22. 残った手
右手の震えが、なかなか止まらなかった。
神崎恒一は、自分の手のひらをじっと見下ろしていた。
白い。
少しだけ、血の気が引いている。
いつもと同じ、自分の手だ。剣を握る手。クラスメイトの肩を叩く手。王国で“勇者の手”と呼ばれたことすらある手。
なのに今は、それが別のものみたいに見えた。
押した。
確かに、この手で押した。
石台の縁。
九条の背中。
一瞬だけ振り向いた顔。
理解できていない目。
そして、落ちていく身体。
そこまで思い出したところで、喉の奥がひどく乾いた。
「……神崎くん」
か細い声がした。
振り向くと、レティシアが少し離れた場所に立っていた。顔色はまだ悪い。いや、悪いなんてものじゃない。青ざめている。今にも倒れそうなくらいだ。
神崎は反射的に口を開く。
「俺は——」
「今は、少しだけ……ひとりにしてあげてください」
レティシアが言ったのは、自分に向けた言葉じゃなかった。
背後にいた騎士たちへ向けたものだった。
騎士団長代理は眉をひそめたが、すぐに神官長のほうへ視線を送る。神官長はわずかに目を細め、それから静かに頷いた。
「勇者殿もお疲れだ。いったん休ませろ」
口調は穏やかだった。
だが、その目には何の感情も浮かんでいない。
神崎はその視線が嫌だった。
九条が落ちた直後だというのに、あまりにも冷静すぎる。
驚きも、怒りも、動揺もない。
最初からこうなることを想定していた人間の目だった。
そのことに気づいてしまった瞬間、背筋に冷たいものが走る。
だが、考えないようにした。
考えたら駄目だ。
今はまだ。
「神崎くん」
今度は、もっと近くから声がした。
振り向けば、紘川芽衣がそこにいた。
目が合った瞬間、神崎の胸がわずかに浮く。
けれど次の瞬間、その期待は完全に潰えた。
芽衣の目には、神崎の知っている色が一つもなかったからだ。
心配も、困惑も、戸惑いもない。
あるのは、恐怖と、拒絶と、信じられないものを見る目だけだった。
「……芽衣」
神崎は無意識に一歩近づこうとした。
芽衣は一歩下がった。
それだけだった。
それだけなのに、心臓を素手で握られたみたいに痛かった。
「今、近づかないで」
静かな声だった。
叫ばれたわけじゃない。
責め立てられたわけでもない。
なのに、その一言のほうがずっときつい。
「違うんだ、芽衣。俺は——」
「違わないよ」
芽衣は首を振った。
「見てたから」
その言葉で、神崎の喉が詰まる。
見られていた。
全部。
自分が九条の背に手をかけた瞬間も、押した瞬間も、落ちていくのを見ていたことも。
「九条くん、神崎くんのこと……最後まで信じてた」
その言葉は、怒鳴り声よりも鋭かった。
神崎は何も返せない。
違う。
違うんだ。
そう言いたいのに、何が違うのか自分でもわからなかった。
九条が最後まで自分を信じていたのは、本当だ。
だから押せた。
だから、落ちた。
そこまで思考が行き着いたところで、胃の底がひっくり返りそうになる。
「芽衣、俺はあいつを——」
「今、その呼び方しないで」
神崎の言葉はそこで切れた。
芽衣の声は震えていた。
でも、その震えは未練じゃない。怒りと恐怖の震えだ。
「神崎くん、自分が何したかわかってる?」
「……わかってる」
「わかってないよ」
芽衣の目が揺れる。
「わかってたら、そんな顔できない」
そんな顔。
神崎は一瞬、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
泣きそうなのか。怒っているのか。必死なのか。
たぶん全部だ。
芽衣はもう神崎を見ていなかった。
その視線は、奈落の口へ向いていた。
九条が落ちた暗闇へ。
「……九条くん」
小さなその声が、やけに遠く聞こえた。
神崎はそれ以上そこにいられなくなって、ゆっくり背を向けた。
足元が少し揺れる。
呼吸が浅い。
胸の奥に、嫌な重さが沈んだままだ。
広間を出て、少し離れた細い通路に入る。
誰もいない。石壁だけが冷たく並んでいる。
そこでようやく神崎は壁にもたれた。
「……っ」
吐き気が込み上げる。
しかし何も出ない。
ただ喉の奥がひどく苦くて、胃が縮む。
目を閉じると、九条の顔が浮かんだ。
驚いていた。
怒ってはいなかった。
