第30話 理想の物語
「そうだよ。……ずっと、待ってたの。あなたを」
アリスは涙を流したままだ。
だが、花が咲くような優しい笑顔でそう言った。
向かい合う将斗の瞳からも、理由のわからない涙が溢れ出していた。
「なんで、俺なんだ。俺、アリスのこと何も知らないんだぞ」
「でも、そうなの」
アリスは泣き笑ったまま、愛おしそうに将斗を見つめていた。
遥か遠い記憶の中にある懐かしい人を慈しむような、感動に満ちた瞳だった。
「声も、顔も違う。でもあなたの話し方が、ふとした仕草が、あの人と重なったの」
「偶然じゃないのか、ただ似てるってだけかもしれないだろ」
「ううん、わかるの。あなたが、あの人なんだって……。じゃあ、あなたはどうして、私を一目見た時にアリスって気づいたの?」
将斗は思い返す。
この森で彼女を初めて見た時、迷うことなく「アリス」だと思ったから、自然とそう呼んだのだ。
だってこの子はアリスだから。
この目も髪も、声も、背格好も、耳も、アリスのものだったから。
「それは……レヴィ達から特徴は聞いてて」
「『死んだ』って話を聞いてたのに?」
「だから、それは……」
将斗は、言葉に詰まった。
あの時、違和感無く彼女の名を呼んだ。
死んでいることなど、気にもしなかった。
その名が彼女のものであるという、静かな確信があったから。
「それに……泣き虫だった私を元気付けるために、私の涙を拭うフリして、よく頬をつまんで来たの。痛くないように加減してくれた」
アリスが、自分の頬を指先で優しくつねっていた。
何も言い返せなかった。
将斗も同じことをしていた。
あの時は自然と手が伸びて、勝手に彼女の頬をつまんでいた。
どうしてそうしたのか、自分でも論理的な説明はできない。
「あなたはいつも、女の子にこういうことする?」
「……しない。するわけない」
アリスの問いに、否定しようのない疑惑が確信へと変わっていく。
彼女の言う『あの人』の輪郭が、自分と重なっていく。
胸の奥から、得体の知れない感情が湧いてくる。
強烈な罪悪感のような、もう二度と取り戻せない喪失感のようなものが。
「あなたは……どうして泣いてるの?」
「それは……わからない。わかんないよ、勝手に流れてくるんだよ。アリスを見た時からずっと、胸の底が熱くって……俺、緊張してるんだって思ってた。でも、違ったんだ。俺ずっと、泣きそうだったんだよ」
だから、ずっと呑気に身の上話をした。
自分のこれまでを確かめるように、見落としがないように。彼女に向こうの世界の話をする代わりに、将斗は過去の振り返りをしていた。
彼女との記憶はひとつもなかったはずだ。
だから、胸に渦巻いていた嬉しさも、悲しさも、全部勘違いだとかそういうことにして、終わらせようとしていた。
「我慢してたんだ。だって……だって、急に泣いたら意味わかんないだろ? 俺もわかんなかった。嬉しいのと、寂しいのが、混ざったみたいな感情がずっとあったんだよ」
正直に話していると、涙がまたボロボロと流れていく。
拙くてもちゃんと言葉になるように、必死に声を出した。
アリスは黙って聞いてくれていた。
静かに、全てを受け入れるような優しい表情で受けて止めてくれていた。
将斗は頭を下げた。
「……ごめん」
「どうして、謝るの?」
「わかんない、だって俺、覚えてないから。アリスの言うあの人が、誰なのかもわからないから……だから謝らなきゃって」
形の見えない罪悪感が、謝罪の言葉を練り上げていた。
わからないまま、ただ彼女に謝っていた。
顔を上げると、彼女はゆっくりと首を振った。
「ううん……謝るのは私の方なの」
「え……?」
「私、失敗しちゃったから」
彼女は、ひどく寂しそうに、自嘲的に笑った。
「……私が待っていたあの人は、幼馴染の男の子。大好きだった。向こうもそう思ってくれてたらいいなって思ってる。でも、あの人は大昔の対戦で亡くなった」
彼女は自分の透き通るような手を見つめながら、ぽつりぽつりと話し続けた。
「あの人、すごいの。自分が死ぬのがわかってた。なのに行くって言って、私必死に止めたんだ。この手で何回も引っ張った。だけど……止まってくれなかった」
将斗は、黙って聞いていた。
「でも、最期に約束してくれたんだ。『生まれ変わってでも、会いに来る。何年かかっても絶対に』って」
彼女は、涙を拭いながら続けた。
「だから私、信じてずっと待ってたんだ。グラディアでずぅっと。エルフだからたくさん生きていられた。知ってる人がいなくなっていって、また誰かと知り合って、いなくなって。それを何度も何度も繰り返して……『赤い月』を五回は見て……でも、何十回でも見るつもりだった。だって、それがあの人と約束だから」
