第4章 無人の高速道路
お待たせいたしました、第4話をお届けします。
前回、ユウトとミナは古いキャンピングカーのエンジンをかけ、ついに町を出ました。
今回はいよいや彼らの旅が本格的に動き出す回です。
草に沈んだ高速道路、放置された車の列、そして誰もいないサービスエリア。
終末世界の「静けさ」を、できる限り丁寧に描いたつもりです。
それから、今回は二人の関係にも少しだけ踏み込んでいます。
価値観の違いからぶつかる場面がありますが、これは喧嘩のための喧嘩ではなく、二人がお互いを知っていくための、大切な一歩だと思って書きました。
慎重すぎるユウトと、危険を承知で前に出ようとするミナ。
どちらが正しいという話ではなく、どちらも間違っていない、というところを感じていただけたら嬉しいです。
そして今回のラスト、星空のシーンは今回一番書きたかった場面です。
電気のない世界だからこそ見える夜空、というモチーフを、この物語の中で何度か使っていきたいと考えています。
それでは、第4話「無人の高速道路」、どうぞごゆっくりお楽しみください。
草を踏むタイヤの音が、単調に続いていた。
ザッ、ザッ、と規則正しい音の合間に、時々鋭い音が混じる。伸びすぎた雑草の中に隠れた小石を踏んだ音だ。フロントガラスの向こうには、ひび割れたアスファルトの隙間から突き出した緑が、どこまでも続いている。
エンジン音は思ったより静かだった。整備したばかりだからか、それとも、周囲があまりにも静かすぎるからか。俺にはもう判断がつかなかった。窓の外を風が抜けていく音さえ、やけに大きく聞こえる。町を出てからまだ数時間しか経っていないのに、もう随分と遠くへ来た気がした。
「ねえ、見て」
助手席のミナが、窓の外を指差した。中央分離帯の植木が、何年も剪定されないまま道路側へ枝を伸ばしている。緑のトンネルのようになった箇所を、車がゆっくりとくぐっていく。小枝が車体を掠め、ぱき、ぱき、と乾いた音を立てた。
「木がこっちまで来てる」
「知ってる」
俺は速度を落とした。路面の陥没や、見えない障害物を警戒しながら進む。時速三十キロも出せば十分だった。急ぐ理由はない――そう自分に言い聞かせていたが、本当は違う。この速度でなければ、道の異変に気づく前に車が壊れる。壊れれば、俺たちはこの道の真ん中で立ち往生することになる。
「もうちょっと速く走れないの」
「無理だ。路面がどうなってるか分からない」
「さっきから同じくらいの速さだよ」
「同じでいい」
ミナは小さく息を吐いて、窓の外にカメラを向けた。シャッター音が一度だけ鳴る。
高速道路には、俺たち以外、動くものが何もなかった。放置された車の列も、崩れた標識も、風に揺れる草も、すべてが静止した絵のように見える。それなのに、どこかに解放感があった。信号もない。誰かに追われる心配もない。ただ道が続いているだけの世界。
けれど俺は、その解放感を信用していなかった。
何もないということは、何かに気づけないということでもある。
「ユウトは、あんまり景色見ないよね」
「見てる。危険がないかどうか」
「そうじゃなくて」
ミナは言葉を切って、また窓の外を見た。それ以上は何も言わなかった。俺も聞き返さなかった。
追越車線に、最初の放置車両が見えてきた。
扉が開いたまま錆びついたセダン。運転席側のドアが草の重みでほとんど閉じかけている。中は空だった。荷物らしきものも見当たらない。誰かが慌てて出て行ったのか、それとも、時間をかけて出て行ったのか、それを判断する材料は何もない。
その少し先には、ガードレールに突っ込んだまま放置されたトラックがあった。フロント部分が潰れ、荷台の幌が破れて中身が飛び出している。段ボール箱、衣類らしき布の切れ端、錆びた自転車のフレーム。生活の破片だけが、そこに取り残されていた。
「誰もいないね」
ミナがぽつりと言った。
「ああ」
「みんな、どこに行ったんだろう」
俺は答えなかった。答えを持っていなかったからだ。
案内標識の看板が、風雨に晒されて半分崩れていた。かろうじて読める文字は「――方面」だけで、行き先の地名は完全に剥がれ落ちている。どこへ向かっていた道なのか、今となっては誰にも分からない。
そのすぐ先、ガードレールの表面に、白く筋状に伸びた痕跡があった。雨だれのように上から下へ、金属を薄く侵食したような跡。窓を細く開けていたせいで、微かな匂いが車内に入り込んできた。金属を舐めたような、古い消毒液のような匂い。