最後の最後まで、“神崎?”という顔だった。
それがたまらなく腹立たしくて、たまらなく気持ち悪くて、同時に今になって胸の奥を抉ってくる。
「……なんであんな顔するんだよ」
誰もいない通路で、神崎は低く呟いた。
怒鳴る気力もなかった。
九条はいつもそうだった。
前に出ない。
目立たない。
自分がどれだけ必要か、まるでわかってないみたいな顔をする。
なのに、気づけば一番面倒なところを全部やっている。
罠も、結界も、封印も、補給も。
神崎たちが“勇者戦闘団”として立っていられたのは、結局あいつが裏で全部拾っていたからだ。
それが最初は、ただの便利さだった。
助かるな、と思っていた。
友達として、ありがたいとも思っていた。
でも異世界に来てから、全部が変わった。
神崎は勇者になった。
《勇者》。
その文字が刻まれた瞬間の高揚は、今でも忘れられない。
王国の騎士たちが膝をつき、神官たちが頭を垂れ、教会が神託を口にする。
みんなが自分を見る。
自分こそが選ばれたのだと、世界そのものに肯定された気がした。
やっぱり自分は選ばれる側なんだ、と。
そう思った。
思ったはずだった。
なのに、進むほどに現実は違った。
前に立つのは自分。
剣を振るうのも自分。
称賛されるのも自分。
でも、進めているのは違う。
九条だった。
罠に気づくのも。
魔力の異常を見るのも。
封印の歪みを見抜くのも。
道を作るのも。
全部、九条だった。
神崎は何度も感じた。
口には出されない視線。
誰も言わないけれど、確かにそこにある気配。
——勇者なのに。
——あいつがいないと進めないのか。
その感覚が、耐えられなかった。
「……気持ち悪かったんだよ」
壁に拳を押しつけながら、神崎は吐き捨てるように言った。
助けられるのが。
勇者である自分が、裏方の九条に支えられている現実が。
しかも九条は、そこに何の悪意もない顔をしている。
恩に着せるわけでもない。
自分を売り込むわけでもない。
ただ当然みたいにやって、当然みたいに目立たない。
その無自覚さが一番腹立たしかった。
「お前が前に出たいならまだわかるんだよ……」
でも違う。
九条は前に出たがらないくせに、結果として神崎から一番大事なものを奪っていく。
その最たるものが、芽衣だった。
芽衣はずっと自分の近くにいた。
幼馴染で、昔から隣にいて、どんな時も自然と目に入る存在だった。
神崎はそれを、当たり前だと思っていた。
いつか自分をちゃんと見るのも、当たり前なんだと思い込んでいたのかもしれない。
でも芽衣は違った。
異世界に来てから芽衣が見ていたのは、勇者の自分じゃない。
九条のことだった。
九条の手の傷。
九条の疲れた顔。
九条の扱いの不自然さ。
芽衣は、神崎が見ないふりをしていたものを、全部見ていた。
それが嫌だった。
怖かった。
勇者になった自分が見られるはずだったのに、九条がそこにいるだけで、芽衣の目線が逸れていく。
「なんでお前なんだよ……」
掠れた声が落ちる。
そこへさらに、王国と教会が重なった。
神官長は穏やかな顔で言った。
九条奏真は危険です。
《奪還の王》は秩序を乱します。
王国も教会も、今はまだ利用価値を認めています。
ですが、いずれ必ず大きな災いになります。
勇者であるあなたなら、おわかりでしょう。
あの言い方が嫌いだった。
穏やかで、優しくて、逃げ道を塞ぐ言い方。
神崎が口にしない弱さも、焦りも、嫉妬も、全部見抜いたうえで、そこに正義の形を与えてくる。
九条は危険だ。
九条は異端だ。
九条は勇者すら脅かす。
ここで切らなければ、もっと大きなものを失う。
そう言われるたびに、神崎の中で何かが固まっていった。
違う。
これは嫉妬じゃない。
俺は勇者として必要なことをするだけなんだ。
そう思い込むのは、驚くほど簡単だった。
だって、本音のほうがずっと醜かったからだ。
九条がいなければ。
芽衣が九条を見なければ。
自分が助けられる側じゃなければ。
そう思っている自分を認めるより、
勇者として決断したんだと思い込むほうが、ずっと楽だった。
「……俺は、間違ってない」
口に出してみる。
けれど、言葉は石壁にぶつかってそのまま落ちるだけだった。
間違っていないなら、どうして右手はまだ震えている。
