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白い雨のあと、僕らは旅に出た ――終末世界のキャンピングカー――  作者: 孔雀丸


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第5章 機械少年リク

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。


第5章「機械少年リク」をお届けします。


これまでユウトとミナの二人きりだった旅に、いよいよ新しい風が吹き込みます。


今回は、山あいの寂れた集落で出会う一人の少年の物語です。


廃墟の静けさの中に響く、規則正しい金属音。


その音の先で待っているのは、頼もしい味方か、それとも厄介な敵か。


ユウトの目線で、ぜひ確かめていただければ幸いです。


今回は少しだけ、音に耳を澄ませて読んでみてください。


エンジンの音。


風に軋む防災無線の音。


そして、ほんの一瞬だけ混じる雑音の向こうの何か。


物語の随所に、小さな「音」を散りばめています。


それでは、第5章をお楽しみください。

 山を越える旧道に入った途端、キャンピングカーの車体がぎしりと軋んだ。

 枝が窓を擦る音。

 タイヤが小石を踏む音。

 昨日までの高速道路とは違う、狭くて息の詰まる道だった。

 両側から迫る杉の枝が、まるで車体を値踏みするように屋根を撫でていく。

「木、近すぎない?」

 ミナがハンドルを握りながら眉を寄せる。

「行けるところまで行くしかない」

 俺は助手席で地図を広げたまま答えた。

 燃料計の針はもう半分を切っている。

 癖で、もう一度確かめる。

 数字は変わらない。

 このあたりで使える部品と燃料を探さなければ、次の町まで持たない。

 地図には、この先の集落について何も書かれていなかった。

 古い地図が示すのは、十年前まで人が暮らしていた場所の輪郭でしかない。

 杉林が斜面を覆い、空は驚くほど狭かった。

 崩れた民家の屋根。

 錆びついた耕運機。

 苔むした石垣。

 電柱に絡みついた蔦。

 止まったままの防災無線のスピーカーが、風でわずかに軋んでいる。

 かつてはこの音が、村人に何かを知らせていたのだろう。

 今はもう、誰に何を伝えるためでもなく、ただ軋み続けているだけだった。

 谷間には白い霧がたまっていて、まるで底の見えない水の中を進んでいるようだった。

「静かだね」

「静かすぎる」

 俺は窓の外を睨んだ。

 鳥の声も、虫の音も聞こえない。

 風の音だけが、やけにはっきりと車内に届く。

 どこかで金属を打つような音が、一定の間隔で響いている。

 カン、カン、と。

 生き物の気配ではない。

 規則正しすぎる。

「誰かいるのかな」

 ミナの声が少し弾んだ。

「人間だから安全とは限らない」

「相変わらず夢がないなあ、ユウトは」

 軽口を返しながらも、ミナは速度を緩めた。

 道の脇、泥の上に新しい靴跡がある。

 切られたばかりの枝が積まれている。

 廃材が、種類ごとに丁寧に分けて置かれている。

 誰かが、ここで生きている。

 しかも、ただ生き延びているだけの人間の暮らし方ではない。

 物を扱う手つきに、迷いがない。

 車を止め、俺たちは音のする方へ歩いた。

 崩れかけた農機具倉庫の屋根の向こうから、細い煙が上がっていた。

 発電機らしいエンジン音が、途切れずに響いている。

 倉庫の扉を押し開けた瞬間、俺は思わず足を止めた。

 まず出入口を目で数えた。

 今開けた扉と、奥に見える窓らしき明かり取り。

 逃げ道は二つ。

 それを確認してから、俺はようやく中へ視線を向けた。

 廃材を組み合わせた小型発電機が唸っている。

 複数のバッテリーが太い線で直列につながれ、作業台の上には分解されたラジオの部品が整然と並んでいた。

 自作らしい無線機。

 大きさごとに揃えられたボルトの箱。

 工具は種類ごとに壁のフックに吊るされ、使う順番までそのまま並んでいるように見えた。

 雨樋とタンクを利用した、簡易的な浄水装置まである。

 奥の棚には、断面が滑らかに揃った継ぎ手の束が、まるで店の陳列のように並べられていた。

 一つ一つに、使われた日付らしき数字が小さく書き込まれている。

「……すごい」

 ミナが声を漏らした。

 俺は無線機に近づき、配線をたどってみたが、途中でどう繋がっているのか分からなくなった。

