42.名を呼ぶひと
首元の抑制線に指先が触れた瞬間、奏真の背筋にぞくっとした感覚が走った。
ここだけ、少し違う。
手首や足首の拘束が“動きを止めるもの”だったのに対して、これはもっと深い。反応そのものを押さえつけて、目を覚ますことすらゆるさない感じがあった。
「……一番嫌なやつだな」
小さくつぶやくと、ノアが短く答える。
『同意します』
今日は本当によく同意するな、と思いながらも、奏真は集中を切らさなかった。
アリシスが細かく流れを見せる。
首部抑制線。
精神反応・覚醒反応、制限。
単純破壊、非推しょう。
左側接続点より解除可能。
「左側……ここか」
少女の首筋の少し横。
細い光の結び目みたいな場所がある。
そこへ《奪還の王》を流す。
壊すんじゃない。
戻す。
本来いらないつながりを外す。
今までよりずっと慎重に、少しずつ。
光の線が震えた。
嫌な抵抗が指先に伝わる。まだこれを手放したくない、とでも言うような粘ついた感触。
「……うるさい」
思わず低く言って、奏真はさらに熱を流す。
《奪還の王》が強く脈打つ。
その瞬間、ぱきん、と小さな音がして、首元の線がふっと消えた。
空気が変わる。
今まで少女のまわりに張りついていた重さが、一気に薄くなった。
『抑制線、解除確認』
ノアの声が響く。
それとほぼ同時に、少女の指先がぴくりと動いた。
「……っ!」
奏真は息をのむ。
目が開くかもしれない。
そう思った次の瞬間、少女の体がふらりと傾いた。
「危なっ」
反射的に手を伸ばす。
完全に拘束が解けたせいで、支えを失ったらしい。奏真は落ちてくる細い体をどうにか受け止めた。
軽い。
驚くくらい軽かった。
長い間まともに動けなかった人間の軽さだと、すぐにわかる。
腕の中におさまった少女は、ひどく冷たかった。
けれど、死んでいる冷たさじゃない。弱いけど、たしかに生きている体温だ。
『対象、覚醒反応上昇』
ノアの声が続く。
『生命活動、安定方向へ移行中』
「よかった……」
その言葉は、自然にこぼれた。
自分でもびっくりするくらい、素直に安心していた。
少女はまだ完全には目を開けない。
けれど、眉がかすかに寄る。呼吸も前より少しだけ深くなった。
奏真は床へゆっくり膝をつき、彼女を支えたまま顔をのぞきこむ。
「聞こえるか」
返事はない。
けれど、長いまつ毛がわずかに震えた。
「大丈夫だ。もう……少なくとも、さっきまでよりは大丈夫だ」
何をどう言えばいいのかわからない。
こういう時の正解なんて知らない。
でも、黙っているよりはましだと思った。
少女の唇がかすかに動いた。
声にならない。
空気がふれるような、小さな気配だけ。
奏真は少し顔を近づける。
「……何?」
ほんの少しの間。
それから、細い声が落ちた。
「……だれ」
消えそうなくらい小さい声だった。
それでも、たしかに言葉だった。
奏真は一瞬だけ返事に詰まる。
名前を聞かれるのなんて、地上にいた頃は当たり前だったはずなのに。今は妙に重い。
王国では危険な裏切り者にされているかもしれない自分。
奈落に落とされた自分。
でも、今この瞬間だけはそんなことは関係ない。
目の前の少女にとって、自分は“今助けた相手”だ。
「……九条奏真」
静かに名乗る。
「お前は?」
少女はうっすらと目を開いた。
きれいな色だった。
薄い光を閉じこめたみたいな、淡い蒼。
その目が、最初に見るものとして奏真を選ぶ。
焦点はまだ少しあいまいなのに、それでもまっすぐだった。
「……セレス」
息みたいな声で、少女はそう言った。
「セレスティア……ヴァレイン……」
「セレス、か」
その名前を口にした瞬間、少女――セレスの目がわずかに揺れた。
たぶん、誰かに名前を呼ばれるのが久しぶりなのだ。
そう思った瞬間、胸がまた少し重くなる。
名前すら、ちゃんと呼ばれないままここにいたのかもしれない。
「……セレス」
もう一度、今度は少しだけはっきり呼ぶ。
「もう大丈夫……とは、まだ言えないけど」
自分でも何を言ってるんだと思う。
けど、変に立派なことを言うのは違う気がした。
「少なくとも、もうあれにはつながれてない」
セレスはじっと奏真を見た。
その視線は細くて弱い。
でも、不思議なくらい強くこちらをつかんでくる。
「……あなた、が」
声がかすれる。
「ほどいて……くれたの」
「そうなるな」
奏真が答えると、セレスのまぶたが少しだけ下がった。安心したみたいに見えた。
その反応を見て、奏真は妙に落ち着かなくなる。
助けた。
それだけだ。
でも目の前の少女にとっては、きっとそれだけじゃない。
長い時間、自由をうばわれていた。
声も、動きも、たぶん心まで。
そこから最初に見た相手が自分なら、こういう目にもなるのかもしれない。
『対象の依存傾向増加の可能性があります』
横からノアが淡々と言った。
「今それ言うな!」
『観測結果です』
「空気を読め!」
『読めません』
あまりにも真顔で言うので、奏真は思わず変な声を漏らしそうになる。
そのやり取りのせいか、セレスがほんの少しだけ目を丸くした。
そして、ごくわずかに口元が動く。
笑った……のかもしれない。
「……動けるか?」
奏真が聞くと、セレスはゆっくり首を横に振った。
「まだ……むり」
「だよな」
見ればわかる。
長く固定されていた体だ。いきなり立てるはずがない。
奏真はセレスの肩を支えたまま、ノアを見る。
「休ませられる場所、戻れるか」
『可能です』
「なら一回戻る」
セレスをここに置いたままにはできない。
また何かが起きても困るし、何より今の彼女はひとりで立つことすら無理だ。
奏真は慎重に腕を回し、セレスの体を支え直した。
「ちょっときついかもしれないけど、運ぶ」
セレスはかすかにうなずく。
その目は、まだずっと奏真を見ていた。
不安そうでも、警戒しているわけでもない。
ただ静かに、強く見ている。
その視線に、奏真は少しだけ困ったように息を吐いた。
「……そんなに見るなよ」
「だって……」
セレスの声はまだ細い。
「最初に……名前を呼んでくれた」
その一言に、奏真は返事ができなかった。
奈落の底。
封じられていた少女。
解いたのは自分。
それだけの話なのに、その言葉は妙に重かった。
そしてその重さは、嫌じゃなかった。
ノアが先に歩き出す。
『帰還経路を確保します』
「頼む」
奏真はセレスを支えながら立ち上がった。
軽い。
けれど、その軽さが逆に怖い。
どれだけ長く、ここにいたんだろうと思う。
通路へ戻る前、奏真は一度だけ封圧区画を振り返った。
ほどけた光の輪。
切れた接続。
静かになった膜。
あの場所には、たしかに“奪われていたもの”があった。
そして今、自分はそれを少しだけ返した。
その実感は、奈落の冷たさの中で静かに熱を持っていた。




