第3話 伯爵家の夕食は乾パンです
第3話 伯爵家の夕食は乾パンです
エステルが寝込んで三日目の朝、伯爵邸の厨房から焼きたてのパンの匂いが消えた。いつもなら夜明け前から職人が生地をこね、竈の前に並べた籠へ丸パンを積み上げていたが、今日は昨日の残りを薄く切って焼き直している。料理長のバートンは白い上着の袖をまくり、粉の残り少ない小麦袋を逆さにして何度も振った。袋の底から落ちた粉は両手に収まるほどしかなく、焼き台の横では見習い料理人が欠けた皿に載せた塩漬け肉を人数分に切り分けていた。
「それ以上薄く切るな。向こう側が透けて見えるではないか」
「でも料理長、この厚さでは使用人全員に回りません」
「では半分に切れ。肉が小さくなった分は、皿を小さくすれば気づかれん」
「気づくと思います」
見習い料理人が正直に答えると、バートンは小麦袋を頭からかぶせようとした。もちろん本気ではなく、空の袋は途中で床へ落ち、粉の白い跡だけが少年の黒髪に残った。普段なら笑いが起きる厨房だったが、今日は誰も大きな声を出さず、豆を煮る鍋の音だけが続いていた。
食料庫には玉葱が三個、萎びた人参が五本、乾燥豆が半袋残っているだけだった。昨日まであった鶏肉と白身魚は使い切り、牛乳は朝食へ出した分で終わっている。棚の奥から見つかった林檎は一つだけで、片側が茶色く傷んでいたため、バートンは悪い部分を削って病人であるエステルへ届けることにした。使用人用の棚には保存食の乾パンがいくつも並んでいたが、それは冬に雪で道が閉ざされたときのために備蓄しているものだった。
「料理長、食料商から使いの者が来ています」
若い侍女が厨房へ駆け込んできた。洗濯を手伝っていたらしく、茶色い仕事着の袖は水に濡れ、前掛けには石鹸の泡が残っている。バートンは期待して食料庫から飛び出したが、厨房口に立っていた商人は荷車を連れていなかった。
「ご注文の品は、発注書に伯爵様のご署名がないため、お届けできません」
「これまで同じ書式で届けてもらっていただろう」
「以前は伯爵夫人様の添え書きがございました。奥様の保証がない以上、未払いになる恐れのある品を渡すわけにはまいりません」
商人は折り畳んだ発注書を差し出した。小麦、肉、卵、牛乳、野菜、香辛料の数量はエステルが前月までに決めたものだったが、今月分にはレイモンドの署名がない。バートンは右下の空欄を見つめ、油で汚れた指を前掛けへこすりつけた。
「少しくらい融通を利かせられないのか。伯爵家が食料代を踏み倒すとでも思っているのか」
「伯爵夫人様が管理されていた頃なら、私もそのような心配はいたしませんでした」
「今も伯爵家は伯爵家だ」
「でしたら、伯爵様のご署名をいただいてください。それほど難しいことではございません」
商人は頭を下げると、空の荷車へ乗って帰っていった。車輪が小石を踏む音を聞きながら、バートンは発注書を握り締めた。紙の端が手の中で折れたが、食材は一つも増えなかった。
その頃、エステルは薄桃色の寝間着の上へ白い毛糸の肩掛けを巻き、寝台で朝食を取っていた。銀の盆には焼き直した薄いパン、傷んだ部分を取り除いた林檎、香草茶が載っている。林檎は切り方を工夫して花のように並べられていたが、全部集めても半個分ほどしかなかった。エステルは固くなったパンを香草茶へ浸し、窓の外で侍女たちが白いシーツを干すのを眺めた。
「パンの端がずいぶん固いですわね」
「新しい小麦が届かなかったそうでございます」
マーサは窓辺の椅子へ座り、ほつれた枕カバーを縫っていた。黒いドレスの膝には白い布が広げられ、針を刺すたびに小さな金属音がする。エステルはパンをもう一度茶へ浸し、柔らかくなった部分をかじった。
「昨日、発注書が夫の机へ届けられたはずです」
