43.三人目の足音
保全区画へ戻るまでの道は、行きよりずっと長く感じた。
セレスは軽かった。
軽すぎた。
腕の中にある体温はかすかで、ちゃんと生きているのに、どこか現実感が薄い。長い時間、あの封圧区画で眠るみたいに固定されていたのだろう。今こうして支えていても、少し力を抜けば、そのまま消えてしまいそうな危うさがあった。
「大丈夫か」
歩きながら小さく聞くと、セレスは奏真の肩に額を預けたまま、ほんの少しだけうなずいた。
「……へいき、じゃないけど」
「だろうな」
そう返しながら、奏真は足元を見る。
通路の段差。
右側のひび。
奥のぬめり。
アリシスが次々に情報を返してくる。
左側通行推しょう。
足場安定。
周辺危険度:低。
今までなら、自分のために使っていた眼だ。
けれど今は違う。腕の中の少女を落とさないため、無理に揺らさないため、少しでも安全な道を選ぶために自然と使っている。
その感覚が妙にしっくりきた。
『前方、段差』
ノアが短く言う。
「見えてる」
そう返してから、奏真は少しだけ笑った。
「……いや、ありがとな」
『補助行動です』
「それでも」
ノアは何も言わなかった。
けれど、いつもより一瞬だけ歩く速度がゆるんだ気がした。
ようやく保全区画へ戻ると、奏真はゆっくりセレスを台の上へ横たえた。
青白い光柱の明かりが、彼女の白い顔を静かに照らす。
近くで見ると、やっぱり細い。
手首なんて驚くほど華奢だ。あんな拘束を長く受けていれば、こうもなるのかと胸が重くなる。
「……ノア、この光、少しは役に立つんだよな」
『保全補助としては有効です。即時回復は不可能ですが、環境安定と最低限の循環補助が可能です』
「最低限でもいい。今はそれで十分だ」
奏真は台の脇へ腰を下ろした。
セレスはまだ目を閉じている。けれど眠っているというより、意識と体がまだつながりきっていない感じだった。たまにまつ毛がかすかに揺れて、そのたびに今ここにいるとわかる。
しばらく静かな時間が流れた。
奈落の底だというのに、この部屋だけは少しだけ落ち着いている。
魔物の気配も今は遠い。青い光のゆるい音だけが、部屋の中を満たしていた。
「……変な感じだな」
奏真がぼそっと言うと、ノアがこちらを見る。
『何がですか』
「ついさっきまで、俺とお前の二人だっただろ」
『はい』
「それが、今は三人になってる」
自分で口にしてみて、妙に実感がわいた。
三人。
奈落に落ちた直後は、本当に一人だった。
何もない。誰もいない。理由もわからないまま落とされて、死にかけて、気味の悪い眼だけが目覚めた。
そこへノアが現れた。
そして今、セレスがいる。
それはたぶん、思っている以上に大きい変化だった。
『人数の増加は事実です』
「言い方」
思わず笑ってしまう。
ノアはやっぱりノアだ。
でも、その変わらなさも今は悪くない。
その時、台の上でセレスが小さく身じろぎした。
奏真はすぐ顔を向ける。
「セレス?」
ゆっくりと、セレスの目が開く。
淡い蒼。
薄い光を閉じこめたみたいな、静かな色だった。
焦点が合うまで少し時間がかかった。
けれど、視線はまっすぐ奏真を探し、見つけた瞬間に少しだけやわらいだ。
「……いた」
「いるよ。勝手に消えたりしない」
そう返すと、セレスはごく小さく息を吐いた。
安心したみたいな顔だった。
奏真はちょっと困る。
そんなふうにまっすぐ安心されると、どうしていいかわからない。
「気分は」
「まだ……ふわふわする」
「だろうな」
「でも……さっきより、ちゃんとここにいる感じがする」
その言葉に、奏真は少しだけ肩の力を抜いた。
「ならよかった」
セレスは少しだけ首を動かし、部屋の中を見た。
青い光。
白い壁。
ノア。
それからまた奏真へ戻る。
「……ここ、どこ」
「奈落の保全区画らしい」
「らしい?」
「俺もまだ全部知ってるわけじゃないからな」
その返しに、セレスはほんの少しだけ目を丸くした。
それから、かすかに笑った。
