14. 見なかったことにした紙切れ
翌朝、鏡の中の自分の顔は、ひどくひどいものだった。
目の下に薄い影。
表情が固い。
昨日までなら神崎か芽衣に即座に「寝てないでしょ」と言われる顔だ。
「終わってるな」
小さく呟いて水で顔を洗う。
見なかったことにするしかない。
そう思った。
地下通路で見た書類。
あれを今の自分が正面から受け止めても、たぶんどうにもならない。神官長へ詰め寄ることもできないし、神崎に突きつけて信じるかどうかを試す勇気もない。
だからいったん、見なかったことにする。
それは逃げかもしれない。
でも、いま必要なのは感情で暴れることじゃなく、明日の遠征を生きて越えることだ。
食堂では、案の定芽衣に顔を見た瞬間に言われた。
「寝てない」
「言うと思った」
「だってわかりやすすぎる」
神崎もすぐに気づいたらしい。
「九条、お前ほんとに大丈夫か?」
「寝不足なだけ」
「遠征前にそれはまずくない?」
「まずいな」
自分でも笑えない。
だが神崎のその心配そうな顔を見るたび、逆に胸の奥がざわつく。
この顔は本物なのか。
それとも、自分がまだ見たいと願っているだけなのか。
霧島はパンをちぎりながら一言だけ言った。
「寝不足は判断を鈍らせる」
「お前まで心配してくるのやめろ、怖い」
「合理だ」
「その言い方も飽きた」
少しだけ笑いが起きる。
朝の空気は表面上いつも通りだった。
でも奏真だけは、その“いつも通り”がひどく薄い膜みたいに感じていた。
遠征準備は朝から一気に始まった。
大型遠征といっても、本格攻略ではない。
だが外縁部の調査だけで終わる保証もない以上、荷物は多い。昨日整理したものに加え、追加の縄、予備火種、簡易寝具、携行食の補充。奏真はほとんど無意識に手を動かしていた。
考える暇をなくせば、昨日の紙切れのことも少しは薄れる。
そう思っていたのに、作業の途中でふと手が止まる。
荷車の端に積まれた補助札の束。
その一番下に、昨日見た古い護符と似た質感の紙片が混ざっていた。
「……またか」
引き抜いて確認する。
短い覚書だった。
ほとんど消えかけているが、一部だけ読める。
旧訓練遺構 第七層外縁 / 奪還系反応注意
その文字列を見た瞬間、背筋が冷える。
奪還系。
つまり王国側は、すでに同系統をある程度分類している。
《奪還の王》の前例があるのか、あるいは類似の危険指定があるのか。
どちらにせよ、“何も知らないふり”をしていたのは自分だけだ。
すぐに紙片を戻しかけた時、背後から朱音の声が飛んだ。
「何してるの?」
奏真は反射的に紙片を伏せた。
「別に」
「その顔、別にじゃないでしょ」
朱音はじろりと見下ろす。
「持ち物漁る趣味でもあった?」
「お前、言い方いつも最悪だな」
「そう?」
朱音は肩をすくめたが、それ以上は踏み込まなかった。
ただ、去り際にぽつりと置いていく。
「……でも、今日のあんた、昨日までより変」
その一言が妙に残る。
朱音は誰よりも真っ直ぐに強さを見るタイプだ。
そんな彼女にまで“変”と言われるなら、自分の顔はよほどひどいのだろう。
昼過ぎ、最後の確認で神崎班が集められる。
神崎、朱音、霧島、レティシア、奏真。
今のところ、この五人が勇者戦闘団の中核だ。
「明日は外縁部の封印確認が中心になるらしい」
霧島が地図を示す。
「旧ダンジョン自体は王都のものじゃなく、さらに古い時代の遺構だ。王国式と違う術式が残っていてもおかしくない」
「つまり九条の出番ってこと?」
朱音が言う。
奏真は苦笑もできなかった。
「……そういう扱いだな」
神崎が地図を見ながら言う。
「でも実際、お前がいないと罠とか扉とか詰むだろ」
「そのために連れて行くんじゃないのか」
少しだけきつい言い方になった。
神崎が黙る。
場の空気も少しだけ止まる。
最初に動いたのは芽衣だった。
いつの間にか後ろまで来ていたらしい。
「奏真くん、これ」
差し出されたのは、小さな包みだった。
「携行用の甘い焼き菓子。昨日あんまり食べてなかったから」
「……ありがとう」
「明日、絶対また無理するでしょ」
「信用ないな」
「そこはある意味、ある」
芽衣が少し笑う。
そのやり取りの間、神崎の視線が一瞬だけ芽衣の手元へ落ちた。
小さな包みを渡す、その手。
そして奏真へ戻る、芽衣の目。
たったそれだけなのに、神崎の口元がわずかに固くなる。
次の瞬間には、もう元の笑顔に戻っていたけれど。
その夜、奏真は紙片のことも書類のことも誰にも言わなかった。
見なかったことにした。
知らないふりをした。
友達をまだ疑い切れない自分を、せめて遠征が終わるまでは保とうとした。
でも、そうやって目を逸らした紙切れの文字は、夜の間ずっと頭の中に残り続けた。
奪還系反応注意
まるで、自分そのものへの警告みたいに。




