18. 優しくされた日ほど、怖いものはない
遠征三日目の朝は、嫌に穏やかだった。
空は高く晴れていて、旧ダンジョン外縁部をなぞる風も昨日までより弱い。宿営地の周囲に張られた簡易結界は安定していて、見張りの騎士たちにも妙な緊張は見えない。まるで何も起きないことが最初から決まっているみたいな、静かすぎる朝だった。
だからこそ、九条奏真は落ち着かなかった。
昨夜、レティシアが言ったこと。
明日、気をつけて。
最終観察。
神官長の流れ。
神崎がどこまで知っているのかわからないこと。
どれも決定的な証拠ではない。
でも、もう“偶然が重なった不安”では済まされないところまで来ている。
奏真は荷車の横で補助札の束を確認していた。
青系は循環安定用。黄色は簡易警戒。白銀の縁が入ったものは封印補助。昨日のうちに一度並べ替えたのに、今朝にはまた雑に戻されている。こういう小さなことが積み重なって、結局いつも自分の手が止まらなくなる。
「寝てない顔」
後ろから声がした。
振り向くと、紘川芽衣が両手で小さな水袋を持ったまま立っていた。心配そうに眉を下げている。
「最近そればっかりだな」
「最近ずっとそうだからでしょ」
「否定はしない」
「してほしいんだけど」
芽衣はそう言いながら、水袋を差し出してくる。
「飲んで。朝から顔色悪い」
「……ありがと」
受け取って口をつける。水は少し冷たかった。喉を通った瞬間、ようやく体の奥が目を覚ます気がした。
芽衣は奏真の横へ立ち、荷車の上を見た。
「また全部見てるの?」
「見えるのが俺なだけ」
「それがもうおかしいんだよね」
「知ってる」
いつもならここで少し笑えるのに、今日は芽衣も笑わなかった。
「今日、やだな」
ぽつりと落ちた言葉に、奏真は彼女の横顔を見る。
「何が」
「空気」
芽衣は視線を前へ向けたまま言う。
「騎士も神官も、なんか……もう決めてる感じがする」
その感覚は、奏真もわかっていた。
だから否定できない。
できないことが、余計に嫌だった。
「神崎くんも」
芽衣が続ける。
「今朝、変に優しかった」
「変に?」
「うん。気にかける感じが、なんか……最後みたいで」
最後みたい。
その一言が、やけに胸に引っかかった。
芽衣は神崎を幼馴染として長く見てきた。だからこそ、ほんの少しの違和感も拾ってしまうのだろう。
「芽衣——」
言いかけて、奏真は自分で止まった。
今のは自然じゃない。
「……紘川」
「なに?」
「今日、できるだけ前に出るな」
芽衣は少しだけ目を見開いた。
「それ、お願い?」
「そう」
「命令じゃなくて?」
「そんな立場じゃないし」
芽衣はほんの少しだけ口元を緩め、それから真面目な顔で頷いた。
「わかった」
そこへ神崎の声が飛んでくる。
「九条、紘川、そろそろ集合だって」
振り向くと、神崎はいつも通りの笑顔を浮かべていた。
その笑顔が“いつも通り”だからこそ、逆に怖い。
何も知らない頃なら安心できたその顔が、今日は妙に薄く見えた。
「おう」
奏真が短く返すと、神崎は少しこちらへ歩いてくる。
「荷物確認、終わったか?」
「だいたい」
「助かる」
神崎は自然な動きで荷車の端に手を置いた。
それから、小さく声を落とす。
「今日、少し奥まで行くらしい」
「知ってる」
「……やばそうなら、無理すんなよ」
その言葉に、奏真は目を細めた。
無理するな。
本気でそう思っているなら、そもそも今の役割の偏りを止めるべきだ。
でも神崎は、言葉の上では気遣う。
その優しさが、今日に限ってはひどく不自然だった。
「神崎」
「ん?」
「お前、俺に何か言うことない?」
聞いた瞬間、神崎の表情がほんの一拍だけ止まる。
その小さな沈黙だけで十分だった。
「……急にどうしたんだよ」
笑い混じりの返し。
でも、目だけが笑っていない。
「別に」
先に視線を外すと、神崎はほんの少しだけほっとしたように息をついた。
「ならいいけど。今日も頼りにしてる」