「変なの」
「よく言われる」
『私は言っていません』
「お前は黙ってろ」
間髪入れず返すと、セレスの肩が小さく揺れた。
たぶん笑ったのだ。
その反応を見て、奏真は少しだけほっとした。
大丈夫そうだ。
もちろん、まだ立てるような状態じゃない。でも、ちゃんと会話できている。心まで壊されきっていたわけじゃない。
それが何より大きかった。
「セレス」
「……ん」
「今すぐ無理に思い出さなくていい。けど、聞けそうなら聞きたいことがある」
「あると思った」
少しだけいたずらっぽい言い方だった。
けれど声はまだ弱い。
「お前、どれくらいあそこにいた」
その問いに、セレスは少しだけ黙った。
目を伏せる。
呼吸が浅くなる。
奏真はすぐに手を上げた。
「無理ならいい」
「……時間は、わからない」
「そっか」
「長かった、とは思う」
その一言で十分だった。
長かった。
それだけで、どれだけのものを奪われてきたのか想像できる。
「ここが何の場所かは」
「……ぜんぶは、わからない」
「でも何かに使われてた?」
「うん」
セレスは自分の胸元に手をやろうとして、まだうまく動かせず少しだけ顔をしかめた。
「わたし、つながれてたの。流されるために」
「流される?」
「たぶん……何かを動かすため。わたしの力を、別の場所へ」
奏真の顔が少し険しくなる。
予想はしていた。
でも、実際に口にされると腹の立ち方が違う。
「やっぱり使ってたのか」
「うん。でも……細かいことは、まだうまく思い出せない」
セレスはそう言って目を閉じた。
当然だろう。長く固定されて、意識まで沈められていたのだ。目が覚めたばかりで全部きれいに話せるほうがおかしい。
「いい。今はそれで十分だ」
奏真はそう言ってから、少しだけ迷った。
どう声をかければいいのかわからない。
慰めるのも違う。軽く流すのも違う。
だから、いちばん思ったことをそのまま言うことにした。
「お前をああしたやつは、たぶん俺も嫌いなやり方してる」
セレスがゆっくり目を開く。
「嫌いな、やり方」
「人を人として見ないやり方だよ。使える形にして、都合よく固定して、勝手に正しそうな顔するやつ」
自分でも、驚くくらい素直に言葉が出た。
王国。
教会。
神崎。
全部が一つに重なるわけじゃない。
でも、“都合よく扱う”ってところだけは同じ匂いがする。
セレスはしばらく奏真を見つめて、それから小さくうなずいた。
「……じゃあ、たぶん」
「ん?」
「あなたは、きらいじゃない」
あまりにもまっすぐ言われて、奏真は言葉に詰まった。
ノアが横で静かに口を開く。
『依存傾向増加の可能性』
「だから今それ言うなって!」
思わず即座に返してしまう。
セレスがまた少し笑った。
今度はさっきより、はっきりと。
その笑いを見て、奏真は少しだけ肩の力を抜く。
よかった。
ちゃんと、笑えるなら。
「……とりあえず、今日は休め」
「うん」
「動けないうちは無理するな」
「うん」
「あと、急にどっか行くなよ」
「行けないと思う」
それもそうだ、と奏真は苦笑する。
奈落の底。
保全区画。
古代施設。
謎の相棒と、封印から解かれたばかりの少女。
状況はめちゃくちゃだ。
でもそのめちゃくちゃさが、今は少しだけ心地よかった。
完全な一人じゃなくなったからだ。
奏真は立ち上がり、部屋の入口へ視線を向ける。
「ノア」
『はい』
「この辺の安全確認、もう一回できるか」
『可能です』
「頼む。俺はここで見てる」
ノアはうなずき、音もなく部屋を出ていく。
その背中を見送ってから、奏真はセレスのほうを見た。
「……三人、か」
小さくこぼす。
セレスが目を細める。
「三人」
「ああ。俺とノアと、お前」
「へんな組み合わせ」
「ほんとにな」
でも悪くない、と奏真は思った。
奈落の底で出会った三人。
理由も立場もバラバラで、まともじゃない組み合わせだ。
けれど、不思議ともう“ただの偶然”じゃない気がしていた。