一瞬、頭の奥が白くなった。あの日の匂いだ、と体が先に理解した。傘の柄を握った手の感触、誰かの叫び声、視界いっぱいに降ってきた白い粒子。そこまで蘇りかけたところで、俺は無意識にハンドルを少し切って、その残像ごと痕跡から車を遠ざけた。考えるな。今は運転に集中しろ。いつもそうやって、頭の中の蓋を閉めてきた。
「窓、閉めてくれ」
「なんで」
「あれのせいだ。匂う」
俺はガードレールを目で示した。ミナは鼻を軽く動かしてから、すぐに窓を閉めた。理由を聞き返さないところが、彼女なりの理解の仕方なのだと思う。白い雨の痕跡がどういう仕組みで残るのか、俺たちにも正確には分からない。分からないからこそ、避ける。それだけだ。
しばらく無言で走った後、ミナが言った。
「止まって」
「は?」
「あそこ、撮りたい」
彼女が指したのは、白い筋の残る標識の残骸だった。
「さっき匂うって言ったばかりだろ」
「もう風下だし、あれくらいなら大丈夫でしょ」
「大丈夫の根拠は」
「勘」
「勘で車を止める判断はしたくない」
「止まってたら景色変わんないよ、って言うのは私の台詞なんだけどな」
軽い口調だったが、目は真剣だった。俺は舌打ちしそうになるのを堪えて、路肩に車を寄せた。
「短くしろ」
「分かってる」
ミナは車を降り、標識に向かって歩いていく。俺はハンドルに手をかけたまま、ミラーとフロントガラスの両方を交互に見た。周囲に動くものはない。それでも視線を止めることができなかった。木々の陰、放置車両の隙間、ガードレールの向こう。何かが潜んでいるとしたら、真っ先に気づかなければならない。
シャッター音が何度か聞こえた。ミナは標識の前でしゃがみ込み、角度を変えながら撮っている。俺には、ただの錆びた鉄の塊にしか見えなかった。だが彼女の目には、違うものが映っているのだろう。
「もういいだろ」
「あと一枚」
「もういい」
ミナは名残惜しそうに立ち上がり、車に戻ってきた。ドアを閉める音がやけに大きく響いた。
「同じもの見てるのに、俺たちは全然違うもの見てるんだな」
思わずそう呟くと、ミナがこちらを見た。
「今、初めて分かった?」
俺は答えず、車を出した。ダッシュボードの端に置いた燃料計を、癖でもう一度確認する。目盛りはまだ半分より上だった。手首のミサンガが、ハンドルを握る動きに合わせて小さく揺れた。
***
日が傾き始めた頃、俺たちは廃止されたサービスエリアの標識を見つけた。緑色の看板は色褪せ、文字の一部が読み取れなくなっていたが、まだ「休憩」という文字だけは残っていた。
駐車場には数台の車が放置されていた。どれも埃をかぶり、タイヤの空気が抜けている。建物の入口の自動ドアは、開いたまま停止していた。看板の一部が落下し、地面に転がっている。かつては家族連れやトラックの運転手がひっきりなしに出入りしていたはずの場所が、今は風の音しか通らない。
「今夜はここに泊まる」
「うん」
反対されると思っていたので、あっさり頷かれたことに拍子抜けした。
車を降りる前に、俺はナイフを腰に確認し、周囲の音に耳を澄ませた。風の音以外に何も聞こえない。油断はできない。慎重に、建物の入口まで歩いた。入口に立った瞬間、まず視線を左右に走らせる。売店の裏口らしき通路、非常口の緑の案内板がまだ辛うじて壁に残っているのを確認して、頭の中に逃げ道を一本刻んでおく。何かあったらあそこへ走ればいい。それを確かめてから、ようやく足を一歩、建物の中へ踏み入れた。
「先に俺が見る。お前は後ろにいろ」
「はいはい」
内部は薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。売店の棚はほとんど空だったが、床に落ちた紙くずや、レジ横に残されたままの小銭入れが、かつてここに人がいたことを物語っていた。値札の貼られたままの菓子袋が、棚の隅で埃をかぶっている。誰かが値段を気にしていた頃が、確かにあったのだ。天井の照明は割れたままぶら下がり、壁のポスターは色褪せて誰の顔だったのかも分からなくなっていた。
奥へ進むと、フードコートらしき空間が広がっていた。丸テーブルがいくつも並び、椅子の半分は倒れたまま埃をかぶっている。メニューの看板には、写真の色が抜けきった「ラーメン」「かつ丼」の文字だけがかろうじて読めた。厨房の奥を覗くと、鍋やフライパンが乱雑に積み重なっていて、誰かが最後まで仕事を続けようとした形跡があった。
「こういうところ、写真に撮ると絶対いい絵になるんだよね」
ミナがそう言いながら、倒れた椅子の間を縫うように歩いていく。俺は黙って後をついた。テーブルの一つに、色褪せた子供用のお子様ランチのプレートが置きっぱなしになっていた。旗の絵柄はもう判別できない。誰かが食べかけて、そのまま席を立ったまま戻らなかったのだろう。ミナはそのプレートの前でしゃがみ込み、しばらく動かなかった。