その一言が、胸の奥に嫌な形で残る。
頼りにしてる。
その言葉自体は嘘じゃない。
でも、頼ることと守ることは違う。
朝の進行確認が終わり、一行はさらに奥へ進んだ。
ここから先は、もう王国が完全に管理していた訓練区画じゃない。古いダンジョンの外縁を越え、半ば放棄された封印層に入る。壁の石はより黒く、灯石も不規則で、残された紋様には王国式とは違う鋭さがあった。
奏真は先頭から少し後ろ、神崎たちの前寄りに配置される。
前に出すなと言っていたくせに、必要な時だけこうして前へ押し出す。
それがもう露骨だった。
「こっから先、昨日までの比じゃないな」
霧島が小型測定板を見ながら言う。
「術式密度が上がってる。王国側の資料と誤差が大きい」
「つまり?」
朱音が眉を寄せる。
「つまり、九条がいないと面倒だ」
言い切られて、奏真は思わず乾いた笑いを漏らした。
「お前ほんと、はっきり言うよな」
「今さらだろ」
霧島は視線を上げた。
「むしろ、ここまで来てお前抜きで進めると思ってるやつのほうが危ない」
その言葉はたぶん正しい。
そしてその正しさが、また別の意味で危険だった。
通路の途中、最初の異常はすぐ見つかった。
床下を走るはずの封印線の一部が、壁際に不自然に引き上げられている。
誰かが後からずらした痕跡だ。
「止まれ」
奏真が言うと、全員が足を止める。
「また何かあるの?」
レティシアが小さく聞く。
「あるっていうか……触られてる」
「誰かが?」
「たぶん王国側」
霧島がすぐ横へ並んだ。
「どこだ」
奏真が壁の下部を指すと、霧島の測定板がかすかに反応した。
「……本当だ。後付けのズレがある」
騎士たちがざわつく。
「こんな場所に王国式の補強を?」
「記録にないぞ」
「本隊は把握しているのか?」
神崎が低く聞いた。
「解除できるか」
「できる。でも、昨日までより雑に弄られてる。向こうも急いでる感じだ」
自分で言って、少しだけぞっとする。
急いでいる。
何のために?
進めるためか。
それとも、進めた先で何かをするためか。
奏真は壁に手を当てた。
《奪還の王》が反応し、ずれた帰属が見える。
本来の封印線。
後から差し込まれた制御補助。
その補助の先に、さらに奥へ続く細い線。
——誘導されている。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
「九条?」
神崎の声で我に返る。
「……解除する」
短く答え、ずれた線を元へ寄せる。壁の中で小さく音がして、封印線は静かに落ち着いた。
「行ける」
進行再開。
だがここから先、神崎は妙に奏真へ話しかけるようになった。
「次、どう見る?」
「九条、左は?」
「ここは平気か?」
必要な確認。
必要な会話。
でも、その頻度が多すぎる。
まるで神崎自身が、“自分は奏真を信じている、頼っている”と確認したがっているみたいだった。
そしてそのたびに、奏真は余計に不安になる。
通路の奥で、細い封印線が何本も壁を這っていた。
灯石は半分死んでいるのに、床下の核だけはまだ生きている。しかも奥へ行くほど、後付けの王国式補強が増えていく。
全部が言っていた。
ここは自然に放置された遺構じゃない。
誰かが、使うつもりで残している。
広い空間に出たところで、一行は一度だけ休憩を取ることになった。
中央に崩れた石台。
左右に折れた柱。
奥にはさらに下へ続くらしい封鎖門。
騎士団長代理が周囲を見回す。
「ここで一度休憩し、先の開放可否を確認する」
休憩、と言いつつ誰も気を抜かなかった。
むしろここから先が本番なのだと、全員がわかっている。
神崎が水袋を持って奏真のところへ来る。
「飲め」
「……なんでお前が持ってくるんだよ」
「紘川に言われた。お前絶対また自分で飲まないだろって」
その名前に、視線が少しだけ動く。
少し離れた場所で紘川がこちらを見ていた。
目が合うと、すぐ逸らす。
でも気にしているのは明らかだった。
