5. 冷たい視線の理由
訓練場の夕方は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
あれほど騒がしかった掛け声も、木剣がぶつかる乾いた音も、今はもう遠くのほうにかすかに残るだけだ。高い石壁の向こうでは空が赤く染まり、王城の塔の影がゆっくりと長く伸びている。
九条奏真は、訓練場の端に積まれた木箱の前でしゃがみ込んでいた。
結界札の束、消耗した魔石、予備の治癒薬、訓練用の木剣。使われた物資をひとつずつ確認し、仕分けて、数を書き留める。今日だけで三度も結界の不具合を見つけたせいか、いつの間にか“物資と補助周りは九条に任せておけ”みたいな空気が出来上がっていた。
ありがたいわけではない。
でも、放っておくとたぶんもっと面倒なことになる。
「……こっちが先だな」
青みの薄い魔石を左へ、深い青を右へ分ける。見た目の差はほとんどないのに、触れた瞬間にわかる。魔力の流れ方が違う。片方は出力補助寄り、片方は循環安定寄りだ。
自分の指先が、知らないはずのことを知っている。
昨日まではなかった感覚だ。
《奪還の王》が影響しているのかもしれないし、ただ異世界に適応した結果なのかもしれない。まだ何もはっきりしない。
「九条」
背後からかかった声に、奏真は振り返った。
霧島悠人が立っていた。
薄い光を反射する眼鏡。感情をあまり表に出さない顔。クラスでも元々理屈屋で、教師の説明の粗を平然と指摘するようなやつだった。異世界に来てからもその性質はまるで変わらない。むしろ、こっちの環境のほうが彼には馴染んでいる気すらする。
「何」
「少し聞きたいことがある」
「今じゃないとだめか?」
「むしろ今がいい。人が少ない」
そう言って霧島は木箱のほうへ視線を落とした。
「整理、終わってるんだな」
「終わらせてる最中」
「充分早い」
褒めているようには聞こえなかった。
事実の確認。ただそれだけ。
奏真は小さく息をつき、木箱の蓋を閉めた。
「聞きたいことって?」
霧島は少しの間、訓練場の中央を見ていた。まだ数人の騎士が後片付けをしているが、こちらまでは聞こえない距離だ。
「今日の模擬探索」
「……うん」
「左通路の幻惑術式、封印扉の順序、中央床の返流亀裂。全部、事前に見抜いていたな」
「見抜いたっていうか、違和感があっただけ」
「違和感、で済ませるには精度が高すぎる」
霧島の言い方は淡々としていたが、その目だけが冷たかった。
その目を見て、奏真はようやく気づく。
ああ、こいつは朝からずっとこの顔をしていたのか、と。
冷たい視線の理由。
それはたぶん、嫌悪ではない。もっと面倒なものだ。
「で?」
奏真はあえて軽く返した。
「俺に何を言わせたい?」
「お前のスキルが、どこまで把握に関与しているのか知りたい」
ど真ん中だった。
遠回しに探るつもりもないらしい。
霧島らしいといえば、らしい。
「知らないよ」
「知らない、では困る」
「困るのはこっちだよ。俺だって自分のスキルについてまともな説明されてない」
「それは知っている」
「知ってるのかよ」
「昨日の呼び出しを見ていればわかる」
霧島は少し近づいてきた。
「教会も王国も、お前の《奪還の王》を隠したがっている。そこまでは確実だ。問題は、それが“危険だから”なのか、“都合が悪いから”なのか、その両方なのかだ」
奏真は一瞬、返す言葉を失った。
自分の中でもうっすら考えていたことを、霧島は躊躇なく言葉にする。
「お前、何か知ってるのか」
「断片的に推測しているだけだ」
「推測でそこまで言うのか」
「今日のお前の動きを見れば十分だ」
霧島はしゃがみ込み、仕分け済みの魔石をひとつ手に取った。
「これは循環安定用だな」
「そうだけど」
「さっきの結界立て直しで、お前は一瞬見ただけでそれを選んだ。しかも理由も合っていた。お前はたぶん“今どうすれば元の状態に戻るか”を感覚的に把握している」
「……」
「壊れたものを直す、乱れたものを戻す、奪われたものを返す。そういう方向の力だと仮定すれば、今日の行動は全部説明がつく」
そこまで言われてしまうと、もう「なんとなく」で逃げるのも難しい。
奏真は壁に背を預けた。
