刑事
ゴールデンウィークを間近に控えた、とある曇天のお昼前。
莉子は玄関でスニーカーを履いていた。
今日は午後から授業なのだが、学食でお昼を食べたいので、少し早めの出発だ。
そして、家の鍵を閉めて門を出た――そのとき。
「……すみません」
後ろから遠慮がちな男性の声がした。
振り向くと、そこには見覚えのないスーツ姿の男性が立っていた。
30代後半くらいの真面目そうな人で、心なしか少し目つきが鋭い。
(なんだろう、この人)
莉子が「はい」と返事をして男性の方を向くと、
彼は申し訳なさそうに一礼した。
「突然すみません。私、渋谷警察署刑事課の木下と申します」
そう言って、胸元から写真が入った警察手帳を取り出して見せる。
「え……?」
莉子は目を見開いた。
警察に声を掛けられるなんて初めてだ。
(何があったんだろう……?)
男性は手帳をしまうと、再び申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すみません。実はこの近所の方々にお話を伺っておりまして、お時間を5分ほどいただいてもよろしいでしょうか」
莉子は眉をひそめた。
一瞬、特殊詐欺のニュースが頭をよぎる。
「……ええっと、何の話でしょうか?」
「お隣に引っ越してこられた、海老名さんについてです」
木下の言葉に、莉子は思い出した。
そういえば、結月たちは以前、渋谷に住んでいたと聞いた気がする。
何となく本物っぽいと思いながら、莉子は小さくうなずいた。
「答えられる範囲でしたら、大丈夫です」
「ありがとうございます。それで十分です」
木下は軽く頭を下げると、手帳を取り出して尋ねた。
「まず、海老名さんとは、どのくらいのお付き合いがありますか?」
「……会ったら挨拶するくらいです」
「そうですか」
木下はうなずき、続けて質問をした。
「最近の、海老名直樹さんのご様子はどうですか? お元気に過ごされていますか?」
「はい。たぶん、お元気だと思います」
「結月ちゃんの方はいかがですか?」
「普通に近くの小学校に通っています」
「そうですか」
木下は少し安心したような顔をする。
「では、こちらに来てから、海老名さんのお宅で大きな買い物をされたような様子はありませんでしたか?」
「大きな買い物……?」
「例えば車とか、大きな絵とか、運び入れなければならないような大きな物ですね」
莉子は首をかしげた。
「……分からないです。車は引っ越してきた時から同じ白い車ですし……」
「そうですか」
木下はメモを取りながら、さらに尋ねた。
「誰かよく来る方はいませんか? 例えば女性とか」
莉子は眉間にしわを寄せながら思案した。
質問の意図が全く読めないが、よく来る人と言えば、シッターさんくらいだろうか。
「シッターさんは毎日来てると思います」
「年齢など分かりますか?」
「……たぶん、50歳過ぎていると思います。うちの母より上だと思うので」
「そうですか」
木下が頷きながら手帳に何か書き込む。
その様子を見ながら、莉子はますます不思議になった。
(なんで、こんなことを聞くんだろう)
彼女は思い切って尋ねた。
「あの……海老名さんのお宅で、何かあったんですか?」
「いえ、ちょっと確認したいことがありまして、お話を伺っているだけです。特にご心配いただくようなことではありません」
微笑みながらそう言うと、木下は軽く一礼した。
「ご協力ありがとうございました。また何かありましたら、よろしくお願いします」
「あ、はい」
立ち去っていく木下の後姿をながめながら、莉子は首をかしげた。
大学に行くことを思い出して、駅へ向かって歩き始める。
(……一体、何だったんだろう?)
