33.ひとりで立つ
保全区画から少し離れた通路は、また奈落らしい空気に戻っていた。
青白い光はある。
けれど、整った管理域の静けさとは違う。ぬめった岩、湿ったにおい、どこから何が出てくるかわからない気配。少し気を抜けば、すぐにでも命を持っていかれそうな感じがある。
『この先は補助区画の外縁です』
ノアが静かに言った。
『管理域の保護が薄くなります』
「つまり、また魔物が出やすいってことか」
『はい』
奏真は腰の武器に手をやる。
前よりまし。
そう思っても、怖いものは怖い。
けれど、今はそれでいいとも思う。怖さが消えないからこそ、ちゃんと見ようとする。ちゃんと判断しようとする。
通路の先で、小石が転がった。
反射的に二人とも足を止める。
アリシスが動く。
生体反応。単独。危険度:中。
待ち伏せ傾向。上方注意。
「上か」
奏真が顔を上げるのと、影が落ちてくるのはほぼ同時だった。
黒い塊。
猿みたいな体つきだが、腕が長すぎる。皮膚はなく、筋肉の上を黒い膜が薄く覆っているみたいな気味の悪い姿だった。口が大きく裂け、青白い牙が見える。
奏真は横へ飛ぶ。
影の魔物が床へ着地した瞬間、石が砕けた。
「っ……!」
思ったより重い。
ただ速いだけじゃない。
アリシスが次の情報を流し込む。
跳躍型奈落魔物。危険度:中。
上肢発達。正面打撃高威力。
左膝部損傷痕あり。可動にぶり。
連続跳躍前、肩部収縮。
左膝。
肩が縮んだら跳ぶ。
奏真は息を整える。
魔物は低くうなりながら、四つ足みたいな体勢でじりじり近づいてくる。右へ、左へ、フェイントみたいに揺れて、飛びつく角度を探っていた。
前より速く見える。
いや、違う。前より“わかる”から、速くても見失わないだけだ。
肩が沈む。
来る。
奏真は左へ踏み込みかけて、そこで止めた。魔物の跳ぶ角度がわかっている。大きくかわすより、少しだけずらしたほうがいい。
影が飛ぶ。
ぎりぎりまで引きつけて、半歩だけ横。
通りすぎる体に、新しい武器を振り下ろす。狙うのは左膝。
ざく、と浅い手ごたえ。
完全には入らない。だが、魔物の体勢が一瞬ぶれた。
「よしっ」
その言葉に自分で驚く。
焦りだけじゃない。今の一撃は狙って当てた。
魔物が着地し、すぐに振り向く。
裂けた口から低い声を漏らし、今度は真正面から突っこんできた。
腕が長い。
まともに振られたら危ない。
奏真は武器を構えながら、心の中で数える。
肩。
腕。
足。
左膝のにぶり。
アリシスがまた動く。
踏み込み直後、上体開く。胸部中央、一瞬無防備。
「……そこ!」
魔物の腕をかいくぐるように低く入る。怖い。ほんの少しでも遅れたら頭を持っていかれる。けれど、今は見えている。
踏み込み。
上体が開く。
胸の中央。
武器を突き上げる。
金属が肉を割く感触。
魔物が大きくのけぞった。
けれどまだ倒れない。
腕を振り回して反撃してくる。
奏真はとっさに距離を取るが、肩口をかすめられた。痛みが走る。だが浅い。
『左へ』
珍しく、ノアが短く言った。
奏真は迷わず左へ跳ぶ。
その直後、ノアの放った青い閃光が魔物の顔の横をかすめた。怯んだ。ほんの一瞬だけ。
十分だ。
奏真は踏み込む。
今度は胸じゃない。左膝。
傷ついた足をもう一度切り払う。
ぐしゃ、といやな音がして、魔物の体勢が大きく崩れた。
前のめりになったところへ、最後に頭の付け根を叩き込む。
鈍い衝撃。
魔物は二、三度けいれんして、そのまま動かなくなった。
静かになる。
奏真は武器を構えたまま、しばらくその場から動けなかった。
終わった。
勝った。
しかも今回は、前みたいな“運よく生き残った”じゃない。
ちゃんと見て、ちゃんと崩して、ちゃんと勝った。
「……ひとりで」
思わずそんな言葉が出る。
もちろんノアの援護はあった。
でも戦いの中心は、自分だった。
地上では、自分が前に立つことなんてほとんどなかった。罠を見て、流れを見て、足りないところを埋める。そういう役だった。
けれど今は違う。
見て、動いて、勝つ。
その全部を自分でやった。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
『戦闘終了を確認』
ノアが近づいてくる。
『損傷は軽微です』
「……今の、かなりでかかったな」
『対象の勝利、という意味ですか』
「そう、それ」
奏真は息を吐き、武器を下ろした。
「前よりちゃんと戦えた」
『肯定します』
「その言い方、ほんと便利だな」
『事実です』
その返しに、小さく笑う。
そして、目の前の死体を見る。
アリシスがまた反応した。
筋肉組織、食用非推しょう。
爪部、素材価値あり。
魔石小。
「食えないんだな……」
『残念ですか』
「ちょっとだけ」
素直にそう言うと、ノアはほんのわずかに目を細めた。
たぶん、まだ笑ってはいない。けど、前より表情が動くようになってきた気がする。
奏真は魔石だけ回収し、立ち上がった。
足がまだ少し震えている。
でも、それは恐怖だけじゃない。戦ったあとの高ぶりも混ざっていた。
奈落の底で、自分はちゃんと立てるかもしれない。
そう思えたのは、これが初めてだった。




