第3章 エンジンがかかる朝
お待たせしました、第3話です。
前話では、廃車置き場で眠っていた一台のキャンピングカーと、カメラを首から下げた少女・七瀬ミナに出会ってしまったユウト。
「青い海を探してる」
そんな、鼻で笑いたくなるような言葉に、なぜか足が止まってしまった一人の少年の話でした。
今回は、いよいよその車を直すところから始まります。
錆びついたボディ、空に近い燃料タンク、真っ黒に汚れたオイル。動く保証なんてどこにもない代物を前に、慎重で現実主義なユウトと、根拠のない前向きさを持つミナが、少しずつ噛み合っていく過程を書きました。
工具を探し、部品を集め、埃をかぶった車内を片付けていく――そんな地味な作業の積み重ねの中にこそ、二人の距離が縮まっていく瞬間があると思っています。
そして、この章の最後には、十年間止まっていたものが、もう一度動き出す音が鳴ります。
それではどうぞ、第3話「エンジンがかかる朝」をお楽しみください。
朝露が草の先に光っていた。
白く曇った空の下、廃車置き場は昨夜よりも静かに見えた。積み重なった車の骨組みが霧にぼやけ、風が吹くたびにどこかのドアが軋んだ音を立てる。遠くで、崩れかけた電柱がきしむ音がした。誰もいない町の朝は、いつもこうだ。物音ひとつが、やけに大きく響く。
俺は工具袋の持ち手を握った。冷たい。指先がすぐに感覚を失いそうになる。霧の中に沈んだ車の骨組みは、まるで大きな動物の骨のようにも見えた。十年前からずっと、ここで眠り続けているものたちだ。
別に、旅に出るつもりで来たわけじゃない。
ただ、あの車が本当に動くのか。それだけを確かめたかった。そう自分に言い聞かせながら歩いていたら、キャンピングカーの屋根の上に、見覚えのある人影があった。
「来ると思ってた」
七瀬ミナは、まるで俺が来るのを最初から知っていたような顔で笑った。カメラを首から下げたまま、屋根の錆を指でなぞっている。朝の光が仄白く反射して、彼女の輪郭だけがやけにはっきり見えた。
「勘違いするな。旅に出るためじゃない」
「じゃあ何のため?」
「動くか確かめるだけだ」
「それを修理って言うんじゃない?」
言い返す言葉が見つからなくて、俺は黙って工具袋を地面に置いた。ミナは屋根から飛び降りると、両手をパンパンと払った。埃が朝の光の中で白く舞った。
俺はそれ以上、帰る理由を見つけられなかった。
車体は白く褪せ、あちこちに茶色い錆が浮いていた。蝶番は錆びついて動きが渋く、扉を開けると軋んだ悲鳴のような音がした。エンジンルームを覗く。バッテリーは古く、端子には白い粉が吹いている。ホースは硬化してひび割れ、ベルトは固着しかけていた。オイルは真っ黒。燃料タンクはほとんど空に近い。タイヤは四本とも、わずかに潰れている。
「分かった顔をするな」
俺が言うと、ミナは首をかしげた。
「今のは分かったよ。たぶん悪いんでしょ」
「全部悪い」
「じゃあ、直すところが分かりやすいね」
前向きなのか、ただ楽観的なだけなのか分からない。俺にできるのは、バッテリーの交換、オイルの確認、ベルトとホースの点検、端子の清掃、それに基本的な始動作業までだ。エンジンを分解したり、電子部品を修理したりする技術はない。動けば運がいい。長く走れる保証はどこにもない。
「動けばいいってわけじゃない」と俺は言った。「途中で止まったら、それで終わりだ」
「止まったら、そこからまた考えればいいよ」
ミナはそう言って、車内の収納棚をがさごそと漁り始めた。埃が舞い、彼女がくしゃみをした。
***
必要な部品を集めるため、俺たちは町の廃工場や整備工場を回った。見知らぬ建物に足を踏み入れる前に、俺は出口をふたつ確認する。裏の非常口と、崩れかけた窓。癖のようなものだ。何かあった時、逃げる道を先に決めておく。ミナはそんな俺を横目に見て、何も言わずに先へ進んだ。
シャッターが半分落ちた建物、床に散らばったボルトとガラス片、壁を這う蔦。棚には空のオイル缶が並び、窓から差し込む光がその埃を白く照らしていた。人がいなくなってから十年、道具だけがそこに取り残されている。誰かが最後にこの棚に手を伸ばした日のことを、俺は想像しないようにしていた。壁のカレンダーは、十年前の月で止まったままだった。