 素人の手仕事じゃない。

 何年もかけて、失敗を重ねた末に辿り着いた形だ。

 作業台の隅に、古い工具箱が置かれていた。

 蓋には薄れた文字と、誰かの名前らしき刻印が残っている。

 その工具箱だけが、周囲の廃材とは違う扱いを受けているのが分かった。

 汚れひとつなく、丁寧に磨かれている。

 壊れた無線機の奥から、雑音に混じって、ごく短く、何かの声のような響きが漏れた気がした。

 すぐに消える。

 気のせいかもしれない。

 奥へ進もうとした時、足元で何かが弾けた。

 空き缶が転がり、金属片がぶつかり合う甲高い音が倉庫中に響いた。

 罠だ、と気づいた時にはもう遅かった。

「――動くな」

 声は上から降ってきた。

 見上げると、梁の上に人影があった。

「先に言っとくけど、俺はここに三年いる。お前らみたいな略奪者を何人も見てきた」

 少年の声だった。

 俺よりも若い。

 けれど、声に迷いがなかった。

「略奪者じゃない。物資を探してただけだ」

「探すって言えば聞こえはいいけどな」

 影が音もなく梁から下り、俺たちの前に着地した。

 膝を柔らかく使った着地だった。

 オリーブ色の作業ジャケット。

 黒く汚れた手。

 首から下げたゴーグル。

 俺と同じくらいの背丈かと思ったが、よく見ると俺より低い。

 十五、六といったところか。

 目つきだけが、やけに大人びていた。

「その車、外にあるやつだろ」

 少年が顎で示した先、キャンピングカーの方角だった。

「お前が触ったのか」

「触ったっていうか……借りようとしてた」

 正直に言うところが、逆に腹が立った。

 車に戻ると、案の定、ボンネットの下のヒューズボックスが開けられていた。

 端子がいくつか外され、燃料フィルターの一部も緩められている。

 作業は雑ではなかった。

 必要な部分だけを、最短の手順で外している。

「人の車から部品を盗むのが、お前のやり方か」

「使えるものを放置してる方が悪い」

「放置してない。俺たちの車だ」

「だったら見張っとけよ」

 悪びれもせず、少年は肩をすくめた。

「使えるものは、先に見つけた人間のものだ。生きるためには仕方ない」

 その理屈は、間違ってはいなかった。

 十年、そうやって生き延びてきた人間は少なくないはずだ。

 それでも、認めるつもりはなかった。

「返せ」

 しばらく睨み合いが続いた。

 俺は拳を握ったまま黙っていた。

 頭の中で、この少年をどう扱うべきかを計算し続けていた。

 しばらくして、少年は舌打ちしながら部品を戻した。

 手つきは丁寧だった。

 盗んだ時よりも、戻す時の方が慎重に見えた。

「工房、見せてもらってもいい?」

 黙っていたミナが、緊張を解くように口を挟んだ。

「すごいね、これ全部。名前、なんて言うの?」

 少年は答えなかった。

 何度か聞かれて、ようやく面倒くさそうに口を開いた。

「……リク」

 それだけだった。

 苗字も、詳しい事情も語らない。

 俺たちは手早く物資を確認し、倉庫を出ることにした。

 去り際、リクが背中に向かって言った。

「その先、行くつもりか」

 俺は振り返った。

「行くと決めてるわけじゃない」

「行くなら、やめとけ」

「理由は」

「空気が機械を腐らせる」

 それだけ言うと、リクは倉庫の奥へ戻っていった。

 詳しい説明はない。

 信じるかどうかは、こっちに任されたということだ。

 ***

 車に戻り、地図を広げる。

 安全そうな迂回路は、少し先で土砂崩れによって塞がれていた。

 古い地図にはこの先の危険地帯の記載がない。

 燃料はもう心もとない。

 日没まで、そう長くない。

 引き返せば、この山中で夜を迎えることになる。

 空を見上げると、雲の切れ間から覗く光の色が、どこか白っぽく濁っているように見えた。

「行くしかない、か」

 ミナが呟いた。

「短い距離だ。抜けきればいい」

 俺は自分にそう言い聞かせるように答えた。

 走り出してすぐ、異変に気づいた。

 ガードレールに、粉を吹いたような白い付着物がこびりついている。

 道端の草は、葉の縁が灰色に変色していた。

 水たまりの表面に、乳白色の膜が浮いている。

 窓を少し開けると、金属のような、古い消毒液のような匂いが鼻をついた。

 一瞬、頭の奥で何かがちらついた。

 考えるな。

 今は、これを抜けることだけ考えろ。

 虫の音も、鳥の声も、いつの間にか消えていた。

 世界から音だけが抜き取られたようだった。

