第46話 七大罪の行方/ep.899 解放
竜次のコートを羽織った何かが、広間の中央を悠然と降りていく。
棘にも見える鋭い脚部を二本、地面に突き立て、重力などないかのように静かに着地した。
それの周りで滴り落ちる黒い液体からは、触れただけで腐り落ちてしまいそうな瘴気が漂っていた。
立ちこめる漆黒の気配に、その場の誰もが動けなかった。
「し、シロ……『あれ』、なんなんだ」
答えはない。
将斗に抱きついたまま、シロはただひたすら、首を振っている。
その赤い目はこの世のものでないものを見たように大きく開かれている。
将斗は視線を戻した。
黒い生物は広間の中央で動かなかった。
顔らしき場所に目はない。
代わりに翼に夥しく埋め込まれている目玉それぞれが、将斗や、シロ、ミケや黒竜を凝視して動かない。
まるで全員が見張られているようだった。
だから、誰も動かない。
動いてはいけないと、本能が言っている。
だが、どうする。将斗の背中を汗が流れ落ちる。
漂っている瘴気はだんだん広がりを見せていた。
何かはわからないが、あれは触れていい類のものではない。
このままじっとしていれば、皆あれに飲まれてしまう。
将斗は、決心した。
ひとまずはミケと合流するべきだ。そう思った。
「だめ……!」
「……っ?!」
まだ立ち上がってすらいない。
動こうという意思を持った瞬間、上半身が締まった。
こちらの意思決定とほぼ同時に、シロが上半身に回している腕を力強く締めてきたのだ。
その力に、絶対に動くなという意志を感じた。
将斗は力を抜いた。
だが、やはりこのままでは瘴気に触れてしまう。
動く以外にできることはない。
――その時、大きく動くものがいた。
素早く、俊敏に。
「グア……ッ!」
黒竜が密かに飛び上がっていた。
声を出すのも最小限にして。
天井の、あの黒い生き物が現れた穴に向かって、一直線に。
「あいつ逃げやがった……!」
迷いのない、真っ直ぐな逃走に感銘すら受ける。
奴はその大きな翼を広げて、羽ばたいていく。
息つく間もなく、黒竜は穴の中へと――。
「……えっ」
その時、黒竜が空中で傾く。
もう少しで、穴の中に入れるという直前のこと。
――その背中の翼が片方無くなっている事に、遅れて気づいた。
翼を失った黒竜が落下してくる。
唸り声に似た、悲鳴をあげながら落ちてくる。
だがその口が閉じられる。
口の端から赤色の光が見えた瞬間、将斗は伏せた。
竜の口。赤色。そんなもの――あれしかないから。
竜は口を開いた。刹那、灼熱の息吹が放射される。
それは空気を焼きながら、広間の中央にいる生物に向けて。
将斗は見た。黒い生物の頭が上を向いたように見えた。
すると彼の周りの瘴気が、一斉に上に向けて噴き上がった。
その靄は、竜の息吹にぶつかる。
拮抗すらしない、いとも容易く飲み込んでそのまま黒竜を飲み込んだ。
「ガァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
耳を突き破るような絶叫がして、将斗は耳を押さえた。
直後地面に、黒竜が叩きつけられる。
その体中全てが、焼け爛れたようにボロボロに引き裂かれていた。
だがそんな体でも、黒竜はすぐに起き上がった。
目は血走っていて、素人目にも恐怖しているのがわかる。
それでも黒竜は反撃を始めた。
強者故の誇りでもあったのだろうか。
拳を振り上げ、黒い生物を狙う。
だがその腕がフッと消える。
――消えたように見えた。
よく見れば、枯れ木のように萎んで、細くなっている。
「カッ……? ァ?」
黒竜は自身の腕に起きた異変に、奇妙な声を上げて固まった。
その目の前で、黒い生物は右腕を持ち上げていた。
おそらくはそれが今の異変の原因で。
そして、反対側の左腕もまた持ち上げ始めていて――。
黒竜は察したのだろう。すぐに、背中を向けた。
出口なんてないのに、壁に向かって駆け出した。
――だが突然、黒竜の首が180度回転して、黒い生物を見た。
回転の瞬間、首からは大きなすり潰すような音がした。
首の骨が折れたのだろう。
不自然な回転だった。
まるで、無理やり首を回されたようだった。
黒竜自身も、泡を吹いて、目を限界まで開いていた。
その隙に黒い生物の左腕が完全に持ち上がった。
瞬間、黒竜の顔面の半分と、その下の左肩から脚にかけて、全てが白く染まる。
肉が消え、骨が露出していた。
肉だけをこそぎ落とし、綺麗に骨だけが残っていて。
そのまま何も言葉を発することなく、残った肉体から大量の内臓をこぼしながら黒竜は倒れた。
「……」
将斗は動けない。