「撮らないのか」
「……今日はいい」
彼女は立ち上がって、それ以上何も言わなかった。俺も聞かなかった。厨房の棚を探ると、缶詰が数個、埃をかぶって残っていた。ラベルは読めなくなっていたが、缶自体に膨らみや錆びはなく、まだ使えそうだった。俺はそれをリュックに詰めた。今夜の食料が一つ増えたことに、少しだけ安堵した。
奥の自販機コーナーで、俺は未開封のペットボトルを二本見つけた。中身は濁っていたが、飲めないほどではなさそうだった。トイレの奥の物置からは、毛布が数枚と、古い道路地図が出てきた。地図は端が黄ばんでいたが、印刷はまだ読める。俺はそれを丁寧に折り畳んで、リュックの地図筒に差し込んだ。今持っている地図より詳しいページが一枚でもあれば、それだけで儲けものだ。
「大収穫ってわけじゃないな」
「十分だよ」
ミナは壁の案内板を見上げていた。色褪せた地図の上に、誰かが油性ペンで何か書き込んでいる。文字はほとんど消えかけていたが、「ここで待つ」という三文字だけがかろうじて読めた。
「誰が書いたんだろう」
「分からない」
「待ってた人、来たのかな」
俺は答えられなかった。答えは、たぶんどちらにしてもろくなものではない。
その時、奥のほうでガタン、と物音がした。俺は反射的にミナの前に出た。
「動くな」
耳を澄ませる。もう一度、今度は小さくカタカタと音がした。風で何かが揺れているような音だった。頭の中で、さっき確認した非常口までの距離を測る。五歩、いや六歩。ミナの手を引いても間に合う距離だ。
しばらく待っても、それ以上何も起こらなかった。落下物か、隙間から入り込んだ風か、あるいは小動物か。理由は分からないが、危険な気配ではないと判断した。それでも、非常口の位置を確かめておいたことを、俺は少しだけ良かったと思った。
「……行くぞ」
「ちょっとユウト、今めちゃくちゃ格好つけて私を庇ったよね」
「うるさい」
「あとさっきから、ずっと出口の場所チェックしてる。知ってるよ、それ」
「気づかなくていい」
「気づくよ。毎回だもん」
車に戻り、俺はミナに手伝わせて座席を倒した。狭い車内での作業は思ったより手間取った。荷物をどこに置くかで揉め、毛布をどう掛けるかで揉め、最終的にミナが窓に布を貼り付けている間に、俺は座席の隙間に足を挟んで悪態をついた。
「ユウト、そこ通れないよ」
「分かってる。今どけ」
「先に言ってよ」
ようやく落ち着いた頃には、外はすっかり暗くなっていた。夕食は缶詰と、水で割った携帯食だけの簡素なものだった。温めることもできない食事を、二人で黙々と口に運ぶ。狭い車内に、缶を開ける音とスプーンの音だけが響いていた。
「外、ちょっとだけ撮ってきていい?」
「駄目だ」
「なんで。すぐそこだよ」
「日が沈んだ後に外に出るな。何度も言ってる」
「ほんの数分だけだって」
「写真のために危険を冒す必要はない」
ミナの表情が少し強張った。
「危ないから見ない、危ないから残さない。それって、旅してる意味あるのかな」
「生き残ることが旅の意味だ」
「それ、旅じゃなくて、ただ逃げてるだけじゃない?」
その言葉が、思ったより深く刺さった。俺は一瞬、何も言えなくなった。そして、その苛立ちをそのまま口に出してしまった。
「お前の写真なんて、何の役にも立たないだろ」
言った瞬間、しまったと思った。ミナは声を荒らげなかった。ただ、カメラをそっと膝の上に置いて、黙り込んだ。
「……そう」
それだけ言って、ミナは体の向きを変えた。俺も何も言えず、反対側の窓に視線を向けた。狭い車内で、二人分の背中が向き合わないまま止まっていた。
沈黙は長く続いた。エンジンの余熱が冷めていく音だけが、時々、小さく響いた。俺は自分の言った言葉を、何度も頭の中で巻き戻していた。役に立たない、なんて言うつもりはなかった。ただ、危険を承知で外に出ようとする彼女に、苛立っていただけだった。
謝ろうと思ったが、言葉が出なかった。
***
深夜、物音で目が覚めた。風が建物の隙間を鳴らす音だった。隣で、ミナが小さな寝息を立てている。窓は結露で白く曇っていた。
俺は静かに車を降りた。周囲を確認するためだったが、外に出た瞬間、思わず足を止めた。
街灯も、建物の照明も、何もない世界だった。だからこそ、空は完全な暗闇ではなかった。
