づかなかったら普通に面倒だったし」
「褒めてる?」
「事実言ってるだけ」
「それ、褒めてる時のやつじゃん」
「違う」
きっぱり言われたが、どこかいつもより棘が弱い。
霧島がそれに続く。
「功績として正しく記録されるかは別だがな」
食卓の空気が少しだけ止まった。
神崎が困ったように眉を寄せる。
「霧島、飯の時までそういうこと言うなよ」
「事実だろう」
「それは……そうかもしれないけど」
神崎の視線が少しだけ揺れる。
その反応に、奏真は逆に何も言えなくなった。
そこで芽衣が、空気を変えるように小さく笑った。
「でも、見てた人はちゃんといるよ」
その一言が、食卓のざらつきを少しだけ和らげた。
芽衣はスプーンを置き、言葉を選びながら続ける。
「私、前の方で戦ってたわけじゃないけど、それでもわかったよ。止まりそうな時に動いてたの、奏真くんだったし」
真正面からそう言われると、妙に落ち着かない。
「見すぎだろ」
「見てたもん」
芽衣はあっさり返した。
その自然さに、少しだけ救われる。
けれど同時に、なぜか神崎の手元が一瞬止まったのも見えた。
ほんのわずか。
誰も気づかないくらいの間。
でも、止まった。
次の瞬間には神崎はいつもの顔へ戻っていた。
「まあ、九条のそういうとこは前からだよな」
「そういうとこ?」
芽衣が聞き返すと、神崎は苦笑した。
「目立たないとこで細かいこと全部拾うやつ。文化祭の時もそうだったろ。みんなが表の準備してる間に、裏の足りないもの埋めてたし」
「ああ……たしかに」
芽衣が納得したように頷く。
その会話を聞きながら、奏真は少しだけ複雑な気分になった。
神崎は、自分のことをちゃんと見ている。
昔からそうだった。
だからこそ今のこの状況——“見えているのに、勇者という大きな流れの中に飲み込まれていく状況”が、余計にややこしい。
「でも、それってさ」
芽衣が小さく首を傾げた。
「ずっとそうだったなら、もっと前からちゃんと評価されてもよかったんじゃない?」
食卓に、微妙な沈黙が落ちた。
誰も悪気のあることは言っていない。
でも、その問いは案外核心に近かった。
神崎が先に口を開く。
「……クラスだと、そういうのって気づかれにくいからな」
「気づいてる人はいるけどね」
芽衣が言う。
それはたぶん、神崎に向けた反論ではない。
けれど神崎は、一瞬だけ笑みを薄くした。
「そっか」
短い返事だった。
そのあとしばらくは、無難な会話が続いた。
王都の外の景色がどうだったとか、魔物が思ったより生々しかったとか、騎士の訓練が厳しすぎるとか。
でも奏真は、神崎の横顔を何度か盗み見てしまった。
笑っている。
ちゃんと笑っている。
けれど芽衣が自分のことを話題にするときだけ、ほんの少し硬さが出る。
——気のせいか。
またそう思おうとした時、神官見習いが食堂に入ってきた。
そして真っ先に神崎のもとへ近づく。
「神崎恒一様、神官長がお呼びです」
様。
その呼び方に、食卓の何人かが改めて現実を思い出したような顔になる。
神崎は少しだけ驚いたあと、すぐに立ち上がった。
「今ですか?」
「はい。今夜の報告と、今後の訓練方針について」
「……わかりました」
神崎は一瞬だけこちらを見た。
「悪い、先に抜ける」
「おう、行ってこい」
朱音が軽く手を上げる。
神崎はそれに頷き、食堂を出ていった。
扉が閉まると、途端に中心を失った輪みたいに食卓の空気が少し崩れる。
芽衣はその扉のほうを少しだけ見ていたが、やがて奏真へ視線を戻した。
「……今日、ほんとに大丈夫?」
「なんでまた」
「疲れてる顔してる」
「顔に出てる?」
「けっこう」
芽衣は迷いなく言う。
その率直さが、妙にありがたい。
「荷車が倒れかけた時も、結界の時も、自分から突っ込んでたし」
「見てたのかよ」
「見てたよ」
「……そうか」
そこでレティシアが静かに口を挟む。
「私も言ったの。もっと自分のことを大事にしたほうがいいって」
「レティシアにも言われた」
「なら本当にそうなのよ」
妙に連携が取れていて、奏真は少しだけ笑ってしまう。
霧島はそんなやり取りを横目で見ながら、淡々とパンをちぎっていた。
「九条は自分を消耗品みたいに扱うからな」
「お前まで乗るのかよ」
「事実だ」
「今日それ何回目だよ」
「正しいことは何度でも言う」
この会話だけ切り取れば、少し賑やかなだけの食卓だった。