 ミナのカメラの液晶が、一瞬だけノイズで乱れる。

「今の見た?」

「見た。閉じとけ」

 しばらくは何事もなく走った。

 だが、エンジン音にわずかな乱れが混じり始めたのは、その十数分後だった。

 アクセルへの反応が鈍くなる。

 計器の針が不規則に揺れる。

 カーラジオから流れていた砂嵐のようなノイズが、さらに白っぽく歪んだ。

 焦げたような匂いが車内に漂う。

 ヘッドライトが、一瞬だけ明滅した。

「ユウト」

「分かってる」

 エンジンが息切れするように失速し、やがて完全に止まった。

 車を路肩に寄せ、俺はボンネットを開けた。

 オイル、バッテリー、燃料、ベルト、ヒューズ。

 順番に確認していくが、どれも決定的な異常には見えない。

 原因が分からない。

 分からない、ということが一番まずい。

「大丈夫……だよね?」

 ミナが懐中電灯で手元を照らしながら、いつもより早口で聞いた。

 その明るさが、少しずつ削れていくのが伝わってきた。

 空はさらに白く濁り始め、夕暮れが迫っていた。

 このまま夜を迎えれば、汚染地帯の中で朝を待つことになる。

 リクの警告が頭をよぎった。

 だが助けを求めに戻るには、遠すぎる。

 歯を食いしばってもう一度キーを回した時、遠くから小さなエンジン音と、金属を打つような足音が近づいてきた。

「……お前ら、本当に馬鹿だな」

 暗がりからリクが現れた。

 腰の工具ベルトが鳴っている。

「故障音がうるさかったんだよ。俺の集落の近くで止まられると迷惑だ」

 助けに来たとは、絶対に言わない口ぶりだった。

 リクは無言でボンネットを覗き込み、鼻を鳴らした。

 匂いを嗅ぎ、配線に軽く触れ、耳を澄ませる。

「端子が腐食してる。この辺りの空気のせいだ。燃料も劣化してる。フィルターに不純物が詰まってるな。あと、この配線……振動で被膜が裂けて漏電してる」

 言葉が、堰を切ったように早くなった。

「発電系の接点も傷んでる。電圧が安定してない。全部重なって、こうなった」

 説明を全部理解できたわけじゃない。

 それでも、こいつが何をすべきか分かっている、ということだけは伝わってきた。

「手伝う。指示しろ」

「は?」

「文句あるか」

 リクは一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに車体の下に潜り込んだ。

「ライト、もっと右」

「こう?」ミナが動かす。

「右」

「私から見て?」

「俺から見て」

「先に言って」

「普通分かるだろ」

「機械と会話できても、人間との会話は苦手なんだね」

「うるさい」

 軽口の応酬の合間にも、作業は止まらなかった。

「次、十二ミリ」

 車体の下から声が飛んできた瞬間、俺はすでに工具箱からそれを取り出していた。

 差し出すと、一瞬だけ間があった。

「……分かってるじゃん」

 低い声だった。

 それだけで、何かが少し変わった気がした。

 白い霧が近づいてくる。

 ミナの腕が震え始め、ライトが揺れる。

 俺は車体を支える手を痛め、リクの指には新しい切り傷が増えていく。

 それでも三人とも、手を止めなかった。

 代替部品は、リクが持ってきた発電機の予備パーツから調達した。

 焼けた配線を切り離し、廃材から作った端子で繋ぎ直す。

「よし……エンジン、かけてみろ」

 俺はキーを回した。

 一度目は、力なく空回りしただけだった。

「もう一回」

 二度目も、途中で咳き込むように止まった。

 リクが小さく舌打ちする。

「三度目、いくぞ」

 キーを回す。

 エンジンが唸り、震え、やがて安定した音を取り戻した。

 誰も歓声を上げなかった。

 そのかわり、ミナが長く息を吐き、俺は握っていたキーからようやく指を離した。

 リクが耳を澄ませ、ぽつりと言った。

「……今度はまともだ」

 ***

 汚染地帯を抜け、集落近くの開けた場所まで戻った頃には、日はほとんど落ちていた。

 車を降りると、体中の力が抜けていくのが分かった。

 ミナが缶詰と乾パン、温めたスープを三人分並べる。

 湯気が、冷えた車内に細く立ち上った。

「報酬なら部品でいい」

 リクがぶっきらぼうに言った。

「これは修理代とは別。夕飯」

 ミナが笑って、リクの前にスプーンを置いた。

 空腹には勝てなかったのか、リクは黙って席についた。

 だが食卓に着いた途端、それまでの饒舌さが嘘のように消えた。

 三人分の食器を、しばらくじっと見つめている。