「はい。未開封の手紙や領地の帳簿と一緒に、仲よく積まれております」
「署名するだけなのですけれど」
「旦那様は今朝、青い上着の金釦を探すのに三十分お使いになりました。発注書までたどり着くには、あと二日ほど必要かもしれません」
「釦なら、昨年一つなくして、すべて銀色のものへ取り換えたでしょう」
「旦那様だけが、そのことをご存じないようです」
マーサが糸を歯で切ると、窓の外で風を受けたシーツが大きく膨らんだ。エステルは以前なら発注書を探しに行っただろうと思ったが、今日は寝台の背へ体を預けた。朝食の林檎を一切れ残し、昼に食べるため小皿へよけておく。
昼前、レイモンドはリリアと一緒に庭の東屋で茶を飲んでいた。彼は紺色の上着に灰色のズボンを合わせ、金釦の代わりに銀釦がついていることへ不満を言い続けている。向かいに座るリリアは薄黄色のドレスを着て、袖口に白いレースをのぞかせていた。卓上には最後の小麦粉で作った小さな焼き菓子が四つ並んでおり、リリアは一番大きなものを選んで半分に割った。
「今日のお菓子は、いつもより固いですわ」
「料理長が手を抜いたのだろう」
「わたくし、固いものを食べると胸が苦しくなりますの」
「胸と菓子に何の関係があるのだ」
「よく分かりませんけれど、病弱ですから」
リリアは焼き菓子を皿へ戻し、蜂蜜だけを匙ですくって舐めた。レイモンドは病弱なら仕方がないとうなずき、自分の焼き菓子を割って柔らかい内側を渡してやった。残った固い皮をかじると、乾いた音が東屋に響いた。
そこへバートンが、発注書を手にして現れた。庭へ出てくる前に帽子を脱いだらしく、薄くなった頭髪に春の日差しが当たっている。料理長は主人たちの前へ進み、紙を両手で差し出した。
「旦那様、食材の発注書へご署名をお願いいたします。本日の昼食を最後に、肉も小麦もなくなります」
「そのようなことはエステルに任せてある」
「奥様は寝込んでおられます」
「署名くらい代わりにさせればいい」
「商人は伯爵様ご本人の署名を求めています。それに、数量と金額の確認も必要でございます」
レイモンドは発注書を受け取ったが、一番上の数字を見ただけで眉を寄せた。小麦二十袋、牛肉十五塊、鶏二十羽、卵二百個と書かれている。これが一週間分なのか一か月分なのかも、彼には分からなかった。
「ずいぶん多くないか。卵を二百個も誰が食べるのだ」
「旦那様お一人の屋敷ではございません。使用人を含めれば、七十人以上が暮らしております」
「七十人もいたのか」
「厩舎と庭園の者を入れれば、もう少しおります」
「人数を減らせば、食料代も減るのではないか」
バートンの目が細くなった。遠くで芝を刈っていた庭師が手を止め、聞こえなかったふりをして作業場所を変える。リリアは面倒な話から逃げるように、蜂蜜の入った器を自分の側へ引き寄せた。
「誰を減らすかは、奥様が仕事へ戻られてからご相談ください。今は食料が必要でございます」
「分かった。後で確認する」
「今、ご署名いただけませんか」
「これからリリアと町へ出る。帰ってからだ」
「旦那様、夕食までには食材が届きません」
「一食くらい何とかしろ。それが料理長の仕事だろう」
レイモンドは発注書を上着の内側へ押し込むと、リリアの手を取って立ち上がった。リリアは焼き菓子を白い布へ包み、こっそり小さな鞄へ入れる。二人が庭を出ていくのを見送り、バートンは空になった蜂蜜の器を持って厨房へ戻った。
夕方、伯爵邸の食堂には香ばしい肉の匂いも、焼きたてのパンの湯気もなかった。長い食卓の中央には花が飾られていたが、昨日から水を替えていないため、白い百合の葉が一枚垂れている。レイモンドの前には三枚の皿が並んでいたものの、載っているのは薄い豆のスープ、保存用の乾パン二枚、塩を振っただけの茹で人参だった。町で昼食を楽しんできたリリアは、薄紫色の夕食用ドレスへ着替え、薔薇の香油をいつもより多くつけていた。