だが、その裏でじわじわと何かがずれていく感覚も、奏真は消せなかった。
勇者として呼ばれる神崎。
その陰で補助として便利に使われる自分。
そして、その差を見ている芽衣とレティシア。
この配置は、たぶん誰かにとって都合がいい。
食事を終えて部屋へ戻る途中、奏真は回廊の窓際で少しだけ立ち止まった。
夜の王都は綺麗だった。
灯りが石畳に映り、城壁の外まで光が流れている。元の世界の街とも違うし、夢の中の風景みたいでもある。
なのに、胸の中は少しも綺麗じゃなかった。
「勇者が称賛されるたび、俺の何かが削れていく感じがするな」
ぽつりと漏れた独り言は、夜の回廊に吸い込まれた。
神崎が賞賛されること自体に嫉妬しているわけじゃない。
たぶん、そこじゃない。
問題なのは、自分がやったことまで“勇者の成果”という大きな言葉に飲まれていくことだ。
気づいていないならまだいい。
でも神崎は気づいている。芽衣も気づいている。霧島も、レティシアも。
気づいている人間がいて、それでも流れが変わらない。
それがいちばん気持ち悪かった。
部屋へ戻る前、ふと足音が聞こえた。
振り向くと、廊下の向こうからレティシアが歩いてくる。法衣の裾を揺らしながら、少しだけ急いでいるようだった。
「九条」
「どうした?」
「神官長の部屋の前を通ったのだけど」
そこで彼女はほんの少しだけ声を落とした。
「あなたの名前が聞こえた」
奏真の肩が、無意識に強張る。
「……どんな」
「全部は聞き取れなかった。でも、“発現が早い”とか、“勇者の近くに置け”とか……そういう言葉が」
やはり、と思う。
今日の結界の一件で、王国側の警戒は強まったのだろう。
「それで、神崎も呼ばれたのか」
「おそらく」
レティシアは少しだけ迷うように視線を揺らした。
「ごめんなさい。ちゃんと聞こうとしたわけじゃないの。でも、あなたのことだったから」
「いや、教えてくれて助かった」
「……あなた、本当に驚かないのね」
「薄々そうだろうなと思ってたから」
レティシアは苦しそうに眉を寄せた。
「そうやって、何でも先に飲み込もうとするの、よくないと思う」
「飲み込まないと面倒だろ」
「面倒でも」
言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
そして代わりに、静かにこう言った。
「気をつけて。神官長は、あなたを“人”として見ていない気がする」
その言葉は、妙に冷たく胸に落ちた。
物じゃなく。
仲間でもなく。
ただの便利な何かとして。
「……ありがと」
奏真が言うと、レティシアは小さく頷いた。
「また何かあったら言うわ」
そう言って去っていく背中を見送りながら、奏真はしばらくその場を動けなかった。
その頃、王城の奥にある神官長の部屋では。
「本日の件で明らかになったな」
老いた声が低く響く。
神官長の前には、神崎恒一が立っていた。
勇者として呼ばれたはずなのに、その顔には安堵よりも戸惑いが強い。
「九条奏真の《奪還の王》は、やはり危険だ」
神崎はわずかに眉をひそめる。
「……危険、というのは」
「残留結界の再起動。術式看破。物資と加護の流れへの異常な把握。あれは単なる補助ではない。放置すれば、勇者すら脅かしかねん」
神崎の喉がかすかに動く。
勇者すら脅かす。
その言葉は、神崎にとって思っていた以上に深く刺さった。
神官長はさらに続ける。
「君は勇者だ。王国の希望であり、人心の柱となる存在。その隣に、得体の知れぬ異物を置くことは本来なら避けたい」
「……なら、なぜ近くに」
「制御しやすいからだ」
神官長の答えはあまりにも冷静だった。
「近くに置き、使えるうちは使う。不要になれば処理する。それが最も合理的だ」
神崎の指先が、ほんのわずかに動く。
不要になれば処理する。
その言葉にショックを受けたのか。
それとも、どこかで納得してしまったのか。
神崎自身にもまだわからなかった。
ただ、神官長の次の一言だけは、妙にはっきり胸に残った。
「勇者たる君が、余計な情で判断を鈍らせぬことを望む」
神崎は答えない。
答えられなかった。
その頃、回廊の窓際で立ち尽くしていた奏真もまた、ぼんやりと思っていた。
勇者が称賛されるたびに、
俺のやったことだけじゃなく、
居場所みたいなものまで少しずつ奪われていく気がする、と。
まだ確かな形にはなっていない。
でも、この違和感はきっと、もうしばらくでは終わらない。




