7. 聖女だけは、俺の傷に気づいていた
王都の外へ出るのは、思っていたよりずっと妙な感覚だった。
高い城壁の向こうに広がる景色は、教室の窓から見ていた街とはまるで違う。石畳の整った城下を抜けると、すぐに土の匂いが濃くなる。街道の両脇には低い草原が広がり、ところどころに小さな林が見えた。空は高く、風は冷たく、見上げれば太陽のそばに薄い白月が浮かんでいる。
異世界だ、と改めて実感する。
荷車は二台。
先頭に騎士二人、左右に補助の兵が付き、中央に勇者戦闘団候補。その後ろを、物資を積んだ荷車と神官組が続く。奏真は前衛ではなく、当然のように荷車の横だ。
神崎はその少し前を歩きながら、ときどき後ろを振り返ってくる。
「九条、大丈夫か?」
「今のところは」
「ほんとかよ。さっきからずっと荷車ばっか見てるぞ」
「見てないと崩れるかもしれないし」
「それ笑えないやつだな」
神崎が苦笑する。
笑い話じゃない。
実際、縄の締め方が甘い場所が二か所、車輪の留め木がやや不安定な場所がひとつあった。王国の騎士が雑というより、“この程度で十分だろう”という意識なのだろう。それを訓練名目の異界人に使わせるなら、さらに雑になる。
奏真が荷台の端を押して確認していると、すぐ横を歩いていたレティシア・アルノアが静かに声をかけてきた。
「……あなた、本当にずっと見ているのね」
白い法衣の裾が、草をかすかに揺らす。
近くで見るレティシアは、やはり不思議なくらい澄んだ雰囲気をしていた。陽の光の下だと銀に近く見える髪も、伏せ気味の青い瞳も、どこか現実離れしている。
「見てないと不安だから」
「物資が?」
「物資も。隊列も。人も」
そう返すと、レティシアは少しだけ目を丸くした。
「そこまで見ているの」
「見えるっていうか、気になるっていうか」
「不思議な言い方ね」
「自分でもそう思う」
レティシアは小さく笑った。
神官や騎士に向ける丁寧な微笑みじゃなくて、もう少し柔らかい、年相応の笑い方だった。
そのとき、前方から少し強い声が飛ぶ。
「索敵範囲、広げるぞ!」
騎士の号令で、隊列がやや広がった。
霧島は測定器具を確認しながら歩き、桐生朱音は木剣の柄に手をかけたまま周囲を見ている。神崎は前の騎士に進行方向を確認しつつ、全体の様子も気にしているようだった。
たしかに見た目は“勇者パーティ”っぽい。
でも中身は、やっぱりまだ脆い。
奏真は街道脇の地面に目を落とした。
浅いわだち。昨日までの荷車の跡。乾いた土。
その中に、ほんの少しだけ不自然な削れ方をした線がある。
「止まって」
思わず声が出た。
前を歩いていた神崎が足を止め、全員の視線がこちらへ向く。
「どうした、九条?」
騎士の問いに、奏真は道の右端を指さした。
「そこ、踏まないほうがいいです」
「何?」
「地面の下に、薄い術式があります。たぶん警報系か、拘束の起点」
騎士は眉をひそめた。
だが霧島はすぐにしゃがみ込み、測定板を地面にかざす。
数秒後、彼は顔を上げた。
「ある。微弱だが反応あり」
「本当かよ……」
朱音が嫌そうな顔をする。
騎士のひとりが慎重に土を払うと、うっすらと刻まれた細い紋様が現れた。人の足で踏めば起動する簡易術式らしい。
「旧訓練遺構の外縁罠だな」
騎士が舌打ち混じりに言う。
「消えていると思っていたが……」
神崎が奏真を見る。
「また気づいたのか」
「見えた」
「便利すぎるだろ、それ」
「俺もそう思う」
隊列はそこで少しだけ組み直された。
奏真の指摘を受け、街道の進行は中央寄りに変更。霧島は警戒範囲を広げ、騎士たちも少しだけ緊張感を強める。
ただ、その変化が起きたあとでも、周囲の視線の質は二つに割れていた。
助かった、と見る者。
やはり危険だ、と見る者。
その両方が自分に向いているのが、奏真にはわかった。
しばらく進むと、小さな林の手前で最初の訓練戦が始まった。
