第6話 ずっと抱き締めていてくださいませ
第6話 ずっと抱き締めていてくださいませ
エステルが寝込んでから一週間が過ぎた夜、伯爵邸の廊下には濡れた洗濯物が並んでいた。雨が三日続いて外へ干せず、暖炉の前だけでは乾かないため、侍女たちは椅子の背や手すりにまでシーツを掛けている。湿った布と石鹸の匂いが漂う中、レイモンドは書類を抱えて歩き、垂れ下がった靴下へ顔をぶつけた。
「なぜ私の屋敷に、靴下の暖簾があるのだ」
レイモンドが靴下を払いのけると、後ろを歩くハロルドは、洗濯係の配置が決まっていないからだと答えた。レイモンドの紺色の上着にはインクと豆のスープの染みが残り、白いシャツは襟元まで皺になっている。三日間まともに眠っていないため、頬はこけ、櫛を通していない髪が額へ落ちていた。
「奥様なら、雨の日は空いている客室へ物干し台を移しておられました」
「その話はもう聞き飽きた」
「では、どちらへ干すか旦那様がお決めください」
「そんなことまで私が決めるのか」
「伯爵家の主人でございますから」
ハロルドは抱えていた書類をレイモンドの腕へ重ねた。上から王宮への報告書、領地の収穫記録、水車修理の見積書、使用人の配置表が滑りそうになり、レイモンドは顎で押さえる。遠くの厨房から焦げた玉葱の匂いが流れ、料理長が鍋を火から下ろせと怒鳴っていた。
執務室へ戻ると、机の上には朝食の皿が残っていた。半分かじった黒パンは乾き、薄い豆のスープには膜が張っている。レイモンドは書類を置く場所が見つからず、未開封の手紙を床へ落として空間を作った。
「明朝までに、王宮へ提出しなければならないのだな」
「太陽が昇るまででございます。すでに二度、期限を延ばしていただいております」
「エステルなら、どれくらいで処理できる」
「一時間もかからないでしょう」
「私なら?」
ハロルドは散らかった机とレイモンドの顔を交互に見た。レイモンドは午前中から同じ報告書を読んでいるが、収穫量と納税額が一致するか確認できていない。聞き慣れない村の名前が出るたびに地図を探し、その地図がどこにあるかを探すだけで半日が過ぎていた。
「朝までに終わることをお祈りいたします」
「祈るだけではなく手伝え」
「私は、玄関で待っている三組の商人へお断りを申し上げてまいります」
「まだ帰っていなかったのか」
「旦那様が、すぐに会うとおっしゃったからでございます」
ハロルドは一礼すると執務室を出た。廊下には客の咳払いと、待ちくたびれた御者が馬をなだめる声が響いている。レイモンドは冷めたスープを一口飲んだが、焦げた玉葱の苦みが舌へ残り、すぐに匙を戻した。
机へ向かって四半刻ほどたっても、報告書は一行も進まなかった。レイモンドは数字を書き直すたびに誤りを見つけ、紙の余白を黒い線で埋めている。指先についたインクでこめかみをこすったため、顔にも一本の黒い筋がついた。
「エステルに頼むしかない」
レイモンドは報告書をつかみ、妻の寝室へ向かった。途中でリリアの部屋から呼び鈴が聞こえたが、今日は立ち止まらなかった。扉の向こうから「蜂蜜が足りませんわ」と呼ぶ声が追いかけてきたものの、彼は聞こえないふりをした。
エステルの寝室には、温めた牛乳と焼き林檎の甘い香りが残っていた。エステルは白い寝間着の上へ薄紫色の肩掛けを羽織り、寝台の上で本を読んでいる。小卓には空になった皿と肉桂のついた銀の匙が置かれ、窓辺ではマーサが靴下の穴を繕っていた。
「エステル、話がある」
レイモンドが入ってくると、エステルは本を閉じ、しおり代わりに使っていた細い布を挟んだ。夫の顔についたインクを見つけたが、教えずに首を傾ける。マーサは針を布へ刺し、何も聞いていない顔で窓の外へ視線を向けた。
「まあ、ひどいお顔ですこと。お加減が悪いのですか」
「君が仕事をしないから、眠る時間がないのだ」
「わたくしは病人ですもの」
「全部とは言わない。領地から届いた報告書だけでいい。明朝までに王宮へ提出しなければならない」
レイモンドは寝台の上へ書類を置いた。紙から湿ったインクと古い革の匂いが立ち、エステルは表紙の紋章を見ただけで内容を理解する。毎年この時期に提出する収穫報告であり、前年までは彼女が村ごとの数字を確かめ、夫は最後に署名するだけだった。
「旦那様ご自身でなさればよろしいでしょう」
「数字が合わないのだ」
「では、間違っている箇所をお探しくださいませ」
「それが分からないから頼んでいる」
「伯爵家は、あなた様の優れた統率力で動いているのではございませんでしたか」
レイモンドは唇を引き結び、寝台へ手をついた。報告書の期限を過ぎれば、王宮から領地管理について問いただされる。今までなら妻が黙って処理したため、彼が期限を意識する必要すらなかった。
「今は皮肉を言っている場合ではない。これを提出できなければ、王宮から監査官が来るかもしれないのだ」