 どう振る舞えばいいのか分からない、というような、ぎこちない沈黙だった。

 誰かと一緒に食卓を囲むという行為そのものに、体が慣れていないようだった。

 スプーンを持つ手が、一度だけ止まる。

 すぐにまた動き出したが、俺はそれを見なかったふりをした。

「うまい?」

「……普通」

 そう言いながら、最後の一口だけをやけにゆっくり食べていた。

 工具箱は、テーブルの下、リクの足元に置かれたままだった。

 一度も目を離さない。

「その工具箱、ずっと使ってるの?」

 ミナが聞くと、リクは短く答えた。

「昔から使ってる」

「無線機、直してるんだよね。誰かと話せそう?」

「雑音しか拾わない」

 それ以上は、何も語らなかった。

 俺は何も聞かずに、リクの分の水をそっと置いた。

 聞けば、答えなくてはいけなくなる。

 答えたくないことを、答えなくてもいい距離でいたかった。

 食事の後、ミナがリクの油だらけの顔を見て小さく笑った。

 リクは不機嫌そうに顔をこすったが、拭いた場所がさらに汚れただけだった。

「余計汚れてる」

「うるさい」

 ***

 翌朝、出発の準備をしていると、リクが車の周りをうろつきながら不調箇所をいくつも指摘してきた。

「この車、また壊れる」

「縁起でもないこと言うな」

「事実だ。さっきのは応急処置だ。配線も燃料系も、あと何日持つか分からない」

「つまり?」

 ミナが尋ねる。

 リクは工具箱を持ち直し、目を逸らしながら言った。

「……整備士が必要だろ」

 俺はすぐには頷かなかった。

 食料、水、寝る場所。

 こいつを信用できるのか。

 けれど、修理の間、リクは一度も部品を盗もうとしなかった。

 むしろ自分の発電機の一部を惜しみなく差し出した。

 その事実の方が、口先の言葉より重かった。

 三年、一人でここを守り続けてきた人間だ。

 一人でいることに慣れているはずなのに、車を離れる決心をした理由までは、聞かなかった。

 ミナは黙って後部座席の荷物をずらし、リクの座れる場所を作った。

 俺は収納スペースの一角を空け、工具箱を置けるようにした。

 誰も「仲間になれ」とは言わなかった。

「動く機械だけが信じられる」

 リクがぽつりと呟いた台詞は、格好つけているようで、どこか痩せた響きがあった。

「じゃあ、動いてる間はこの車を信じてよ」

 ミナが軽く返す。

「車だけじゃ困る」

 俺は工具箱を収納に押し込みながら言った。

「乗るなら、俺たちの判断にも従え」

 リクは不満そうに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。

 夜明け前、白い霧を押し分けるようにヘッドライトが伸びる。

 バックミラーの中で、リクの工房が少しずつ小さくなっていく。

 三年分の暮らしが詰まった倉庫が、朝靄の向こうに沈んでいく。

 リクは一度だけ振り返り、それきり前を向いた。

 後部座席には、自作の無線機が大事そうに抱えられている。

 かすかな雑音だけが、ラジオから漏れている。

「今の、何か聞こえた?」

 ミナが振り向く。

「ただの雑音だ」

 リクはつまみを回しながら、そっけなく答えた。

 車内には、以前より少しだけ重くなった空気と、三つ目の呼吸があった。

 エンジンは、それでも変わらず安定して響いていた。

 二人だった旅に、また一人増えた。

 まだ何も言葉にはならないけれど、確かにそう感じられる朝だった。


第5章「機械少年リク」、最後までお読みいただきありがとうございました。


ここからは、少しだけ裏話を交えつつ、あとがきを書かせてください。


長くなってしまいますが、お付き合いいただければ嬉しいです。


■ 三人目は「生意気な少年」でした


旅の仲間が増える回というのは、物語の中でも特に気を遣う場面です。


新しい人物を「便利な仲間」として登場させるのは簡単ですが、それでは彼が物語に現れた意味が薄れてしまいます。


そこでリクは、出会いの瞬間から少し厄介な少年として書きました。


罠を仕掛け、車から部品を盗もうとし、悪びれもせずに「使えるものは先に見つけた人間のものだ」と言い切る。


正直に言うと、書いている私自身も「この子、なかなか手強いな」と思いました。


けれど、彼の理屈は決して間違っていません。


十年間、誰にも頼れず生き延びてきた人間にとって、それは身を守るための正しい考え方だったはずです。


だからこそユウトも、腹を立てながら、完全には否定しきれなかったのだと思います。


