17. 言えなかった聖女
旧ダンジョン外縁部の夜は、地上の夜よりもずっと深かった。
空そのものは晴れている。岩肌の裂け目から見える星も、月も、やけに澄んでいる。けれど足元に広がるのは黒い石と、ひび割れた古代の通路と、昼間でも冷たかった空気だ。そこへ夜の静けさまで重なると、この場所はまるで世界から切り離された穴の底みたいに感じられた。
宿営地として使われているのは、外縁部手前の半壊した石広間だった。
中央に焚き火がひとつ。周囲に簡易天幕がいくつか張られ、その外側を騎士が巡回している。神官たちは少し離れた位置で治癒具や護符の確認をしていた。人の気配はある。声も足音もある。けれど誰も大きく笑わない。
明日、もっと奥へ進む。
その前提が、宿営地全体に薄く張りついたままだった。
九条奏真は、焚き火から少し離れた場所で結界杭を拭いていた。
今日だけで何本使ったかわからない。通路の封印線の安定化。崩れかけた補助術式の抑制。誤作動を起こしかけた灯石の流れの修正。前に立って剣を振るったのは神崎や朱音だが、そこへ至るまでの道を整えていたのは結局自分だった。
手元の金具を布で拭いながら、奏真は小さく息をつく。
「……便利だな、俺」
役に立つ。
必要とされる。
でも、それが嬉しいわけじゃない。
必要なのは、九条奏真だからじゃない。
《奪還の王》だからだ。
便利で、危険で、都合がいい。
だから使う。だから監視する。だから、必要なくなれば切る。
そんな気配を、ここ数日で嫌になるほど感じていた。
小さな足音が近づいてきたのは、その時だった。
「まだ起きていたのね」
柔らかな声。
振り向くと、レティシア・アルノアが立っていた。
白い法衣の上に薄い外套を羽織り、両手で小さな薬壺を抱えている。焚き火の明かりが、銀色の髪に淡い橙を混ぜていた。昼間より少しだけ顔色が悪い。疲れているのだろう。
「そっちこそ」
奏真が返すと、レティシアは少しだけ困ったように笑った。
「神官組の最後の確認が今終わったの。ようやく解放されたところ」
「お疲れ」
「あなたも」
それで会話が途切れる。
昼間ならまだいい。訓練中の短いやり取りなら、何を言っても自然に流れる。けれど、こうして夜の宿営地で向かい合うと、妙に距離の測り方が難しかった。
それでもレティシアは去らなかった。
「……隣、いい?」
「別に」
彼女は奏真のすぐ横ではなく、少しだけ離れた石床へ腰を下ろした。
近すぎず、遠すぎず。
その微妙な距離感が妙にレティシアらしくて、奏真は少しだけ肩の力を抜く。
焚き火の薪が、小さく爆ぜた。
しばらくは、それだけだった。
先に沈黙を破ったのは、レティシアのほうだ。
「手、見せて」
「また?」
「またです」
今日は何度目だろう。そう思いながら右手を差し出すと、レティシアは案の定、眉を寄せた。
「やっぱり」
掌の下が少し赤くなっていた。結界杭を握り込みすぎたせいだ。自分では気づいていても、どうせ大したことはないと放っておいた程度の傷だった。
「これくらい平気だって」
「それを決めるのはあなたじゃないわ」
「前も聞いたな、その台詞」
「何回でも言うから」
真顔で言われると、妙に逆らいづらい。
レティシアの指先がそっと触れる。
柔らかな光が掌を包み、じん、とやさしい熱が広がった。軽い痛みが抜けていくのと一緒に、張りつめていた神経まで少しだけ緩む。
「……助かる」
「知ってる」
あっさり返されて、奏真は少し笑う。
レティシアの表情も少しだけやわらいだ。けれどそれは一瞬で、すぐにまた、何か言い淀むような顔に戻る。
何かある。
見ればわかる。
「どうした」
奏真が聞くと、レティシアはすぐには答えなかった。
焚き火を見つめ、薬壺の縁を指先でなぞる。喉の奥に引っかかった言葉を、どうにか押し出そうとしているみたいだった。
「……今日のあなた、無理しすぎ」
ようやく出たのは、少しだけずれた言葉だった。
「それも最近よく言われる」
「みんな同じことを思うくらい、そう見えるの」
