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第5話 か弱い令嬢が二人いる屋敷

第5話 か弱い令嬢が二人いる屋敷


海賊の酒が出されたお茶会から二日後、グラント伯爵家の玄関には朝から三台の馬車が並んでいた。先頭は毛織物商会、二台目は領地の水車を修理する職人組合、最後は融資の件で訪れたセバスチャン商会の馬車だった。しかし、応接室を使う順番も、誰が対応するかも決まっていないため、客たちは玄関広間で立ったまま待たされている。壁際の長椅子には昨日届いた洗濯物の籠が置かれ、乾ききらなかった靴下から湿った羊毛の匂いが漂っていた。


「伯爵様には、いつお会いできるのでしょう」


セバスチャン商会の番頭が懐中時計を見ながら、若い従僕へ尋ねた。従僕は朝から同じ質問を七回受けており、前髪を汗で額へ貼りつかせている。伯爵は執務室にいるはずだが、誰を先に通せばよいのか分からず、答えるたびに声が小さくなった。


「ただいま確認しております。もう少々お待ちください」


「その言葉は、一時間前にも聞きました」


「では、お茶をお持ちいたします」


「先日のお茶会に出されたものと同じなら、水で結構です」


玄関広間にいた客たちが一斉に笑った。従僕は耳まで赤くし、逃げるように厨房へ向かう。玄関脇の柱時計が九時半を告げたが、誰も客を応接室へ案内できなかった。


執務室では、レイモンドが机を覆う書類の山を前にしていた。青い上着の袖口には、お茶会でこぼした酒の染みが薄く残り、白いシャツの襟も片側だけ折れている。机の隅には朝食で食べた半熟卵の殻が皿ごと置かれ、冷めた珈琲には脂のような膜が浮いていた。書類を一枚持ち上げるたびに、別の紙が床へ滑り落ちる。


「なぜ、これほど仕事があるのだ」


レイモンドは返事を求めるように、執事のハロルドを見た。ハロルドは黒い礼服の内ポケットから白い布を取り出し、額の汗を拭っている。昨日までは説明する気力が残っていたが、今朝は声にも疲れがにじんでいた。


「以前からございました。奥様が毎日処理なさっていただけでございます」


「一日で全部片づけていたのか」


「その日の仕事は、その日のうちに終わらせておられました」


「では、エステルが戻るまで待てばいい」


「奥様は、いつ仕事へ戻られるのでしょう」


レイモンドは答えず、机の上にあった乾いたパンをかじった。噛むたびに細かな屑が書類へ落ち、税額の数字が見えなくなる。彼は手の甲でパン屑を払ったが、今度は珈琲の杯へ二つほど入った。


「リリアに任せよう」


「リリア様に、でございますか」


「彼女も貴族の娘だ。屋敷の管理くらい学んでいるだろう」


ハロルドは何か言おうとしたが、玄関から客の怒鳴り声が聞こえたため口を閉じた。レイモンドは良い考えを思いついた顔で立ち上がり、床へ落ちた書類を踏んだまま、リリアの部屋へ向かった。


リリアは南向きの客室で、鏡を見ながら髪を整えていた。薄い若草色のドレスを着て、胸元には真珠を三連にした首飾りを下げている。化粧台には薔薇の香油、頬紅、白粉の容器が並び、食べかけの蜂蜜菓子には小さな蟻が一匹近づいていた。彼女は銀の櫛で金色の髪を梳かしながら、今日は町へ帽子を見に行きたいと侍女へ話していた。


「リリア、少し頼みがある」


レイモンドが入ってくると、リリアは櫛を置き、椅子に座ったまま振り返った。自分を散歩へ誘いに来たのだと思い、すぐに日傘の色を選び始める。しかし、レイモンドが屋敷の管理を手伝ってほしいと言うと、その手が止まった。