「たぶん、そうなんだと思う」
「たぶん?」
「本当にまだよくわかってない。見えるっていうか、感じるっていうか……本来こうあるべき、みたいなのが先にくる」
「本来、ね」
霧島の声がわずかに低くなる。
「それは厄介だな」
「なんでそうなる」
「その“本来”を決める基準が、お前のスキルにあるからだ」
霧島は魔石を元の位置へ戻した。
「仮に、お前が誰かの加護や契約や権利の歪みまで見抜けるとする。しかも、それを正す方向へ干渉できるとしたら——それは単なる補助じゃない。秩序の上書きに近い」
秩序の上書き。
その言葉が妙に引っかかった。
大げさに聞こえる。
でも、霧島の顔は冗談を言う時のものではない。
「お前、俺を危険視してる?」
聞いてみると、霧島は少しだけ間を置いた。
「している」
あまりにも即答だった。
奏真は思わず乾いた笑いを漏らす。
「正直すぎない?」
「曖昧にしても意味がないからな」
「へえ。じゃあ聞くけど、俺が何かした?」
「まだしていない」
「だったら——」
「してからでは遅い場合がある」
その言い方に、奏真は少しだけ腹が立った。
「それ、最初から“危ないやつだから見張っておけ”って決めてるのと同じだろ」
「決めているのは俺じゃない。王国と教会だ」
「でもお前もそう思ってる」
「思っている」
また即答だった。
霧島は冷たい。
けれど嘘はつかない。
それが余計に厄介だ。
「俺はな」
霧島は壁際に並ぶ結界杭へ視線を向けたまま言った。
「得体の知れない力を楽観視するほど善良じゃない。勇者だろうと聖女だろうと、危険なものは危険だ」
「勇者も危険視してるのか」
「性質が違う。神崎の《勇者》は、この国が歓迎する種類の力だ。強く、わかりやすく、前に立たせやすい」
そこで霧島は、ようやく奏真のほうを見た。
「お前の力は違う。何を正しいと見なすかで、いくらでも敵にも味方にもなる」
たしかに、と思ってしまった自分が少し嫌だった。
言われてみれば、《奪還の王》という名前からして、妙に権限めいている。
奪い返す。取り戻す。本来の場所へ戻す。
もしそれが人の持つ加護や、国家の持つ権威にまで及ぶなら。
王国や教会が嫌がる理由は、たぶんわかる。
「……それでも、最初から雑用係扱いはどうなんだよ」
苛立ちの混じった言葉に、霧島は肩をすくめた。
「前に出せば、お前の異常さがもっと目立つ」
「異常って言うな」
「事実だろ」
「そんなあっさり言われると傷つくんだけど」
「なら訂正する。特異だ」
「そういう問題じゃない」
少しだけ、空気がゆるむ。
霧島は冗談のつもりではなかっただろうが、それでも先ほどまでの張りつめたやり取りよりはましだった。
だが、その直後に彼はまた真顔へ戻る。
「ひとつ確認したい」
「何」
「神崎のことを、まだ信じているのか」
その問いは、予想外に刺さった。
奏真はすぐには答えられなかった。
信じている。
たぶん、今はまだ。
でも、昨日から続く違和感もある。
神崎自身というより、神崎を中心にできあがっていく空気が、妙に嫌だった。
「……友達だから」
答えになっていない答えを返す。
霧島は小さく息をついた。
「それは理由にならない」
「お前にはならないだろうな」
「そうだな」
霧島は否定しなかった。
「俺は昔から、友達だからという理由で判断を鈍らせるのが嫌いだ。神崎も、桐生も、レティシアも、お前も、それぞれ役割と能力で見る」
「それ、寂しいやつだな」
「よく言われる」
さらりと返された。
奏真は少しだけ苦笑し、視線を訓練場中央へ向けた。
神崎がまだ騎士と話している。木剣を肩に担いで、なにか質問に答えながら笑っていた。遠くから見ても、中心にいるのが自然な姿だ。
「神崎はさ」
「何だ」
「いいやつだよ」
霧島は無言だった。
「昔からそうだった。クラスの空気が悪くなりそうな時、あいつが軽くまとめてくれることが多かったし、俺にも普通に接してくれた。誰にでも気さくで、たぶん本当に悪気とかないんだと思う」
「そうかもな」
「だから……今できてるこの変な流れも、神崎が作ったっていうより、周りが勝手に勇者扱いしてるだけだと思いたい」
口にしながら、自分が“思いたい”と言ったことに気づく。
断言じゃない。
願望だ。