「これは何だ」
レイモンドは乾パンを指でつついた。石のように固い表面へ爪が当たり、こつんと音を立てる。バートンは食堂の隅に立ち、腕を後ろで組んで答えた。
「今夜の晩餐でございます」
「私を馬鹿にしているのか」
「とんでもございません。豆は三時間煮込みましたし、人参は一人二切れずつになるよう、厚さを正確にそろえております」
「伯爵家の主人に乾パンを食べろと言うのか」
「朝、申し上げましたとおり、食材がございません」
レイモンドは上着の内側を探った。昼に渡された発注書は二つ折りになり、汗で少し湿っていた。町へ出た後、リリアの新しい帽子を選び、酒場で葡萄酒を飲んでいるうちに、署名することを忘れていたのである。
「あるもので料理を作るのが料理人だろう」
「あるもので作りました。豆、人参、水、塩、それから乾パンでございます」
「鶏肉くらい残っているはずだ」
「昨日、リリア様がお召し上がりになりました。柔らかい胸肉だけをご所望でしたので、残った骨は使用人のスープに使いました」
リリアは自分には関係がないという顔で乾パンを手に取った。小さく割ろうと両手に力を込めたが、乾パンはびくともしない。仕方なく端を口へ入れてかじると、歯が当たって乾いた音がした。
「痛い!」
リリアは乾パンを皿へ落とし、両手で顎を押さえた。目に涙を浮かべ、レイモンドの袖をつかむ。薔薇の香油と薄い豆のスープの匂いが混じり、食堂には奇妙な甘さが漂った。
「どうした、リリア」
「固いものを食べると顎が痛くなりますの。わたくし、このようなものは食べられません」
「スープへ浸せば柔らかくなる」
「豆のスープは胸が苦しくなります」
「では人参を食べなさい」
「人参は昔から体質に合いませんの」
「何なら食べられるのだ」
「昨日のお店でいただいた、仔羊肉の香草焼きなら……」
レイモンドはバートンへ仔羊肉を出すよう命じた。料理長は、食料庫には仔羊どころか野鼠一匹残っていないと答える。リリアは顎を押さえたまま涙をこぼし、食卓の下では空腹らしい飼い猫が乾パンの匂いを嗅いでから、興味をなくして立ち去った。
「エステルだ。エステルなら何とかできる」
レイモンドは椅子を蹴るように立ち上がった。豆のスープが揺れ、白いクロスへ薄茶色の染みが広がる。バートンは未署名の発注書を指さしたが、レイモンドはそれをつかみ、早足で食堂を出ていった。
寝室では、エステルが白い寝間着の上へ濃紺の肩掛けを羽織り、寝台の中で本を読んでいた。夕食には残り少ない食材の中から、柔らかく煮た豆と林檎が運ばれている。病人を空腹にさせるわけにはいかないとバートンが考えたらしく、小皿には隠してあった山羊のチーズも一切れ添えられていた。マーサは窓辺で洗濯物を畳み、片方だけになった靴下を膝の上へ並べている。
「この靴下は誰のものでしょう。かかとに大きな穴が開いております」
「夫のものですわ。右足の靴下だけ、いつも同じ場所に穴を開けるのです」
「歩き方に癖があるのでしょうか」
「おそらく、椅子に座っているとき、右足だけ床へこすりつけるからです」
エステルが本から顔を上げたとき、廊下を踏み鳴らす音が近づいてきた。マーサは夫の靴下を籠へ放り込み、病人らしく見えるようエステルの枕を整える。エステルは本を毛布の下へ隠し、目を閉じて額に手を当てた。
扉が開き、レイモンドが発注書を振りながら入ってきた。紺色の上着の釦は途中まで外れ、額には食堂から急いできた汗が浮かんでいる。エステルは薄く目を開け、何も知らないように夫を見上げた。
「エステル、すぐにこれを処理しろ」