「わたくしが、伯爵家のお仕事を?」


「ああ。エステルが寝込んでいる間だけでいい」


「それは、わたくしが奥様の代わりを務めるということでしょうか」


「そういうことになるな」


リリアの口元に笑みが浮かんだ。彼女は以前から、エステルが座る食堂の上座や、使用人が「奥様」と呼んで頭を下げる姿をうらやましく眺めていた。仕事の内容は分からなかったが、夫人の椅子へ座り、命令を出せるなら楽しそうだと思ったのである。


「わたくしにお任せくださいませ。レイモンド様のお役に立てるなら、どんなことでもいたしますわ」


「さすがリリアだ。君ならそう言ってくれると思っていた」


「まずは、どのドレスを着ればよろしいでしょう。伯爵夫人のお仕事には、落ち着いた色が必要ですわよね」


「服は何でもいい。すぐ執務室へ来てくれ」


リリアは少し不満そうに唇を尖らせたが、エステルの代わりになるならと立ち上がった。途中で化粧台の蜂蜜菓子を布へ包み、小さな鞄へ入れる。書類を読む仕事にも休憩は必要だろうと考え、侍女へ砂糖漬けの果物も用意させた。


執務室へ入ると、リリアは最初にエステルが使っていた椅子へ座った。濃い茶色の革張りで、背もたれにはグラント家の紋章が刻まれている。彼女は腰を落ち着け、机の向こうに並ぶハロルドと会計係を眺めた。二人が自分の指示を待っているように見え、胸の内側がくすぐったくなった。


「皆さん、わたくしが来たからには、もう大丈夫ですわ」


リリアは優雅に片手を上げた。指には桃色の石をはめた指輪が三つ並び、朝日にきらきらと光っている。ハロルドは一礼し、最初の書類を彼女の前へ置いた。


「それでは、こちらをご確認ください。北部農地の用水路修繕費でございます」


「まあ、紙がずいぶん汚れていますわね」


「現場から届いた報告書ですので、泥がついております」


「新しい紙へ書き直してくださらない?」


「内容をご確認いただいた後でしたら可能でございます」


リリアは嫌そうに指先で紙をめくった。用水路の長さ、必要な石材の量、職人の日当が細かな文字と数字で並んでいる。三行目まで読んだところで目を細め、こめかみへ手を当てた。


「あら……頭が」


「どうなさいました」


「小さな文字を見たせいで、頭が痛くなってしまいましたの」


「まだ三行しかお読みになっておりません」


「三行も読みましたわ」


会計係はリリアと書類を見比べた。エステルなら一枚を読み終える間に、数字の誤りを二つ見つけ、職人へ確認する質問まで余白へ書いていた。リリアは椅子の背にもたれ、香油を染み込ませた布を額へ当てた。


「これは後にしましょう。もっと簡単なお仕事はございませんの?」


ハロルドは次に、厨房から届いた献立表を差し出した。夕食に鶏肉を使うか川魚を使うか、翌朝のパンへ干し葡萄を入れるかどうかを決めるだけである。リリアは食べ物の話なら分かると思い、少し元気を取り戻した。


「夕食は仔羊の香草焼きがよろしいわ。付け合わせには白い豆と、甘く煮た人参をお願いします」


「仔羊肉はございません」


厨房から来たバートンが、白い帽子を脱いで答えた。今朝も食料庫を確認してきたらしく、前掛けには小麦粉と玉葱の皮がついている。リリアは不思議そうに首を傾けた。


「では、買えばよいではありませんか」


「昨日、旦那様が胡椒を一年分購入されましたので、今月の食費が足りません」


「胡椒を売ればよろしいでしょう」


「一度納品された品を、同じ値段では引き取ってもらえません」


「難しいことは分かりません。わたくし、仔羊が食べたいだけですの」


「ございましたら、私もお出ししたいと存じます」


バートンは献立表を机へ置いた。リリアは鶏肉と川魚のどちらがよいか尋ねられたが、鶏は胸肉しか食べられず、川魚は小骨が怖いと言って選ばない。最後には考えすぎて胸が苦しくなったと言い、椅子へ深く沈み込んだ。


