花屋地下修練場
九日後、つまり抜糸してから二日後。ほとんど痛みもなくなり、問題なく動けるようになった。まだ傷が開く危険は残っており、走り回ったり跳び回ったりとかは出来ないけれど。
病室でリモート授業を受けるのにも慣れたものだ。ベッドで退屈な授業を受けると眠たくなるけれど、寝るのに躊躇しなくなった。
今日も特に問題なくカリキュラムが遂行された。終わりのホームルーム後も、学校側の配慮で三十分はミーティングに居残れる。生徒たちが仲の良い友人と個室を作り、放課後の駄弁りを展開する時間だ。かなり回線を圧迫するはずだけれど、通信技術の発達により、カメラをオンにしても映像・音声の乱れやタイムラグはほぼ生じない。
みこちゃんに誘われて個室を作った。彼女は嬉しそうに言う。
『入院前より顔色良くなってない?』「健康的な病院食のおかげでね」
『病院食って、あんまりおいしくないイメージがあるなあ』
「簡素ではあるけれど、ちゃんと美味しいわ」
『えー。あ、カップ麺ばかり食べてるから舌が鈍ってるんだよ。まったくもう。私が毎日ごはんを作ってあげようか?』
「あはは。プロポーズの言葉みたいね」
『えー。結婚観取り残されてる。感性おぢさんじゃーん』
ショックを受けた。傷口が開きそうになるほど。結婚には分業的契約の側面があるのだし、比較優位に基づいて両者の役割をあらかじめ決めておくのは普通のことではないのか。
悪戯っぽく笑うみこちゃん。
『プロポーズと言えば、天久保について報告しといた方がいい?』
「っ、なぜプロポーズから天久保に話が飛ぶのよ? おふざけも大概になさい」
『なはははは。素直じゃないな〜。あのね。人伝に聞いた話なんだけど』
パソコンカメラに近づいたらしい。みこちゃんの可愛い顔が、ドアップで映し出される。
『三日前の昼休み、個室で天久保と雑談していたら、若い女の艶やかな声が聞こえたって』「…………は?」
なんだって? 思わず険しい声が出てしまった。天久保の母は昼間働いている。彼には姉妹もいないはず。おかしい。
『そう睨まないでよ。怖いなあ。ただの噂話なんだから、私にゃどうしようもないよ。もう、ホント天久保が好きなんだな〜、個室に呼ぼうか?』
「あんたのパソコンクラッキングするわよ」『ひど過ぎる』
「ゴホン。そう言えば、タブレットを取ってきてくれてありがとう」
『いいってことよ。パソコンの修理頼まれるとか、キリちゃんも大変だねぇ』
「ええ、大変よ」
もちろん嘘である。騙されるみこちゃんが悪い。ちなみに、愛しのタブレットちゃんは小太郎経由で私の手元に帰ってきた。みこちゃんも転校してきて二十数日、私以外の友達がいる。私と違って。で、彼女の友達の妹が小太郎と同級生らしい。
『ところでなんだけど』
今日の授業についての質問がいくつか飛んでくる。ああ見えてみこちゃんは根が真面目で、ちゃんと理解しようとはするのだ。本質的に馬鹿だけれど。かわいそう。
せめてもの情けとして、理解した気にさせてやるのが私の務め。
『ホント、いつもありがと〜』「いいのよ」
『じゃあ、また明日……は土曜日だから、月曜ね〜』
「さようなら」
退出した。一分も経たないうちに、田峰が病室に入ってくる。
「終わった?」「監視してたくせに」「じゃあ行きましょうか」
病院から出て車に乗った。これから、「ブロックの検証を気兼ねなく行える場所」とやらに向かう。隣街にあるらしい。
「ねえ」「ん?」「海底人。次はいつ来るのかしら?」
「分かったら苦労しないかな〜。預言者も死んじゃったし」
小声の後半。預言者とは本物のζ-01、つまり冬林のことだな。不安になる。
田峰に敬語は使わない。口調は完全に砕けていた。九日間の付き合いを通じて、わずかにあった敬意とともに砕け散った。色々あったのである。
「ああ、花屋地下修練場なんだけど、別のブロック所有者も使ってるって」
「え? それが私たちの目的地? 花屋の地下にある修練場なの? 違和感を禁じ得ない。お花屋さんの地下にそんなもの作ったらダメでしょう」
「桐歌ちゃんってば意外とロマンチスト〜」
頭に血が上る。田峰が運転中でさえなければ。
車は、小さな駐車場に停められる。入り組んだ道を徒歩で十分、そこには本当に普通のお花屋さんがあった。色とりどりのお花さんたちに癒される。
「桐歌ちゃん。お腹空かない?」
「ここで食欲? あなた花食べるの? 虫? 虫ケラ?」
「近くに定食屋『まだい』があってさあ。見ただけでお腹空く」
「有名な店なのかしら?」「結構ね。味はとてもいいよ」
へえ。料理にあまりこだわりはなく、特に興味はそそられない。
花屋の裏手に回ると、小規模なビニルハウスがあった。勝手に入る田峰。黙ってついていく。様々な観葉植物が育てられていて、目に優しい。奥に進めば、怪しげな金属製の蓋に出迎えられた。開けると、秘密の地下空間に繋がっていそうな階段が、闇に向かって伸びている。
引き摺り込まれそうだ。入り口付近のスイッチを押すと、明かりが点いた。
「一段一段が高くてコケそうだわ。エスカレータに変えてほしいのだけれど」
「贅沢なクレーム。ごめんねえ予算がないの」
声がよく響く。長い階段を降り切ると、広々とした空間があった。床面積は一ヘクタール、高さは二十メートルほどあるだろうか。五本の太い柱が聳え立ち、天井を支えている。
「伝説のドラゴンが封印されてそうな場所だけれど……でもまだ新しいわね」
「改築されたばかりなの。元々はもっと狭かったんだけどさ。でもこの前、ブロックの暴走事故があって〜」
耳を疑った。




