第2話 お水が遠くて取れませんの
第2話 お水が遠くて取れませんの
翌朝、エステルはいつもなら鐘が六つ鳴る前に起きるところを、寝台の中で目を開けたまま動かなかった。窓掛けの隙間から朝日が差し込み、磨かれた床に細長い光を作っている。枕元の椅子には昨夜脱いだ灰色の仕事着が畳まれ、その上に薄桃色の部屋着と白い毛糸の肩掛けが用意されていた。庭からは濡れた土と刈った芝の匂いが入り、廊下では侍女たちが洗濯物の籠を運びながら、どのシーツに糊を多く使うか話していた。
「奥様、朝の鐘が鳴りました。具合はいかがでございますか」
マーサが湯気の立つ盆を運び、寝室へ入ってきた。盆の上には柔らかく煮た麦粥、山羊乳、蜂蜜、小さく切った桃が並んでいる。エステルは習慣で起き上がろうとしたが、昨日から病弱な妻になったことを思い出し、慌てて枕へ頭を戻した。
「危ないところでした。もう少しで普通に起きるところでしたわ」
「朝からお元気そうで何よりでございます」
「声が大きいわ、マーサ。病人の寝室なのですよ」
「庭にいる料理長にも聞こえるほど、はっきりおっしゃいましたね」
エステルは唇へ人差し指を当て、扉の向こうに人がいないか確かめた。マーサは麦粥を匙ですくい、息を吹きかけて冷ましている。主人を赤子のように扱うのが楽しいらしく、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「腕に力が入りませんの。食べさせてくださる?」
「それでは、お口を開けてくださいませ」
「本当に食べさせるの?」
「病弱な奥様ですから」
差し出された匙を前に、エステルは仕方なく口を開けた。麦粥には蜂蜜が少し混ぜられており、柔らかな甘みと温かさが喉を通っていく。マーサは次の一口へ桃を載せたが、さすがに恥ずかしくなったエステルは匙を奪い、自分で食べ始めた。
朝食を半分ほど食べたところで、廊下からレイモンドの声が聞こえた。自分の青い上着が見当たらないと従僕を叱っており、寝室まで苛立った声が届いている。その上着は昨日、レイモンド自身が食堂の椅子へ置き忘れたものだったが、エステルは教えに行かなかった。これまでは夫が何をどこへ置いたかまで覚え、朝になれば手の届く場所へ用意していたのである。
「旦那様は、上着を探しておられるようですね」
「そうみたいですわね」
「食堂の三番目の椅子にございます」
「よく覚えていましたね」
「昨夜、奥様がお部屋へ戻られた後、私が見つけましたから」
マーサは平然と答え、空になった食器を盆へ戻した。二人とも上着のありかを知っていたが、教えに行こうとはしない。やがて廊下を走る従僕の足音が遠ざかり、エステルは毛布を鼻先まで引き上げた。
「そろそろ最初の実演を始めましょう」
「何をなさるおつもりですか」
「昨夜、枕元へ水差しを置いてもらったでしょう」
「ええ。奥様が寝る前に三杯もお飲みになった水差しでございますね」
エステルは寝台脇の小卓へ目を向けた。銀の水差しと玻璃の杯は、右手を伸ばせば簡単に届く場所にある。念のため手を伸ばして距離を確かめると、指先が水差しの持ち手へ当たった。
「近すぎたかしら」
「奥様の腕が急に短くなったことにいたしましょう」
「病弱になると腕まで短くなるの?」
「私は医者ではございませんので、何とも申し上げられません」
マーサは真面目な顔で答えたが、肩が小刻みに揺れていた。エステルは枕元に置かれた呼び鈴を手に取ると、いつも侍女を呼ぶときより強く三度鳴らした。澄んだ金属音が寝室から廊下へ響き、上着を探していたレイモンドの怒鳴り声が止まった。
しばらくすると、扉が乱暴に開いた。レイモンドは白いシャツの上へ昨日とは違う茶色の上着を羽織り、片方の袖口だけ留めないまま立っていた。髪には櫛を通した跡がなく、寝癖で一房だけ跳ねている。エステルが用意をやめたため、いつも身につけていた金の時計も見当たらなかった。
「何事だ。廊下まで鈴の音が響いていたぞ」
「ああ……レイモンド様。来てくださったのですね」
「医者を呼ぶほど悪くなったのか」
「お水が欲しいのです」
レイモンドの視線が、水差しとエステルの間を往復した。水差しは寝台から腕一本分も離れておらず、窓から差す光を反射して銀色に輝いている。エステルは自分でも無理があると思ったが、額に手を当て、できるかぎり細い声を出した。
「ああ……お水が遠いですわ。腕を上げるだけで、めまいがいたしますの」
「そこにあるだろう。手を伸ばせば届く」
「手を伸ばす力がございません」
「今、鈴をあれほど激しく鳴らしたではないか」