「では、豆のスープにいたします」


「昨日も豆でしたわ」


「何もお決めにならないのであれば、食料庫にあるもので作ります」


「わたくしに怒っているの?」


「空腹なのでございます」


バートンの腹が、返事をするように大きく鳴った。会計係が横を向いて笑いをこらえ、ハロルドは咳払いでごまかした。リリアは料理長の態度が気に入らなかったが、叱り方が分からず、レイモンドへ助けを求めるように視線を向けた。


「好きに作らせればいい。次の仕事へ進もう」


レイモンドが口を挟むと、バートンは献立表を回収した。今夜も豆のスープになると小声でつぶやき、厨房へ戻っていく。リリアは机の下で鞄を開き、隠してきた蜂蜜菓子を一口かじった。


続いて、侍女長代理が使用人の配置表を持ってきた。洗濯係の一人が腰を痛め、厩舎の若者が熱を出したため、代わりに誰を回すか決める必要がある。洗濯場には汚れたシーツが山積みとなり、廊下には乾いたものと濡れたものが混ざった籠が並んでいた。開いた窓から入った風で、男物の下着が一枚、来客用の長椅子へ飛ばされている。


「こちらへご署名をお願いいたします」


侍女長代理が羽根ペンを差し出した。リリアは夫人らしく見えるよう背筋を伸ばし、優雅な動きで受け取る。しかし二文字目を書いたところで、羽根ペンを机へ落とした。


「痛い!」


「どうなさいました」


「この羽根ペン、重すぎますわ。手首を痛めてしまいました」


部屋にいた全員が羽根ペンを見つめた。鵞鳥の羽根で作られたそれは、蜂蜜菓子一つより軽かった。リリアは右手首を左手で包み、涙を浮かべてレイモンドへ差し出した。


「レイモンド様、動かすだけで痛みますの」


「捻ったのか?」


「ええ。わたくし、骨が細いから……」


「医者を呼ぶか」


「治るまで、手を握っていてくだされば大丈夫かもしれません」


レイモンドは書類を見た後、仕方なくリリアの手を握った。使用人たちは配置の指示を待っていたが、二人は見つめ合ったまま動かない。やがて侍女長代理は配置表を持ち帰り、腰を痛めた洗濯係にも働いてもらうしかないとつぶやいた。


昼を過ぎる頃には、リリアの前に未処理の書類が小さな山を作っていた。彼女は文字を見れば頭痛を訴え、金額を聞けば動悸を起こし、署名を求められれば手首を押さえる。ところが昼食として柔らかな白パンと鶏肉のスープが運ばれると、すぐに姿勢を正した。スープには蕪、葱、細く裂いた鶏肉が入り、湯気と一緒に香草の匂いが立っていた。


「鶏の胸肉が少ないですわ」


リリアは匙で器の底を探りながら言った。バートンは残っている肉を使用人にも分けたと説明し、黒パンを一切れ添える。リリアは黒パンの耳を残し、白い内側だけをスープへ浸した。


「奥様なら、どなたが何を食べたかまで記録なさっていました」


会計係が伝票を整理しながら言った。リリアは匙を止め、自分は病弱なのだからエステルと比べないでほしいと答える。レイモンドは彼女をかばおうとしたが、机の上に増え続ける書類を見て口を閉じた。


午後になると、屋敷の混乱は執務室の外へ広がった。洗濯物は廊下を塞ぎ、侍女たちは籠をまたいで歩いている。厩舎の人手が足りないため、客の馬は玄関前につながれたままで、一頭が花壇の葉を食べ始めた。誰も応接室の準備を指示しなかったので、セバスチャン商会の番頭は埃の積もった部屋へ案内され、昨夜の豆が入った冷たいスープを茶の代わりに出されそうになった。


