65. 空っぽになる
掲示板のあった町外れを離れてから、しばらくの間、誰もほとんど喋らなかった。
街道から外れた林の中。
人目につかない場所まで来て、ようやく三人は立ち止まる。
風が木々を揺らしている。
鳥の声もする。
地上の音だ。
でも、奏真の耳にはどれも少し遠く聞こえた。
セレスが少しだけ離れた場所に腰を下ろす。
ノアは木のそばに立ったまま、周囲を警戒している。
その二人の気配はちゃんと近くにあるのに、奏真の中は妙に空っぽだった。
怒っている。
はずだ。
神崎に落とされた。
王国と教会に危険人物にされた。
地上では裏切り者として広まっていた。
許せるわけがない。
なのに、胸の中にあるのは燃えるみたいな怒りじゃなかった。
むしろ逆だ。何かを根こそぎ持っていかれたあとの、冷たい空白みたいなものだった。
「……はは」
自分でも意味のわからない息が漏れる。
笑ったつもりはない。
ただ、うまく形にならなかっただけだ。
『今、無理に整理する必要はありません』
ノアが静かに言った。
いつもなら、その言い方の固さに何か返していたかもしれない。
でも今は、何も返せなかった。
整理。
そんな簡単な言葉で片づくものじゃない。
落とされたこと。
死にかけたこと。
奈落で生き残ったこと。
その全部の上に、さらに“裏切り者”の名前を重ねられていた。
それをどう整理しろっていうんだ。
奏真は木にもたれ、ゆっくり座り込んだ。
視線が落ちる。
自分の手が見える。
奈落で傷ついて、血を流して、それでも生き残ってきた手だ。
その手でセレスの封印をほどいて、ノアと一緒に道を開いて、ようやく地上へ戻った。
なのに地上では、その自分が危険な裏切り者として片づけられている。
「……わけ、わかんねえな」
ぽつりとこぼす。
怒りより先に、その言葉が出た。
「何で、そこまで勝手に決められてんだよ」
奈落に落ちたのは自分だ。
押されたのも自分だ。
死にかけたのも、自分だ。
それなのに、“どういう存在だったか”まで、全部向こうの好きな形で終わらせられている。
その理不尽さが、怒りとして燃える前に、まず心を空っぽにしていく。
セレスが静かに近づいてきた。
何も言わない。
ただ、奏真の少し横へ座る。
近い。
でも、その近さが今はありがたかった。
「……ごめん」
ふいに、セレスが言った。
奏真は顔を上げる。
「何でお前が謝る」
「わからない。でも、何か言いたくて」
「それで謝るの、たぶん違うだろ」
「うん。たぶん違う」
それだけ言って、セレスは黙る。
無理に慰めない。
変に軽いことも言わない。
ただ、そこにいる。
それが今は、何より楽だった。
ノアも同じだった。
必要以上に説明しない。
ただ、離れすぎない位置で立っている。
その静けさの中で、奏真はゆっくり息を吐いた。
神崎の理由はまだわからない。
そこは変わらない。
でも少なくとも一つ、はっきりした。
向こうは、自分から命だけじゃなく、名前まで奪った。
それは奈落の底で思っていたより、ずっと重かった。
「……怒ってるはずなんだけどな」
自分でも確認するみたいに言う。
「なのに、何か……中が抜けたみたいだ」
セレスはそっと地面を見る。
「空っぽ」
「ああ」
「でも、なくなってない」
「……何が?」
「奏真」
その一言に、返事ができなかった。
うまく怒れない。
うまく整理もできない。
でも、なくなったわけじゃない。
その言葉だけが、少しだけ胸の奥に残る。
奏真は目を閉じた。
掲示板の文字が、まだまぶたの裏に残っている。
危険指定対象。
反逆行為。
死亡確認。
どれも自分なのに、自分じゃない。
返したいと思う前に、まず失くしたものの大きさだけが重かった。
風がまた吹く。
地上の風はやわらかいはずなのに、今はそれすら少し遠い。
奏真は膝に腕を置いて、額を押しつけた。
怒っているはずなのに。
許せないはずなのに。
それでも、胸の中はひどく空っぽだった。