■ 工房の描写には、いちばん力を入れました


倉庫の中の場面は、この章で特に時間をかけて書いたところです。


種類ごとに吊るされた工具。


大きさごとに揃えられたボルトの箱。


店の陳列のように並んだ継ぎ手の束と、一つ一つに小さく書き込まれた日付。


この「整いすぎた工房」を見せることで、セリフで説明しなくても、リクという少年がどんな三年間を過ごしてきたのかが伝わればいいな、と考えました。


きちんと並べられた道具は、そのまま彼の孤独の深さでもあります。


散らかす相手も、片付けを頼む相手もいない場所で、彼は一人で全部を整え続けてきたのです。


そしてその中で、一つだけ別格に丁寧に磨かれていた古い工具箱。


あれが何なのかは、この先の旅の中で、少しずつ明らかになっていきます。


どうか、頭の片隅に置いておいてください。


■ 「十二ミリ」の一言について


この章で私が一番書きたかったのは、実は派手な修理の場面ではありません。


車体の下から「次、十二ミリ」と声が飛んだ時、ユウトがすでに工具を手に取っていた、あの一瞬です。


「……分かってるじゃん」


たった一言ですが、リクが初めてユウトを「同じ作業をする相手」として見た瞬間でした。


友情や信頼は、大げさな言葉ではなく、こういう小さな呼吸の合い方から生まれるのだと思っています。


その直前まで睨み合っていた二人が、言葉を交わさないまま同じ方向を向いている。


書いていて、いちばん胸が温かくなった場面です。


■ 食卓の沈黙と、三つ目の呼吸


修理のあと、三人で食卓を囲む場面も気に入っています。


あれほど饒舌だったリクが、席についた途端に急に静かになります。


それはきっと、誰かと一緒にご飯を食べるという当たり前の行為に、体が慣れていなかったからです。


スプーンを持つ手が一度だけ止まる。


ユウトは、それを見なかったふりをする。


聞けば、答えなくてはいけなくなる。


答えたくないことを、答えなくてもいい距離でいたい。


ユウトのその不器用な優しさが、私はとても好きです。


彼は決して、言葉が多い少年ではありません。


けれど、何も言わないという選択で、ちゃんと相手を思いやっています。


ラストの一文にある「三つ目の呼吸」という表現は、二人だった車内に人が増えたことを、音ではなく空気で伝えたくて選びました。


気づいていただけていたら、とても嬉しいです。


■ 散りばめた「白い雨」の気配


今回の後半では、白い雨の痕跡が残る汚染地帯に踏み込みます。


ガードレールの白い付着物。


葉の縁が灰色になった草。


水たまりに浮かぶ乳白色の膜。


そして、金属のような、古い消毒液のような匂い。


ユウトが一瞬、頭の奥で何かがちらつく感覚を覚えたことにも、お気づきでしょうか。


「考えるな」と自分に言い聞かせて、彼はそれ以上踏み込みませんでした。


彼が何を思い出しかけたのか。


それもまた、旅が進むにつれて描いていくつもりです。


■ 壊れた無線機の、かすかな声


倉庫の中で、そして最後の朝に、無線機から漏れた雑音があります。


あれが本当に「ただの雑音」なのかどうかは、今はまだ内緒にさせてください。


ただ、リクが抱えているあの無線機が、これからも折に触れて物語に顔を出すことだけは、お伝えしておきます。


■ 次回予告


そして、リクを加えた三人と一台の旅は、次の舞台へ向かいます。


次回、第6章「草に沈む街」。


ビルは蔦に覆われ、駅には錆びた電車が眠り、商店街が森のように変わってしまった、かつての地方都市へ。


廃墟の美しさと、そこに潜む危険。


その両方が、彼らを待っています。


そして、あの街で「小さな出会い」が待っているかもしれません。


赤茶色の毛並みと、警戒するような静かな瞳。


……詳しくは、次回のお楽しみということで。


■ 最後に


ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。


ブックマークや評価、感想は、更新を続ける何よりの力になっています。


「ここが好きだった」「このセリフが刺さった」という一言だけでも、とても嬉しいです。


第6章も、なるべく早くお届けできるよう頑張ります。


それでは、また次のページでお会いしましょう。


世界が終わっても、朝はきます。


走り続ける限り、ここが家です。

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