「五回って……赤月って、五十年に一度なんだろ。じゃあアリスは二百五十年以上待ってたってことなのか……?」
アリスはコクリと頷いた。
果てしない時間の中、一人待ち続けた彼女の気持ちを思うと、将斗は言葉を失った。
「……そしたら来てくれたの」
「それが……俺?」
アリスはまた首を振った。
「来てくれたって、思っちゃったの」
その言葉に、将斗は二拍くらいの間を置いてから、ハッと目を見開いた。
「まさか……」
「違う世界から、すごい魔力の人が来たって」
将斗は、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。
もう取り返しのつかない、その事実がこの序の口から語られることがわかってしまった。
「沢山待ったから、すぐにでもあの人の胸に飛び込んでいきたかった。あの人は魔法が得意だったから、すごい魔法使いだって有名だったから。絶対そうだって思って」
「待って……」
「雄矢は、あの人なんじゃないかって思って……それで。勇者一行に志願したの」
彼女の言葉に熱が入り始めた。
どこか、責めるような言い方。
責める相手はきっと『過去の彼女自身』で。
将斗はどうしても止めたかったが、遮ることができない。
「最初は正義感があった。あの人みたいだった。記憶がなかったけど、待っていればいつか、思い出してくれるんじゃないかなって思ってた」
「もう……もういい――」
「でも、ある日から、雄矢がちょっとおかしくなって。でもあの人のことだから、きっと自分を取り戻してくれると思って……それで……ずっと支えていればいつかって、信じて……一緒に旅をし続けて、それで」
「ダメだ、もういいから」
その結末を将斗は知っている。
彼女の口から、語らせたくなかった。
だが、それでも彼女は震える口で結末を語る。
「――それで、ついにあの日、私は殺された。死んじゃう直前になってようやく、雄矢は全然あの人じゃないって気づいて」
彼女は、自分の体を抱きしめていた。
震えながら泣いていた。
「怖かった。誰なのって思った。あの時も……やめてって言った。頑張って、走って逃げればよかった……できなかった」
呼吸が荒くなってきて苦しかった。
重い鉛がのしかかって来たみたいに、うまく息をするやり方がわからなくて、将斗は胸を押さえた。
「もう、遅かった」
「……っ」
「ごめんね。私、早とちりしちゃって。会いに来るって言ったんだから、待ってればよかったのに。自分から動いちゃったから……あなたと生きて会えなかった」
将斗は、何も言えずにいた。ただ「違う」と首を振ることしかできない。
だって、彼女は何も悪くない。
二百五十年だ。
知っている人が死んでいなくなるのを繰り返して、どれほどの孤独だったのか、想像すらつかない。
その果てで、雄矢をその人と間違えたのは、会いたいという気持ちが限界まで膨れ上がっていたからで。
かかった残酷な年月が悪いだけで、彼女は何も悪くないはずだ。
彼女が将斗に近づいて、手を取って、そっと確かめるように両の手のひらを合わせてきた。
指を絡めて、ぎゅっと握った。
「本当は……生きて、会いたかったなぁ……」
「ぁ……」
「きっとこの手は暖かいの。あの人の手も、いつも暖かかったから。ここじゃ、何もわかんないや」
彼女の目は、将斗の手をずっと見ていた。
本当は触れたかった誰かの温もりを、将斗を通して必死に探しているのだ。
「……じゃあ、やっぱり……俺が悪いんだよ」
「ううん、私の早とちりだからいいの。あなたはちゃんと連れて来てくれたから気にしないで」
「だって、間に合ってない! あと少し早く来れば、アリスの数百年は報われてたんだぞ!」
彼女が待っていた、最低でも二百五十年の年月の結果が、死後の世界での触れられない再会なんて、あまりにも報われない。
彼女の手は、暖かさも冷たさもなかった。ただ握られているような情報があるだけで、触れている感覚すらない。
将斗は来るべきだった。
雄矢より早く。
もっと早く。
この胸の奥にいる誰かを連れて来なければならなかった。
もっと早く連れてこれば、彼女の願いは、約束は果たされていたはずだ。
こんな場所じゃない。
現実で、温もりを確かめ合えていたはずだった。
「俺なんだよ。俺がちゃんと生きてれば、君に会いに来れたんだよ」
「違うよ。生きてたら、こっちに来れないでしょ? だって向こうで死んでしまったから雄矢も、あなたもここに」
「俺は違う……俺は神に、適当な理由をつけて無理やり連れてこられた」