「光栄だな」
「そうやって冗談にするところも嫌い」
珍しく、少しだけ強い口調だった。
奏真は目を瞬かせる。
「嫌いって」
「自分のことを、便利なものみたいに扱うの」
レティシアは焚き火から目を離さないまま言った。
「人の怪我や疲れにはすぐ気づくのに、自分のことは平気で後回しにする。今日だって、通路の罠も、封鎖門も、崩れかけた術式も、全部あなたが先に見つけていたのに、自分の手の傷は放っておく」
「……そこまで見てたのか」
「見てるわよ」
即答だった。
その返しが少しだけ嬉しくて、少しだけ痛い。
ちゃんと見てくれる人がいる。
でも、その人自身も今、かなり追い詰められている顔をしている。
「レティシア」
「なに」
「本当にどうしたんだよ」
今度は真っ直ぐ聞いた。
レティシアの肩がかすかに揺れる。
やがて彼女は観念したように、小さく息を吐いた。
「……明日、気をつけて」
その声は静かで、けれど妙に重かった。
奏真は数秒、何も言えなかった。
言葉そのものは曖昧だ。
でも、曖昧なままで済ませられない響きがあった。
「それ、何に対して?」
聞くと、レティシアはすぐには答えない。
「全部じゃないの」
「でも何か知ってるんだろ」
「……」
「レティシア」
名前を呼ぶ。
彼女はようやくこちらを向いた。青い瞳が揺れている。王国を、教会を、自分の言葉を、そしてこの先起こる何かを、全部怖がっているのがわかった。
「私、全部は知らない」
「うん」
「でも、神官長たちの話を少し聞いてしまったの」
その一言で、胸の奥が静かに冷えた。
やはりそうか、と思う。
思っていたのに、実際に言葉として聞くとやはり重い。
「どこまで」
「……“最終観察”とか、“処遇の判断”とか、そういう言い方だった」
処遇。判断。
直接的じゃない。
でも、それがかえって冷たい。
人間に向ける言葉じゃない。
危険物とか、保留中の案件とか、そういうものに向ける言葉だ。
「明日が、そのタイミングか」
レティシアは唇を噛んでから、わずかに頷いた。
「たぶん」
「たぶん、か」
「はっきり“落とす”とか“殺す”とかは言ってない。でも……そういう空気だった」
奏真はしばらく黙った。
紘川が聞いた“処分候補”の話。
地下通路で見た書類。
自室の監視術式。
そして今、レティシアが言った“最終観察”。
点だったものが、嫌な形で繋がっていく。
「神崎は?」
その名前を口にした途端、レティシアの目がさらに揺れた。
「全部は知らないと思う」
「全部は、ね」
「神官長は、勇者殿に余計な情を持たせるなって……そう言っていたから」
「つまり、何かは言われてる」
レティシアは否定できなかった。
それが答えだった。
奏真は焚き火の向こうを見た。
神崎の姿はここから見えない。別の見張り位置にいるのか、騎士と話しているのか、それとも少し離れて休んでいるのか。
神崎がどこまで知っているのか。
まだ自分にはわからない。
でも、もう“何も知らない友達”ではいられないところまで来ているのだろう。
「……私、もっと早く言うべきだった」
レティシアがぽつりとこぼす。
その声は、焚き火の音にかき消されそうなくらい小さかった。
「もっと前に。もっとはっきり。そうしなきゃいけなかったのに」
「なんで言えなかった」
責めるつもりで聞いたわけじゃない。
けれど、答えを聞くのは少し怖かった。
レティシアは目を伏せたまま、正直に言った。
「怖かったの」
その一言に、奏真は何も返せなくなる。
「神官長も、教会も、王国も。逆らったら何が起きるかわからなかった。あなたに何かあってほしくないと思いながら、それでも、私が口を出したせいで余計なことになるのが怖かった」
自分の弱さを認める声だった。
綺麗じゃない。
でも、だからこそ嘘じゃないとわかる。
「それに……」
レティシアは握りしめた外套の裾を見つめる。
「私、どこかで思ってたのかもしれない。神崎くんなら、最後にはちゃんとしてくれるって」