下級の牙獣が二体。王都近郊では珍しくない魔物らしい。騎士たちがわざと前へ出すのを抑え、勇者戦闘団候補に対応させる。
「神崎、前!」
「レティシア、後ろ下がって!」
騎士の声が飛ぶ。
神崎が木剣で正面の牙獣を受け止め、朱音が横から斬り込む。霧島は簡易魔術で足元を滑らせ、レティシアは回復の待機。形としては悪くない。
だが、二体目が林の影へ逃げ込んだ時、少しだけ隊列が乱れた。
「右!」
奏真が反射的に声を上げる。
神崎がそちらを向いた直後、横から牙獣が飛び出した。木剣で受けきれずバランスが崩れかけたところを、朱音がぎりぎりで叩き落とす。
「っぶな……!」
神崎が息を吐く。
騎士たちはそれを見て「よし」「そのまま押せ」と声を飛ばしたが、奏真は別のことが気になっていた。
林の縁。
枝の揺れ。
牙獣が走った跡だけじゃない。もうひとつ、小さい気配がある。
「もう一体いる!」
今度は騎士のほうが反応した。
茂みの奥から、少し小型の牙獣が飛び出す。まっすぐ狙われたのは、神崎ではなくレティシアだった。
「きゃっ——」
白い法衣が揺れる。
神崎は間に合わない。朱音も位置が悪い。
考えるより先に、奏真の体が動いていた。
荷車の横に積んであった短杖代わりの結界杭を掴み、地面へ叩き込む。
その瞬間、薄い膜みたいな違和感が走った。
——そこだ。
牙獣とレティシアの間に、半端に起動していた簡易防壁の残滓が見えた。たぶん昔の訓練用術式の名残。ほぼ消えかけているが、完全には死んでいない。
「戻れ!」
自分でも何に向かって叫んだのかわからない。
けれど《奪還の王》が反応したのだと、次の瞬間に理解した。
薄く消えかけていた結界線が、一瞬だけ強く戻る。
バチッという音。
牙獣が見えない壁に弾かれ、動きが止まる。
その隙に朱音が斬り込み、騎士が槍で仕留めた。
静かになった林の手前で、全員が数秒固まる。
最初に口を開いたのは、レティシアだった。
「……今の、あなたが?」
「わからない。たぶん、残ってた結界を戻した」
「戻した?」
霧島が小さく復唱する。
騎士たちも微妙な顔をしていた。
防壁が偶然残っていた可能性もある。だが、起動のタイミングがあまりにも良すぎた。
神崎が一歩近づいてくる。
「九条、お前……」
「俺にもよくわからない」
それは本音だった。
見えた。
消えかけていた結界の“本来の形”みたいなものが。
そして、それを一瞬だけ戻せる感覚があった。
《奪還の王》。
名前の意味が、ほんの少しだけ輪郭を持ち始める。
だが神官見習いたちの顔色は明らかに良くなかった。
助かったはずなのに、安堵より戸惑いが勝っている。
騎士団長代理らしき男が短く命じる。
「訓練続行。だが九条奏真の行動は記録しておけ」
その一言で、空気がまた少し冷えた。
助けたのに。
そう思ったが、口には出さない。
その後の巡回は慎重になった。
奏真の指摘で避けた旧罠が二つ。
荷車の車輪が外れかける前に止めたのが一度。
補給の順番を変えて崩れかけた隊列を整えたのが二度。
気づけば、戦闘より前にやることのほうが多い。
「ほんとにお前、何でも見つけるな」
休憩中、神崎が水袋を渡しながら言った。
「見つけたくて見つけてるわけじゃない」
「でも助かってる」
「ならいいけど」
「よくない顔してるぞ」
神崎は少しだけ声を落とした。
「さっきの結界のとき、神官たち、お前見てたよな」
「見てたな」
「……悪い方向に」
そこまで気づいているのか、と奏真は思う。
でも神崎はそれ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。勇者として期待される立場にいる神崎にとって、王国や教会への疑念を簡単に口にするのは難しいのだろう。
代わりに、少し離れた場所でレティシアがこちらを見ていた。