俺はバッテリー、工具、ホース、ベルト、布、オイル、燃料用の容器、タイヤの補修材を選んだ。ミナは全く違うものに目を留めていた。
「これ、いいマグカップじゃない?」
「車を直すのに食器棚はいらない」
「いるよ。走ったあとに温かいもの飲むでしょ」
反論できなかった。代わりに毛布と鍋を彼女のリュックへ押し込んでおいた。
帰り道、放置された車の列を見つけた。錆びたセダン、横倒しのトラック、荷台に草が生えたバン。俺は懐から古いホースを取り出した。
「何するの」
「燃料が足りない」
サイフォンでガソリンを抜く。単純な作業だが、慣れていないと何度も失敗する。ホースをタンクに差し込み、口で軽く吸う。タイミングを間違えれば、ガソリンが直接口の中に流れ込む。
一台目は失敗した。喉の奥に苦い味が広がって、俺はしばらく道端でえずいた。
「大丈夫?」
「……黙ってろ」
「顔、真っ青」
「うるさい」
二台目でようやくコツを取り戻した。容器にガソリンが溜まっていく音だけが、静かな通りに響く。ミナは容器を押さえながら、それでも笑いをこらえきれていなかった。
「そんな面白いか」
「面白い。ユウトが変な顔してるところ、初めて見た」
集めた量は、たいして多くはなかった。何台か回っても、タンクの底に残っていたのはわずかな量だ。十年経てば、ガソリンも劣化する。使えるかどうかも賭けだった。それでも、無いよりはましだった。
***
廃工場の奥、崩れかけた床を踏みそうになったミナの腕を、俺は反射的に掴んだ。
「危ない」
「……ありがと」
一瞬だけ、互いの視線が絡んで、すぐに離れた。それだけだった。ミナの手首は思ったより細くて、思ったより冷たかった。
ミナはあちこちで足を止めてはカメラを構えた。色褪せた観光パンフレット、誰かの写真、古いラジオ、壁に貼られたままの求人票。作業の速度は落ちたが、彼女が撮っているものが単なる暇つぶしではないことには、なんとなく気づいていた。誰かがここで生きていた証拠を、彼女は拾い集めているのだ。シャッター音が鳴るたびに、この廃工場のどこかが、ほんの少しだけ息を吹き返すような気がした。
***
廃車置き場へ戻り、修理を始めた。レンチが錆びたボルトを噛む音。金属を叩く乾いた音。地面に落ちる錆の粉。手についた黒い油。日が高くなるにつれ、車体は少しずつ熱を持ち始めた。
ミナは最初、工具のサイズを間違え、ドライバーの種類を間違え、ボルトを逆に回そうとした。
「そっちじゃない」
「今のは分かったもん」
「分かってない」
だが、彼女は同じ失敗を繰り返さなかった。工具を大きさ別に並べ、必要なものを先に渡し、水と布を用意する。車内の埃を払い、古い荷物を整理する。気づけば俺たちの作業には、いつの間にか呼吸のようなものが生まれていた。言葉より先に、必要な工具が手元に届く。
「誰に教わったの?」
バッテリーの端子を磨いていた俺に、ミナが聞いた。
手が一瞬止まる。油の匂いと、遠い記憶の中の誰かの手つきが重なった。指の関節の動かし方。工具を渡す順番。それが誰の記憶だったのか、思い出そうとするより先に、蓋をした。左手首に指が動きかけて、ミサンガの結び目に触れる直前で止まる。
「昔、見てただけだ」
それ以上は言わなかった。ミナも聞かなかった。ただ、少しだけ声の調子を変えて「そっか」とだけ返した。沈黙が、悪くなかった。
***
日が真上に近づいた頃、俺たちは荷台に腰かけて休んだ。ミナが鞄から缶詰をひとつ取り出し、蓋を開けた。中身は正体不明の果物のシロップ漬けだった。
「甘いやつ、当たりだと思う?」
「食ってみないと分からない」
スプーンは一本しかなかった。ミナが先に口をつけ、顔をしかめた。
「……甘すぎる」
差し出された缶を、俺も一口すくった。ひどく甘い。それでも、腹の奥が少しあたたかくなった。会話は続かなかったが、それでよかった。
***
車内の収納棚を整理していたミナの手が止まった。
「ねえ、これ」
古い写真だった。色褪せて、端が曲がり、白く汚れている。父親らしき男、母親らしき女、子ども。まだ新しかった頃のこのキャンピングカー。海辺らしき景色。誰かの休日が、そこに閉じ込められたまま止まっていた。
