34.前よりも今
戦いのあと、奏真たちはいったん保全区画まで戻った。
魔物を倒した高ぶりは少しずつ落ち着いてきたが、その代わりに疲れがどっと押し寄せる。手も足も重い。傷もずきずきする。けれど、気分は不思議なくらい沈んでいなかった。
勝ったからだ。
しかも、自分で。
台に腰を下ろし、奏真は天井を見上げた。
青白い光が静かに流れている。奈落の底だというのに、この部屋だけは少しだけ時間の流れが違うみたいだった。
「……前よりは、ちゃんと立ててるな」
ぽつりとこぼれる。
『比較対象は過去の自分ですか』
「そう」
ノアは少しの間黙ってからうなずいた。
『変化しています』
短い言葉だった。
でも、その一言は妙に心に残る。
変わった。
少なくとも、落とされる前の自分のままじゃない。
地上にいた頃のことを思い出す。
神崎が前に立っていた。
王国も教会も神崎を勇者として見ていた。
自分はその後ろで、見えないところを支える役だった。
それでいいと思っていた。
そういうものだと思っていた。
自分が目立つ必要はない。
前に立つのは、もっと勇者らしいやつがやればいい。自分は足りないところを埋めればいい。そうすれば全体が進む。そう考えていた。
今思えば、それは楽でもあったのかもしれない。
決めるのは自分じゃない。
責任を取るのも前のやつだ。
自分は見て、支えて、足りないところを埋めればいい。
でもその結果が、奈落だった。
知らないまま動いて、知らないまま使われて、最後は知らないまま切り捨てられた。
「……だせえな」
思わず口に出る。
自分への悪口だった。
見えてなかったわけじゃない。
たぶん、見ようとしてなかった。
神崎の違和感も。
紘川の顔も。
レティシアの言い方も。
王国と教会の目も。
全部どこかで引っかかっていたのに、“そこまではしない”と勝手に決めていた。
その甘さが、今になって胸に残る。
「……でも」
奏真は右手を開いて、握る。
今は違う。
アリシスで見える。
自分の傷も、魔物の弱点も、術式のゆがみも。
ノアと話して、王国や教会が持っていたものが“本来の形”じゃないと知った。
そして何より、自分で戦って、自分で勝った。
それは小さな差かもしれない。
でも、前の自分にはなかったものだ。
『何を考えていますか』
ノアの問いに、奏真は少しだけ考えてから答えた。
「前の俺ってさ、たぶんずっと“後ろでいい”と思ってたんだよ」
『勇者の補助、という立場ですか』
「うん。神崎が前に立って、俺は後ろで支える。そういう形でいいと思ってた。……いや、思いこんでたのか」
言葉にしてみると、思ったよりしっくりきた。
あの形は自然じゃなかった。
都合がよかっただけだ。王国にも、教会にも、たぶん神崎にも。
そして、自分にも。
責任を持たなくて済むから。
前に出なくて済むから。
見ないふりもできたから。
『現在は異なりますか』
「違うな」
奏真はすぐ答えた。
「今は、自分で見ないと死ぬ。自分で決めないと進めない。自分で立たないと、ほんとに終わる」
奈落はわかりやすい。
厳しい。
理不尽だ。
でも少なくとも、見ないまま進める場所じゃない。
だからこそ、今の奏真には合っているのかもしれないとさえ思う。
その考えに自分で少し驚いて、苦笑する。
「奈落のほうが合ってるって、最悪だな」
『環境適性の話であれば、現時点では否定できません』
「慰める気ないだろ、お前」
『慰める場面ですか』
「いや、今のはいい」
奏真は小さく笑った。
神崎の理由はまだわからない。
そこは変わらない。
どうして自分を落としたのか。
何をそこまで見ていたのか。
どこから壊れていたのか。
まだ見えない。
でも、今の自分なら、いつかちゃんとそこを見に行ける気がした。
感情だけで怒るんじゃなく、ちゃんと見て、ちゃんと知って、そのうえで返す。
そのために必要なものを、少しずつ奈落の底で拾い始めている。
「……前よりは、今のほうがましだ」
自然と、そう口にしていた。
『肯定します』
「ほんと、それ好きだな」
『簡潔です』
「まあな」
奏真は立ち上がる。
まだ痛い。
でも、動ける。
前の自分なら、ここまで来てもまだ“誰かの後ろ”を探していたかもしれない。
でも今は違う。自分で前を見て、自分で足を出すしかない。
その事実を、少しだけ誇ってもいい気がした。
「ノア」
『はい』
「次、行こう」
『どの方向を希望しますか』
「もっと奥。見えるものが増えそうなとこ」
『了解しました』
ノアはすぐに向きを変えた。
奏真もその後を追う。
青白い光の中、奈落の奥へ向かって歩きながら、奏真は胸の奥の熱を静かに感じていた。
まだ全部はわからない。
でも、前の自分よりはずっとましだ。
それだけで、今は十分だった。