「ありがと」
水を受け取ると、神崎はそのまま隣へしゃがみ込んだ。
「九条」
「ん?」
「……昔からさ、お前ってこうだったよな」
「何が」
「気づいたら一番めんどくさいとこやってるやつ」
奏真は少しだけ苦笑した。
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「なんでそんな平気そうなんだろうって」
その言い方に、奏真は一瞬だけ神崎を見た。
神崎は笑っていた。
でも、その目の底には妙な暗さがあった。
「平気じゃないけど」
「そう見えない」
「お前が前で笑ってるのと同じだよ」
返した瞬間、神崎の表情がわずかに揺れた。
図星だったのかもしれない。
「……そっか」
神崎はそれだけ言って、立ち上がった。
そこへ騎士が駆けてくる。
「勇者殿、封鎖門の前に」
神崎は一度だけ奏真を見てから、そちらへ向かった。
封鎖門は、これまでよりさらに大きかった。
中央に三重の封印環。
床に補助紋様。
左右の柱には、王国式ではない古代文字。
その上にさらに後付けの薄い線が走っている。
見た瞬間、奏真は嫌な確信を持った。
ここだ。
たぶん、ここが境目だ。
奥へ行けば戻れない。
少なくとも、今までの“訓練”という建前では済まなくなる。
「九条」
騎士団長代理が奏真を呼ぶ。
「解析できるか」
「……できる」
霧島が横から低く言った。
「この奥、かなり深いぞ」
「わかってる」
「ならなおさら、お前が必要だ」
必要。
便利。
有能。
でも切り捨て候補。
その言葉が首に食い込むみたいだった。
奏真が封鎖門へ手を伸ばそうとした、その時だった。
「待って!」
レティシアの声が響く。
全員が振り向く。
彼女は珍しく、はっきりと顔色を変えていた。白い頬が強張り、青い瞳が真っ直ぐ奏真へ向いている。
「……一度、下がって。ここ、おかしい」
霧島が眉をひそめる。
「お前までそう言うのか」
「神聖系の流れが変なの。封鎖門の先じゃなくて、この門自体に後から祈祷痕が入ってる」
奏真ははっとした。
祈祷痕。
そうだ。術式線だけじゃない。人の意志の痕跡がある。
しかも最近のものだ。
神崎が低く聞く。
「つまり?」
レティシアは唇を噛んでから言った。
「……誰かがここを“使うつもり”だったってこと」
その一言で、場の空気が変わった。
騎士たちが顔を見合わせる。
霧島は険しい顔で門を見る。
紘川は青ざめている。
そして神崎だけが、妙に静かだった。
奏真はその横顔を見た。
神崎は知っているのか。
いや、全部ではなくても、何かを察しているのかもしれない。
その沈黙が、たまらなく怖かった。
結局、騎士団長代理は一度だけ引く判断をした。
「今日はここまでだ。封鎖門は明朝、本隊合流後に再確認する」
全員が、ほんの少しだけ息をつく。
だが奏真だけは、逆に余計に嫌な予感を強めていた。
今日じゃなかった。
それだけだ。
明日、もっと条件が整った形で“その時”が来るのだろう。
宿営地へ戻る途中、神崎はまた奏真の隣に来た。
「九条」
「何」
「今日は……助かった」
「今日も、だろ」
少しだけ棘を混ぜると、神崎は苦笑した。
「そうかも」
それから少し間を置き、妙に柔らかい声で続ける。
「お前がいてよかったよ」
その一言が、ひどく胸に残った。
嬉しいわけじゃない。
信じたいわけでもない。
ただ、それが“最後にかける優しい言葉”みたいに聞こえたからだ。
だから怖い。
優しくされた日ほど、怖いものはない。
たぶん、そういうことなんだろうと、奏真はようやく理解した。
その夜、紘川は眠れず、レティシアは祈りながら手を震わせ、霧島は帳簿と地図を見比べながら何かを計算していた。
そして神崎は、一人だけ外で空を見上げていた。
拳を握りしめたまま。
顔には笑みもなく。
ただ、何かを決めるような目をして。
明日が来れば、もう戻れない。
そのことだけが、全員の胸のどこかに沈んでいた。