「もう誰も戻ってこない」
俺がそう言うと、ミナは写真の埃をそっと指で拭い、元の場所へ戻した。
「戻ってこないからって、捨てていいわけじゃないでしょ」
何か言い返そうとして、やめた。ミナは自分のカメラのストラップに、そっと触れていた。指先がストラップの縫い目をなぞる、いつもの癖だった。
「持っていく」
「捨て場所じゃない、収納棚だぞ。荷物が増える」
「軽いよ、紙一枚」
「軽いか重いかの話をしてるんじゃない」
「じゃあ何の話?」
答えられなかった。捨てるべきだと思う理由も、捨てたくないと思う理由も、うまく言葉にならなかった。ミナはそれ以上追及せず、写真の位置を少しだけ直した。
結局、写真は元あった場所に戻された。ダッシュボードの端、小さな隙間。ミナが角度を整えるのを、俺は黙って見ていた。
***
休憩の合間、ミナは折り畳みテーブルに古い紙の地図を広げた。何度も折られ、擦り切れた折り目。手書きの丸印。赤い線。消えかけた地名。崩落した道路を示す印。
「ここ」とミナが指す。「まだ青い海が残ってるって噂がある場所」
「根拠は」
「旅人の話とか、無線で一回だけ聞こえたって話とか、海鳥が戻ってきたとか」
どれも曖昧だった。指先ひとつで動く距離とは思えないほど、地図の端は遠かった。
「距離が遠い」と俺は言った。「燃料も足りない。橋や道路も崩れてるはずだ。また白い雨が降るかもしれない。この車が長距離に耐えられる保証もない」
「うん。危ないと思う」
ミナはあっさり認めた。
「途中で止まるかもしれない。何もないかもしれない」
「なら」
「何もないかもしれない。でも、何もないって、自分の目で見ないと分からないでしょ」
赤い線は、俺がずっと歩き続けてきた町の外へ、遠く伸びていた。
「私さ」ミナは地図から顔を上げずに言った。「まだ終わってないと思ってるの。この世界も、私も」
口癖のように、彼女はときどきそう言う。今日も、独り言みたいに。俺はそれに何も返さなかった。ただ、その言葉が地図の赤い線と一緒に、頭のどこかに引っかかって残った。
***
日が傾き始めた頃、荷物をまとめた。方位磁石、古い道路地図、飲み水、乾いた布、予備の工具。積めるものと積めないものを、ひとつずつ選び分けていく。
「これも持っていく?」
ミナが差し出したのは、錆びたラジオだった。電源は入らない。
「動かないもの持っても仕方ない」
「こういうの、直すのが得意な人がどこかにいる気がするんだよね」
「知らないやつの話をするな」
「知らないよ。でも、いる気がするの」
根拠のない話だった。それでも、俺は何も言わずにラジオを荷台の隅へ押し込んだ。理由は自分でもよく分からなかった。
積み込みが終わる頃には、荷台はほとんど埋まっていた。二段ベッドの下、シンクの脇、収納棚の隙間。足りないものはまだ多い。医薬品らしい医薬品もない。地図にない道の方が、地図にある道より多いはずだ。けれど、旅に出るには十分だった。少なくとも、今日一日を乗り切るぐらいには。
ミナは荷物を積み終えると、車体の横腹に手のひらを当てた。錆と埃で汚れた白い塗装に、指の形がうっすら残る。
「よろしくね」
誰に言っているのか分からなかった。車にか、俺にか、それとも、もういない誰かにか。聞くのはやめておいた。
***
作業の合間、ミナが荷物を整理している間に、俺は一人で運転席に座った。フロントガラス越しに、草に埋もれた町、割れた道路、傾いた電柱が見えた。埃をかぶったハンドルに手を置く。
戻れなくなるかもしれない。途中で止まるかもしれない。燃料が尽きるかもしれない。ミナを守れないかもしれない。青い海など、最初からないのかもしれない。
それでも、地図を眺めるのが好きだった昔のことを思い出した。地図の外側に何があるのか、考えたことがあった。どこかへ行くはずだった記憶が、断片的に浮かんでは消えた。
十年、同じ場所で止まっていた。
左手首のミサンガに、ふと目がいく。結び目が、わずかにほつれかけている。反対の右手首では、とっくに動かなくなった腕時計の針が、今日も同じ場所を指していた。どちらにも、触れようとして、やめた。