「まあ、何の書類でしょう」
「食材の発注書だ。君が放置したから、今夜の食事が乾パンになった」
「わたくしが放置したのではございません。昨日、あなた様の机へ届けられたと聞いております」
「君がいつも処理していただろう」
「昨日から、わたくしは病人ですの」
レイモンドは発注書と羽根ペンを寝台へ置いた。紙の角がエステルの手の甲へ当たり、彼女は大げさに息を吸う。マーサがすぐに駆け寄り、赤くもなっていない手を確かめた。
「奥様、お怪我はございませんか」
「紙の角が当たりましたの。胸まで痛くなってきましたわ」
「紙が当たって胸が痛くなるものか」
「病弱ですから、どこが痛くなるか分からないのです」
「ふざけていないで、数量と金額を確認して署名しなさい」
エステルは毛布を鼻まで引き上げ、腹を押さえた。夕食の豆と林檎はすでに食べ終わっており、腹は少しも痛くなかったが、眉を寄せて体を丸める。マーサが心配そうに背中をさすりながら、寝台の向こう側でこっそり笑った。
「お腹が痛くて、数字を見ることができませんの」
「ついさっきまで本を読んでいただろう。毛布の下に隠してあるのが見えている」
「本には数字がほとんどございませんもの」
「一日中寝ていたのだから、署名くらいできるだろう」
「病弱な妻を働かせるなんて、騎士道精神に反しますわ」
レイモンドの顔が引きつった。その言葉は、彼が以前、リリアの荷物を使用人に持たせたときに口にしたものだった。か弱い女性へ重い荷物を持たせるのは騎士道に反すると、食堂で長々と語っていたのである。
「これは重い荷物ではない。紙一枚だ」
「わたくしにとっては、領地の小麦袋より重く感じますの」
「署名するだけでいい」
「金額を確かめずに署名してもよろしいのですか」
「君なら見なくても分かるだろう」
「まあ。わたくしが寝込んだ途端、伯爵家の責任まで病人へ押しつけるのですね」
エステルは目尻へ指を当てたが、涙は出なかった。仕方がないので何度か瞬きをし、あくびをしたときに浮かんだ涙を指先で拭う。レイモンドは言葉を失い、発注書を持ったまま立ち尽くした。
「旦那様ご自身でご確認なさればよろしいのではございませんか」
マーサが穏やかに提案した。レイモンドは自分を侮辱するのかと声を荒らげたが、マーサは、伯爵家の主人が食料の発注書を確認することのどこが侮辱なのか分からないと答えた。窓の外では風が強くなり、物干しに残っていた白い布が一枚外れて庭を転がっていった。
「分かった。私がやる」
「さすがレイモンド様ですわ。頼りになるお方と結婚できて、わたくしは幸せです」
「君に言われると、なぜか馬鹿にされているように聞こえる」
「まあ。病人の言葉を疑うなんて、ひどいですわ」
レイモンドは発注書をつかみ直し、寝室の机へ向かった。そこにはエステルが使っていた計算板、羽根ペン、インク壺が置かれている。彼は椅子へ腰を下ろし、最初の項目を声に出して読んだ。
「小麦二十袋で、金貨十二枚と銀貨四十枚……。これは高すぎないか」
「先月とほとんど同じでございます」
エステルは寝台から答えた。レイモンドが振り返ったため、彼女は慌てて腹を押さえ、苦しそうな顔へ戻る。マーサは片方だけになった靴下を畳みながら、奥様は病床でも記憶力がおよろしいと感心したふりをした。
「小麦一袋はいくらなのだ」
「わたくし、数字を見るとお腹が痛みますの」
「見なくても知っているだろう」
「旦那様はいくらだと思われますか」
「銀貨十枚くらいではないのか」
部屋が静かになった。マーサは靴下を畳む手を止め、エステルは毛布の中で唇をかんだ。笑うのをこらえているうちに腹の筋肉が痛くなり、今度は本当に腹を押さえることになった。
「何がおかしい」