間違っていないなら、どうして芽衣はあんな目をした。
間違っていないなら、どうして胸の奥がこんなに重い。
答えは出ない。
その時、足音がした。
神官長だった。
白い法衣の裾を静かに揺らしながら、何事もなかったみたいな顔で近づいてくる。
「勇者殿」
神崎は顔を上げた。
「……何ですか」
「ご決断、お疲れさまでした」
その一言で、神崎の背筋が粟立つ。
ご決断。
まるで、最初からそういう段取りだったみたいな言い方だった。
「俺は……」
「ええ、勇者殿ご自身のお考えで動かれたのでしょう」
神官長は微笑む。
やわらかく、穏やかに。
「我々はただ、危険性についてお伝えしただけです」
その言い方に、神崎は思わず歯を食いしばる。
逃げるつもりだ。
最初から、そうなんだ。
神崎に“決断”させて、自分たちは手を汚していない顔をする。
そういうやり方だと、今さらながらに理解する。
「……最初から、こうするつもりだったんですか」
問いかけると、神官長は少しだけ目を細めた。
「勇者殿」
その声は変わらず穏やかだった。
「世界を守るためには、必要な切り捨てもございます」
神崎は何も言えなかった。
反論したかった。
でも、その言葉のどこを否定すればいいのかわからない。
必要な切り捨て。
さっきまで自分が必死に信じようとしていた言葉を、そのまま返されたようで、吐き気がした。
「九条奏真は、危険な存在でした」
神官長は続ける。
「勇者殿のお心を乱したことは遺憾ですが、長い目で見れば、これでよかったのです」
これでよかった。
神崎が何度も心の中で繰り返していた言葉を、他人に言われると、ひどく安っぽく聞こえた。
「……芽衣に、見られました」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。
神官長は一瞬だけ沈黙し、それから淡々と答える。
「紘川殿も、いずれ理解なさるでしょう」
その返しが、どうしようもなく腹立たしかった。
理解するわけがない。
いや、もし理解するとしたら、それは神崎が勇者として正しかったからじゃない。神官長たちが、また誰かに何かを吹き込んだ時だけだ。
そのことに気づいた瞬間、神崎の胸の中で、初めて小さな違和感が芽生えた。
あれ。
これ、自分も——。
そこまで考えたところで、神官長が静かに口を開く。
「勇者殿は少しお休みください。報告はこちらで整えます」
「……報告?」
「ええ。事故として」
神崎は目を見開いた。
「事故……?」
「旧封印区画の崩落に伴う奈落落下。十分に自然です」
神官長の微笑みは少しも崩れない。
「九条奏真の生存は、まず考えられません。あとは王国と教会で穏便に処理いたします」
穏便。
その言葉に、神崎の腹の底が冷えた。
自分が抱えているこの重さも、芽衣の視線も、レティシアの青ざめた顔も、九条が落ちていった瞬間も。
全部まとめて、たった一言で塗り潰すつもりなのだ。
事故。
それだけで。
神崎は気づく。
九条を落としたのは確かに自分だ。
でも、ここへ来るまでの流れを作ったのは誰だった?
危険だと繰り返したのは。
正義だと形を与えたのは。
切り捨てを当然にしたのは。
その問いが胸の奥に浮かぶ。
だが、まだ答えを見るには早すぎた。
見てしまったら、自分が何をしたかを、他人のせいにしきれなくなるからだ。
「……わかりました」
神崎はそう言うしかなかった。
神官長は満足そうに頷き、去っていく。
通路にまた静けさが戻る。
神崎はゆっくり壁から背を離し、自分の右手をもう一度見た。
震えは、まだ止まっていない。
これでよかった。
九条は危険だった。
勇者である自分が決断した。
あれは必要なことだった。
何度も何度も繰り返す。
でもそのたびに、脳裏には九条の顔じゃなく、芽衣の目が浮かんだ。
そして、その向こうにある奈落の暗闇も。
神崎はゆっくり拳を握る。
それでももう、戻れない。
あそこで押さなければ、自分は勇者でいられなかった。
そうだ。
九条が悪い。
九条がいるから、全部狂った。
そう思わなければ、立っていられない。
「……俺は、間違ってない」
もう一度だけ口にする。
けれど、その声は今度は自分の耳にすら、ひどく弱く響いた。