霧島もそれに気づいたのか、ほんの少しだけ目を細めた。
「願望と事実は違う」
「わかってる」
「なら、見誤るな」
その言葉を最後に、霧島は立ち上がった。
「今日のところは以上だ」
「……尋問みたいだったな」
「有意義だったろ」
「最悪だった」
「それでも話したのはお前だ」
そう言って霧島は背を向けたが、二歩ほど進んだところで足を止めた。
「九条」
「ん?」
「俺はお前を危険視している。だが、それと同時に——」
そこで珍しく、霧島が少しだけ言い淀む。
「同時に?」
「お前がいないと、この勇者戦闘団はたぶん思っている以上にもろい」
それだけ言って、今度こそ去っていった。
ひとり残された奏真は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
危険視。
特異。
秩序の上書き。
勇者戦闘団のもろさ。
言われたことの一つ一つが、胸の中で嫌な形に沈んでいく。
ただ、その中でも一番残ったのは最後の言葉だった。
——お前がいないと、この勇者戦闘団は思っている以上にもろい。
それはたぶん事実だ。
今日一日だけでもそうだった。結界の揺れも、物資管理も、模擬探索も、裏側を回していたのはほとんど自分だ。
けれどそれは、表に出る評価にはならない。
必要ではある。
でも称賛はされない。
便利だが、代わりはいそうに見える。
そういう位置。
「……最悪だな、本当に」
誰もいない訓練場の端で、奏真は小さく呟いた。
その時だった。
「奏真くん?」
聞き覚えのある女の子の声がした。
振り向くと、少し離れた柱の影に紘川芽衣が立っていた。
黒髪を肩のあたりで揺らしながら、少し戸惑った顔でこちらを見ている。現実世界の教室で見慣れていた制服姿ではなく、王宮で支給された白い服に変わっていても、芽衣だとすぐにわかった。
「あ……紘川」
「ごめん、話してる途中だった?」
「いや、もう終わった」
芽衣はほっとしたように近づいてくる。
そして仕分け途中の箱や、積み上げられた結界札を見て目を丸くした。
「これ、奏真くんがやってたの?」
「まあ、一応」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「朝からずっと見てたの。訓練場、いろいろ止まりそうになるたびに、奏真くんが動いてたから」
その言葉に、妙な気恥ずかしさがあった。
見ていたやつはいたんだな、と思う。
少なくともひとりは。
「神崎くん、すごく目立ってるけど」
芽衣は少し言葉を選うように間を置いた。
「……ちゃんと見てたら、奏真くんがいないと回ってないの、わかるよ」
その一言は、思ったよりずっと胸にきた。
誰かに評価されたかったわけじゃない。
でも、見えていないことにされるのはやっぱり嫌だったらしい。
「そう言ってくれるやつがいて助かる」
奏真が苦笑すると、芽衣も少しだけ笑った。
けれどそのあと、表情はすぐ真剣になる。
「でも、気をつけて」
「え?」
「今日、神官の人たち……奏真くんを見る目、ちょっと変だった」
その言い方が、ついさっきの霧島と少し似ていて、奏真は思わず肩をすくめた。
「それ、今日だけで三人くらいに言われた」
「三人も?」
「霧島と、レティシアと、今ので紘川」
芽衣は目を瞬かせてから、少しだけ困ったように笑う。
「それは……たぶん、本当に気をつけたほうがいいやつだね」
「だろうな」
夕焼けの赤が、柱の影を少しずつ伸ばしていく。
芽衣は少し迷ってから、静かに言った。
「神崎くんも、昨日からちょっと変」
奏真はその言葉に反応しかけて、でも何も返せなかった。
芽衣は神崎の幼馴染だ。
その芽衣が“変”と言うなら、何かあるのかもしれない。
「……どう変なんだ?」
「うまく言えないけど、余裕がない感じ。勇者って言われてから、みんなの前ではいつも通りに見えるのに、ふとした時だけ怖い顔する」
その言葉を聞いて、霧島の問いが蘇る。
——神崎のことを、まだ信じているのか。
信じたい。
でも、違和感は確かにある。
芽衣はそれ以上は言わず、代わりに木箱のほうを見た。
「手伝うよ」
「いや、もうだいたい終わってる」
「でもひとりでやるより早いでしょ」