見上げると、星が信じられないほどの密度で広がっていた。濃淡のある光の粒が、幾重にも重なって夜空を埋めている。空の奥行きが、これまで見たどの夜よりも深く感じられた。都会で育った頃には、こんな空を見たことがなかった。電気のない世界が、皮肉にも一番美しい夜を連れてきていた。
高速道路は、その星空の下へどこまでも延びていた。どこまで行けば終わるのか、想像もつかないほど遠くまで。
俺は、警戒することを忘れて立ち尽くしていた。
子供の頃、父の書斎で古い地図を眺めていたことを思い出した。知らない土地の名前を指でなぞりながら、いつかここへ行ってみたいと思っていた。あの頃の「遠く」は、恐怖ではなく、希望だった。
いつから、遠くを見ると危険しか浮かばなくなったのだろう。
腕時計に触れかけて、やめた。針は十年前から動いていない。今この場所で時間を確かめても、意味などないのに、指先はいつも無意識にそこへ伸びる。
「眠れないの」
背後でミナの声がした。振り返ると、毛布を肩にかけたまま立っていた。
「……ああ」
彼女は俺の隣に来て、同じ空を見上げた。どちらも、しばらく何も言わなかった。まだ気まずさは残っていたが、それを埋めようとする言葉は、どちらからも出てこなかった。
ミナがカメラを構えた。シャッターを切る。液晶を確認して、小さく舌打ちした。
「駄目だ、暗すぎる」
「そういうもんだろ」
「分かってるけど」
彼女はもう一度試して、また首を振った。それから、カメラを下ろして、ただ星を見上げた。
「写真に残らないなら、意味ないのか」
思わず聞いていた。ミナは少し考えてから答えた。
「ううん。今、私が見てる。それだけでいいんだと思う」
その答えが、俺の中の何かに触れた気がした。
「……さっきは、悪かった」
「うん」
「役に立たないなんて、思ってない」
「分かってる。でも、勝手に外に出ようとしたのも、私が悪かった」
これで完全に元通りになったわけではない。まだ互いの中に、消化しきれない部分は残っていた。それでも、隣に立っている距離は、さっきよりわずかに近かった。
俺は星空の下に延びる道路を、もう一度見つめた。
遠くへ行きたい。
その感情が、胸の奥から静かに戻ってきた。忘れていたわけではない。ただ、長い間、見ないようにしていただけだった。危険を恐れる気持ちは消えない。それでも、この道の先に、何かがあるかもしれないと思えた。
「そろそろ戻ろう」
「うん」
車に戻り、俺たちはそれぞれの場所に横になった。ミナはすぐに寝息を立て始めた。俺は目を閉じられないまま、天井を見つめていた。
明日も、この道を走る。
それだけのことが、今は少しだけ、悪くないと思えた。
第4話、お読みいただきありがとうございました。
今回のテーマは「同じものを見ていても、見えているものは違う」でした。
ユウトにとっての高速道路は「警戒すべき危険地帯」であり、ミナにとっては「記録すべき景色」です。
このすれ違いこそが、二人の物語の本質だと思っています。
白い雨の痕跡に反応するユウトの描写は、彼が抱えている過去に軽く触れる部分でもあります。
「あの日の匂いだ」という一文に、彼の中でまだ終わっていないものがあることを感じていただけたなら幸いです。
このあたりの具体的な過去は、まだしばらく伏せておこうと思います。
「役に立たないだろ」というユウトの一言と、その後の沈黙、そして仲直りしきれないまま眠りにつく二人。
綺麗に解決させず、少しだけ距離が縮まった、くらいの温度で終わらせたのは意図的です。
人間関係って、一晩で全部解決するものじゃないですからね。
そして深夜の星空のシーン。
「写真に残らないなら、意味ないのか」「今、私が見てる。それだけでいいんだと思う」というミナの答えは、この物語全体を通して大事にしたい考え方のひとつです。
記録することと、今この瞬間を生きることは、本当は矛盾しないんじゃないか、という話を、この先も少しずつ描いていきたいと思っています。
腕時計に触れかけてやめる仕草も、地味ですが伏線のひとつです。
気にしていただけると、後々もっと楽しめると思います。
さて、次回、第5話は「機械少年リク」です。
いよいよ三人目の仲間が登場します。
山間の集落跡で一人生き延びていた少年との出会い、そして最初は決して友好的ではない出会い方になる予定です。
機械にしか信頼を置けなくなった少年が、なぜユウトたちとの旅を選ぶのか。
そのあたりをじっくり書いていければと思っています。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
ブックマーク、感想、評価、いつも本当に励みになっています。
それでは、次回もどうぞよろしくお願いいたします。