「それは大変ですわね」
「分かっているなら、起きてくれ」
「起き上がるだけで、胸が苦しくなりますの」
エステルは肩掛けを整え、毛布の下へ足を入れた。マーサは針仕事を続けながら、奥様には休養が必要だと静かに付け加える。レイモンドは書類を持ったまま、寝室を行ったり来たりした。
「頼む。これだけ終わらせてくれたら、しばらく休んでいて構わない」
「しばらくとは、何日ですの?」
「三日だ」
「三日後には、また屋敷中の仕事を押しつけるおつもりでしょう」
「押しつけてなどいない。伯爵夫人の務めだ」
「では、病弱な女性には伯爵夫人は務まらないとおっしゃるのですね」
レイモンドは何も答えられなかった。リリアを病弱だからと甘やかしてきた自分が、妻にだけ務めを果たせとは言えない。エステルは夫の迷いを見てから、毛布をゆっくりとめくった。
「分かりましたわ。そこまでお困りなら、わたくしも力を振り絞ります」
「本当か」
「ええ。マーサ、少し席を外してくださいな」
マーサは繕いかけの靴下を籠へ戻し、牛乳の盆を持って立ち上がった。扉の前でエステルと目を合わせると、口元を引き締めて一礼する。廊下へ出た直後、小さな笑い声とともに扉が閉まった。
エステルは寝台から足を下ろし、夫へ向かって歩き始めた。白い寝間着の裾を踏まないよう持ち上げ、二歩進んでは壁へ手をつく。レイモンドは仕事机へ向かうのだと思い、書類を抱え直した。
「無理をしなくていい。机までは私が支える」
「ありがとうございます。やはり、あなた様はお優しい方ですわ」
エステルは差し出された腕を取った。次の瞬間、力を失ったように夫の胸へ倒れ込み、両腕を背中へ回す。レイモンドは書類を落としそうになり、片手だけで妻の体を支えた。
「どうした、エステル」
「胸が苦しくて……足にも力が入りませんの」
「では、寝台へ戻ろう」
「いいえ。このままがよろしいですわ」
エステルは夫の上着へ頬を寄せ、腕へ力を込めた。インクと汗が混ざった匂いに鼻がむずむずしたが、顔を離さずに耐える。レイモンドが拾おうとした報告書を、室内用の靴でそっと踏んだ。
「あなた様、わたくし、胸が苦しくて……。お仕事などなさらず、朝までずっと抱き締めていてくださいませ」
「朝までだと?」
「ええ。あなた様の腕の中にいれば、少しずつ呼吸が楽になる気がいたしますの」
「しかし、報告書がある」
「まさか、病弱な妻より書類を選んだりなさいませんわよね?」
レイモンドの顔から血の気が引いた。その言葉は、夜会へ出かけようとした彼をリリアが引き止めたとき、何度も口にしたものだった。当時は頼られることが心地よく、予定を取りやめてまで寄り添ったが、今は机の上に提出期限の迫った報告書がある。
「一時間だけでいい。仕事を終えたら戻ってくる」
「一時間も一人にされれば、わたくし、どうなるか分かりません」
「マーサを呼ぼう」
「夫でなければ駄目ですわ。リリアにも、いつもそう言われていたでしょう?」
「君はリリアとは違う」
「どこが違いますの?」
エステルは胸へ押しつけた顔を上げ、夫を見つめた。レイモンドは答えを探したが、丈夫だから我慢できるという言葉しか浮かばない。それをもう一度口にすれば、妻が仕事を続けていた理由を自分で認めることになる。
壁の時計が十時を告げた。報告書の提出まで、あと八時間しかない。レイモンドが少しでも腕を緩めると、エステルは苦しそうに息を吸い、さらに強く抱きついた。
「エステル、少し力を緩めてくれ。息ができない」
「まあ、わたくしと同じですわね」
「君は元気ではないか」
「あなた様に抱き締めていただいたおかげです」
「それなら、もう離れてもいいだろう」
「離れた途端、また悪くなるかもしれませんもの」
エステルは夫の胸元へ頬を戻した。廊下ではマーサが温かい牛乳を飲みながら、扉へ耳を近づけている。その隣を通ったハロルドは、王宮への書類がどうなったか尋ねたが、マーサは奥様の治療中だと答えた。
一時間後、レイモンドの腕はしびれ、背中には汗が流れていた。椅子へ座ろうとすると、エステルも一緒に腰を下ろし、胸から離れようとしない。床へ落ちた報告書は足元で折れ、蝋燭の火だけが少しずつ短くなった。
そのとき、玄関の扉を強く叩く音が屋敷中へ響いた。続いて、王宮の使者が到着したと告げる従僕の声が聞こえる。レイモンドの体が固まり、エステルは夫の上着をつかんだまま、口元だけで微笑んだ。
「お迎えにならなくてよろしいのですか」
「君が離してくれればな」
「まあ。わたくしより使者を選ぶのですね」
扉の外で、ハロルドがもう一度声をかけた。王宮の使者は提出の遅れている報告書を受け取りに来たのだという。レイモンドは腕の中の妻と、床へ落ちた未完成の書類を見比べ、初めて甘えられることの重さを知った。