その言葉は、レティシア自身を刺しているように聞こえた。
「でも今は、わからない。神崎くんが何を知っていて、何を選ぶのか」
奏真は小さく息を吐く。
それはたぶん、自分も同じだった。
信じたい。
でも信じきれない。
神崎がここまで変わったのか。
それとも、変わらざるを得ないところまで追い込まれているのか。
その境界が見えない。
「紘川には言うなよ」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
レティシアが少し驚いた顔をする。
「紘川さんに?」
「巻き込みたくない」
「……そう」
レティシアの表情に、ほんの一瞬だけ薄い影が差した。
奏真はそれに気づいて、少しだけ言い足す。
「お前もだけど」
「え?」
「巻き込みたくないのは、紘川だけじゃない」
焚き火がぱちりと弾けた。
レティシアは何か言いかけて、でも言葉にならなかった。
その代わり、ほんの少しだけ頬に熱が差したように見えた。
妙な沈黙が落ちる。
その時だった。
少し離れた暗がりで、小さく石を踏む音がした。
ふたり同時に振り返る。
だが、そこにはもう誰もいない。見張りの騎士が通っただけかもしれないし、風でずれた荷具の音かもしれない。
それでも奏真は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「……戻るか」
レティシアは小さく頷き、立ち上がる。
去る前に、一度だけ振り返った。
「九条」
「ん?」
「明日、絶対にひとりで動かないで」
「守れるか微妙だな」
「守って」
はっきりとした口調だった。
「あなたは、自分で思ってる以上に狙われてる」
その言葉は、自分でもうわかっていた現実を、改めて突きつけてくる。
「……善処する」
「善処じゃ困るの」
珍しく言葉が強い。
でもその強さが、彼女の怖さそのものなのだとわかった。
「生きて」
最後の一言は、あまりにもまっすぐだった。
奏真はすぐに返事ができなかった。
ただ、ほんの少しだけ頷く。
それを見たレティシアは、小さく息をついてから踵を返した。
白い外套の背中が、宿営地の暗がりに溶けていく。
奏真はその後ろ姿をしばらく見送っていた。
言えなかった聖女。
でも、それでも言いに来た。
遅いかもしれない。
間に合わないかもしれない。
それでも黙ってはいられなかったのだろう。
その事実だけが、胸の奥に静かに残る。
だが同時に、ひとつの現実もはっきりした。
明日、本当に何かが起きる。
偶然じゃない。
誰かが決めた流れとして。
天幕へ戻ろうとした時、少し離れた見張り位置に立つ影が見えた。
神崎恒一だった。
暗がりの中で、こちらを見ていたのか、空を見上げていたのかはわからない。
ただ、立ち方だけでわかる。硬い。いつもみたいに肩の力が抜けていない。
その姿を見た瞬間、紘川のことが頭をよぎる。
紘川は神崎の幼馴染だ。
ずっと近くにいた。
でも最近の神崎を、紘川は明らかに怖がっていた。
そして神崎自身も、そのことに気づいている。
「……最悪だな」
思わず漏れた声が、夜の空気に沈んでいく。
神官長の目を思い出す。
霧島の、切り捨てることを前提にしたような声も。
レティシアの震えた言葉も、紘川の不安そうな顔も、頭から離れなかった。
そして何より、神崎のあの硬い横顔だ。
明日、何かが起きる。
そんな予感だけが、嫌にくっきり胸に残っていた。
その夜、神官長の天幕では遠征予定が静かに書き換えられた。
外縁部終端で止まるはずだった探索は、
“封鎖門の先に脅威反応が見られない場合に限り、さらに一層深い封印区画まで延長する”
という一文に変わる。
表向きの理由は、たったそれだけ。
——勇者戦闘団候補の適性確認のため。
そして、その末尾には誰にも見せない文字でこう記される。
——九条奏真、最終観察。
誰かが言えなかった言葉の代わりに、
誰かが冷たく決めた文字だけが、静かに明日を待っていた。




