20. 遠ざかる光
落ちている。
最初に認識したのは、それだけだった。
風が全身を叩く。
上下の感覚が狂う。
岩肌が近いのか遠いのかもわからない。
肺が縮み、喉が焼けるみたいに痛い。
一度、肩から岩壁へぶつかった。
衝撃。
呼吸が潰れる。
視界が白くはじける。
でも、痛いより先に頭を埋めたのは別のことだった。
神崎に押された。
神崎が、自分を落とした。
それが何より信じられなかった。
「……っ、は」
声にならない息が漏れる。
上を見れば、はるか遠くに小さな光が見えた。石台の上から覗き込んでいる影が、もう点みたいに揺れている。レティシアの声が聞こえた気がした。紘川の声も。けれど本当に聞こえたのか、ただそうであってほしいだけなのかはわからない。
もう一度、身体が岩に当たる。
今度は背中だった。
鈍い痛みが全身を走り抜ける。
それでも意識は飛ばなかった。
飛ばないせいで、考えてしまう。
最初からおかしかった。
召喚された瞬間から。
《奪還の王》を授かった時から。
王国も教会も、自分だけを隠し、測り、監視し、危険物みたいに扱っていた。
霧島はそれを理屈で見抜いていた。
レティシアは気づいていたのに言い切れなかった。
紘川は神崎の変化を怖がっていた。
そして神崎は、全部わかったうえで押した。
「神崎……」
名前が、口の中で砕ける。
怒りより先に、まだ信じられなかった。
友達だった。
少なくとも、自分はそう思っていた。
違和感はあった。
優しすぎる言葉も、少しずつ硬くなる表情も、勇者として持ち上げられていく空気も、おかしいと思っていた。
それでも最後の最後で、自分を落とすとは思っていなかった。
だから反応が遅れた。
だから落ちた。
光がまた遠ざかる。
このまま落ちれば、普通は死ぬ。
どこまで深いのかもわからない。
底があるのかすらわからない。
けれどその時、胸の奥で何かが強く脈打った。
《奪還の王》。
今までとは比べものにならないくらい、深く、重い脈動だった。
奪われたもの。
失われたもの。
戻されるべきもの。
意味はまだ言葉にならない。
でも、本能だけが理解する。
——生きろ。
その瞬間、全身を走っていた痛みの一部が薄れる。
割れかけていた呼吸の流れが、ほんの少しだけ戻る。
奪われかけた魔力の欠片が、身体の内側へ逆流してくる感覚があった。
「……っ、は……!」
浅い呼吸がつながる。
死なない程度に。
今はまだ、それだけ。
でもスキルは確かに動いた。
奪われたものを返す。
壊れた流れを戻す。
死ぬはずの状態から、ほんの少しだけ生を引き戻す。
《奪還の王》は、奈落の中でも自分を見捨てなかった。
その事実だけが妙に胸に残る。
落下の途中、上では。
石台の縁に立ったまま、神崎恒一は荒い呼吸を繰り返していた。
自分の手を見ている。
押した。
確かに押した。
それなのに、胸のどこにも達成感がなかった。
ただ、胃の底に重い石みたいなものが沈んでいる。
「神崎くん……!」
レティシアが青ざめた顔で立ち尽くしている。
その隣で、紘川の目はもう完全に変わっていた。
恐怖。
拒絶。
信じられないものを見る目。
神崎はそれを見て、胸の奥を何かで抉られたみたいな痛みを覚える。
「……違う」
かすれた声が漏れた。
「違わない」
返したのは紘川だった。
小さな声だった。
それでも、広間の空気を切り裂くには十分だった。
神崎は息を呑む。
紘川は震えていた。
怒りで。恐怖で。喪失で。
「今、神崎くんがやった」
「紘川、俺は——」
「やめて」
その一言で、神崎の喉が詰まる。
幼馴染として聞いてきた“神崎くん”という音すら、もう違っていた。
そこにあったはずの親しさが、全部消えている。
「お前……」
朱音が低く呟く。
顔は険しいが、動けない。何を言えばいいのか、まだ整理できていないのだろう。
霧島はしばらく穴を見下ろしたまま黙っていた。
やがて、冷えた声で言う。
「落ちたか」
それだけだった。
合理。
必要な処理。
それ以上でも以下でもない声音。
神崎はその声を聞いて、逆に吐き気が込み上げた。
自分でやった。
でも、それを“処理”として受け止められるほど、まだ自分は壊れきれていない。
「これで……いいんだ」
神崎は誰にともなく言う。
息が乱れる。
声が震える。
それでも口にしなければ立っていられなかった。
「九条は危険だった。あいつがいたら……」
自分は勇者でいられなかった。
その続きは、最後まで言い切れなかった。
紘川が神崎を見る目は、もう完全に変わっていた。
怖がられている。
拒絶されている。
その現実が、奈落を覗き込むよりもずっと神崎を冷やした。
レティシアがようやく動いた。
穴の縁へ駆け寄り、下を覗き込む。
何も見えない。
底のない闇だけだ。
「九条……!」
返事はない。
彼女の肩が震えた。
助けたいと思っていた。警告もした。けれど間に合わなかった。
結局、自分は止められなかったのだという事実だけが痛いほど残る。
その頃、奈落の中では。
落下がやまない。
どれだけ落ちたのかわからない。
時間の感覚ももう曖昧だ。
身体のあちこちが痛い。
腕。背中。脇腹。脚。
たぶん無事な場所のほうが少ない。
それでもまだ意識がある。
《奪還の王》が、微かに、しかし確かに全身へ流れを戻しているからだ。
完全には癒さない。
奇跡みたいに全部は直さない。
ただ、今ここで死なないために必要なものだけを、ほんの少しずつ返してくる。
奪われた呼吸。
失われた魔力。
途切れかけた意識。
それらが、最低限だけ戻ってくる。
「……全部」
声にならない声が漏れた。
全部、奪われた。
力も。
居場所も。
信頼も。
友達だと思っていたものも。
王国に利用された。
教会に隠された。
霧島には危険物として見られた。
レティシアは知りながら止められなかった。
神崎は最後に、自分を押した。
全部奪われた。
その認識が、落ちながらようやく一つにまとまる。
胸の奥が冷える。
冷え切ったその底に、今度はゆっくりと熱が生まれた。
怒りだった。
叫ぶような激情じゃない。
静かで、重くて、沈んでいくほど深い怒り。
「……返して、もらう」
自分でも驚くほど低い声だった。
もう失いたくない、じゃない。
もう一度信じたい、でもない。
奪われた。
なら返させる。
その輪郭が、奈落の闇の中で初めてはっきり形を持った。
次の瞬間、下の暗闇の奥で何かが微かに光った。
青白い。
冷たい。
でも、ただの光じゃない。
反応だ。
《奪還の王》の脈動が、それに応えるように強くなる。
落下の先に何かがある。
自分を待っている何かが。
そのことだけを最後に認識して、奏真の意識は闇へ沈んでいった。
上では、騎士たちがすでに報告の文面を整え始めていた。
——旧封印区画にて事故発生。
——九条奏真、奈落落下。生存確認不能。
事故。
たったその二文字で片づけようとする王国のやり方に、レティシアは唇を噛み、紘川は神崎から目を逸らしたまま一言も発しなかった。
神崎だけが、まだ穴を見ていた。
自分で落としたくせに、そこから目を離せない。
これでよかった。
そう何度も心の中で繰り返す。
でも、そのたびに胸の奥で何かが沈む。
達成感は、どこにもなかった。
あるのはただ、勇者として残ったはずの自分の足元が、もう前より少しだけ崩れている感覚だけだった。