そう言って芽衣は、結界札の束をそっと手に取った。
奏真は少し迷ってから、頷く。
「じゃあ、それは短時間用と常時補助用で分けてくれる?」
「……違い、見てわかる?」
「紋様の外枠がちょっと違う。ほら、こっちが二重線で、こっちは端が欠けてる」
「本当だ。よく見てるね」
「見えてしまう、が近い」
「それ、やっぱりスキルの影響?」
「たぶん」
たぶん、ばっかりだね、と芽衣が小さく笑った。
その笑い方が、少しだけ昔の教室を思い出させる。
異世界に来てからずっと張っていた気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ふたりで物資を片付ける時間は、思ったより静かで楽だった。
芽衣は手際がいいわけではないけれど、雑には扱わない。
奏真が説明すると、ちゃんと見て、ちゃんと覚えようとする。
こういうところ、前から変わらないなと思った。
「ねえ、奏真くん」
「ん?」
「その……無理しすぎないでね」
芽衣は札を並べる手を止めたまま言った。
「たぶん、今いちばん頑張ってるの奏真くんだと思う。でも、頑張ってる人ほど、後回しにされることあるから」
その言葉は、まっすぐ胸に入ってきた。
教室でもそうだった。
文化祭でも、体育祭でも、目立たない裏方は後回しにされやすい。芽衣は、そういうのを見ているやつだった。
「……ありがとう」
奏真が言うと、芽衣は少し照れたように目を逸らした。
「別に。ただ、見てる人は見てるよって言いたかっただけ」
その一言だけで、今日一日分のもやもやが少しだけ軽くなった。
だが、訓練場を出る直前。
ふと、入口のほうを見ると、そこに神崎が立っていた。
いつからいたのかわからない。
夕暮れの逆光で表情はよく見えない。
でも、こちらを見ていたのは間違いなかった。
「恒一?」
芽衣が先に気づいて声をかける。
神崎は一拍遅れて、いつもの笑顔を作った。
「いや、探してた。もう戻るかと思って」
「うん、今終わるところ」
「そっか」
それだけの会話だった。
なのに、なぜか妙に胸がざわつく。
神崎は奏真のほうを見て、いつも通りの軽い調子で言った。
「九条、今日ありがとな。結構助かった」
「……別に」
「また明日も頼りにしてる」
その言い方は自然だった。
自然すぎて、逆に何も読めない。
けれど芽衣と並んでいる自分たちを見た瞬間の、あの一瞬だけ遅れた反応だけが、頭に残った。
笑顔になる前の、ほんのわずかな空白。
あれが何だったのか、奏真にはまだわからない。
でもその夜、奏真が部屋へ戻ってからも、訓練場の端で交わした霧島の言葉と、芽衣の言葉と、神崎の一瞬の沈黙が、ずっと頭の中に残り続けていた。
冷たい視線の理由は、ひとつじゃないのかもしれない。
王国も教会も、自分を警戒している。
霧島はそれを理屈で見ている。
レティシアや芽衣は、そこに不安を感じている。
そして神崎は——。
そこまで考えかけて、奏真は思考を止めた。
まだ決めつけるには早い。
そう思いたかった。
ただ、今日の訓練でひとつだけはっきりしたことがある。
自分のスキルは、王国が言うような“扱いの難しい補助”なんかではたぶんない。
もっと深く、もっと厄介で、もっと都合が悪い何かだ。
そして、それに最初に気づいたのは——たぶん、霧島悠人だった。
その夜、王城の一室で。
「九条奏真の本日の行動記録です」
差し出された報告書に、神官長は目を通した。
結界異常の指摘。
魔石の適切な選別。
模擬探索における罠と封印順序の看破。
読み進めるうちに、その老いた目がゆっくり細くなる。
「……想定より早いな」
隣にいた神官が低く尋ねた。
「発現ですか」
「兆候、だ。だが十分に早い」
「勇者戦闘団から外しますか?」
神官長は短く首を振った。
「いや。近くに置け」
「しかし、勇者と接触を深めるのは危険では」
「だからこそだ」
神官長は報告書を閉じた。
「勇者の隣に置いておけば、使えるうちは使える。監視もしやすい。必要なら——切り離すのも簡単だ」
燭台の火が揺れる。
その結論が、誰かひとりの運命を決めるには、あまりにも冷たかった。
俺に向けられていた冷たい視線の理由を、
この時の俺はまだ、半分も知らなかった。