休憩が終わったあと、彼女はさりげなく奏真の近くへ来た。
「少しいい?」
「……うん」
隊列の最後尾寄り、荷車の陰に近い位置。
歩きながら話せる程度の距離で、レティシアは小さな声で言った。
「右手、見せて」
「右手?」
「さっき結界を戻した時、強く握り込んでたでしょう」
言われて、自分の右手を見る。
結界杭を無理に掴んだせいか、掌に細く赤い線が走っていた。大した怪我じゃない。気づいていなかったくらいだ。
「これくらい平気だよ」
「平気かどうかは、私が決める」
レティシアは真顔だった。
言い返す暇もなく、彼女の指先が奏真の手に触れる。
ひやりとするかと思ったら、逆だった。春の日差しみたいな、柔らかい温度がじんわり広がる。
細い赤線が、すっと消えていった。
「……すご」
「治癒術としては基礎の基礎よ」
「でも、ありがたい」
「ならよかった」
それだけの短いやり取りなのに、妙に気まずい静けさが落ちる。
レティシアは奏真の手を離したあとも、すぐには前へ戻らなかった。
「あなた、自分のことになると雑ね」
「そうか?」
「そうよ。荷物も結界も人の位置も全部見てるのに、自分の傷だけは放っておく」
「小さいから」
「小さくても傷は傷でしょう」
少し怒ったみたいな言い方だった。
奏真は思わず苦笑する。
「神崎にも似たようなこと言われた」
「神崎くんはたぶん、誰にでも言うわ」
「それはそう」
「でも私は、あなたに言ってるの」
まっすぐ言われて、少し言葉に詰まる。
レティシアは視線を前へ向けたまま、静かに続けた。
「……今日、ずっと見ていたの。あなたが止まるたびに、隊列が助かっていたから」
「芽衣にも同じこと言われた」
「紘川さんにも?」
「うん。昨日」
「そう」
レティシアは少しだけ表情をやわらげた。
「見ている人は、ちゃんといるみたいね」
その言い方が、慰めのようにも聞こえる。
奏真は少しだけ肩の力を抜いた。
「でも王国や教会は、違う顔してる」
「……ええ」
「やっぱり、わかるんだ」
「わかるわ」
レティシアは迷わなかった。
「あなたが助けた時の目じゃなかった」
風が吹き、彼女の銀髪が揺れる。
「たぶん、怖がってるのよ。あなたが“戻せる”ことを」
その言葉に、さっきの感覚が蘇る。
消えかけた結界を、元に戻した瞬間の感覚。
《奪還の王》。
もしかしたら、本当にそういう力なのかもしれない。
「……レティシア」
「なに?」
「もし俺の力が、王国とか教会にとって都合が悪いものだったら、どうする?」
聞いてから、自分でも変な質問だと思った。
答えられるわけがない。
けれどレティシアはすぐには否定しなかった。
「私は、まだ全部は知らない」
「うん」
「でも、あなたがさっき私を助けてくれたことは知ってる」
その返しは、少しだけ予想外だった。
「助けたからって、それで全部は——」
「全部じゃないわ」
レティシアは静かに言う。
「でも、人を見る時に、それは大事だと思う」
その言葉はまっすぐだった。
優しいだけじゃない。
少なくとも、彼女は自分の中でちゃんと秤にかけようとしている。
奏真は少しだけ息をついた。
「……ありがと」
「お礼を言われるほどじゃないわ」
「いや、だいぶ」
レティシアは少しだけ視線を逸らした。
「それに、あなたはもう少し自分のことを大事にしたほうがいい」
「またそれ?」
「また言うわ。何度でも」
そこだけ妙に強かった。
奏真は思わず笑ってしまう。
「聖女って怖いな」
「怖くて結構」
そのやり取りの直後だった。
前方で小さな悲鳴が上がる。
隊列が止まり、騎士が怒鳴った。
「左後方、伏せろ!」
街道脇の浅い斜面から、小石混じりの土が崩れ落ちてきた。大きな崩落ではないが、その中に混じっていた細い杭のようなものが、荷車の側面へ突き刺さる。
「っ、罠か!?」
騎士が叫ぶ。
奏真は反射的に荷車を見る。