「これは飲み物でしょうか」


番頭は、脂の浮いた器を見つめた。給仕の少年は厨房から渡されたものを運んだだけで、中身を確かめていない。豆が一粒、匙のない器の底へ沈んでいた。


「おそらく、スープでございます」


「私は朝から何も食べていないので、ありがたくいただきましょう」


「本当に召し上がるのですか」


「この屋敷では、飲めるものが出ただけ幸運だと聞いております」


番頭は冷たいスープを口へ運び、少し考えてから塩を求めた。給仕は塩を探しに厨房へ走ったが、そのまま別の仕事を命じられ、戻ってこなかった。番頭は一人で器を抱え、窓の外で馬が花壇を食べる姿を眺めることになった。


夕方、レイモンドはついに執務室の机を叩いた。インク壺が揺れ、蓋の開いていた香油瓶が倒れる。リリアが持ち込んだ薔薇の香油は、用水路の報告書と商会の請求書へ染み込み、甘い匂いを放ちながら文字をにじませた。


「いい加減にしろ、リリア。何一つ終わっていないではないか!」


リリアは椅子の上で肩を震わせた。昼食を終えた後、彼女がしたことは爪の形を整え、蜂蜜菓子を食べ、窓の外を眺めることだけだった。レイモンドは濡れた書類を持ち上げ、次々に机へ戻した。


「文字を見れば頭が痛い、献立は決められない、署名をすれば手首が痛い。それでは何のために、この席へ座っているのだ!」


「わたくし、一生懸命やりましたわ」


「どこがだ!」


「そんな大きな声を出さないでくださいませ。胸が……胸が苦しいですわ」


リリアは胸元を押さえ、椅子から立ち上がろうとしてよろめいた。倒れる方向を確かめるように一度だけレイモンドを見てから、彼の胸へ体を預ける。レイモンドは反射的に抱き止めたものの、片手には濡れた請求書、もう片方の袖には香油がついた。


「リリア、しっかりしろ」


「目の前が暗くて……息ができませんの」


「医者を呼べ!」


「その前に……少し静かにしてくだされば、治るかもしれません」


ハロルドは医者を呼びに行くべきか迷い、扉の前で立ち止まった。会計係は床へ落ちた帳簿を拾い、香油の染みを袖で拭おうとしてさらに広げる。廊下では洗濯籠につまずいた侍女が声を上げ、玄関では待たされた客が帰ると言って杖を床へ打ちつけていた。


その騒ぎの中、白い寝間着姿のエステルが廊下の壁に手をつきながら現れた。肩には薄青色の毛布を巻き、足元には室内用の柔らかな靴を履いている。髪は寝起きのように緩く垂らしていたが、頬には病人らしく見せるため白粉を薄く塗っていた。後ろを歩くマーサは薬湯の盆を持ち、咳払いをしながら笑いを隠している。


「まあ、何という騒ぎでしょう」


エステルは三歩進むたびに壁へ寄りかかり、息を整えるふりをした。実際には昼まで寝台で本を読み、焼いた林檎と山羊のチーズを食べたため、顔色は昨日よりよかった。レイモンドは助けが来たと思い、リリアを抱えたまま声を上げた。


「エステル、ちょうどよかった。リリアが倒れた。しかも屋敷の仕事が何一つ終わっていない」


「リリアは病弱なのですよ。できないことを責めてはいけませんわ」


「君まで何を言っている。頭が痛いと言って書類を読まず、手首が痛いと言って署名もしないのだぞ」


「まあ、それは大変ですこと。わたくしも数字を見るとお腹が痛みますから、よく分かりますわ」


「二人してふざけるのはやめろ!」


レイモンドの声が執務室に響いた。エステルは胸へ手を置き、大きく息を吸って壁へ体を預ける。マーサはすぐに薬湯の盆を机へ置き、主人の背中を支えた。


「大きな声を出してはいけませんわ。わたくしたちのような、か弱い女性には刺激が強すぎますもの」


エステルは細い声で言い、リリアへ手を伸ばした。リリアはレイモンドの腕の中で目を閉じたまま、わずかに眉を動かす。自分の演技を真似されていると分かっていたが、今ここで起き上がれば胸の苦しさが嘘だと認めることになる。