言葉なんか出てくるはずもない。
なんなんだ、今の――。そう思うだけで精一杯だ。
あの黒竜が、為す術なく殺された。
どんな能力を使われて殺されたのか全くわからない。
わからないから、恐怖していた。
今度は自分たちの番かもしれないから。
――黒い存在が、黒竜の死体の方へ、ゆっくりと歩き始めた。
将斗は体を震わせた。
奴の一挙手一投足が恐怖の対象だった。
やがて、バキバキという奇妙な音が鳴り始めた。
――喰べている。
本体に見えていた人型のその向こうで、牙の生えている黒くドロッとした何かが黒竜の死体に貪りついていた。
眩暈がした。
出会ってはいけないモノと邂逅した気分だった。
今のこの状況全てが夢であってほしいと願っていた。
でも奴の羽織る黒いコートを見て、思い出す。
将斗は、頑張って、肺から空気を搾り出して、シロに聞いた。
「あっ……あれは……あれが、竜次……なのか?」
その問いに、シロが――頷いた。
ありえない。
あれのどこが白峰竜次なんだ。
今目の前にいるのは、文字通りの化け物じゃないか。
今まで自分たちを守ってきたあの男と、一致する部分がまるでない。
将斗は信じられずにいた。それは、神から貰って読んだあの本にさえ、あんな姿で戦っている様子は描かれていなかったから。
だが、魔人であるシロがそう言うのだ。
将斗が感じられないものを、彼女は感じとることができる。
だから、あれが竜次ということは本当なのだろう。
待っていれば、元に戻るのか。
わからない。今のあの存在については、将斗は何もわからない。
ただ見ていることしか――
「リュージ!」
高めの、聞き慣れた声が響く。
ミケが叫んでいた。
将斗は瞬時に焦った。
気付かれると思ったからだ。
今の行為は、もしあれの中身が竜次だと分かっていてもそれは、やってはいけないような気がして。
――竜次が振り向いた。
真っ黒い、頭部らしき部分をミケのいる方へ向けた。
黒竜を貪っていたモノも、咀嚼を続けながら、目がないのにその方向を向いた。
食事の最中だからか、口の端から滴り落ちる赤い液体が、腹を空かせた魔物の唾液のように見えた。
間違いない。
次に狙われるのはミケだ。
将斗は立ちあがろうとするが、シロが今までにないくらい強い力で掴んできた。
「やめろ! ミケが!」
「だめ……!」
将斗は少女の腕を引き剥がせない。
もたつきながら顔を上げて、目を疑った。
ミケがあろうことか、竜次に近づいて行く姿が見えた。
両手を広げてゆっくりと。迎えに行くかのように真っ直ぐに。
「何してんだ! やめろ!」
命知らずにも程がある。
今の竜次はダメだ。直感がそう言っている。
それに、シロがここまでしている。
今あれに関わるのは危険な行為なのは明確だ。
――だが、
「――――――!!」
竜次が頭部に腕を回し体を反らす、まるで苦しむかのように動き始めた。
翼の目玉も全てがあらぬ方向を向いて蠢きだす。
その動きが将斗の目には、竜次が体中にまとわりつく黒いものを引き剥がそうとしているようにも見えた。
まさか、戻るのか。
将斗は希望的観測を抱く。
しかし、黒竜を喰っていた黒い部分が痙攣しながら持ち上がり、無数に分裂した。
分裂して、鋭利な針へと変貌して、ミケの方に向いて、
「ミケ――!」
彼女に迫った。
恐ろしい速度で迫った数十本の針が彼女を貫いていく。
否、彼女の周りに突き刺さっていた。
彼女には一本も刺さっていない。
「外した……? ってことは――」
やはり、戻ろうとしているのかと思った。
竜次はあの黒い力と一人で戦っている。そう推測した。
だから苦しんでいる。
だから攻撃がミケに当たらない。
彼は今、自分を取り戻そうと戦っているのだ。
「竜次! 目を覚ませ!」
将斗は叫んだ。
長い時間を共に過ごした仲ではないが、少しでも正気を取り戻す助けになって欲しかった。
その間にミケは臆せず距離を詰めていく。
竜次は叫ぶように口を大きく広げ、頭を大きく振り始めた。
やがて、さっきの黒い針が戻ってくる。
竜次はそれを自らの体へと突き刺し始めた。
「竜次やめ――っ」
そこまで言ってやめた。
今のは、黒い力が竜次を襲っているのか。
それとも正気を取り戻すために竜次がそうしているのか。
どちらかわからない。
わからないから、無闇に声をかけることができない。
黒い液体が飛び散っている。
その中をミケが歩いていく。
彼女は、まっすぐ竜次を見つめて歩いて行く。
迷いはなさそうだった。何か策があるように見えた。
その奥で大きなシルエットが浮かび上がる。
黒竜だ。
残った顔面の半分の、真ん中で光る赤い眼光で、竜次をただ見ていた。