側面。固定縄。刺さった杭。そこから伸びる細い魔力線。
「まずい、引くな!」
叫んだ瞬間にはもう遅かった。騎士のひとりが杭を抜きかけ、荷車全体の固定が崩れる。
荷台が傾く。
水樽と魔石箱が一斉に滑り始める。
「下がって!」
奏真が飛び込んだ。
今度は《奪還の王》ではない。単純に体で支えるしかない。
だが重い。
ひとりでは無理だ。
次の瞬間、反対側から神崎が荷台を押さえ、さらに朱音が舌打ちしながら横へ入った。
「何やってんのよ、これ!」
「文句はあと!」
奏真が叫ぶ。
霧島がすぐに固定縄を切り替え、騎士が荷車の車輪を止める。
ギリギリで転倒は防げた。
全員が息を吐く中、騎士団長代理が険しい顔で杭を調べる。
「旧訓練罠の残骸だ……術式杭を残したまま埋まっていたらしい」
「荷車狙いか」
「偶発だろうが、結果的にはそうだ」
神崎が荷台から手を離しながら、奏真を見る。
「九条、怪我は?」
「ない。そっちは」
「平気」
だが奏真の腕は、さっきより明らかに痛かった。荷台の角を無理に受けたせいで、肘から前がじんと痺れている。
それに気づいたのは、やっぱりレティシアだった。
「見せて」
「いや、今は——」
「今すぐ」
有無を言わせない声だった。
周囲がまだ罠の確認で慌ただしくしている隙に、レティシアは奏真の腕にそっと触れる。法衣の袖口からのぞく指先が、また温かい光を帯びる。
痛みがゆっくり引いていく。
「……本当に毎回見つけるな」
奏真が苦笑すると、レティシアは少しだけ眉を寄せた。
「見つけてるのはあなたでしょう」
「俺は自分のことは後回しだから」
「だから私が見るの」
その言い方が、妙に強く残る。
助けられたのは向こうのはずなのに、なぜか自分のほうが救われている気がした。
その日の巡回訓練は、最終的には成功扱いで終わった。
小規模な魔物討伐。旧罠の発見。荷車トラブルへの対応。実地訓練としては十分だと騎士たちは言う。
だが王城へ戻る荷車の横で、奏真は考えていた。
今日だけで二度、隊列は大きく崩れかけた。
最初はレティシアが狙われた時。
二度目は荷車が倒れかけた時。
どちらも、ほんの少し何かが遅れていれば危なかった。
勇者パーティは、やっぱり脆い。
そしてその脆さを埋める役目を、いつの間にか自分が背負わされている。
夕暮れの王都が見えてくる。
高い城壁、整った街路、王城の白い塔。
その景色を見ながら、奏真は自分の右手を軽く握った。
もう傷はない。
レティシアが治したから。
「……聖女だけは、ちゃんと見てるんだな」
誰にも聞こえない声で呟く。
神崎は助かったと知っている。
芽衣も見ている。
でもレティシアだけは、その上でなお、“お前自身は大丈夫か”を見てくる。
それが少しだけ、不思議で、ありがたくて、怖かった。
王城の門をくぐる頃には、夕陽はほとんど沈みかけていた。
その夜、記録室では。
「九条奏真、行軍中に旧警報術式を看破。模擬戦にて残留防壁を一時再起動。荷車転倒時には即応して被害を防止」
書記官が読み上げる報告に、神官長は静かに目を伏せた。
「防壁の再起動、確実か」
「目撃は複数。偶発の可能性もありますが……」
「偶発で済ませるな」
老いた指が机を叩く。
「《奪還の王》は想定以上に早く働いている。しかも対象は物資や結界だけではないかもしれん」
「勇者団から切り離しますか?」
「いや」
神官長は短く首を振った。
「まだ使える。近くに置いておけ」
「ですが、レティシア・アルノアが九条に接触を増やしています」
その報告に、神官長の目が細くなる。
「聖女候補には余計な情を持たせるな」
「……承知しました」
燭台の火が揺れる。
助けたはずなのに、警戒は強まる。
役に立つほど、監視は濃くなる。
この国にとって俺は、まだ“仲間”ではなく、“扱いに困る有用物”のままなのだと。
その現実が、少しずつ形を持ち始めていた。