「リリア、かわいそうに。きっと朝から重い羽根ペンを持たされたせいですわね」


「羽根ペンだぞ。鳥の羽根だ」


「羽根といっても、病弱な女性には大木ほど重く感じられるのです」


「そんなわけがあるか」


「では、リリアが嘘をついているとおっしゃるのですか」


レイモンドは腕の中のリリアを見下ろした。リリアは目を閉じたまま、弱々しく咳を二度する。嘘だと言えば彼女を疑うことになり、本当だと認めれば仕事を任せられないことになる。


「とにかく、君が仕事へ戻れば済む話だ」


「わたくしも病人ですの」


「今、自分で歩いてきただろう」


「リリアを心配する気持ちが、わたくしの弱い体を動かしたのです」


「では、その気持ちで書類も処理しろ」


「仕事を思うと、また目の前が暗くなってまいりました」


エステルは壁に沿ってゆっくり座り込んだ。レイモンドはリリアを抱えているため、妻まで支えることができない。マーサがエステルの肩へ毛布を巻き直し、二人分用意した薬湯を示した。


「旦那様、奥様とリリア様をそれぞれお部屋へお運びくださいませ」


「二人とも運べるわけがないだろう」


「どちらか一人を先に運ばれればよろしいかと存じます」


「誰か使用人を呼べ」


「皆、洗濯物と来客の対応で手が離せません。配置表にご署名がないため、誰も持ち場を離れられないのでございます」


レイモンドは執務室の床へ視線を落とした。配置表は香油で濡れた書類の下に挟まり、リリアが途中まで書いた名前はインクの染みで読めなくなっている。廊下には洗濯籠が並び、その向こうで番頭が冷めた豆のスープの器を持ったまま帰り支度をしていた。


「では、先にリリアを部屋へ運ぶ」


レイモンドが決めると、エステルは壁に座ったまま小さく息を吐いた。予想していた答えだったため、驚くことはなかった。彼女は毛布の端を指先でそろえ、夫の背中へ声をかけた。


「わたくしは丈夫ですものね。ここで待っていられますわ」


「そういう意味ではない。リリアは意識を失っているのだ」


「まあ、そうでしたの。先ほどから、あなた様のお顔を何度ものぞいておりますけれど」


リリアは慌ててまぶたを固く閉じた。レイモンドが顔を見ようとすると、今度は首まで力なく垂らす。エステルの後ろで、マーサが鼻をすすって笑いをこらえた。


レイモンドはリリアを横抱きにして客室へ運んだ。途中で洗濯籠をまたぎ、床へ落ちた濡れたシーツを踏んで滑りそうになる。リリアは驚いて一瞬だけレイモンドの首へしがみついたが、気を失っていることを思い出し、すぐに腕の力を抜いた。


リリアを寝台へ下ろすと、今度はエステルを迎えに戻った。執務室では、エステルがまだ壁際へ座っていたが、マーサから蜂蜜菓子を受け取り、半分ほど食べていた。レイモンドが入ると、彼女は急いで菓子を毛布の下へ隠したものの、口元に白い粉砂糖が残った。


「その菓子は何だ」


「病人の薬でございます」


「砂糖の匂いがするぞ」


「最近のお薬は飲みやすく作られているのですわ」


マーサが真顔で答えると、レイモンドは反論する気力を失った。彼はエステルへ手を貸し、寝室まで支えて歩く。エステルは夫の腕に体重を預け、廊下の洗濯物を避けながら一歩ずつ進んだ。


「レイモンド様、少し速すぎますわ」


「これ以上遅く歩けるか」


「病弱な妻に歩調を合わせるのも、夫の務めではございませんの?」


「リリアの部屋へ薬湯を運ばなければならないのだ」


「わたくしの分も忘れないでくださいませ。蜂蜜を二匙入れて、熱すぎないよう冷ましてくださいね」


「マーサに頼め」


「夫からいただく薬湯は、普通の薬湯よりよく効くそうですわ」


レイモンドは、その言葉を以前リリアから聞いたことを思い出し、黙って歩いた。寝室へ着くまでに、エステルは三度立ち止まり、窓から見える雲について話し、廊下の花瓶の水が濁っていると指摘した。急ぎたいレイモンドの足は何度も止まり、ようやく妻を寝台へ寝かせた頃には、額へ汗が浮かんでいた。