あいつはまだ死んではいなかった。
「シロ、銃!」
「……ん!」
将斗の呼びかけに、シロの頭から銃が飛び出してきた。
それをうまく掴んで、すぐに黒竜へと向けた。
「いい加減に当たってくれよ」
今邪魔されるわけにはいかない。
当たる気なんてしないが、将斗は引き金を引いた。
「えっ――」
衝撃の後に見えたのは、黒竜の赤い目が破裂する瞬間だった。
珍しく弾丸が命中したのだ。
目玉を破壊された黒竜は、そのまま電源を落とされたように崩れていった。
将斗は手と、掴んでいる銃を見つめた。
なんで今更、狙い通り当たったのかはわからない。
だが、運が良い。
あれを退けたのなら十分といえるだろう。
おかげでミケが無事に、竜次のそばまで辿り着けたのだから。
ミケはどうするのか。
将斗は固唾を飲んで見守る。
「リュージ」
彼女はそのまま、暴れる竜次を包み込むように、彼に抱擁した。
ピタリと竜次の動きが止まる。
腕が徐々に、力が抜けたように落ちていく。
すると呼応するように、瘴気が薄くなり消え始めた。
それを追うように、人ならざる部分が固まった泥のように崩れ落ちていく。
黒い部分が剥がれていき、見知った男の肉体が現れ始める。
黒いコート、白い髪。スキルの影響で変化した赤い腕。
かくして白峰竜次は、ミケの腕の中で元の姿を取り戻した。
力が抜けたように、ただ彼女に体を預けていた。
「も、戻った……? 竜次が黒い力に勝ったってこと? ミケのおかげもあるけど流石は主人公……」
「……すこし、ちがう」
将斗の腕の中でシロは否定した。
「……今のはミケの……『怠惰』のちから」
「――え?」
書籍を読んで全て知った気になっていた。
考えを改めなければならない。
将斗はこの三人の今を、何も知らない。
特に、最後の五十巻から先は何も。
だから勝手に想像で補完していた。
最後の『怠惰』を倒した時点で、七大罪の力は白峰竜次が全て持っているものだと思っていた
――しかし、ある一文を思い出す。
『魔人が倒された時、その力は最も適性のある者に譲渡される』
最終決戦の後、『怠惰』の力はミケに渡っていたのだ。
******************************
日の当たらない地下の玉座で、『その存在』は水晶を握りつぶした。
「力が途絶えたか……不愉快極まりない」
鈍い音を立てて水晶を握り潰す。
『その存在』から発せられたのは激しい怒りではなく、自身の安寧を妨げられたことへのひどく重く、冷たい不快感だった。
空間を圧し潰すようなその気配に、控えていた従者の一人は息を呑んだ。
「何よりも煩わしいのはあの男だ。此奴は何者だ」
「げ、現在調査中で――」
その言葉に空気が変わる。
深淵を覗き込む様な圧倒的な重圧。
従者はすぐに床へと這いつくばって体を震わせた。
「奴はことごとく我の『目』を潰す。単なる塵芥と看過しておったが……どうやら只者では済まされぬようだな。早急に出処を調べよ」
「お、仰せのままに……ッ!」
従者は逃げるように広間を駆け、去っていった。
「もう一つの気がかりは、なぜあの男が六つしか使わなかったのか……だが――」
『その存在』は顔を戻して、玉座の前を見た。
そこには従者がもう一人いた。
目の前でただ静かに跪いている。
「……して、貴様は何者か」
「と、おっしゃいますと?」
その配下は去っていった一人とは違い、不遜な態度で飄々と答えた。
『その存在』は肘をついて、その男を見下ろした。
「くだらぬ芝居だな……我が配下に、貴様のような者はいない」
「えっ?! へぇ〜、その感じでちゃんとメンバー把握してるんだ……」
跪いた従者はそう言って立ち上がる。
その輪郭がブレた。
一瞬のうちに、そこには血が固まったような深い赤の衣装を上半身に纏った男が現れていた。
「どうも〜。初めまして」
「……貴様は何者だと聞いたのだ」
空間が歪む。
全て泥の底へ沈み込ませるような『その存在』の圧倒的な虚無。
その重圧が周囲の空気を重くし、そばの長椅子は触れてもいないのに軋み始める。
しかし男は全く動じることなく、面倒そうに頭を掻いた。
「おお、怖い怖い。そうだなぁ、俺は……あぁそうだ――」
そして呑気なまま、何かを思いついて、怪しげに口角を上げて、言う。
「――通りすがりの転生者ってやつかな」
大罪の力は竜次視点で書かれている通り、その名に関連した感情に引っ張られます。
それは力を使おうとしていなくても、です。
簡単に言うなら憤怒なら怒りが湧き、暴食なら飢えます。そして、怠惰なら何もしたくなくなる。
ミケは大丈夫だったんでしょうか。