「鈴を鳴らしたせいで、残っていた力をすべて使い果たしましたの」
寝室の隅で、マーサが咳き込んだ。笑ったのではないかとレイモンドが振り返ると、彼女は胸を押さえ、朝は喉が乾燥するのだと説明した。エステルは毛布の下で足の指を丸め、笑いそうになるのを必死にこらえた。
「マーサに取ってもらえ。私は忙しい」
「まあ。夫であるあなた様にお願いしたいのです」
「誰が取っても同じだろう」
「同じではございませんわ。愛する方からいただくお水は、薬よりも効くとリリアがおっしゃっていましたもの」
レイモンドの眉間に深い皺が寄った。以前、リリアが庭で喉の渇きを訴えたとき、彼はわざわざ井戸まで行き、自分の手で水をくんで飲ませていた。エステルはその場に居合わせており、リリアが使った言葉も、レイモンドが満足そうに笑った顔も覚えていた。
「リリアの話は関係ないだろう」
「関係ございます。リリアにはなさることを、わたくしにはしてくださらないのですか」
「君は自分でできるではないか」
「昨日から、できなくなりましたの」
エステルは力なく首を横へ向け、水差しを見つめた。少し首を傾けすぎたため、まとめていない栗色の髪が口へ入り、舌の先に一本貼りついた。病弱な姿を保ちながら髪を吐き出そうとしていると、マーサがそっと近づき、口元から取り除いてくれた。
「まったく、朝から何なのだ」
レイモンドは水差しをつかみ、玻璃の杯へ水を注いだ。勢いが強すぎて水が少しこぼれ、小卓に置いてあった刺繍入りの敷物が濡れる。いつもならエステルがすぐに布を取り、木へ染み込まないよう拭くところだが、今日は黙って杯だけを受け取った。
「ありがとうございます。少し起こしてくださる?」
「まだ何かあるのか」
「寝たままでは飲めませんもの」
「自分で起き上がりなさい」
「ああ、冷たいお方。愛する女性が苦しんでいるのに、お仕事を優先なさるのね」
レイモンドの手が止まった。その言葉も、リリアが何度も使っていたものだった。書類を確認しなければならないと席を立とうとするレイモンドの袖をつかみ、リリアが甘い声で引き止めるたびに、彼は喜んで仕事を後回しにしていた。
「君はいつから、そのような話し方をするようになったのだ」
「あなた様がお好きな話し方を学びましたの」
「私は別に、このような話し方が好きなわけではない」
「では、リリアにも自分で水を取るようおっしゃるのですね」
レイモンドは答えず、エステルの背中へ腕を回して上体を起こした。彼が杯を持たせようとしたため、エステルは両手を毛布の中へ隠した。ここまで来たら、最後まで病弱な妻を演じなければならない。
「飲ませてくださいませ」
「いい加減にしろ」
「まあ、声が大きいですわ。動悸がいたします」
「エステル」
「はい。お口を開ければよろしいですか」
レイモンドは奥歯をかみしめ、杯を彼女の唇へ運んだ。傾け方が下手だったため、水が口の端から首へ流れ、薄桃色の寝間着の襟を濡らす。冷たさに肩をすくめそうになったエステルは、病弱な震えということにして小刻みに体を揺らした。
そのとき、廊下から甘い声が聞こえた。白い朝用ドレスに若草色の肩掛けを羽織ったリリアが、半分開いた扉から顔をのぞかせている。金色の髪は緩く編まれ、耳の後ろから薔薇の香油が匂っていた。手には散歩用の日傘を持ち、足元には真新しい革靴を履いている。
「レイモンド様、まだいらっしゃったのですか。今朝は白鳥の親子を見に行くお約束でしたでしょう?」
「今行く。エステルが水を取れないなどと言い出したのだ」
「まあ、お姉様、お加減が悪いのですか」
リリアは心配そうな顔を作りながらも、寝台へ近づこうとはしなかった。散歩用の靴が汚れるのを避けるように、敷物の端をよけて立っている。エステルは夫に支えられたまま、弱々しく微笑んだ。
「ええ。リリアを見習って、昨日から急にか弱くなりましたの」
「わたくしを、見習って?」
「あなたは体調が悪くても、湖畔を三時間も歩けるのでしょう。病弱な女性にも体力が必要だと知りましたわ」
リリアの頬が引きつった。レイモンドは話を聞かなかったことにするようにエステルを枕へ戻し、空の杯を小卓へ置いた。濡れた敷物から一滴の水が床へ落ちたが、彼は拭こうともせず、リリアのもとへ歩いていった。
「では、私たちは散歩へ行ってくる。具合が悪いなら、おとなしく寝ていなさい」
「ええ。帰ってくるまでには、さらに弱っているかもしれません」
「朝から縁起でもないことを言うな」
「早く参りましょう、レイモンド様。白鳥が向こう岸へ行ってしまいますわ」