ずっと『スマホで殺された意味』を考えていた。
期限がどうとか急いでいたが、本当はこれが答えだったのだ。
手段なんてなんでもいい。
無理にでも将斗をここに来させるためのものだったのだ。
「俺が選ばれた意味がわかった……本当は俺が選ばれるべきだったんだよ」
「どういう……こと?」
「俺はずっと、何もしてこなかった。適当で、楽で、簡単な方ばっか選んで、雑に生きてきたから、俺みたいな奴は神様の選択肢に入らなかったんだよ! だから、神様が雄矢を選んじゃったんだよ。俺よりはマシだって」
雑で、何もない毎日が脳裏をよぎる。
部屋から出るのは最低限で、遊びにも行かない。
何にも希望を抱かずに、ただひたすら呆けていた。
そんな何もない男を神様が選ぶはずがない。
「俺がちゃんと生きていれば、俺が選ばれて、俺の体の奥にいるこの誰かを連れて来られた。俺が勇者として召喚されて、それでアリスと一緒に旅して、途中で、自分が誰か思い出して……二人とも生きたまま、約束を果たすんだよ。そうなれたはずだったんだよ!」
「ううん……現実はそんなにうまく行かないよ」
「でも! それが一番綺麗な物語だっただろ!」
将斗は子供のように泣きじゃくりながら叫んだ。
アリスは、微笑んだまま聴いていた。
「今だって何も思い出せない。ここに、何かいるはずなのに、何も出てこない。君はこの人を待っていたはずなのに」
胸を叩いた。早く出てこいって叩いた。
でも何も出て来ない。ずっと胸を締め付けてくるだけで、何も。
もっと叩こうとした。
その手が、アリスによって止められる。
「物語かぁ。英雄が実は愛する人の生まれ変わり、なんて、まるでお伽話みたい……でも現実なんだから、仕方ないよ」
「仕方なくなんかない。俺がちゃんと生きて、ちゃんと選ばれていればそういう物語に――」
「それじゃ、雄矢と一緒だよ?」
息を呑んだ。
彼女は――アリスは水色の目で将斗を正面から見てきた。
「私はあなたが、雄矢が『現実』を見ていないのを、真っ向から否定してたところ見たよ……好きだった。正しくて、まっすぐで。すごく好き」
「……だけどその言葉だって、もしかしたら『この人』の言葉だったかもしれなくて。今まで戦えていたのも、『この人』のおかげなんじゃないのか」
「違う。あれは、きっとあなただから言えたことなんだよ?」
そう言いながら、アリスが手を握ったまま距離を詰めてくる。
将斗は、目を合わせていられず、下を向いた。
「わからないだろ……それは」
「わかるよ。『また会いに来る』ってあの人が言ったのは。私の好きな本にそういう物語があったから。あの人は、私を喜ばせるために、そういう役回りに、自分を当てはめるのが好きだった」
アリスは、将斗との距離を縮め、勇気づけるかのように続けた。
「だから、あなたのあの言葉は、『あなたの言葉』なの。あなたがこの世界で過ごして、あなたが感じたことを伝えた。だからあれはちゃんと、あなたの言葉。『あの人』がいなくても、あなたは戦える人だよ」
「でも……それじゃ、アリスが報われないだろ。俺がこの胸にいる誰かを思い出して……この人にならなきゃダメだ」
「いいの。責任なんて取ろうと思わないで」
それでも、将斗は手放しに受け入れられない。
今こうして将斗に涙を流させている『心の奥の誰か』は、やはり、彼女と再会させるべきだったはずだ。
だが、アリスは続けた。
「最高じゃなくても、こうして会えた。形は違くても、夢が叶った。あなたがここまで生き抜いてくれたから、私たちはこうして会えたの。だから、ありがとう」
彼女は手を離すと、そっと将斗の背中に手を回して、抱きついてきた。
胸の辺りに顔を埋めて。感触が無いのに、その感触を確かめるように、頭を擦り付けてきた。
「あなたが覚えていなくても、わかる。魂でちゃんと感じるから。だからいいの。私はこれでいいの。あなたは何も気にすることなんてないから」
「アリス……」
将斗は、触れたら壊れてしまいそうな華奢な彼女の背中に、おそるおそる手を回した。
今もなお、温度も、感触も感じられない。
でも間違いなく、ここに彼女はいる。
静かな、二人だけの時間が過ぎていく。
彼女は顔を上げることなく、将斗の胸の中で言った。
「……ごめん。もう少しだけ、このままでいさせて……なんだか……離れられないや……」
将斗は何も言わず。
ただ、彼女を抱きしめ続けた。
なぜかはわからないが、焼かれるようだった胸の奥が、少しだけ軽くなっていくのを感じた。
いつの間にか、周りを歩いていた動物たちは居なくなっていた。
静寂の森の辺りには、彼女の安らかな啜り泣く声だけが聞こえていた。