「何もおかしくございません。銀貨十枚で一袋買えるとよろしいですわね」
「違うのか」
「商人にその金額をお伝えになれば、きっと笑顔になってくださいます」
「安すぎるということか」
「わたくし、数字を見ることができませんの」
レイモンドは小麦の金額を計算しようとしたが、二十袋の単価を出すところで手が止まった。金貨と銀貨の換算を紙の端へ何度も書き、間違えるたびに線で消すため、発注書の余白は黒い染みで汚れていく。やがてインクを袖口へつけ、それを手で拭ったため、今度は指まで黒くなった。
「なぜ、金貨と銀貨を別々に書くのだ。最初から一つにまとめればいいだろう」
「商人の支払い方法に合わせております」
「なぜ小麦と肉で税率が違う」
「保存期間と輸送方法が違うからですわ」
「なぜ塩だけ、先月より値上がりしている」
「北の岩塩坑で落盤事故がありましたから」
「すべて知っているではないか!」
レイモンドが椅子から立ち上がった。エステルはしまったと思い、毛布へ顔を隠す。マーサがすぐに間へ入り、病人へ大声を出さないよう注意した。
「知っていても、働けるとは限りませんの。リリアだって、町で一番おいしい菓子店を知っていますけれど、自分では焼けないでしょう」
「それとこれとは話が違う」
「では、何が違うのか説明してくださいませ」
レイモンドは答えられず、再び椅子へ座った。食堂では空腹になったリリアが、乾パンをスープへ浸しながら待っている。乾パンはようやく柔らかくなったものの、豆の味が染み込み、彼女は一口食べるたびに顔をしかめていた。
一時間後、レイモンドはようやく発注書の半分を確認した。計算が合っているかどうかは分からなかったが、もう一度最初からやり直す気力も残っていない。彼は震える手で署名し、紙を丸めるように持ち上げた。
「これでいいのだろう」
「お疲れさまでございました」
エステルは毛布から顔だけを出し、にこやかに夫を見送った。レイモンドの白い袖口には黒いインクが広がり、右の人差し指にも大きな染みがついている。彼が寝室を出ると、マーサは扉をきちんと閉め、足音が遠ざかるまで待った。
「奥様、小麦一袋が銀貨十枚で買えるそうでございます」
「もう言わないで。笑いすぎて、本当にお腹が痛くなりましたわ」
エステルは毛布を下ろし、寝台の上で体を伸ばした。マーサは残してあった林檎の煮物と香草茶を小卓へ置き、空になった水差しへ新しい水を注ぐ。エステルは甘い林檎を食べながら、革張りの手帳を開いた。
『病弱な妻、三日目。食材の発注停止。伯爵家の夕食、乾パンと豆のスープ。夫、小麦一袋を銀貨十枚と予想。発注書一枚に一時間』
最後に、『夫の袖口、インクで全滅』と書き加えた。窓の外では、先ほど飛ばされた白い布を若い庭師が木の枝から外そうとしている。エステルは温かい香草茶を飲み、夫が発注書一枚を処理する間、六年間で何枚の書類を自分が確認してきたのか考えた。
その夜、新しい食材は間に合わなかった。食堂ではレイモンドもリリアも、薄い豆のスープへ乾パンを浸して食べることになった。エステルの寝室へも同じものが運ばれたが、バートンは病人には栄養が必要だと言い、器の底へ最後のチーズを一切れ隠していた。
「明日の朝には、小麦が届くでしょうか」
マーサが乾パンを小さく割り、スープへ入れながら尋ねた。エステルは匙で器の底を探り、溶けかけたチーズを見つける。豆だけだったスープに塩気とこくが加わり、厨房に残る食材が少ない中でも、料理長の気遣いが舌に伝わった。
「発注書に間違いがなければ届きますわ」
「間違っていた場合は?」
「もう一晩、乾パンですわね」
「旦那様には、よい勉強になりそうです」
「ええ。丈夫な方ですもの。二晩くらい我慢できるでしょう」