リリアはレイモンドの腕へ両手を絡めた。彼女の声からは、先ほどまでエステルを心配していた様子が消えている。二人が廊下を遠ざかり、玄関の扉が閉まる音がすると、寝室に静けさが戻った。
エステルは毛布を跳ねのけ、自分で水差しをつかんだ。先ほどは二口しか飲めなかったため、玻璃の杯へたっぷり注ぎ、一気に飲み干す。水は冷たく、演技で乾いた喉を気持ちよく通っていった。
「奥様、見事でございました」
マーサが濡れた敷物を取り換えながら言った。代わりに敷いた布には、小さな黄色い花の刺繍がある。マーサが若い頃、刺繍の練習に作ったものらしく、一輪だけ花びらの数が足りなかった。
「見事だったかしら。途中で髪を食べてしまいましたわ」
「病人らしい乱れた姿でございました」
「褒められている気がしません」
エステルは枕元の引き出しから、小さな革張りの手帳を取り出した。普段は一日の仕事や支出を書き留めていたが、今日から別の記録に使うことにした。羽根ペンへインクをつけ、日付の下へ丁寧な文字を書き込む。
『病弱な妻、一日目。夫、水を一杯飲ませただけで疲労。開始五分で逃亡』
マーサが肩越しに手帳をのぞき込み、五分ではなく十分ほどいたのではないかと指摘した。エステルは、水差しを取るまでの無駄な言い争いは介護時間に含めないと答え、手帳を閉じた。窓の外では、レイモンドとリリアが庭を歩いており、リリアは胸が苦しいはずなのに小走りで蝶を追いかけていた。
その日の昼、執事が数通の手紙を抱えて寝室へやってきた。王宮主催の晩餐会への返事、商会との面会日時、遠縁の侯爵夫人へ送る見舞い状であり、これまではエステルが夫に代わって文章を考えていた。執事は寝台脇へ書類を並べ、いつものように羽根ペンを差し出した。
「奥様、こちらの返事をお願いいたします。旦那様から、奥様に任せるようにと言われました」
エステルは薄桃色の寝間着の上へ白い毛糸の肩掛けを巻き、昼食の鶏肉入りスープを飲んでいた。スープには小さく刻んだ蕪と豆が入り、焼いたパンの香ばしい匂いが部屋に残っている。彼女は匙を皿へ置き、書類には触れずに首を傾けた。
「まあ、困りましたわ。文字を見ると目が回りますの」
「しかし、返事の期限は明日でございます」
「夫に書いてもらってくださいな」
「旦那様は、奥様がすべてご存じだからと……」
「わたくし、病弱になっただけでなく、夫の予定も忘れてしまいましたの」
執事は助けを求めるようにマーサを見た。しかしマーサは暖炉の前で靴下の穴を繕いながら、奥様には休養が必要だと繰り返した。執事は困り果てた顔で手紙を抱え直し、レイモンドの執務室へ向かった。
午後には会計係が帳簿を持ってきた。小麦の購入額と請求額が合わないため、確認してほしいという。帳面の端には会計係が昼食中に落としたらしい油の染みがあり、乾いたパン屑が一つ挟まっていた。
「数字を見ると胸が苦しくなりますの」
「昨日までは、三桁の掛け算を暗算なさっていたではありませんか」
「昨日のわたくしと今日のわたくしは違います」
「それでは、旦那様に確認していただきます」
「ええ。伯爵家の主人ですもの。そのくらい簡単にできるでしょう」
会計係は返事をせず、帳簿を胸に抱いて部屋を出た。扉が閉まる直前、廊下から「旦那様は小麦一袋の値段をご存じだろうか」という小さな独り言が聞こえた。エステルは残っていたスープを飲み、柔らかく煮えた蕪をゆっくりとかんだ。
夕方までに、レイモンドの机には手紙と帳簿が積み上がった。エステルは寝室の窓から執務室の明かりがつくのを見届け、革張りの手帳をもう一度開いた。今日やめた仕事を、一つずつ忘れないように書き留めていく。
『夫の予定管理を中止。手紙の代筆を中止。会計確認を中止。上着の捜索も中止』
最後の一行を書き終えると、エステルは羽根ペンを置いた。庭の向こうでは、散歩から戻ったリリアが白鳥の羽根を拾ったと楽しそうに話し、レイモンドがそれを額縁へ入れるよう使用人へ命じている。エステルは窓掛けを閉め、夕食として運ばれてきた焼き魚へ檸檬を搾った。
「明日は何をなさいますか、奥様」
マーサが魚の骨を入れる小皿を置きながら尋ねた。焼けた皮の香りに食欲を刺激され、エステルは厚い身を一口分だけ切り分ける。夫の執務室からは、誰がどの手紙へ何と返事をするのかを巡って、執事と会計係が言い争う声が聞こえてきた。
「明日も寝込みます」
「長いご病気になりそうでございますね」
「ええ。夫が一人で自分の靴下を探せるようになるまでは、治らないかもしれませんわ」