その夜、伯爵家の主人は二つの寝室を何度も往復することになった。リリアは薬湯が苦いと言って蜂蜜を足すよう求め、エステルは熱すぎると言って冷ますよう命じる。リリアが枕の高さを直してほしいと言えば、エステルは毛布が重いと鈴を鳴らした。


「レイモンド様、薬湯をもう少し甘くしてくださいませ」


リリアは寝台の中から空の匙を差し出した。薔薇色の寝間着を着て、昼間に痛めたはずの右手でしっかり匙を握っている。レイモンドがそれを指摘すると、彼女は痛いのは手首で、指は動かせるのだと答えた。


「レイモンド様、お水が遠いですわ」


隣の寝室から鈴の音とエステルの声が聞こえた。レイモンドは蜂蜜の壺を抱えたまま廊下へ出る。途中には片づけられていない洗濯籠と帳簿が残り、来客用の長椅子には、朝から飛ばされた男物の下着がまだ載っていた。


「今度は何だ」


レイモンドが寝室へ入ると、エステルは白い寝間着の襟を整えながら、枕元の水差しを見つめていた。手を伸ばせば届く場所にあることは、以前と変わらない。彼女は毛布から右手を少しだけ出し、すぐに力なく戻した。


「腕を上げると、めまいがいたしますの」


「リリアも私を待っているのだ」


「まあ。この屋敷には、か弱い女性が二人もおりますものね。お忙しくて大変ですわ」


「分かっているなら、自分で飲みなさい」


「リリアにも同じことをおっしゃいますか」


レイモンドは水差しをつかみ、杯へ乱暴に注いだ。水が小卓へこぼれ、黄色い花の刺繍が入った敷物を濡らす。エステルは受け取った杯を一口飲み、夫へ穏やかに微笑んだ。


「明日からも、よろしくお願いいたしますね」


レイモンドは返事をせず、空になった薬湯の盆を抱えて部屋を出た。廊下の向こうからは、リリアが蜂蜜はまだかと呼ぶ声が聞こえている。執務室には未処理の書類が積まれたままで、机の上の半熟卵の殻には、小さな蠅が一匹止まっていた。


扉が閉まると、エステルは自分で水差しを持ち上げ、残りの水を杯へ注いだ。マーサは衣装棚の陰から現れ、夜食として用意していた温かい牛乳と干し葡萄入りのパンを盆へ並べる。牛乳には肉桂が振られ、甘い香りが寝室へ広がった。


「旦那様は、ずいぶんお疲れのようでございます」


「二人の女性を守るのは、騎士の誉れなのでしょう」


エステルはパンを牛乳へ浸し、柔らかくなったところを口へ運んだ。廊下を往復する夫の足音は、初めのうちは速かったが、次第に重くなっていく。彼女は枕元の革張りの手帳を開き、今日の出来事を書き留めた。


『病弱な妻、六日目。リリア、羽根ペンで手首を負傷。未処理の書類、机一つ分。洗濯物、廊下一本分。夫、薬湯運び十二往復』


「十二往復で合っていますか」


「十三回目が始まりました」


マーサが耳を澄ますと、リリアの部屋から鈴が鳴った。レイモンドの足音が廊下を戻り、途中で洗濯籠につまずく鈍い音がする。エステルは手帳の十二を十三へ直し、温かい牛乳をもう一口飲んだ。


「か弱い女性がお好きなのですもの。今夜はきっと、幸せで眠れませんわね」



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文中に「黒パンの白い内側だけ」との表記が有りますが黒パンはその名の通り中も外も「黒いパン」でした。 ライムギを原料として使用するのでライムギの色の褐色~黒色になるのが特徴で食パンのように焼き目のついた…
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