鍵を手に取る。埃を拭う。一度、指先が止まった。
それから、イグニッションへ差し込んだ。
ミナが車内へ戻ってきた。俺はキーを回した。
一度目。セルモーターが弱々しく鳴った。車体がわずかに震えたが、エンジンはかからない。静寂が戻る。
二度目。さらに苦しそうな音。やはりかからない。ミナは何も言わずに黙っていた。膝の上で、指だけがカメラのストラップをきつく握っていた。
俺はボンネットを開け、もう一度端子とホースと燃料と配線を確認した。手についた油を服で拭い、小さな接触不良を直す。指先が冷えて、思うように動かない。それでも、確認すべき場所は分かっていた。
三度目。キーを回す。
最初は咳き込むような音がした。車体全体が大きく震え、マフラーから黒い煙が吐き出される。エンジンは不規則に回転しながら、止まりそうになりながら、やがて低い振動へと変わっていった。長く眠っていた獣が、ようやく息を吹き返したようだった。
「動いた」
ミナは一瞬、泣きそうな顔をした。それからすぐに、大きく笑った。
俺は計器類を確認しながら言った。
「まだ走れるとは限らない」
「でも、動いた」
その一言が、なぜか胸の奥に響いた。振動がハンドルを通して手に伝わってくる。十年間止まっていた何かが、今、確かに動き出していた。右手首の時計は相変わらず止まったままだったが、それが今だけは、少しだけ気にならなかった。
***
ミナは助手席に座り、カメラを構えたが、俺の顔を正面から撮ることはしなかった。車はぎこちなく廃車置き場を出た。タイヤが草と小石を踏む音がする。
錆びた案内標識、動かない信号機、倒れたガードレール。草に沈んだ家々の間を抜け、割れたアスファルトの上を進む。古い橋を渡ると、町名の消えかけた看板が見えた。
バックミラーの中で、長く暮らしてきた町が小さくなっていく。窓の外を、見慣れた景色が後ろへ流れていった。もう戻らないかもしれない場所を、俺は最後まで見なかった。
「行こう」
ミナが言った。俺はしばらく答えなかった。
「……道は長いぞ」
「知ってる」ミナはカメラを構え直した。「長いほうが、たくさん撮れる」
町の境界を示す消えかけた看板を越えた。エンジン音が、誰もいない町に響きながら、少しずつ遠ざかっていった。
空はまだ白く曇っていた。それでも、走り出したエンジンの振動だけは、確かに今を生きていた。
第3話、読んでいただきありがとうございました。
今回一番書きたかったのは、エンジンがかかるまでの「三度目の正直」の場面です。
一度目、二度目とかからずに、静寂だけが車内に戻ってくる。あの息が詰まるような数秒間を、ユウトの視点でどれだけ丁寧に描けるかというところに、けっこう時間を使いました。
長く眠っていたものが動き出す瞬間というのは、機械であれ、人の心であれ、簡単には訪れないものだと思っています。何度も失敗して、それでも諦めずに手を伸ばし続けた先にしか、あの「動いた」という一言は生まれません。
ユウトの右手首で止まったままの腕時計と、左手首のミサンガ。この二つに、彼が「触れようとして、やめた」場面は、今後の彼を理解する上で少しだけ覚えておいていただけると嬉しいです。まだ何も説明しませんが、いずれ意味を持ってくるはずです。
そしてミナが持ち込んだ、錆びたラジオ。
「動かないもの持っても仕方ない」と言いながらも、結局荷台に押し込んでしまうユウトの矛盾した優しさも、地味に気に入っている部分です。
さて、次回はいよいよ二人が町を出て、草に覆われた無人の高速道路を走り始めます。
放置された車の群れ、崩れかけた標識、そして初めての車中泊。
慎重なユウトと、写真を撮りたがるミナ。価値観の違う二人が、外の世界で初めてぶつかり合う回になる予定です。
それでも、夜に見上げた星空の下で、ユウトの中に何かがそっと動き出す――そんな場面も書きたいと思っています。
次回、第4話「無人の高速道路」。
引き続き、二人の旅路を見届けていただけたら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。ブックマーク、評価、感想など、いただけると励みになります。