――その後、莉子は大学の学食でお昼を食べると授業に出た。
しかし、どうも先ほどの刑事とのやり取りが気になって集中できない。
そして、授業が終わり、莉子は映画同好会の部室に向かった。
扉を開けると、目をキラキラさせたれい奈と、ややゲンナリした顔をした悠斗が、並んでPCを見ている。
2人は顔を上げて莉子を見た。
「おはよう」
「おはよ、莉子」
「おはよう、2人とも。何見てるの?」
「昨日公開されたホラー動画。今回はヤバい」
れい奈がわくわくした様子で答える。
莉子は思わず噴き出した。
道理で悠斗が嫌そうな顔をしている訳だと思う。
れい奈に手招きされてPCを覗くと、彼女は黒いマニュキュアの塗られた指で画面を指さした。
「ほら、ここ。人の顔がある」
「……え、どこ?」
莉子が顔を近づけて見ていると、悠斗がボソッと言った。
「たぶん、シシュラクラ現象だと思うな。点が3つあったら人の顔に見えるやつ」
「違うよ。ほら、コメント欄でもみんな言ってる」
莉子は苦笑しながら言い合う2人をながめた。
頭の片隅で、刑事の話をぼんやりと考える。
悠斗が気掛かりそうに莉子を見た。
「ボーっとしてるけど、なんかあった?」
「……うん」
「どうしたの?」
れい奈も心配そうな顔をする。
莉子は一瞬迷ったものの、黙っているのも苦しくて口を開いた。
「今日、家を出たら刑事を名乗るおじさんがいて、あれこれ聞かれたんだよね」
「えっ!」
目を丸くする2人に、莉子は事情をかいつまんで聞かせた。
隣に引っ越してきた父子について、高い買い物をしていないかや、誰か他に来ている人はいないかなど聞かれたと話す。
れい奈が、ふむ、という風に考え込んだ。
「……それって、保険金関係の事件の質問っぽいね」
「そうなの?」
「うん、そういう系のドラマとかでよく聞く質問な気がする」
莉子は眉間にしわを寄せた。
確かに、半年前に母親が亡くなったと言っていた。
もしかして、直樹何か疑われているのだろうか。
悠斗がなぐさめるように言った。
「そうと決まった訳じゃないから、考えすぎない方がいいと思うよ」
「……そうだよね、でも、一応お母さんに話しておこうかな」
「うんうん、そうした方が良さげ」
れい奈も同意するようにうなずく。
その後、3人は同好会の恒例行事“映画を見る会”について相談した。
映画同好会では、月に1、2回“映画を見る会”を開催しており、ゴールデンウィーク中に今年度1回目を行う予定にしている。
普通に話し合いをしながらも、莉子の心は重かった。
良い父親という印象の直樹が、保険金関係の疑いを掛けられているかもしれないことに軽いショックを覚える。
――そして、帰宅後。
莉子はぼんやりしながら、買ってきたお弁当で夕食を食べた。
いつも通りお風呂に入って寝ようとするが、どうも寝付けない。
(思ったより気になってるんだな、私)
そして、ベッドに寝転がってダラダラと動画を見ていると、
ガチャガチャガチャ
玄関から鍵を開ける音が聞こえてきた。
ドアが開く音がする。
(お母さんだ)
莉子はベッドから起き上がった。
下に降りていくと、母親がスーツのままソファに寝転がっていた。
莉子を見て驚いた顔をする。
「あんた、まだ寝てなかったの?」
時計を見上げると、夜の2時過ぎだ。
莉子は「ちょっと眠れなくて」と言いながら冷蔵庫を開けた。
「お茶飲む?」
「うん、ありがとう」
莉子はコップ2つにお茶を注ぐと、ローテーブルの上に置いた。
向かいのソファに座ると、お茶を飲む母親を見ながら口を開く。
「あのさ、今日、門を出たら渋谷署刑事課の木下って人に話しかけられたんだよね。直樹さんと家のこと、色々聞かれた」
母親がピタリと動きを止めた。
コップを置くとため息をつく。
「そう。疑われてるっていう話は聞いてたんだけど、本当だったみたいね」
「何かあったの?」
「……真由美さん――直樹くんの元奥さんが亡くなった状況が、ちょっと良くなかったみたいでね」
母親によると、結月の母である真由美は、自宅のお風呂で溺死したらしい。
「大手事務所の弁護士さんで、プレッシャーが激しくて睡眠薬を常用していたみたいなのよ。その日はお酒を飲んでいたところに睡眠薬を飲み過ぎたみたい」
直樹が帰宅すると、真由美はすでにお風呂で亡くなっていたらしい。
「色々とタイミングが悪かったみたいでね。当時、直樹くんと真由美さん、あんまりうまくいってなかったみたいなのよ。最終的には“事故死”ってことになったみたいだけど、ずいぶん調べられたみたいよ」
「そうなんだ……結月ちゃんは?」
「結月ちゃんは寝ていたみたいで、お母さんがお風呂で溺れてたなんて全然知らなかったみたい」
莉子は顔を顰めた。
寝て起きたら母親が死んでいたなんて、相当ショックだっただろうと思う。
その後、母親はヨロヨロと浴室に向かい、莉子は部屋に戻った。
ベッドに入りながら、スマホを検索する。
『海老名まゆみ、弁護士』
すると、法律事務所のページが出てきた。
開くと、お知らせの欄にこんな記載があった。
『弊所所属弁護士 海老名真由美が令和7年10月に逝去いたしました』
(たぶんこれだ)
画像を検索すると、弁護士紹介ページを見つけた。
写真も載っており、スーツ姿の目つきの鋭い美人が自信ありそうに微笑んでいる。
(ちょっと怖そうな人だけど、結月ちゃんに似てる)
結月ちゃんはお母さん似らしいと思いつつ、莉子は小さくため息をついた。
お母さんが亡くなった上に、お父さんに容疑が掛けられるなんて、本人が知ったらショックだろうなと思う。
(無事に容疑が晴れるといいけど)
莉子はスマホを閉じると、枕もとの電気を消して眠りについた。




